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第三十三話 始まる前から始まっている

 対抗戦当日。


 王立リュゼリア魔法学院の第一演武場は、普段とはまるで違う空気に包まれていた。


 いつもの幻傷演武場《ミラージュ・アリーナ》ではない。


 観客席の中央には巨大な魔導投影盤が設置され、その周囲には結界管理教師、医療教師、記録係、両校の立会人が並んでいる。


 投影盤の上には、まだ何も映っていなかった。


 ただ、薄い白線だけが浮かんでいる。


 円形ではない。


 森、砦、湿地、渓谷、礼拝堂跡、旧街道。


 古い戦場を上から見下ろしたような、複雑な地形図だった。


「……広いですね」


 エルネ・フィルは、黒い本を抱えたまま呟いた。


『推定面積、通常の幻傷演武場の約二十七倍です』


(帰っていい?)


『試合開始前の逃走は、代表資格の喪失につながります』


(知ってる)


 黒い本――ロゴスの返答は、いつも通り冷静だった。


 冷静すぎて、少し腹が立つ。


 リュゼリア側の代表七名は、演武場の入口付近に並んでいた。


 対する聖環学院側の代表も、反対側に立っている。


 聖環生徒会長、レオン・ヴァイスハルト。


 その近くには、生徒会の上級生が二人控えていた。グレイグ・バルトと、エリオット・ヴェインである。


 少し離れて立つ眼鏡の少女が、クラリス・ベルナール。


 その隣で、軽薄そうに笑っている少年ジル・レイフォード。くすんだ金髪が、きちんと整った聖環学院の制服から少しだけ浮いて見える。


 さらに横では、にこにこと手を振っているのはミレイユ・アージェント。柔らかな髪と人懐っこい笑顔だけを見れば、これから対抗戦に出る代表には見えない。


 そして、最後にノア・ヴェイル。


 白に近い淡灰色の髪が目元にかかり、薄い琥珀色の瞳は眠たげにも、祈っているようにも見えた。


 顔と名前は、全員が事前に知らされている。


 だが、それだけだ。


 声も、癖も、間合いも、魔力の気配も分からない。


 知っていることと、分かっていることは違う。


 エルネは黒い本を抱え直した。


 非常に帰りたい。


「エルネさん」


 隣から、カレンが声をかけた。


「はい」


「転送された直後は、無理に戦わないでください。周囲を確認して、まず合流地点を目指しましょう」


「中央砦跡、ですよね」


「はい。見晴らしがよく、各地への道もつながっています。全員が一度そこへ向かう。それが基本方針です」


 カレンの口調は落ち着いていた。


 背筋はまっすぐで、声も丁寧だ。


 いつもの風紀委員長の顔だった。


「ただし、敵と遭遇した場合は、無理に突破しないこと。戦うより、時間を稼ぐ方を優先してください」


     ◇


 観戦席は、リュゼリア側と聖環側で大きく分かれていた。


 リュゼリア側は、どこかざわついている。


 生徒会メンバー。一年と二年の主席。その中に交じっているエルネ・フィル。


 話題はいくらでもあった。


 一方、聖環側の観覧席は、全体的に静かだった。


 白を基調とした制服。


 胸元の小さな聖環章。


 祈るように手を組む生徒もいれば、背筋を伸ばして投影盤を見つめる生徒もいる。


 ミッション系の学院らしい、整った静けさ。


 ただし、そこにいるのは教師でも聖職者でもなく、学生である。


 小声はある。


 興奮もある。


 ただ、リュゼリア側のように大きく騒がないだけだ。


 その静けさが、逆に妙な圧を持っていた。


 両校の代表が向かい合う。


 先に一歩前へ出たのは、レオンだった。


「聖環学院代表、レオンです」


 声はよく通るが、必要以上に張り上げるものではなかった。


「本日は、このような形で対抗戦の場を整えていただいたことに感謝いたします。聖環学院は、王立リュゼリア魔法学院の皆様に敬意を払い、正々堂々と戦うことを誓います」


 聖環側の観覧席から、静かな拍手が起きた。


 続いて、セレスティアが前へ出る。


「リュゼリア代表、セレスティア・ロウ・アステリアです」


 その一言だけで、リュゼリア側の観客席の空気が少し変わった。


「こちらこそ、遠方よりお越しいただき感謝いたします。互いの学院にとって、実りある対抗戦になることを願っています」


 セレスティアは優雅に一礼した。


 リュゼリア側から拍手が起きる。


 形式通りの挨拶。


 丁寧で、穏やかで、何も問題はない。


 少なくとも、そこまでは。


 両代表が歩み寄る。


 レオンが右手を差し出し、セレスティアがそれを受けた。


 握手。


 観戦席から見れば、友好の証にしか見えない。


 けれど、その手が重なった瞬間、レオンが穏やかに微笑んだ。


「今年も勝たせていただきます」


「あら」


 セレスティアも、にっこりと微笑む。


「できるものなら、お願いします」


 観戦席の拍手が、一瞬だけ遅れた。


 エルネは黒い本を抱えたまま、小声で呟いた。


「……今の、友好的な握手でした?」


 隣で、シオンが穏やかな笑みのまま囁く。


「形式上はね」


「対抗戦って、まだ始まってませんよね?」


「始まる前から始まっているんだよ」


『両代表の発言により、試合前緊張度が上昇しています』


(先生まで冷静に解説しないで)


 セレスティアとレオンは、何事もなかったように手を離した。


 そして、同時に一歩下がる。


 礼儀正しい。


 あまりにも礼儀正しい。


 だからこそ、怖かった。


     ◇


 観戦席の上段では、マルク・ペンドルトンが資料の束を抱えていた。


 顔色は悪い。


 おそらく昨日から寝ていない。


 いや、マルクの場合はいつも寝ていないような顔をしているので、判断が難しい。


「では、観戦者向けに説明します」


 マルクの声が、拡声用の魔道具を通して演武場に響いた。


 投影盤に地形図が大きく映し出される。


「今回使用されるのは、広域幻傷フィールド。旧時代の国境要塞跡を模した複合地形です。中央に城砦跡。北に森林地帯。東に湿地。西に渓谷と高所。南に旧街道。さらに一部地下区画と地下水路が存在します」


 投影盤の地図に、それぞれの地形名が浮かぶ。


 観客席がざわめいた。


 普通の一対一や、小規模な団体戦とは違う。


 これは、戦場だ。


「中央城砦跡は、地形上の要です」


 マルクが言う。


「視界が開け、複数の道が接続している。味方との合流、敵位置の確認、進路選択に向いています。逆に言えば、ここを押さえられると戦場全体の流れを握られます」


 投影盤の中央が淡く光る。


 円形に崩れた城壁。


 石柱。


 広い中庭。


 隠れ場所はあるが、完全な遮蔽物は少ない。


「北の森林は視界が悪く、音も吸われます。奇襲、待ち伏せ、追跡の切り離しに向く地形です」


 北側が緑に染まる。


「東の湿地は足場が悪く、水分が多い。水属性術者には利点があり、逆に機動力に頼る術者は動きを制限されます」


「西側は渓谷と高所です。移動経路は限られますが、見晴らしが良い。遠距離術者や観測役には向いています。ただし、落下判定には注意が必要です」


 西の崖が浮かぶ。


 そこには壊れた外壁の線も見えた。


「南の旧街道は、比較的移動しやすい道です。戦力を動かすには向いていますが、遮蔽物は少ない」


 南側に一本の道が描かれる。


「そして地下区画。ここは地上からの視認が困難です。通路は狭く、音が反響し、魔力反応も乱れやすい。逃げ場にもなりますが、閉じ込められれば危険です」


 地下水路が青黒く表示された。


 観戦席の空気が、少し重くなる。


 その時、グラント教官が腕を組んだまま言った。


「つまり、勝負の鍵は三つだ」


 マルクが一瞬だけ書類から顔を上げる。


 代わりにグラント教官が続けた。


「一つ。中央を取れるか。二つ。孤立した味方を拾えるか。三つ。相手の狙いを見誤らないか」


 単純な説明だった。


 だが、分かりやすい。


 セラム教師が眼鏡を押し上げる。


「補足するなら、今回の試合では、単純な戦闘力より判断速度が重要になります。強い者が一人で勝ち続ける形式ではありません。合流、分断、誘導、足止め。そういった戦術行動の比重が高い」


「短く言うと?」


 マルクが疲れた顔で聞いた。


「迷った方が負けます」


「最初からそれでお願いします」


 観客席の一部から、少し笑いが起きた。


 緊張がわずかに緩む。


 だが、エルネは笑えなかった。


 迷った方が負ける。


 自分はたぶん、ものすごく迷う。


『使用者の不安上昇を確認』


(言わなくていい)


『ただし、事前に不安要素を認識することは有効です』


(先生、慰める気ある?)


『あります』


(下手)


『改善します』


 その返答が少しだけおかしくて、エルネは小さく息を吐いた。


     ◇


「両校代表、前へ」


 結界管理教師の声が響いた。


 リュゼリア側と聖環側、十四名が転送陣の前へ進む。


 床に巨大な魔法陣が浮かび上がった。


 青白い光。


 その周囲に、聖環側が持ち込んだ補助結界の白い環が重なる。


 リュゼリアの幻傷結界。


 聖環の補助結界。


 二つの術式が噛み合い、演武場全体が低く震えた。


「試合時間は三時間。幻傷判定による戦闘不能、降参、結界外への逃亡、または運営判断により退場。退場者の復帰は認められません」


 結界管理教師が宣言する。


「開始位置は、広域フィールド内にランダム転送されます」


 その言葉に、ジルがにやりと笑った。


「運がいいやつが勝つってことか」


 カレンが横目を向ける。


「運だけで勝てるほど、簡単な試合ではないと思いますが」


「お、真面目」


「風紀委員ですので」


「やりづれえ」


 ジルは肩をすくめた。


 その少し後ろで、ノアは黙っていた。


 エルネは、その少年を見た。


 一瞬、目が合った気がした。


 薄い琥珀色の瞳。


 何を考えているのか、分からない。


 けれど、見られている。


 そんな感覚だけがあった。


『対象ノア・ヴェイル。魔力反応、微弱』


(弱いの?)


『不自然に弱い、という意味です』


 その答えに、エルネの背筋が冷えた。


 結界管理教師が手を上げる。


「転送開始まで、十秒」


 魔法陣の光が強くなる。


 リシアが、静かに息を整えた。


 ガイウスが軽く首を回す。


 ルシアンはいつも通り涼しい顔。


 シオンは微笑んでいる。


 セレスティアは、聖環側を見ていた。


 カレンは、エルネを一度だけ見た。


「無事に合流しましょう」


「はい」


「焦らなくていいです。あなたは、あなたの見たものを信じてください」


「……はい」


 エルネは黒い本を抱きしめた。


『転送に備えます』


(先生)


『はい』


(できれば、普通の場所がいい)


『通常、そうした希望は反映されません』


(知ってる!)


「三」


 光が足元から立ち上がる。


「二」


 視界が白く染まる。


「一」


 音が遠ざかる。


「開始」


 世界が、ひっくり返った。

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