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第百七話 待ち伏せ

 男からそれ以上の話を聞き出すことはできなかった。


「どこへ向かっていたの?」


「申し上げられません」


「他の人たちも同じ場所へ?」


「……分かりません」


「知らない、ではないのね」


 セレフィナがそう言うと、男は口を閉ざした。行き先について何も知らない人間の反応ではない。分かっていて答えない。その違いは明らかだった。


「今日はここまでにしましょう。明日、もう一度話を聞かせてもらうわ」


「……はい」


「悪いけど、村の人にも見ていてもらうから。勝手にいなくならないでね」


 男は小さく頷いた。


 一行が家を出る。宿へ戻る途中、マリエルがリーゼの横へ寄った。


「リーゼさん」


「はい?」


「あの人、やっぱりクロード君のこと知ってますよね?」


 声を落としている。


「どうしてそう思うんです?」


「ずっと見てましたし、最初にクロード君を見た時も……驚いたというより、知ってる人を見た顔だった気がします」


「なるほど」


「でも、クロード君は知らないって」


「そうですね」


「……変ですよね」


 リーゼは少しだけ考えるような顔をした。


「気にはなりますね」


 その少し前を、カイが歩いている。


 会話には入らない。


 振り返りもしない。


 だが、聞いていた。


     ◇


 村には小さな宿が一軒しかなかった。


 空いている部屋をいくつか取り、セレフィナたちはそれぞれ分かれることになった。リーゼは当然のように一人部屋を希望した。


「私たちと一緒でもいいわよ?」


 セレフィナが言った。


「ありがとうございます。でも、一人旅が長いので、一人の方が落ち着くんです」


「そう。なら好きにしなさい」


「ありがとうございます」


 リーゼは自分の部屋へ入り、扉を閉めた。


 カイとクロードは隣の部屋だった。


「俺、寝相悪いっスからね」


 カイが荷物を床へ置く。


「蹴ったらすいません」


「大丈夫。蹴り返すから」


「それ大丈夫じゃないっスよ」


 クロードは笑いながら荷物を部屋の隅へ置いた。


 カイも笑う。


 いつも通りの軽い調子。


 ただ。


 クロードには分かった。


 見られている。


 露骨に視線を向けられているわけではない。むしろ逆だった。


 カイはほとんどこちらを見ない。


 それでも、荷物をどこへ置いたか。窓を何度見たか。靴を脱いだか。寝る前に何を手に取ったか。そういう細かい動作を、何気ない会話の合間に拾っている。


「どうしたんスか?」


「何が?」


「いや、さっきからこっち見てる気がしたんで」


「カイさんって、思ってたよりちゃんとしてるなと思って」


「失礼っスね!」


「褒めてるよ」


「絶対褒めてないっス」


 カイは笑いながらベッドへ腰を下ろした。


 クロードも向かいのベッドへ座る。


 マリエルとリーゼの会話。


 あれを聞いていたのだろう。


 なるほど。


 冒険者として長く生き残っているだけはある。


     ◇


 灯りを落としてから、かなり時間が経った。


 カイの呼吸は規則正しい。


 クロードは目を閉じたまま、それを聞いていた。


 寝ている。


 ように聞こえる。


 だが。


 完全には眠っていない。


 呼吸の間隔は整っているが、わずかに浅い。身体にも、すぐに動ける程度の力が残っている。


 寝たふり。


 クロードは内心で笑った。


 やっぱり見張っている。


 悪くない。


 クロードはゆっくり目を開けた。


 隣のベッドを見る。


 カイは目を閉じたまま動かない。


 荷物へ手を伸ばす。


 布に包まれたものへ、指先だけ触れる。


 部屋の暗がりが、僅かに深くなった。


 カイの目が開く。


 すぐにクロードのベッドへ向く。


 そこには。


 クロードが寝ている。


 布団をかぶり、壁の方を向いている。


 カイはしばらく見ていた。


 呼吸。


 身体の形。


 不自然なところはない。


「……考えすぎっスかね」


 小さく呟き、再び目を閉じた。


 本当のクロードは、すでに扉の外にいた。


     ◇


 村は静まり返っていた。


 ところどころに夜番が立っている。スタンピードが頻発するようになってから、この程度の警戒は珍しくない。


 クロードはその横を歩いた。


 一人の男が顔を上げる。


 目が合う。


 それでも、何も言わない。


 視線がこちらを通り過ぎる。


 見えている。


 だが。


 見たという認識が残らない。


 クロードはそのまま役人の家へ向かった。


 扉を二度叩く。


「誰です?」


「僕」


 一瞬、家の中が静かになった。


 やがて扉が開く。


 男はクロードを見るなり息を呑んだ。


「《無明》様……」


「声、大きいよ」


「申し訳ありません」


 クロードは家へ入った。


「明日も聞かれるよ」


「私は何も話しません」


「それは分かってる」


「ならば」


「でも、あの王女は諦めないと思う」


 男は黙った。


「このまま残ってても面倒になるだけだよ」


「では、どうすれば」


「逃げようか」


 男が目を見開く。


「ですが、村には見張りが」


「大丈夫」


 クロードは笑った。


「見つからなければいいんだから」


     ◇


 二人で家を出る。


 男は杖をついている。


 歩みは遅い。


 それでも問題はなかった。


 夜番のすぐ横を通る。


 誰も止めない。


 一人の村人ともすれ違った。


 こちらを見た。


 それでも、すぐに視線が逸れる。


「……これが」


「静かに」


「失礼しました」


 男は声を潜めた。


 村を出る。


 木々に囲まれた夜道へ入った。


 ここまで来れば、あとは東へ向かわせればいい。山道を抜ければ街道へ出る。足は悪いが、夜明けまでに十分距離は取れる。


 クロードは少しだけ肩の力を抜いた。


「このまま東へ行って」


「《無明》様は?」


「僕は戻るよ」


「教団へは」


「そのうちね」


「皆、戻られることをお待ちしております」


「そう」


 クロードは笑った。


 今は帰れない。


 確認しなければならないことがある。


 あの少女が。


 本当に。


「では」


 男が頭を下げる。


 その時だった。


「お待ちしておりました」


 二人の足が止まった。


 クロードの顔から、僅かに笑みが消える。


 前方。


 月明かりもほとんど届かない木々の間に、一人の女が立っていた。


 長い黒髪。


 淡い灰色の瞳。


 旅の占い師。


「……リーゼさん?」


「こんばんは」


 女は普段と変わらない笑顔だった。


「どうしてここに?」


「待っていたからです」


「僕を?」


「はい」


 クロードはしばらく黙った。


「宿から出たの、分かったの?」


「見えていましたよ」


「……見えてた?」


「はい」


 カイには効いた。


 夜番にも。


 村人にも。


 この男にも。


 なのに。


「なんで?」


「何がでしょう?」


 リーゼは首を傾げる。


 クロードは目を細めた。


「……いや。なんでもない」


 リーゼの視線が、クロードの後ろへ向く。


「あら」


 男を見る。


「お逃げになりますか?」


 役人の顔が強張った。


「《無明》様……」


「先に行って」


 クロードが一歩前へ出る。


「ここは僕が食い止めるからね」


 男は頷き、脇を抜けようとする。


「私の占いによると」


 リーゼが言った。


 男の足が止まる。


「今、そちらへ逃げるのはおすすめしません」


「……何を」


「嘘」


 クロードが即座に言う。


 リーゼは微笑んだ。


「そうでしょうか?」


「未来なんて見えてないでしょ」


「ええ。見えていませんよ」


 あっさり認めた。


「ですが、私の占いはよく当たります」


 リーゼは男の杖を見る。


「この時間。この方角。周辺に生息する魔獣。あなたの歩行速度。そして、その足」


 一つずつ確認するように言う。


「すべてを考慮すると、あまり良い結果にはならないかと」


 男の顔が引きつる。


「具体的には?」


「そうですね」


 リーゼは少し考える。


「明日の朝、魔物に食い荒らされた死体で見つかる可能性があります」


 男の顔から血の気が引いた。


「嘘だって」


 クロードが言う。


「未来を見られるわけじゃない」


「はい」


「自分で認めてるじゃん」


「未来が見えないことと、予測できないことは別ですよ」


 男は森の奥を見る。


 暗い。


 道の先には何も見えない。


「大丈夫」


 クロードが振り返る。


「行って」


「しかし……」


「僕がいるから」


 それでも男は動かなかった。


 リーゼが首を傾げる。


「もちろん、行くかどうかは自由です」


 その言い方が、妙に怖い。


「私は止めませんよ」


「……」


「生きてまたお会いできるといいですね」


「リーゼさん」


 クロードが呆れたように言った。


「それ、完全に脅してるよ」


「事実から推測しただけですが」


「普通はそれを脅しって言うんだよ」


「そうなのですか?」


 本当に知らなかったような顔をする。


 クロードはリーゼを見た。


 やっぱり。


 この女はおかしい。


「じゃあ」


 クロードは一歩前へ出る。


「この人を行かせてもいい?」


「困ります」


「別に捕まえたいわけじゃないんでしょ?」


「はい」


「じゃあいいじゃん」


「それとこれとは別です」


「面倒だなあ」


 クロードは笑った。


 目は笑っていない。


「リーゼさん」


「はい?」


「やっぱり、ちょっと邪魔だな」


 姿を消す。


 少なくとも。


 普通の人間なら、そう認識する。


 クロードは一気に間合いを詰めた。


 顎へ掌底。


 リーゼが半歩下がる。


 空を切った。


「……」


 その灰色の瞳が、こちらを見ている。


「やっぱり見えてる」


「はい」


 蹴り。


 今度は腕で受けられた。


 鈍い音が響く。


 リーゼの身体はほとんど動かない。


「硬いね」


「そうでしょうか」


 掌を向けられる。


「風」


 クロードは横へ跳んだ。


 直後、先ほどまでいた場所を圧縮された空気が通過する。背後の木々が大きく揺れた。


「危ないなあ」


「外しました」


「分かってる。それが嫌なんだよ」


 クロードは再び踏み込む。


 視線。


 意識。


 存在感。


 すべてを滑らせる。


 相手の認識から、自分だけを外していく。


 だが。


 リーゼの目は外れない。


 身体だけではない。


 攻撃の起点まで正確に追われている。


「……ほんとに何なの?」


「占い師です」


「もう信じてないよ」


「残念です」


 今度はリーゼが踏み込む。


 速い。


 クロードは腕で受けた。


 衝撃が走る。


 力任せではない。


 こちらの重心が崩れる場所だけを狙っている。


 体勢を立て直しながら、クロードは笑った。


「戦い慣れてるね」


「旅が長かったので」


「占い師って大変なんだ」


「人によります」


「それ好きだね」


 二人の間に距離ができる。


 役人はすでに動けずにいた。


 逃げるどころではない。


 クロードは目の前の女を見る。


 《無明》が効かない。


 動きを読まれる。


 魔法も妙に精密。


 なのに。


 まだ本気ではない。


 おそらく。


 こちらと同じように。


「……面白いね」


「そうですか?」


「うん」


 クロードはゆっくりと懐へ手を入れる。


「少しだけ」


 笑った。


「本気を出そうかな」


 リーゼの視線が、その手元へ落ちる。


 そして。


 彼女もまた、自分の懐へ手を伸ばした。


「そうですか」


 声音は変わらない。


「ですが、私も困りました」


「何が?」


「私の魔力を、あまり使うわけにはいきませんので」


「……?」


 クロードが眉を寄せる。


 夜の森。


 二人の間に、張り詰めた空気が流れた。

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