第十九話
王立リュゼリア魔法学院の生徒会室には、いつもとは違う沈黙があった。
会計の席は空いている。
時間にうるさいはずのマルク・ペンドルトンが、定例報告会に遅れていた。
その代わり、本来ならこの場にいないはずの一年生、リシア・アルヴェルトが端の席に座っている。
「定刻です」
議長ディート・クラウゼルが、卓上の議事録を開いた。
「これより、生徒会定例報告会を開始します」
長机の奥で、生徒会長セレスティア・ロウ・アステリアが静かに頷いた。
「進めて」
たった一言。
それだけで、室内の空気が整った。
セレスティアは、銀に近い淡金の髪を背へ流した少女だった。
整いすぎた顔立ちは、見惚れるより先に背筋を伸ばさせる。学院指定の黒外套さえ、彼女が着ると式典用の礼装に見えた。
美しい。
けれど、近づきすぎれば指先を切りそうな美しさだった。
その隣には、副会長シオン・レイヴァンが座っている。
淡い栗色の髪。灰緑の瞳。細い銀縁眼鏡。
穏やかな笑みを浮かべているが、その目だけは、会議室の空気の流れまで読んでいるように鋭い。
「第一議題。リシア・アルヴェルトの、生徒会直属補佐任命について」
ディートが淡々と告げる。
「推薦者、シオン・レイヴァン副会長」
「はい」
シオンは穏やかに頷いた。
リシアは背筋を伸ばす。
「リシア・アルヴェルトは一年生主席です。座学、実技、魔力制御、いずれも一年生の中では抜きん出ています。特に水属性術式の精度は、上級生を含めても注目に値します」
ディートがリシアへ視線を向けた。
「生徒会直属補佐となれば、通常の授業や訓練とは別に、学院行事、術式記録、場合によっては危険案件にも関わることになります。理解していますか」
「はい」
「なぜ受けるのですか」
リシアは少しだけ間を置いた。
「見て見ぬふりをしたくないからです」
会議室が静かになる。
「分からないものを、分からないまま遠ざけるのは簡単です。でも、それでは何も改善しません。危険があるなら、理解し、制御する必要があります」
セレスティアは目を細めた。
その表情は、微笑みに近い。
「よろしい」
ディートが周囲を見回す。
「異議は」
誰も声を上げなかった。
「異議なし」
「承認します」
セレスティアが静かに告げる。
「リシア・アルヴェルトさんを、生徒会直属・術式観測補佐に任命します」
リシアは静かに頭を下げた。
「承ります」
「第二議題。エルネ・フィルを、生徒会の管理下に置く件について」
その名が出た瞬間、室内の空気がわずかに重くなった。
エルネ・フィル。
火球も出せない落ちこぼれ。
そう呼ばれていたはずの一年生。
しかし今、彼女は生徒会の正式な議題になっている。
シオンは資料を一枚、卓上へ滑らせた。
そこには、学院の記録用魔道具で写された少女の肖像が添えられていた。
肩より少し長い黒髪。灰紫の瞳。どこか不安そうに唇を結んだ、年相応の一年生。
セレスティアは、その肖像を見て、ほんの少し目元を和らげた。
「あら、かわいらしい子ね」
その一言だけなら、ただの感想だった。
けれど、次に彼女の指が止まったのは、肖像の横に記された分類欄だった。
「……未分類」
声は穏やかだった。
怒ってはいない。
けれど、どこか冷たかった。
シオンが資料を示す。
「エルネ・フィル。火属性登録。既製火術式不適合。魔導書型補助具を所持。現在の術式分類は未定です」
「シオン」
「はい」
「ずいぶん面白いことを、私の正式承認前に進めたわね」
シオンの微笑みは崩れなかった。
「時間がありませんでした」
「時間がない時ほど、手順は大切よ」
「その通りです」
「では、なぜ飛ばしたの?」
「飛ばしたつもりはありません。グラント教官、セラム先生、ミリア先生の立ち会いと許可は得ています。生徒会単独の判断ではありません」
セレスティアは、黙ってシオンを見た。
静かな沈黙だった。
「教師陣の許可を得ていたなら、越権とは言い切れないわ」
セレスティアは言った。
「けれど、生徒会の承認前に既成事実を作ったことは事実ね」
「はい」
「反省は?」
「形式上は」
ディートが、わずかに眉を動かした。
セレスティアは、ほんの少しだけ笑った。
「あなたのそういうところ、本当に副会長向きね。腹立たしいけれど」
「光栄です」
「褒めていないわ」
「承知しています」
ディートが咳払いをした。
「黒い本についての扱いは?」
「禁書と断定できません。けれど通常の補助魔法具とも一致しません。使用者固定型である可能性が高く、無理な切り離しは危険。教師陣とは、ここまで認識を共有しています」
「エルネ・フィル本人については?」
「危険性はあります。ですが、少なくとも現時点で、本人には対人加害への明確な抵抗があります」
リシアが口を開いた。
「私も同意します。彼女は力を得たことに酔ってはいません。むしろ、怖がっています」
「怖がることは、美徳ではないわ」
セレスティアは淡々と言った。
「でも、制御の始まりにはなる」
リシアはそう答えた。
セレスティアは、リシアを見た。
少しだけ、満足そうだった。
ディートが議事録に印をつける。
「本件について、承認に移ってよろしいですか」
「ええ」
セレスティアが頷く。
「エルネ・フィルさんを生徒会管理下の観測対象として――」
その時だった。
生徒会室の扉が、乱暴に叩かれた。
返事を待たずに扉が開く。
「会長! 予定表が死にました!」
飛び込んできたのは、生徒会会計のマルク・ペンドルトンだった。
小柄な体に、きっちり仕立てられた黒外套。砂色の短髪は走ってきたせいで前髪だけ跳ね、細い四角眼鏡は少しずれている。
胸元には会計の銅章。
腰の革ケースには、羽根ペンと定規、それから小さな印章がきれいに収まっていた。
ただし本人の顔は、きれいに収まっていない。
完全に焦っていた。
「マルク」
セレスティアの目が細くなる。
「あなたが定例報告会に遅刻した理由は、それ?」
「遅刻は認めます! ただし理由は正当です! 予定表が死んだんです!」
「では、死因を報告して」
「対抗戦です!」
室内が静まり返る。
対抗戦。
リュゼリア王国と、友好国である聖環王国オルディスの学院同士で行われる、年に一度の公式戦。
例年なら、開催はもっと先。
夏頃に向けて代表選抜を行い、準備期間を置いてから本戦に臨む。
今、この時期に慌てる話ではない。
そのはずだった。
マルクは書類筒を机に置いた。
「聖環学院から、正式照会が届きました。今年の対抗戦を、前倒ししたいと」
「早すぎるね」
シオンの声から、微笑みが少し消えた。
「向こうは、その理由を言ってきたのかな?」
「正式文書には、交流強化とだけ」
「便利な言葉ね」
セレスティアが静かに言った。
「それ以外は?」
マルクは、一瞬だけ躊躇した。
「こちらの学院ではなく、王家へ先に直接話を通しているようです」
その瞬間、生徒会室の空気が変わった。
学院行事ではない。
王家が絡んだ。
つまり、断りづらい形を先に作られている。
セレスティアは書類筒を受け取り、中身を広げた。
文面に目を通す。
その表情は変わらない。
けれど、指先だけが、最後の署名の上で止まった。
「聖環王国オルディス……ずいぶん手順が整っているわね」
それは褒め言葉ではなかった。
シオンが静かに問う。
「会長。どう見ますか」
「こちらの準備が整う前に、何かを見たいのでしょう」
「何を?」
セレスティアは答えなかった。
代わりに、机の上の肖像記録紙へ視線を戻した。
エルネ・フィル。
未分類。
魔導書型補助具。
「仕方ないわね」
そして、穏やかに告げた。
「エルネ・フィルさんを、対抗戦学内選抜の参加候補に加えましょう」
「会長」
シオンが、初めてはっきりと表情を変えた。
「本気ですか?」
「もちろん」
「彼女は一年生です。正式な実戦評価も未分類。生徒会管理下に置く承認を、今まさに取ろうとしていたところです」
「だからよ」
セレスティアは資料を閉じた。
「管理するだけでは足りないわ。実証しなさい」
リシアの眉がわずかに動いた。
「実証……」
「未分類の術式は、机の上では分類できない」
セレスティアは言った。
「戦えるか。止まれるか。制御できるか。そもそも代表に選ばれるかどうかは、彼女次第よ」
シオンは黙っていた。
セレスティアは続ける。
「向こうが何かを見たいのなら、見せる場所はこちらで決めます」
資料が閉じられる。
「こちらの記録の上で。こちらの規則の中で。こちらの結界の内側で」
静かな声だった。
だからこそ、誰も軽く聞き流せなかった。
「エルネ・フィルさんを、対抗戦学内選抜の参加候補に加えます」
セレスティアはにっこり微笑んだ。
「これは、生徒会長としての正式決定です」




