第二十三話
貴族寮の二階にある小談話室には、火の気配が満ちていた。
暖炉の火ではない。
苛立ちと、面子と、押し殺した怒りが混ざった熱だ。
机の上には、学内選抜のブロック表が広げられている。
第二ブロック。
エルネ・フィル。
アルヴィン・バルガン。
ロイド・グレイス。
セドリック・ランヴェル。
ニール・オルゼン。
その名簿を見下ろしながら、アルヴィン・バルガンは低く言った。
「開始直後に囲む」
赤みがかった金髪。整った顔立ち。腰には火属性術師用の細杖を提げている。
レオル・バルガンの兄。
昨年の対抗戦控え。
そして、エルネ・フィルと同じ第二ブロックに入った上級生だった。
「フィルは補助魔法具を抱えている。術式の構築に一拍かかる。そこを潰す」
ロイド・グレイスが腕を組んだ。
「蒼い火の噂は?」
「撃たせなければいい」
アルヴィンは即答した。
「時間を与えるから妙な術式を組まれる。考える暇を与えなければ、あの女はただの一年だ」
「霧の糸だか、星だかは?」
セドリックが言う。
アルヴィンの眉が、わずかに動いた。
緋鎖火。
バルガン家の火種石。
それを割られた一件は、まだ新しい。
弟の不始末。
家の面子。
学院内に広がった噂。
そのすべてが、アルヴィンの中で静かに燃えていた。
「レオルが未熟だった」
アルヴィンは冷たく言った。
「感情で動き、距離を与え、考える時間を与えた。だから負けた」
「では、我々は?」
「考えさせない」
アルヴィンは、ブロック表のエルネの名を指先で叩いた。
「四方を塞ぐ。逃げ道を潰す。構築前に叩く。あの本を抱えたまま、何もできずに倒れればそれで終わりだ」
ニールが少しだけ声を落とす。
「教師と生徒会が見ている。四人で一年を囲むのは、見え方が悪くないか?」
「これは学内選抜だ」
アルヴィンは鼻で笑った。
「1ブロックに五人。誰を狙うかは自由だ。幻傷結界内なら本物の傷も残らない」
「だが」
「七人代表の対抗戦は遊びではない」
アルヴィンの声が、少しだけ鋭くなった。
「複数人に攻められただけで崩れる者が、聖環学院の前に立てるはずがない。弱い者が代表になれば、それこそ学院の、引いては我が国の恥だ」
それは正論の形をしていた。
だからこそ、たちが悪かった。
「落ちこぼれが、補助具ひとつで持ち上げられているだけだ」
アルヴィンは静かに続ける。
「身の程を分からせる」
ロイドが薄く笑った。
「開始直後から、だな」
「ああ」
「降参したら?」
「その余裕があれば認める」
アルヴィンは窓の外を見た。
遠く、幻傷演武場の結界柱が淡く光っている。
明日、そこに第二ブロックの五人が立つ。
「余裕がなければ、そのまま幻傷判定を積ませるだけだ」
彼は低く言った。
「弟の不始末は、兄が片づける」
◇
「先生。私、囲まれると思う?」
同じころ。
エルネ・フィルは寮の自室で、机の上の黒い本に向かって話しかけていた。
『高確率で肯定します』
「やっぱり!」
黒い本――ロゴスは、いつも通り淡々と答えた。
机の上には、第二ブロックの名前を書き写した紙がある。
見れば見るほど、胃に悪い。
『第二ブロックの構成、バルガン家との因縁、貴族派閥寄りの候補者比率を総合すると、開始直後に結託した彼ら複数名から攻撃を受ける可能性があります』
「つまり?」
『囲まれます』
「言い切った!」
『簡潔化しました』
「簡潔に絶望させないで!」
エルネは机に突っ伏した。
黒い本の角に額をぶつけそうになり、慌てて顔を横へずらす。
禁書疑惑のある本でたんこぶを作るのは嫌だった。
エルネは深く息を吐いた。
逃げたい。
ものすごく逃げたい。
けれど、掲示板の前で固まっていたところを、すでに大勢に見られている。
今さら辞退すれば、それはそれで一生言われる気がした。
落ちこぼれが逃げた。
補助具頼りだった。
代表候補など分不相応だった。
声に出される前から、頭の中で聞こえる。
嫌だ。怖い。でも、嫌だ。
「じゃあ、蒼炎針で一人ずつ止めるのは?」
『不適です』
「早い」
『蒼炎針は、単体標的への有効打としては優秀です。ですが、包囲された場合、問題は一人ではありません』
「四人全員?」
『いいえ』
「違うの?」
『包囲という状況そのものです』
エルネは顔を上げた。
黒い本のページに、青白い細線が一本浮かんでいる。
それは小さく揺れ、やがて中央にひとつの点を描いた。
その周囲に、四つの点。
四つの点から線が伸び、中央の点を囲む。
『一人を止めても、残る三人が動きます。二人を止めても、残る者が術式を完成させます。蒼炎針は強い術式ですが、包囲を破るための術式ではありません』
「強いのに?」
『強い術式と、適した術式は別です』
その言葉に、エルネは少し黙った。
強い魔法を覚えれば勝てる。
以前なら、そう思ったかもしれない。
けれど、リシアは蒼炎針を止めた。
火鎖は、火を消したのではなく、鎖である理由をほどいた。
魔法は、強ければいいわけではない。
何を相手にしているのか。
何を止めたいのか。
そこを間違えれば、強い術式でも届かない。
「じゃあどうするの、先生」
『包囲を破る方法が無いなら、構築すればいいのです』
「私にそんな魔法は……」
『はい。今は』
黒い本のページに、青白い線が増えた。
一本。
二本。
十本。
細い線が、星を結ぶように広がっていく。
『提案します。霧星糸を、次の段階に進める時です』
◇
北棟地下。
禁書庫へ続く廊下は、学院の中でもひときわ静かだった。
壁には古い封印式が刻まれ、魔法灯の明かりさえ、そこではどこか遠慮がちに見える。
セラム・ノーティスは、書類束を抱えたまま、その扉の前に立っていた。
術式理論教師。
研究者。
そして今は、黒い本について照会に来た学院職員だった。
禁書庫の前には、ひとりの男がいる。
年齢は分からない。
若いようにも、老いているようにも見える。
顔の大半は、紋章の刻まれたフェイスベールで隠されていた。
視線も、表情も、名も、簡単には相手に渡さない。
王国から任命された、数少ない禁書庫番人のひとり。
学園に常駐し、禁書を研究し、有効利用できるか、封印すべきかを判断する者。
番人は、セラムを見た。
「照会か」
短く、低く、断定的な声だった。
「はい。演習用ダンジョン内で発見された、黒い魔導書型補助具についてです」
セラムは書類を開く。
「使用者固定型の疑いあり。所持者は一年生、エルネ・フィル」
「記録名」
「不明です。表紙に題字なし。通常の魔力刻印も確認できません」
番人は扉へ指を触れた。
フェイスベールの紋章が、かすかに光る。
それは魔術行使を制限する刻印でもあり、番人自身が禁書に呑まれた時、自分を封じるための安全装置でもあった。
禁書に顔を与えない。
名を与えない。
視線を与えない。
そういう職務だった。
扉の奥で、古い紙がめくられるような音がした。
「禁書記録、該当なし」
「演習用ダンジョンの備品記録は?」
「該当なし」
「補助魔法具管理課にも該当記録はありませんでした」
セラムは紙を一枚めくった。
「ですが、エルネ・フィルの術式はいくつか確認されています。まずは、蒼い炎を――」
「待て」
番人の声が、そこで初めて変わった。
セラムは口を閉じる。
フェイスベールの奥で、番人の目がこちらを向いた気がした。
「いま、何と言った」
「蒼い炎、です。本人たちは蒼炎針と呼んでいます」
「蒼炎針……」
番人は黙った。
その沈黙は、知らないものを聞いた者の沈黙ではなかった。
知っている何かを、記録の奥から確認している沈黙だった。
「その術式の観測は続けろ」
「危険なのですか?」
「まだ分からん」
「では、何を警戒すれば?」
「言っただろう。蒼い炎だ」
番人はそれ以上答えなかった。
セラムはしばらく待ったが、追加の言葉はなかった。
「承知しました。記録は継続します」
「他言するな」
「学院長には?」
「必要なら私が言う」
短い。
断定的。
そして、怖いことをさらっと言う。
セラムは深く一礼し、禁書庫の前を離れた。
足音が遠ざかる。
地下の廊下に、また静けさが戻る。
番人は、扉の前でしばらく動かなかった。
「蒼い炎だと?」
低く、かすれた声が、封印式の並ぶ地下に落ちる。
「……まさか、な」
◇
翌朝。
学院中央掲示板の前には、すでに多くの生徒が集まっていた。
学内選抜、第一日。
代表七名を決めるための戦いが、今日から始まる。
掲示板には、各ブロックの開始時刻と使用闘技場が記されていた。
第二ブロック。
幻傷演武場、第一演武場。
開始時刻、午前第三鐘。
エルネは黒い本を抱えたまま、その文字を見上げた。
「先生」
『はい』
「帰りたい」
『本日一回目の帰宅要求を確認しました』
「今日は一回目なのね」
『はい。順調です』
「何が?」
『記録上は』
「何の慰めにもならない」
周囲のざわめきが耳に入る。
「第二ブロック、今日だろ?」
「バルガン兄がいるところか」
「エルネ・フィル、大丈夫なのか?」
「でも、あの本があるし」
「いや、四人とも上級生だぞ」
期待。
不安。
好奇心。
それから、少しの悪意。
その全部が、エルネに向けられていた。
掲示板の端で、アルヴィン・バルガンがこちらを見ている。
レオルよりも静かな目だった。
冷たく、まっすぐで、火のように揺れない。
エルネは一瞬だけ足がすくんだ。
でも、視線は逸らさなかった。
エルネは黒い本を抱え直した。
重い。
けれど、今日は手放さない。
『霧星糸、第二段階移行準備を継続します』
「間に合う?」
『不確実です』
「だからそこは」
『ただし』
ロゴスの声は、いつも通り静かだった。
『試行は可能です』
エルネは小さく息を吸った。
勝てるとは言われていない。
でも、試すことはできる。
それなら、十分だ。
鐘が鳴った。
学内選抜の始まりを告げる鐘だった。




