第百十二話 聖地の理
重い扉をくぐったリーゼへ、九人分の視線が集まった。
ミレナに案内されてきた時とは、明らかに空気が違う。
その中心を歩きながらも、リーゼは足を止めなかった。
室内を一度見渡し、ミレナに示された位置で立ち止まる。
「お待たせしました」
「待たせたのはこちらだ」
ゼノンが正面からリーゼを見る。
「リーゼ、と言ったな」
「はい」
「フェリクスの弟子だと聞いた」
「そう名乗っています」
アーデルが僅かに眉を動かした。
「名乗っている?」
「何か?」
「いや」
ゼノンが先を続ける。
「まず確認する。エルネ・フィルは生きているのだな」
「はい」
「状態は」
「生命活動は安定しています。ただ、意識は戻っていません」
「一年間ずっと?」
「ええ」
「原因は分かっているのか」
「完全には」
リーゼはそこで一度言葉を選んだ。
「肉体そのものに、目立った損傷はありません。魔力も枯渇しているわけではない。ただ、肉体と魔力回路、それに精神活動が、深い休止状態へ移行しているように見えます」
「治療は?」
アーデルが問う。
「考えられる方法は一通り試しました」
「それでも起きない」
「はい」
オスカーが片眼鏡に触れた。
「それで私たちですか」
リーゼが彼を見る。
「察しが早くて助かります」
「嬉しいような、嬉しくないような話ですね」
隣ではアルトゥールが黙ったままリーゼを見ている。
「フェリクス様から、お二人の能力について聞いています」
「どこまで?」
「必要な範囲だけです」
リーゼはオスカーを見る。
「偶然や確率という言葉では収まらない形で、結果そのものへ干渉できること」
次にアルトゥール。
「そして、描いたものを現実側へ反映させる力を持っていること」
アルトゥールの目が僅かに細くなる。
「通常の治療では、エルネは目覚めませんでした」
リーゼは続けた。
「ですから、通常とは異なる方向から状態を変えられる可能性を試したい。それが、お二人をお願いした理由です」
「簡単に言うな」
ゼノンが低く言った。
「簡単な話だとは思っていません」
「ならば、こちらの事情も分かるだろう」
リーゼは黙ってゼノンを見る。
「エルネ・フィルは、始祖と深く関わる可能性が高い」
「そう考えていることは、ミレナ様から伺っています」
「なら、居場所を明かせ」
室内が静まった。
「我々も確認する必要がある」
「お断りします」
返答は早かった。
ゼノンの眉が僅かに動く。
「理由を聞こう」
「彼女の安全のためです」
「我々が危害を加えると?」
「そうは言っていません」
リーゼは穏やかに返す。
「ただ、知る人間が増えれば、それだけ情報が漏れる可能性も増えます。《猟犬》がエルネを狙う可能性まで考えているのでしょう?」
誰も否定しなかった。
「でしたら、なおさらです」
「我々を信用できないと」
「信用の問題ではありません」
リーゼは少しだけ首を傾げた。
「今、所在地をお伝えする必要がないということです」
「随分と勝手だな」
バルドが酒瓶を卓へ置く。
「二人だけ連れて行く。場所は教えない。終わったら返す。そういう話か?」
「ええ。大きくは違いません」
「大きくは、ねえ」
ポーラが苦笑した。
ゼノンは笑わない。
「認められん」
「そうですか」
「少なくとも、十三堰から一人は同行させる」
「それもお断りします」
「なぜだ」
「彼女の安全を損なう可能性がある条件は、受け入れられません」
「お前がそこまで言う理由は何だ」
ヴァレルの声だった。
短い問い。
「お前は何者だ」
リーゼはヴァレルを見る。
「今、それを説明する必要がありますか?」
「ある」
「私の素性を知れば、エルネを目覚めさせられるのでしょうか」
「そういう話ではない」
「でしたら、今それを優先する理由はありません」
ミレナが額へ手を当てた。
「……やっぱり、この女めんどくさいわ」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「褒めてない」
ネロだけが少し楽しそうに眺めていた。
ゼノンはしばらくリーゼを見たあと、低く息を吐いた。
「……なら、同行者は諦めよう」
リーゼの目が僅かに動く。
「その代わり、一つ条件がある」
「伺います」
「エルネ・フィルが目を覚ましたら、ここへ連れて来い」
リーゼはすぐには答えなかった。
「始祖とどのような関係にあるのか。我々にも確かめる必要がある」
「それはお約束できません」
ゼノンの眉が動く。
「なぜだ」
リーゼは静かに答えた。
「エルネ・フィルの意思が最優先です」
「……本人が拒めば、連れて来ないと?」
「はい」
「我々が始祖について知るために必要だとしてもか」
「それでもです」
短い沈黙が落ちる。
「彼女が目を覚ました後、事情は説明します。ここへ来るかどうかは、その上でエルネ自身が決めます」
「認められんな」
「でしたら」
リーゼは小さく息をついた。
「平行線ですね」
ゼノンが目を細める。
「そのようだ」
「残念ですが、このままではお話が進みません」
リーゼの声音は変わらない。
「不本意ですが、必要であれば実力行使も考えます」
室内の空気が張りつめた。
ヴァレルの手が腰の短剣へ近づく。
バルドが酒瓶から手を離した。
ポーラの帽子のつばが僅かに揺れる。
「……本気で言っているのか」
ゼノンの声が低くなる。
「ええ」
「九人を相手に?」
リーゼはわずかに微笑んだ。
「少なくとも、人数だけで諦めるつもりはありません」
「お前の師匠は、何も教えてくれなかったようだな」
ゼノンは立ち上がらない。
その必要すらないと言わんばかりだった。
「ここでは魔力は――」
言葉が止まった。
リーゼの右手。
その周囲で、空気が揺れた。
淡い光が指先へ絡みつく。
それはすぐに流れとなり、掌から手首へと回り始めた。
風。
小さな風の渦が、リーゼの右手を包んでいる。
「なに……?」
バルドが声を漏らした。
風は消えない。
揺らぎもしない。
本来なら形を作る前に崩されるはずの魔力が、術として完全に成立していた。
アーデルが勢いよく顔を上げる。
「待て」
リーゼは自分の右手を一度見下ろした。
指を開く。
風がそれに合わせて形を変えた。
閉じれば、再び掌へ集まる。
それからゼノンへ視線を戻した。
「ここでは魔力が、どうなるのでしたか?」
誰も答えない。
「……あり得ん」
アーデルが立ち上がった。
他の者とは明らかに反応が違う。
リーゼの手を凝視している。
「どうやった」
「少し調べました」
「少し?」
「ここへ来てから、時間はありましたから」
ミレナの顔が引きつる。
「まさか……外で待ってた時?」
「ええ」
「座ってただけじゃなかったの」
「待ってはいましたよ」
「そういう意味じゃないわよ」
リーゼは小さく笑った。
アーデルはそれどころではない。
「力で押し通しているわけではない……」
「はい」
「阻害そのものが消えているわけでもない」
「その通りです」
「経路そのものを……組み替えているのか」
リーゼの表情が僅かに変わった。
そこまで見抜かれるとは思っていなかったのか、アーデルへ向ける視線に少しだけ興味が混じる。
「ええ。近いです」
「どうやった」
「この場所では、魔力そのものが消されるわけではありません」
右手を覆う風がゆっくり回る。
「術式を成立させるための経路が、途中で崩されています」
アーデルの目が細くなる。
「最初は私も同じように失敗しました」
リーゼは指先を動かした。
風の一部が細く伸びる。
「ですから、どこで崩れるのかを調べました。経路を変え、形を変え、流す量を変える。崩れ方が変われば、その違いを記録する」
「それを繰り返したのか?」
「ええ」
「この短時間で?」
「観測するには十分でした」
アーデルが黙る。
「阻害を避けているのか」
「いいえ」
リーゼは首を横に振った。
「避けているわけではありません」
「では、なぜ維持できる」
「崩されることを前提に、経路を組み直しています」
「……何?」
「一つが崩れるなら、その先を別の経路へ繋げる。そこも崩れるなら、さらに次へ」
リーゼは掌の風を眺める。
「この場所の干渉そのものを、術式を組む条件へ加えました」
アーデルは返事をしなかった。
彼には分かる。
言葉にすれば簡単だ。
だが、そんなことができるなら。
聖地アルブレヒトを守ってきたこの現象は、とっくに誰かが破っている。
何百年もの間。
誰にもできなかったからこそ、今もここは聖地として残っている。
「……フェリクスが教えたのか?」
ゼノンが問う。
「いいえ」
リーゼは即答した。
「これは私自身で調べました」
「お前は一体――」
「そのお話は、また後ほど」
風が消えた。
右手には何も残っていない。
リーゼは服の袖を軽く整える。
「少なくとも」
九人を見回した。
「この場所で私が何もできない、という前提は改めていただけたかと思います」
誰も否定しない。
ただし。
警戒が解けたわけでもなかった。
むしろ先ほどまでより、遥かに強くなっている。
それに気づいていないはずもないのに、リーゼは表情を変えなかった。
オスカーへ。
そしてアルトゥールへ視線を移す。
「改めてお願いします」
穏やかな声だった。
「エルネを目覚めさせるため、お二人の力をお貸しいただけませんか?」




