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第三十一話

 広域戦で一番怖いものは何か。


 強い敵。


 知らない魔法。


 見えない罠。


 エルネ・フィルは、それらを順番に思い浮かべた。


 だが、黒い本の答えは違った。


『今回の広域戦における最大の危険は、単純な攻撃力ではありません』


(じゃあ何?)


『分断、迷走、合流失敗です』


(迷子ってこと?)


『概ね肯定します』


(急に身近な危機になった)


 エルネは自室の机に広げた対抗戦資料を見下ろした。


 七対七。


 広域フィールド。


 森林、湿地、渓谷、旧街道、地下水路、そして朽ちた城砦。


 文字で読んでいるだけなのに、頭の中で道が絡まっていく。


 どこから進むのか。


 どこで合流するのか。


 もし味方とはぐれたら、どうすればいいのか。


(でも、迷子対策って魔法でできるの?)


『可能です』


(本当に?)


『あなたの現在の術式群には、対応範囲に偏りがあります。蒼炎針アズール・ニードルは局所条件干渉、霧星糸ミスト・ステラは経路干渉、空律鋏シルフ・シザーは流れの切断に適しています』


(うん)


『不足しているのは、地形干渉、位置固定、経路保持です』


(位置固定)


『はい。今回の戦場では、ほどく、結ぶ、断ち切るだけでは不足します』


(じゃあ、どうするの?)


『ガイウス・フォルガンドの土属性錬成術を観測することを推奨します』


(ガイウス先輩の?)


『対象は、土壁を作る術者ではありません』


(違うの?)


『対象は、戦場に意味のある線を引く術者です』


 そう言われると、エルネにも少し分かる気がした。


 第一ブロックでガイウスがしていたこと。


 壁を作り、罠を置き、道を塞ぐ。


 だが、それだけではない。


 五人が一度に襲いかかるはずだった戦場を、五つの小さな戦場に分けていた。


 戦いそのものの形を、先に決めていた。


(ガイウス先輩に、教えてもらえるかな)


『対象ガイウス・フォルガンドは、協力的である可能性が高いです』


(でも、いきなり頼むのは緊張する)


『リシア・アルヴェルトを介した相談を推奨します』


(そこまで言われると、私がすごく人見知りみたい)


『否定材料が不足しています』


(否定して)


『努力します』


(今すぐして)


 エルネは資料を閉じた。


 広い戦場で、迷わないための魔法。


 敵を倒すためではなく、味方のところへ戻るための魔法。


 それが本当に作れるのなら。


 今の自分には、きっと必要なものだった。


     ◇


 翌日の放課後。


 学院の屋外演習場には、土の的、低い壁、石畳、簡易の水路が並べられていた。


 対抗戦代表用に一部が貸し切られている場所である。


 エルネは黒い本を抱え、緊張しながら立っていた。


 隣にはリシア・アルヴェルト。


 そして、目の前にはガイウス・フォルガンドがいる。


「えっと……今日は、ありがとうございます」


 エルネは深く頭を下げた。


「リシアさんに相談したら、ガイウス先輩に土属性錬成術と地形戦の基礎を教えていただけることになったと聞いて……」


「いいって、いいって」


 ガイウスは気軽に笑った。


「俺でよければ付き合うぞ。対抗戦は団体戦だしな。知っておいて損はない」


「よろしくお願いします」


「こちらこそ。じゃあ、まず大前提からだ」


 ガイウスは杖を地面に突いた。


 土が低く盛り上がる。


 それは壁というには低すぎた。


 膝ほどの段差。


 けれど、走ろうとすれば確実に足を取られる高さだった。


「地形戦で大事なのは、強い壁を作ることじゃない。相手が走りたい場所に、走りにくい理由を置く。味方が進みたい場所に、進みやすい理由を残す。俺がやってるのは、だいたいそれだ」


「道の管理、ですか」


 リシアが言った。


「そう。水も同じだろ?」


「はい。すべてを流すのではなく、流れる場所を決めます」


「だよな」


 ガイウスは地面へ三本の土杭を打ち込んだ。


 杭と杭の間に、浅い溝が走る。


 そこへリシアが手をかざすと、細い水流がするすると流れ込んだ。


 水は広がらない。


 溝に従って進み、演習場の端へと流れていく。


「こうすれば、水は迷わない」


「水は迷いません」


 リシアが真面目に訂正した。


「人は迷うけどな」


「それは否定しません」


 エルネは二人のやり取りを聞きながら、地面を見つめた。


 ガイウスの土は、壁ではない。


 リシアの水も、ただ流しているのではない。


 どちらも、戦場の中に道を作っている。


 進む場所。


 止まる場所。


 通してはいけない場所。


 その意味を、地形に与えている。


「対抗戦の広域フィールドで気をつけることは、まず三つある」


 ガイウスが指を立てた。


「一つ目。広い場所では、強い魔法よりも位置取りが先に効く。どんなに強い術式でも、届かない場所にいたら意味がない。逆に、相手が嫌がる場所から撃てば、そこまで強くない術式でも十分効く」


 ガイウスは低い段差を指した。


「たとえばこの段差。相手が後ろに下がりたい時にここへ足を取られたら、それだけで一手遅れる」


「一手」


「戦闘中の一手は大きいぞ。特に七対七ならな」


 エルネは頷いた。


「二つ目。味方の退路を消さないこと」


 ガイウスは、今度は土を左右に盛り上げ、細い道を作った。


「相手を閉じ込めるつもりで地形を変えると、味方まで閉じ込めることがある。だから、地形を変える時は、味方が戻れる場所を必ず残す」


「守るつもりで、閉じ込めてしまうことがあるんですね」


「ある。すごくある」


 ガイウスは苦笑した。


「壁は便利だ。でも、壁は味方にも壁だからな」


 その言葉に、エルネは少しだけ胸の奥が引っかかった。


 守ることと、閉じ込めることは違う。


 昨日、カレンが言っていた言葉を思い出した。


「三つ目。合流地点を決めておくこと」


「合流地点」


「ああ。広域戦で一番まずいのは、全員が別々に正しいと思う方向へ動くことだ」


「正しいのに、まずいんですか?」


「それぞれの判断は正しくても、全体ではばらばらになる。そうなると、相手に各個撃破される」


 エルネは資料で見た地形を思い出した。


 森林。


 湿地。


 渓谷。


 地下水路。


 それぞれの場所で、誰かが正しい判断をする。


 けれど、その正しさが合わなければ、味方は離れていく。


「だから、戦場に印を作る」


 ガイウスは、土杭を一本、地面に打ち込んだ。


「ここへ戻れ。ここから進め。ここを越えるな。そういう意味を、地形に置いておく」


「地形に、意味を置く……」


 エルネは小さく繰り返した。


 その言葉が、妙に残った。


 霧星糸は、結ぶ。


 空律鋏は、断ち切る。


 蒼炎針は、火の条件を置く。


 けれど、ガイウスの土は少し違う。


 何かを壊すのではない。


 流すのでもない。


 切り離すのでもない。


 そこにあるものを、そこにあるまま、意味のある場所に変えている。


(留めること)


 エルネは胸の中で、その言葉を転がした。


 留める。


 動かさない。


 忘れないようにする。


 戻れる場所にする。


 術式が迷わないための支点にする。


『着眼点は適切です』


 ロゴスの声が、胸の奥で響いた。


『ただし、現時点では観測を優先してください』


(まだ考えるだけ?)


『はい。未完成の理論を人前で試行することは推奨しません』


(分かってる)


 エルネは黒い本を抱える腕に、少しだけ力を込めた。


 今ここで、何か新しい魔法を出そうとは思わない。


 まだ形になっていない。


 まだ、自分の中で言葉にもなっていない。


 ただ。


 留めること。


 その響きだけが、なぜか胸の奥に残っていた。


「どうした?」


 ガイウスが尋ねた。


「いえ。少しだけ、分かった気がしました」


「何が?」


「地形を変えるって、壁を作ることだけじゃないんですね」


 エルネは言葉を探す。


「そこに、意味を置くことなんだなって」


 ガイウスは一瞬だけ目を丸くした。


 それから、嬉しそうに笑った。


「いいな。その言い方、俺よりうまい」


「いえ、そんな」


「いや、本当にそうだ。地形戦ってのは、地面に意味を置くことだ。ここを通れ。ここは通るな。ここで止まれ。ここで合流しろ。そういう指示を、土や水や壁で書く」


「戦場に、文字を書くようなものですか」


 リシアが言った。


「それも近いな」


 ガイウスは頷いた。


「読める味方には道になる。読めない相手には罠になる」


 エルネはその言葉を胸の中で繰り返した。


 読める味方には道。


 読めない相手には罠。


 広い戦場で迷わないために、必要なのは強い一撃だけではない。


 自分がどこにいて、どこへ戻ればいいのか。


 何を支点にして、どこまで動くのか。


 それを忘れないための印が必要なのだ。


「対抗戦では、たぶん相手も分断を狙ってくる」


 ガイウスは少し真面目な声になった。


「広いフィールドを指定してきたってことは、そういう戦い方に自信があるはずだ。だから、相手を追いすぎるな。味方の声が遠くなったら、一度止まれ。足場が急に良くなった時も、逆に悪くなった時も疑え」


「足場が良くなった時も、ですか?」


「ああ。進みやすい道は、敵が用意した道かもしれない」


 エルネは息を呑んだ。


 進みにくい場所だけが罠ではない。


 進みやすい場所も、罠になる。


「それから、見えている地形だけを信じすぎるな。森なら木の陰。湿地なら水の下。城砦なら崩れた壁の向こう。地下水路なら曲がり角の先。広い場所ほど、見えない場所が増える」


「怖がらせたいわけじゃないぞ」


「もう少しだけ遅かったです」


「悪い」


 リシアが真面目な顔で頷いた。


「ですが、必要な確認です」


「リシアさんまで」


「広域戦では、見えないものを前提に動くべきです」


 エルネは黒い本を抱え直した。


 見えている場所。


 見えていない場所。


 進む場所。


 戻る場所。


 その全部を、戦場として考えなければならない。


「怖くなったら、無理に進むな」


 ガイウスは言った。


「止まって、味方が戻れる場所を探せ」


「でも、止まったら危なくないですか?」


「何も考えずに進む方が危ない時もある。まあ、全部その場次第だけどな」


「難しいです」


「だから練習するんだ」


 その言葉は、まっすぐだった。


 エルネは頷いた。


「はい」


 その時、ロゴスが静かに反応した。


『観測者を検出』


 距離、およそ八十七メートル。


 渡り廊下二階。


 対象、ルシアン・ベルフォード。


 ロゴスは、エルネに報告しなかった。


 現時点で敵対行動なし。


 報告優先度、低。


 術式理解への集中を阻害する可能性あり。


 観測継続。


 遠くの渡り廊下で、ルシアン・ベルフォードは静かに演習場を見下ろしていた。


 視線の先にあるのは、エルネの顔ではない。


 ガイウスが打ち込んだ土杭。


 リシアが流した細い水路。


 そして、それらを見つめるエルネの沈黙だった。


「まだ、時間はある」


 ルシアンは、誰にも聞こえないほど小さく呟いた。


 それから、何事もなかったように、静かにその場を離れた。

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