第百十一話 始祖の使命
聖地アルブレヒトの地下深く。
石壁に囲まれた会議室には、十三ある席のうち九つだけが埋まっていた。
上座に座るのは、第一堰《勅命》ゼノン・アークライト。
六十を越えた長身の男は、古びた黒衣に包んだ大きな身体を真っ直ぐ起こしている。短く刈った鉄灰色の髪と、片眉の上を走る古傷。年齢を感じさせながらも、その姿勢には衰えより軍人じみた硬さがあった。
その右手側では、第二堰《開かずの門》アーデル・ケインが、手袋をした細い指を組んでいる。
青白い顔。灰白色の長髪を後ろで束ねた、痩せた男だ。
向かいにはヴァレル。
気怠そうに椅子へ身を預けるミレナ。
そして第五堰《眠らぬ夢》ネロ・ファルネーゼ。
二十代前半ほどに見える若い男だった。
白銀の髪を肩まで伸ばし、目の下には薄い隈がある。今にも眠ってしまいそうな顔をしているのに、そこから覗く目だけは妙に冴えていた。
その隣には、酒瓶を卓上へ置いたバルド。
片眼鏡の奥から薄い笑みを浮かべるオスカー。
大きな帽子をかぶった小柄なポーラ。
そして、生成りの袖についた絵具の染みを気にも留めず、長い指を眺めているアルトゥール。
フェリクス。
ガラム。
モルガナ。
クロード。
四人の席は空いている。
ゆえに、これは本来の意味での評議会ではない。
それでも今ここにいる者たちだけで、整理しなければならないことがあった。
「世界には、“魔王”と呼ばれる存在の伝承がいくつも残っている」
ゼノンの低い声が石室へ響いた。
「記述は曖昧だ。まともな文献として残っているものは少なく、口伝によるものがほとんど。土地によって名も、姿も、語られ方も違う」
「一年前なら、昔話で終わっていたでしょうね」
アーデルが静かに言った。
「ですが、北方で一つ、無視できない例が出た」
卓上には、各地から集められた報告書が積まれている。
十三堰が世界各地へ散らされてから一年。
それぞれが聖地へ戻るまでの間にも、世界では様々な異変が起きていた。
「北方」
ゼノンが言う。
「古くから《白杖様》《水守り》《海の魔王》などと呼ばれていた存在が現れた」
「少なくとも、伝承と一致する何かが、ね」
ミレナが口を挟んだ。
「本人がそう名乗ったわけじゃないもの」
「だが実在した」
「そこは否定しないわ」
巨大な海獣。
白い杖を持った老人。
海そのものを動かすような力。
そして北方へ残された甚大な被害。
その場を実際に見たミレナだけは、他の者より詳しく知っている。
「だから、他の伝承も洗い直した」
ゼノンが続ける。
「東方では?」
アーデルが一枚の紙を取った。
「魔大陸周辺の古い記録を調べた結果、一部地域で、伝説上の魔獣を《天の魔王》と呼んでいることが分かりました」
「伝説の魔獣?」
ポーラが帽子のつばを持ち上げる。
「はい。空を渡るとも、獣を従えるとも伝わる。地域によって話はかなり違いますが、呼称だけは一致しているものがあります」
「今、東で増えてる魔獣と関係あるの?」
「そこまでは分かっていません」
アーデルは首を振った。
「現在の魔獣の異常行動と結びつける証拠はない。伝承を調べ直した結果、見つかったというだけです」
「それでいい」
ゼノンが言う。
「北方の例がある以上、存在しないと切り捨てる理由はなくなった」
「南方は少し事情が違いますね」
オスカーが片眼鏡に触れた。
口元にはいつもの薄い笑みがある。
「太陽を信仰する地域を中心に、妙な噂が増えています」
「妙?」
バルドが酒瓶を傾ける。
「強大な力で人々を救う、神のような存在がいる、と」
ポーラが首を傾げた。
「神様?」
「少なくとも、現地ではそう扱われているようです」
オスカーが続ける。
「魔獣の群れを防いだ。集落を守った。巨大な結界を作った。そういった話が複数あります」
「それで南に人が集まってるのね」
ミレナが言った。
「ええ。難民だけでなく、安全を求めて移住する者も増えているそうです」
「魔王との関係は?」
ゼノンの問いに、オスカーは肩をすくめた。
「今のところ、何も」
「呼び名すらないのか」
「少なくとも、こちらで確認できた範囲では」
バルドが鼻を鳴らした。
「人を救ってるなら、魔王らしくはないな」
「海の魔王も、自分を魔王だとは名乗っていないでしょう」
アーデルが返す。
「我々が伝承上の呼び名と実在する何かを結びつけているだけです」
「だったら、そもそも“魔王”って何なのよ」
ポーラが言った。
誰もすぐには答えなかった。
「中央は?」
ゼノンが話を進める。
「相変わらずです」
アーデルが別の報告書へ目を落とす。
「地震が続いています。ただし、魔王に繋がるような情報はありません」
「何も?」
「現時点では」
アーデルは紙を一枚めくった。
「今は山岳信仰を中心に調べさせています。山そのものを神聖視する土地、地の底に何かが眠るという伝承。その辺りを洗っているところです」
バルドが顎髭を撫でる。
「そういう古い記録を掘るのは、歴史学者のフェリクスの領分だろ」
「ああ」
ゼノンが空席へ目を向けた。
「本来ならな」
「本人がいませんから」
アーデルは淡々と返した。
「他の者で代わりを務めていますが、時間はかかるでしょう」
「今分かってるのは」
ポーラが指を折っていく。
「北には伝承と一致するものが本当にいた。東には《天の魔王》って呼ばれてる伝説の魔獣がいる。南には人を助けるすごい何かがいる。中央はまだ地震だけ」
「そういうことだ」
ゼノンが頷いた。
「それと、もう一つ」
ヴァレルが口を開いた。
淡い琥珀色の目が、卓上の資料から離れる。
「《猟犬》」
室内の空気が少しだけ変わった。
「この一年で動きが増えている」
「信者が動き始めた頃から、露骨にね」
ミレナが続ける。
始祖復活の噂。
それを聞きつけ、世界各地から聖地を目指す信者。
その動きが活発になるのと前後して、《猟犬》による襲撃も増えていた。
「狙われているのは、今まで通り教団関係者です」
アーデルが言う。
「末端だけではありません」
「俺のところにも来たぞ」
バルドが酒瓶を掲げた。
「三人だったか。面倒だから追い払ったが」
「私も一度」
ポーラが手を上げる。
「逃げられちゃったけど」
「十三堰まで狙い始めた」
ゼノンの声が低くなる。
「こちらの動きをかなり把握している」
「だが、本拠も人数も分からない」
ヴァレルが言う。
「襲撃ごとに顔ぶれも違う。捕らえても口を割らない」
「根本的な対策はできてないってことね」
ミレナが言った。
「ああ」
ゼノンは短く答えた。
「信者の護衛を増やしても、全ては守れん。十三堰を囮にするわけにもいかん」
「目的も相変わらず不明です」
アーデルが補足する。
「分かっているのは、教団を狙っているということだけです」
「南方での活動が多いんでしょう?」
ポーラが尋ねる。
「多い。だが、先ほどの神のような存在と結びつける材料はない」
「じゃあ、そこもまだ別件か」
「今のところはな」
ゼノンが答えた。
そこで一度、全員を見回す。
「だが、奴らが始祖に関係する者を狙っているのなら、話は変わる」
ミレナがゼノンを見る。
「エルネ?」
「その可能性は考えておくべきだ」
ゼノンは否定しなかった。
「《猟犬》が我々を狙う理由が始祖にあるのなら、あの娘も標的になり得る」
「まあ、そうなるわね」
ミレナが椅子へ深く座り直した。
「そのエルネ・フィルというのは」
それまで黙っていたネロが、不意に口を開いた。
眠そうな声だった。
だが視線だけは、ミレナへ真っ直ぐ向いている。
「どんな人なの?」
ミレナが瞬きをした。
「どんなって?」
「僕は会ったことがない」
ネロは当然のように言った。
「報告は読んだよ。リュゼリアの魔法学院の生徒で、《万象解体書》を持っていて、始祖の術を使った。それくらい」
片手で頬杖をつく。
「でも、みんなさっきから始祖だとか器だとか言ってるでしょう」
「そうね」
「本人は?」
ネロが尋ねた。
「自分を始祖だと思ってるの?」
「いいえ」
ミレナは即答した。
「むしろ、そう扱われるのを嫌がってたわ」
「じゃあ普通の子?」
「普通かと言われると……」
ミレナは少し考えた。
「リュゼリアの魔法学院に通ってる学生よ。頑固で、無茶をするところはあるけど。少なくとも、自分が誰かの生まれ変わりだって偉そうに振る舞うような子じゃない」
「なるほど」
ネロは小さく頷く。
「それなら、始祖本人かどうかは慎重に考えた方がよさそうだね」
また眠そうに目を細めた。
「力と人は、同じとは限らないから」
ゼノンは何も言わなかった。
「ここまでが、この一年で集まった情報だ」
やがてゼノンが卓上の資料へ目を落とした。
北方で実在した伝承。
東方で見つかった《天の魔王》の名。
南方で人々を救うという正体不明の存在。
中央大陸で続く地震。
そして活発化する《猟犬》。
「始祖は晩年、ある存在を追っていた」
ゼノンが話を戻した。
「記録に残る言葉は一つ。“世界を陰から脅かすもの”」
誰も口を挟まない。
「始祖はそれと戦い、敗れた。その時の傷が原因となり、このアルブレヒトで亡くなった」
「その相手が魔王だったと?」
アルトゥールが初めて顔を上げた。
無造作に伸びた淡い金髪の隙間から、ゼノンを見る。
「分からん」
ゼノンは即答した。
「記録はない」
「なら」
「だが、北方の例が出た」
ゼノンは遮る。
「我々が昔話だと思っていたものの中に、実在するものがあった」
アルトゥールは黙る。
「始祖が追っていた存在も、その類だったと考える余地はある」
「可能性、ね」
ミレナが小さく言った。
「ああ」
ゼノンは頷く。
「始祖は生涯、多くの者を救った。国を助け、魔獣を討ち、争いを収めた。そして最後には、“世界を陰から脅かすもの”を追った」
酒瓶を持っていたバルドの手が止まる。
「もし、その存在が今我々が調べている魔王と同種のものだったなら」
ゼノンはゆっくりと言葉を続けた。
「始祖は、人々を守るために魔王と戦ったのではないか」
ミレナが僅かに目を細める。
「ずいぶん大きな仮説ね」
「仮説だ」
「分かってるわ」
「だが、考える価値はある」
ゼノンは周囲を見る。
「始祖は、自らが再びこの世界へ戻ると言い残している」
誰もが知る言葉だった。
我が身は朽ちようとも、我は再びこの世界に生まれる。
我が魂は、新たなる器を得て帰還する。
「そして今、《万象解体書》が目覚めた」
エルネ・フィル。
あの少女を思い浮かべる者もいれば、ネロのように報告書の中の人物しか知らない者もいる。
「始祖以外に扱えなかったはずの術を、あの娘は行使した。そして、あの場にいた十三堰十名のレリックが、持ち主の意思を離れて一斉に反応した」
「偶然にしては多い、か」
バルドが言った。
「ああ」
ゼノンは頷く。
「もし始祖が、この時代に帰還されたのであれば」
低い声がさらに重くなる。
「我々の役目は明白だ」
ポーラが帽子の下からゼノンを見る。
「我々が始祖をお助けし、必要ならば魔王を討つ」
ゼノンの目に迷いはなかった。
「始祖が果たせなかった使命を、今度こそ果たす。この世界を救う」
「……ちょっと待って」
ミレナだった。
「何だ」
「海の魔王が北方に被害を出したのは事実よ」
「だからこそ――」
「私はその魔王とエルネが戦ってるところを、目の前で見てたの」
ゼノンが口を閉じる。
ミレナは頬杖をついた。
「正直に言うけど、どっちも周りを守りながら戦ってたようには見えなかったわ」
「何が言いたい」
「始祖本人なら、人々を守ったのかもしれない」
気怠そうだった目が、少しだけ開く。
「でも、“あのエルネ”は違う」
ゼノンの眉が動いた。
「少なくとも、私はそういう印象を受けたってだけよ」
「始祖ではないと?」
「そこまでは言ってないでしょう」
ミレナは面倒そうに手を振った。
「始祖の力を持ってるのは認めるわ。あれだけ見せられたらね」
万象解体書が開き。
人間一人には到底扱えるはずのない魔力が溢れた。
そこに始祖との繋がりがないと言い張る方が無理がある。
「でも、“始祖の力を持っている”と、“あの子が始祖本人である”は別の話でしょう?」
「その点は同意します」
アーデルだった。
「器であること。始祖の力を継いでいること。始祖本人であること。それぞれ分けて考える必要がある」
「だが無関係ではあるまい」
ゼノンが言う。
「それも否定していません」
「何も関係ありません、はもう無理でしょ」
ポーラが肩をすくめる。
「あの場にいた十人のレリックが、みんな勝手に反応したんだもの」
「器である可能性は高い」
ヴァレルが言った。
「それ以上は分からん」
「珍しく無難ね」
「事実だけだ」
ミレナが小さく笑う。
オスカーはそのやり取りを眺めながら、片眼鏡を指で直した。
「我々の意見は、それほど離れていないのでは?」
視線が集まる。
「エルネ・フィルが始祖と深く関係している。それ自体を否定する者は、少なくともこの場にはほとんどいない」
「そうね」
オスカーは人差し指を立てた。
「彼女が始祖そのものなのか」
二本目。
「始祖を受け入れるための器なのか」
三本目。
「あるいは、何か別の形で力を受け継いだ存在なのか」
指を下ろす。
「問題は、そこでしょう」
アーデルがゆっくり息を吐いた。
「一年前であれば、私も判断を保留したでしょう」
「今は違うの?」
ポーラが尋ねる。
「材料が増えすぎました」
北方で実在した伝承。
各地で見つかった新たな情報。
始祖が残した言葉。
万象解体書。
十のレリックが示した反応。
そして、エルネ。
「何らかの繋がりがある。それ自体を疑う段階は、もう過ぎたと考えています」
ゼノンが小さく頷いた。
「ならば――」
「ああ、そうだ」
ミレナが声を上げた。
唐突な割り込みに、ゼノンが眉を寄せる。
「何だ」
「そのエルネなんだけど」
ミレナは気怠そうな調子のまま続けた。
「生きてるみたいよ」
大きな反応はなかった。
ただ、何人かの視線がミレナへ向く。
「確認できたのか」
ゼノンが聞く。
「本人を見たわけじゃないけどね」
「フェリクスと一緒か」
ヴァレルが続ける。
「らしいわ」
「そうか」
ゼノンは短く答えた。
生きている可能性自体は、誰も捨てていなかった。
海の魔王との戦いの後、フェリクスと共に消息を絶った。
死体もない。
死亡を示す確かな情報もなかった。
「ただし」
ミレナが続ける。
「一年間、意識は戻ってないみたい」
そこで少しだけ空気が変わった。
「一年?」
ポーラが聞き返す。
「ええ。命に別状はない。ただ、ずっと眠ったまま」
「原因は」
アーデルが問う。
「分からないって」
「万象解体書か」
ヴァレルが言う。
「可能性はあるでしょうね」
ネロが少しだけ身を乗り出した。
「その状態でも、始祖との繋がりは残ってるの?」
「そこまでは聞いてないわ」
「そっか」
ネロはまた椅子へ身体を預けた。
ゼノンは眉間へ皺を寄せる。
「それを誰から聞いた」
「今、外にいる女」
「外?」
「リーゼって名乗ってる。フェリクスの弟子だって」
「フェリクスに弟子などいたか?」
「私に聞かないでよ。本人がそう言ってるの」
「信用したのか」
「まさか」
ミレナは即答した。
「でも、無視もできないのよ」
「理由は?」
「フェリクスの懐中時計を持ってる」
今度こそ、全員の注意がミレナへ集まった。
オスカーの笑みが僅かに薄くなる。
「……本物ですか?」
「ええ」
「見間違いでは」
「一年以上、あいつと一緒にいたのよ。間違えるわけないでしょ」
アーデルが組んでいた指をほどいた。
「なぜ、その女がレリックを持っているのです」
「本人曰く、フェリクスが使えないから一時的に預かってるそうよ」
「使用は?」
「できるみたい」
ネロの眠そうな目が、またミレナへ向いた。
「……継承したの?」
「それもよく分からない」
「話が増えたな」
バルドが酒瓶を置く。
「他には」
ゼノンが促した。
「フェリクスはエルネのそばにいる。場所は言わなかった」
「それで、その女は何をしに来た」
ミレナは会議室の端へ目を向けた。
正確には、その向こう。
重い扉の外へ。
「オスカー」
「はい?」
「それとアルトゥール」
絵具のついた長い指が止まる。
「あなたたち二人を連れてきてほしいって」
「私たちを?」
オスカーが首を傾げる。
「エルネを目覚めさせるために必要なんだって」
アルトゥールは何も言わなかった。
ただ、伏せていた目を上げる。
「その女」
アーデルが言う。
「今どこに?」
「扉の外」
「外?」
「会議に入れてって言うから断ったの。正体も分からない女を、いきなりここへ入れられるわけないでしょう」
バルドが喉の奥で笑った。
「そこはまともだな」
「どういう意味よ」
「そのままの意味だ」
ミレナが睨む。
だがゼノンはそのやり取りに構わなかった。
「フェリクスのレリックを使える女が、エルネ・フィルの状態を知っている」
「あの言い方ならね」
「そして、オスカーとアルトゥールを求めている」
「そう」
ゼノンは数秒黙った。
やがて。
「通せ」
ミレナが眉を上げる。
「いいの?」
「ここで帰す方が危険だ」
オスカーが薄い笑みを取り戻す。
「私も同意します」
アーデルも異論を挟まなかった。
ミレナは椅子から立ち上がる。
「分かったわ」
重い扉へ向かう。
◇
扉が開いた。
長椅子に座っていたリーゼが顔を上げる。
「リーゼ」
「はい」
「入って」
ロゴスは一度だけ、床へ視線を落とした。
聖地を満たす魔力への干渉。
観測はまだ続いている。
「承知しました」
立ち上がる。
ミレナの横を通り、開かれた扉の先へ。
九人の十三堰が待つ会議室へ、リーゼは一人で足を踏み入れた。




