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第三十話

 代表顔合わせが終わった後も、生徒会棟の空気は落ち着かなかった。


 七対七。広域フィールド。旧時代の国境要塞を模した複合地形。


 中央に朽ちた城砦、周囲に森林、湿地、渓谷、旧街道、地下水路。


 聞いただけなら、実戦想定の本格的な団体戦だ。


 けれど、エルネ・フィルには、それがただの試合場とは思えなかった。


 広い。複雑。分断しやすい。


 どこで誰とはぐれるか分からない。


 どこから何が出てくるか分からない。


(先生)


『はい』


(この試合場、なんだか落ち着かない)


『理由を推定します。広域、複合地形、視界不良、分断可能性、地下構造。警戒要素が多いためです』


(説明されると、もっと落ち着かない)


『申し訳ありません』


(謝られると、それはそれで怖い)


 エルネは黒い本を抱え直した。


 会議室では、マルクが書状を抱えたまま、今後の準備について早口で説明していた。


 ガイウスは地形図の写しを受け取り、すぐに旧街道と城砦周辺の線を指でなぞり始めている。


 リシアは水場の位置を確認していた。


 ルシアンは静かに書状へ目を落としている。


 カレンは背筋を伸ばしたまま、話を聞いていた。


 誰も騒いでいない。


 だからこそ、みんなが真剣なのだと分かった。


「では、各自で確認しておいてください!」


 マルクが最後にそう言って、書類の束を抱え直す。


「運営側の追加連絡は、明日の朝までにまとめます!」


「マルク、倒れないでね」


 セレスティアが言う。


「倒れる予定はありません!」


「予定表に書いておいた方がいいんじゃない?」


「会長!」


 少しだけ空気が緩んだ。


 それを合図に、代表たちは順に会議室を出ていく。


 エルネもリシアと一緒に扉へ向かった。


 その時、セレスティアの声が背中に届いた。


「カレン、少しだけいいかしら」


「はい」


 カレンが足を止める。


 エルネは振り返りかけたが、リシアに小さく促され、そのまま廊下へ出た。


     ◇


 会議室の中には、セレスティアとカレンだけが残った。


 窓の外では夕日が沈みかけ、机の上に長い影を落としている。


「カレン、お願いがあるの」


 セレスティアが言った。


「はい」


 カレンは姿勢を正した。


「今回の対抗戦、エルネさんについていてあげて」


 カレンは、すぐには答えなかった。


「私が、ですか」


「ええ。恐らく相手の狙いは彼女よ」


「……彼女が未知の魔法を使うからですか」


 カレンの声が、わずかに低くなる。


「もしや、対抗戦が早まったのも?」


「すべて推測になってしまうわ」


 セレスティアは静かに言った。


「私がそう思うだけ」


「しかし、会長か副会長がお守りになる方がよいのではありませんか」


「私は間違いなくマークされるから」


 セレスティアはあっさり答えた。


「シオンは……分からないわね。向こうが昨年の記録をどこまで見ているかによるわ」


 カレンは黙った。


「それに、多分だけれど」


 セレスティアは、カレンをまっすぐ見る。


「相手の術式に一番対抗できるのは、あなたかもしれない」


「例の怪物について、何か分かっているのですか?」


「言ったでしょう。すべては推測にしかならない」


 セレスティアは、そこで一度言葉を切った。


「今は言わないわ」


「……会長」


「でも、あなたは多分、考えるより先に手が出るでしょう」


「言い方」


「ごめんなさい。からかっているわけじゃないのよ」


 セレスティアは、静かにカレンを見る。


「ただ、誰よりもまっすぐなあなたなら、エルネさんを任せられる。そんな気がしているの」


 カレンは黙った。


 エルネ・フィル。


 黒い本を抱えた一年生。


 選抜戦では、包囲をそのまま勝ち筋へ変えた。


 だが、顔合わせの場では、自分の魔法をうまく説明できずに困っていた。


 強い。


 けれど、まだ危うい。


「……会長(アンタ)には()()がある」


 カレンの口調が変わった。


 丁寧で整った風紀委員長の声ではない。


 火を押し込めたような、低い声だった。


「それを返す瞬間ときが来たってことか」


 セレスティアは、にっこりと微笑んだ。


「それでいいわ」


 カレンはしばらく黙っていた。


 やがて、いつもの礼節ある声に戻る。


「承知しました」


 背筋を伸ばし、深く一礼する。


「対抗戦中、可能な限りエルネさんの近くにいます」


「お願いね」


「ただし、彼女が自分の意思で動く場合は止めません」


「あら」


「守ることと、閉じ込めることは違います」


 セレスティアは一瞬だけ目を細めた。


 そして、満足そうに微笑む。


「だから、あなたに頼んだのよ」


     ◇


 その頃、エルネとリシアは生徒会棟の廊下を歩いていた。


 会議室から少し離れたところで、リシアが足を止める。


「私は、水場の配置をもう一度確認してきます」


「あ、うん」


「エルネさん」


「はい」


「不安なら、言ってください」


 リシアは真面目な顔で言った。


「水で流せるものなら、流します」


「何を?」


「不安の原因です」


「物理的に?」


「必要なら」


 少しだけ笑ってしまった。


 リシアは本気だった。


 だからこそ、ありがたかった。


「ありがとう」


「はい」


 リシアは頷き、資料室の方へ歩いていった。


 ひとりになったところで、別の声がした。


「エルネさん」


 シオン・レイヴァンだった。


「はい」


「少し歩こうか」


 拒む理由もなく、エルネは黒い本を抱えたまま頷いた。


 生徒会棟の廊下は、夕方の光で薄く染まっている。


 窓の外では、対抗戦準備のために生徒たちが慌ただしく動いていた。


「不安?」


 シオンは、前を向いたまま尋ねた。


 あまりにも自然な声だったので、エルネは少しだけ返事に遅れた。


「……分かりますか」


「顔に出ている、というほどではないよ」


 シオンは穏やかに笑った。


「ただ、黒い本を抱く腕に少し力が入っている」


 エルネは慌てて腕の力を緩めた。


「すみません」


「謝ることではないね。七対七の広域戦だ。しかも、森も湿地も渓谷も地下水路もある。怖いと思うのは自然なことだよ」


「試合場が、少し怖くて」


「広すぎるから?」


「はい。どこで何が起きるか、分からない感じがします」


「それも自然だね」


 シオンは頷いた。


「広域戦は、強い相手と戦うことより、味方を見失うことの方が怖い場合もある」


「味方を、見失う」


「そう。相手が見えないことより、味方が見えないことの方が、人は不安になる」


 優しい声だった。


 けれど、言っていることは少しも甘くない。


『対象シオン・レイヴァン。慰撫行動中。ただし情報精度を優先』


(つまり?)


『優しいですが、甘くありません』


(知ってる)


 シオンは足を止めた。


 窓の外から差し込む夕日が、銀縁眼鏡に細く反射する。


「でも、ひとつだけ覚えておくといい」


「何をですか」


「はぐれる可能性があることと、ひとりで戦うことは違う」


 エルネは顔を上げた。


「君は代表だ。つまり、味方がいる」


「味方……」


「リシアさんは、たぶん君が思っているよりずっと君を見ている。ガイウスは、味方を勝たせる盤面を作れる。カレンさんは、必要なら最短距離で割って入る。ルシアン君は……まだ読みにくいけれど、少なくとも味方として立つ限りは優秀だ」


 そこで、シオンは少しだけ笑った。


「そして、会長がいる」


「会長は……すごい人ですよね」


「すごいよ」


 シオンは即答した。


「ただ、すごい人だから何でも任せていい、というわけでもない。会長が見ていないところで、君自身が選ばなければならないこともある」


 エルネは黙った。


 その言葉は、安心させるためのもののはずなのに、少しだけ胸に残った。


「私は、ちゃんと選べるでしょうか」


「選べるよ」


 シオンは、穏やかに言った。


「君は選抜戦でも選んだ。四人を倒す方法を。人を壊さずに勝つ方法を。自分の魔法をどう使うかを」


「でも、それは……」


「補助具があっても、最後に決めたのは君だ」


 シオンの声は柔らかかった。


「だから、大丈夫」


 そう言って、彼は微笑んだ。


 安心していいはずだった。


 とても優しい笑顔だった。


 けれど、エルネはなぜか、その笑顔を見て完全には安心できなかった。


 シオンはきっと、励ましてくれている。


 それは間違いない。


 でも同時に、彼はエルネがどこで迷い、どこで踏みとどまり、どこで選ぶのかを見ている。


 そんな気がした。


『対象シオン・レイヴァン。発言目的、慰撫および行動誘導の可能性』


(先生)


『はい』


(今のは言わないで)


『了解しました』


 シオンは、何も気づいていないように笑っていた。


「怖がっていていいよ」


「え?」


「怖がったまま、間違えないようにすればいい」


 その言葉だけは、不思議とまっすぐ胸に落ちた。

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