第二十四話
学内選抜、第一日。
第一ブロックは、すでに終了していた。
勝者はガイウス。
生徒会実技代表として名の知られた上級生で、危なげない勝利だったらしい。
順当な候補が、順当に勝った。
だからこそ、次の第二ブロックへ向けられる視線は、少し違っていた。
黒い本を抱えた一年生が、貴族派閥寄りの上級生たちと同じ場に立つ。
それはもう、ただの選抜戦というより、何かが起きるのを待つ空気だった。
◇
幻傷演武場の控室は、思っていたより静かだった。
いや、正確には、静かすぎた。
外からは、観客席へ向かう生徒たちの声が聞こえる。
第二ブロックの名前を口にする声。
誰かが笑う声。
石廊下を歩く足音。
けれど、控室の中だけは、妙に空気が固まっていた。
エルネ・フィルは長椅子に座り、黒い本を膝の上に置いていた。
正面の壁には、小さな鏡がある。
そこに映っているのは、いつもの自分だ。
肩より少し長い黒髪。
灰紫の瞳。
強気そうに見える目元。
ただし今は、その目元が少し引きつっている。
(先生。顔、変じゃない?)
『緊張反応を確認しています』
(そういう意味じゃない)
『表情筋の硬直、呼吸間隔の短縮、瞬きの増加を確認』
(やめて。余計に緊張する)
『了解。緊張に関する詳細記録の通知を停止します』
(記録はしてるのね)
『はい』
エルネは軽く息を吐いた。
帰りたい。
とても帰りたい。
だが、ここで帰ると、試合より大変なことになる気がした。
控室の扉が軽く叩かれる。
「エルネさん」
扉の向こうから、静かな声がした。
リシア・アルヴェルトだった。
「入ってもいいですか」
「どうぞ」
扉が開き、リシアが入ってくる。
青く透き通った長い髪が、控室の白い魔法灯に淡く光った。
今日のリシアは、いつもより少しだけ表情が硬い。
けれど、凪いだ水のような静けさは変わらない。
「第三ブロックは午後からなのに、いいの?」
「はい。第二ブロックは見届けます」
「見届けるって言われると、私が何かされる前提みたいなんだけど」
「実際、その可能性は高いと思います」
「言い切った」
エルネは肩を落とした。
『私の予測とも一致します』
(先生まで)
リシアは、エルネをまっすぐ見た。
「でも、エルネさんは逃げませんでした」
「逃げたかったけどね」
「それでも、ここにいます」
その言葉は、静かだった。
けれど不思議と、少しだけ胸が落ち着いた。
「危ないと思えば、私は止めます」
「応援じゃなくて?」
「応援しています。だから、止める必要がない勝ち方をしてください」
「リシアさんって、本当に真面目よね」
「よく言われます」
「自分で言うところも真面目」
「事実なので」
少しだけ、緊張がほどけた。
扉の外で、鐘の音が鳴る。
呼び出しの合図だった。
リシアは一歩下がる。
「観客席で見ています」
「うん」
「無理はしないでください」
「努力する」
「その返答は、あまり信用できません」
「ひどい」
リシアは小さく会釈して、控室を出ていった。
扉が閉まる。
控室には、エルネと黒い本だけが残った。
『良好な関係性です』
(そう?)
『はい。警戒、信頼、競争心、相互理解が混在しています』
(分析しなくていい)
『重要です』
エルネは立ち上がった。
黒い本を抱える。
重い。
けれど、不思議と今日は、その重さが少しだけ落ち着いた。
「先生」
『はい』
「行こう」
◇
幻傷演武場、第一演武場。
扉が開いた瞬間、ざわめきが押し寄せてきた。
円形の演武場。
高い天井。
壁に並ぶ結界柱。
観客席には、多くの生徒が集まっている。
第一ブロックの熱が、まだ残っていた。
「ガイウス先輩、さすがだったな」
「あれで本気じゃないんだろ?」
「実技代表はやっぱり違う」
そんな声の間に、別のざわめきが混じる。
「次、第二ブロックだ」
「エルネ・フィルが出るところか」
「アルヴィン・バルガン先輩もいるだろ」
「あれ、絶対荒れるぞ」
荒れる前提で話さないでほしい。
エルネは黒い本を抱えたまま、内心で小さく抗議した。
教師陣の席には、グラント教官とセラム・ノーティス教師。
少し離れた場所に、医療教師ミリア。
そして、生徒会席。
そこには、シオン副会長と、マルク・ペンドルトンの姿があった。
マルクは書類束を抱え、何かを猛烈に確認している。
エルネは名前くらいしか知らない。
ただ、遠目にも分かった。
あの人は今、ものすごく忙しそうだ。
シオンは穏やかに笑っている。
ただし、灰緑の瞳は試合場を一瞬も逃さない。
その中央に座っている女子生徒を見て、エルネは思わず足を止めそうになった。
セレスティア・ロウ・アステリア。
王立リュゼリア魔法学院の生徒会長。
エルネが彼女を見たのは、入学式の時くらいだった。
壇上に立ち、新入生へ向けて穏やかに挨拶していた姿。
遠くから見ても、綺麗な人だと思った。
けれど、その時は本当に遠かった。
自分とは関係のない、学院の上の方にいる人。
そう思っていた。
その会長が、今は観客席の中央で、こちらを見ている。
目が合った。
エルネは思わず息を止めた。
セレスティアは、優しげに微笑んだ。
『試練の場に引きずり込んだにしては、悪びれないですね』
(たしかに)
優しげだ。
綺麗だ。
でも、怖い。
その三つが、同時に成立していた。
エルネは黒い本を抱え直し、なんとか中央へ歩いた。
(先生。帰りたい)
『本日二回目の帰宅要求を確認しました』
(一回目は?)
『控室で鏡を見た直後です』
(細かい)
『記録精度は重要です』
対面側の入場口から、四人の上級生が入ってくる。
アルヴィン・バルガン。
ロイド・グレイス。
セドリック・ランヴェル。
ニール・オルゼン。
四人とも、迷いのない足取りだった。
その中でも、アルヴィンの視線は冷たい。
弟のレオルとは違う。
感情をそのままぶつけるのではなく、感情に形を与えてから押し潰しに来るような目だった。
「エルネ・フィル」
アルヴィンが言った。
「逃げなかったことは褒めてやる」
「それ、褒めてるように聞こえないんですけど」
「褒めているさ。代表候補として最低限の姿勢はあるようだからな」
「最低限から始めるの、つらいですね」
「安心しろ。すぐに終わる」
周囲が小さくざわめく。
グラント教官が低い声で告げた。
「第二ブロック選抜戦を開始する」
演武場の床に刻まれた魔法陣が光り始める。
幻傷結界。
傷は本物にならない。
痛みと衝撃はある。
幻傷判定が蓄積し、一定以上で戦闘不能判定。
緊張で耳の奥が熱い。
『結界起動を確認。損傷変換式、幻傷判定式、場外判定式を検出』
(先生、余裕あるわね)
『観測は重要です』
(私も観測される側なんだけど)
『はい』
(そこは否定して)
床の光が強くなった。
五人の足元に、それぞれ小さな開始円が浮かぶ。
エルネは中央やや手前。
アルヴィンたち四人は、その周囲に散る形で配置されていた。
最初から、嫌な配置だった。
「開始」
グラント教官の声が落ちる。
その瞬間、四人が動いた。
アルヴィンは正面。ロイドは左。セドリックは右。ニールは背後へ回る。
ただ走ったのではない。
四人は動きながら、すでに杖を構えていた。
赤い火の魔法陣が、アルヴィンの足元から立ち上がる。
ロイドの左手が床をなぞり、土色の術式が石畳へ食い込む。
セドリックの周囲では、風が薄い刃となって並び始める。
ニールの背後では、空気中の水分が細い縄へ集まっていた。
速い。
包囲してから攻めるのではない。
包囲しながら、攻撃の形まで作っている。
「囲んだ」
「早い」
「これ、最初からエルネ狙いじゃないか?」
観客席が一気にざわついた。
エルネは足を止めた。
逃げようとすれば、どこか一方向に隙を見せる。
だが止まれば、四方向すべてから術式が届く。
中央で、黒い本を開く。
『予測通りです』
「全然うれしくない」
『四方向からの接近。術式構築、同時進行』
「実況しなくていい!」
アルヴィンが静かに言った。
「撃たせるな。考えさせるな」
赤い火槍が、彼の前で形を取る。
「潰すぞ」
その一言で、四つの魔法陣が一斉に輝いた。
正面から火。
炎を槍のように圧縮した、バルガン家の火術式。
左から土。
石杭が床を割り、エルネの足を縫い止めようとする。
右から風。
薄い風刃が、逃げる先を切り裂くように並ぶ。
背後から水。
細い水縄が、腕と足首を絡め取る輪を作る。
四つの術式は、別々に見えて、役割が噛み合っていた。
止める。
縛る。
逃がさない。
そして、正面から撃ち抜く。
『包囲、成立』
(本当に成立しちゃった)
『霧星糸、第二段階移行準備』
黒い本のページに、青白い線が浮かぶ。
だが、まだ細い。
まだ、足りない。
エルネは目を閉じ、息を吸った。
集中。
周囲の魔力を見る。
火の熱。
土の震え。
風の音。
水の気配。
四人の術式が別々に組まれている。
けれど、そのすべてが、同じ一点を向いている。
自分だ。
アルヴィンの火槍が完成する。
ロイドの石杭が床を割る。
セドリックの風刃が鳴る。
ニールの水縄が輪を閉じる。
四つの魔法が、エルネを囲む。
観客席が息を呑んだ。
エルネは逃げなかった。
いや、逃げられなかった。
だから、中央で黒い本を開く。
ページに、青白い星がひとつ灯った。
「放て!」
アルヴィンが杖を振り下ろした。
四つの魔法が、同時に放たれる。
その瞬間。
エルネは目を見開いた。
黒い本のページで、青白い星が弾ける。
一つ。
二つ。
十。
百。
それはページの上だけでは終わらなかった。
エルネの足元へ。
四人の魔法陣の縁へ。
火槍の穂先へ。
石杭の影へ。
風刃の軌道へ。
水縄の結び目へ。
青白い星が、瞬きながら広がっていく。
次の瞬間、幻傷演武場全体に、星座が輝いた。
床に。
空中に。
結界柱の間に。
放たれた四つの魔法を結ぶように、無数の霧星が糸を伸ばす。
それは夜空ではなかった。
演武場そのものを、一瞬だけ夜空に変える術式だった。
『霧星糸――』
ロゴスの声と、エルネの声が重なった。
『「鏡結!」』




