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第二十六話

 ユリウス・ヴェントハイムは、今年こそ代表に選ばれるつもりだった。


 昨年は一年生だった。


 実力はあった。

 成績も悪くなかった。

 教師からの評価も、決して低くはなかった。


 だが、足りなかった。


 経験。

 魔力量。

 実戦での判断速度。

 そして何より、上にいる者たちの壁。


 生徒会。学院でも名の知れた上級生たち。


 去年のユリウスは、その壁の前で惜しくも届かなかった。


 だが、今年は違う。


 第三ブロックの顔ぶれを見た時、ユリウスは自分の運の良さに感謝した。


 生徒会役員はいない。第二ブロックのような、異常な補助魔法具持ちもいない。


 警戒すべき相手は、数名。


 そのうち一人が、リシア・アルヴェルトだった。


 水属性の名門、アルヴェルト家の令嬢。

 一年主席とも噂される優等生。


 なるほど、確かに評判になるだけはある。


 演武場に立つ姿は美しかった。


 青く透き通った長い髪。

 凪いだ水面のような瞳。

 乱れのない立ち姿。


 あらためて近くで見ると、なかなか悪くない。


 いや、むしろいい。


 名門の娘。

 優秀な一年生。

 美しい水属性術者。


 自分の隣に立たせるには、申し分ない。


 ユリウスは、そう考えた。


 もちろん、勝つのは自分だ。


 そこを譲るつもりはない。


 だが、彼女に花を持たせてやることはできる。


 まずは共闘を持ちかける。


 二人で残る三人を落とす。


 その後、自分が勝つ。


 そして、落ち込む彼女に、優しく言ってやればいい。


 残念がることはない。

 君には来年がある。


 ブロック二位という実績でも、一年生には十分すぎる名誉だ。


 そう囁けば、彼女も自分の器の大きさを理解するだろう。


     ◇


 第三ブロックの演武場には、張り詰めた空気が漂っていた。


 開始の合図が鳴っても、誰もすぐには動かない。


 牽制し、間合いを測り、誰が誰を狙うのかを見る。


 それが正しい。


 ユリウスはそう判断した。


 第三ブロックの五人は、互いに距離を取っている。


 誰も、最初の餌食にはなりたくない。


 第二ブロックの惨状を見た直後なら、なおさらだ。


 ユリウスは、隣に立つリシアへ視線を向けた。


 彼女は動いていない。杖も構えていない。気配も薄い。緊張しているのか。


 それとも、慎重に機を見ているのか。


 ならば、自分が道を示してやるべきだろう。


「どうだい、リシア・アルヴェルト」


 ユリウスは、余裕のある笑みを浮かべた。


「まず僕たちで三人を倒す。その後、じっくり決着をつけようじゃないか」


 悪くない提案のはずだった。


 彼女にとっても、自分にとっても。


 何より、リシア・アルヴェルトほどの少女なら、この程度の利は理解できるはずだ。


 だが、リシアは少しだけ首を傾げた。


「先輩、何か考え違いをしていませんか?」


 ユリウスの笑みが、わずかに固まる。


「なんだと?」


「もう終わっています」


 その言葉を理解するより早く、ユリウスの足元が消えた。


     ◇


 リシアの言葉の意味は、外から見ていたらよく分かった。


 次の瞬間、四人の足元から爆発的に水流が立ち上った。


 水柱ではない。


 乱れた噴出でもない。


 立ち上がった水は、すぐに帯の形へほどけた。


「アルヴェルト家伝」


 リシアの指先が、静かに持ち上がる。


流麗水帯アクア・リボン


 水は、暴れていない。


 けれど、逆らえない。


 ひとりが、慌てて火球を作ろうとする。


 だが、水帯が杖の角度をほんの少し変えた。


 火球は正面へ飛ばない。


 水帯に包まれ、熱を奪われ、音もなく横へ流された。


 土属性で、床を固めようとする者は、その前に足首をすくわれた。


 土壁はせり上がりかけて、途中で止まる。


 水が土を壊したのではない。


 立って踏ん張るための重心を、先に流したのだ。


 いち早く水流に気付いたものは、風魔法で空に跳ぼうとした。


 だが、リシアの水帯は追いかけなかった。


 すでにそこへ流れていた薄い水膜が、足裏の摩擦を奪う。


「うわっ!?」


 跳躍に失敗し、そのまま水流に飲み込まれた。


 ユリウスは、杖を構えようとした。


 だが、手首が動かない。


 気づけば、水帯が自分の杖と腕の間を通っていた。


 押さえつけられているわけではない。


 縛られているわけでもない。


 なのに、構えたい方向へ杖が向かない。


 ほんの少し、角度がずらされる。


 ほんの少し、肘が流される。


 ほんの少し、膝が折れる。


 その「ほんの少し」が重なり、魔法陣が組めない。


 ユリウスは歯を食いしばった。


 水流は暴れていない。


 暴れていないのに、逆らえない。


 足首を取られたと思った時には、膝の向きがずれていた。


 杖を構えようとした時には、手首の角度が変えられていた。


 魔法陣を作ろうとした時には、水帯がその中心をさらっていた。


 ユリウスは理解した。


 これは水壁ではない。


 水弾でもない。


 流れだ。


 自分が立つ場所。


 動く方向。


 杖を向ける角度。


 その全部が、相手の流れの中にある。


「リシア、アルヴェルト……!」


「はい」


 リシアは静かに答えた。


 彼女は、ほとんど動いていない。


 指先だけが、わずかに水を導いている。


「合図を聞いてから考えるほど、遅くはありません」


 彼女は真面目である。


 試合開始と同時に、すでに術式は発動していた。


 誰も動かなかったのではない。


 誰も、動ける立場ではなかった。


 全員が警戒し、牽制し、様子を見ている間に、リシアの水は床を薄く巡っていた。


 足元へ。


 外周線へ。


 杖の影へ。


 魔力の流れが集まる場所へ。


 静かに。


 薄く。


 広く。


 そして必要な瞬間にだけ、爆発的に立ち上がる。


 流麗水帯アクア・リボン


 それは、場を流し、相手の姿勢を流し、攻撃の向きを流し、最後には立っている理由そのものを流す魔法だった。


 四人の身体が、同時に外周へ運ばれていく。


 叩きつけられたわけではない。


 吹き飛ばされたわけでもない。


 ただ、気づけばそこへ流されていた。


 結界の外周線が、四か所で同時に光る。


「場外判定!」


 結界管理教師の声が響いた。


「四名、場外!」


 これまた、一瞬の出来事だった。


 第二ブロックとは違う。


 爆発音もない。


 幻傷印の乱舞もない。


 白目をむいて倒れる者もいない。


 ただ、五人のうち四人が、びしょびしょの姿で外周線の向こうに転がっていた。


 ユリウス・ヴェントハイムは、濡れた髪を額に貼りつかせたまま、茫然と床に手をついていた。


 何が起きたのか、理解できていない顔だった。


 中央に立つリシア・アルヴェルトだけが、ほとんど濡れていない。


 彼女はいつものように静かな顔で、ユリウスを見下ろした。


「真面目にやってください」


 その声に、怒りはなかった。


 嫌味もなかった。


 ただ、本気でそう言っていた。


 だからこそ、ユリウスの顔がゆっくりと赤くなった。


 演武場が静まり返る。


 グラント教官が、一拍置いて宣言した。


「第三ブロック、勝者。リシア・アルヴェルト」


     ◇


 観客席で、エルネ・フィルは口を開けていた。


「……え。もう終わった?」


『はい』


「私の時より静かだった」


『制圧効率が高いです』


「先生、今のは綺麗って言うところ」


『訂正します。綺麗です』


「でしょう?」


 エルネは黒い本を抱え直した。


 第二ブロックで、自分は演武場を夜空にした。


 星を灯し、糸を結び、四つの魔法を鏡にした。


 でも、リシアは違う。


 リシアは、演武場を川にした。


 誰にも気づかれないほど静かに流れを敷き、必要な瞬間だけ帯に変え、相手を傷つけずに場外へ運んだ。


 強い。


 そして、美しい。


『対象リシア・アルヴェルトの評価を更新します』


(どうなったの?)


『極めて高い制御能力。広域展開。場の支配に優れます』


(つまり?)


『強いです』


(知ってる)


 エルネは、演武場の中央に立つリシアを見た。


 リシアは、こちらを見上げた。


 目が合う。


 その表情はいつも通り静かだった。


 けれど、ほんの少しだけ、誇らしげにも見えた。


     ◇


 演武場を下りたリシアを、エルネは通路で待っていた。


「リシアさん」


「はい」


「見たことないものだった」


 リシアは、少しだけ目を細めた。


「ご期待に応えられてよかったです」


 リシアは当然のように答えた。


 エルネは小さく笑う。


「すごかった。綺麗だったし、強かった」


「ありがとうございます」


 リシアは静かに頷いた。


 それから、黒い本へ一瞬だけ視線を向ける。


「エルネさんの鏡結ミラー・ノットも、まだ見切れていません」


「私も、リシアさんの流麗水帯アクア・リボン、全然分からなかった」


「では」


 リシアは、ほんのわずかに口元を緩めた。


「お互い様ですね」


 そう言って、彼女は歩き出した。


 エルネは、その背中を見送る。


 青く透き通った髪が、廊下の光を受けて静かに揺れていた。


『良好な競争関係です』


(そうね)


『警戒、信頼、興味、競争心が混在しています』


(先生)


『はい』


(今回は分析していいわ)


『了解しました』


 エルネは小さく息を吐いた。


 自分は勝った。


 リシアも勝った。


 それなのに、不思議と胸が落ち着かない。


 まだ見たことのない魔法が、この学院にはある。


 自分だけではない。


 強い人は、まだいる。


 リシア・アルヴェルト。


 水属性の名門。


 静かで、真面目で、負けず嫌いな少女。


 彼女は今日、エルネに約束通り見せた。


 見たことのない水を。


 そしてエルネは、思った。


 次に並んで戦う時、自分はこの水の隣に立てるだろうか。


 答えは、まだ分からない。


 けれど。


 分からないからこそ、少しだけ楽しみだった。

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