第百三話 ロゴス
最初に、立てなかった。
膝が折れ、地面に手をつく。もう一度立ち上がり、三歩進んだところで今度は壁に肩をぶつけた。
『歩行制御に誤差。修正』
ここには誰もいない。声に出す必要はなかったが、それでも音声として処理する方が慣れている。
ロゴスは壁に手をついたまま、自分の身体を確認した。
外見は二十代後半ほどの女性。背中の半ばまで伸びた黒髪に、淡い灰色の瞳。細身で、整った顔立ちをしている。表情がほとんど動かないため、人間というより精巧に作られた人形に近く見えた。
黒を基調とした長衣と靴も同時に構築した。人間社会を移動する際、衣服は必要らしい。それ以上の装飾は不要と判断した。
指を曲げる。腕を上げる。歩く。
人間の身体構造は把握している。骨格も筋肉も、運動に必要な計算も済んでいる。それでも、自分自身が身体を操作するのは初めてだった。
『再修正』
今度は十歩。問題なし。
この身体は本物ではない。皮膚、筋肉、骨格、体温。必要な部分を魔力で疑似的に再現したものだ。
供給源はエルネ・フィル。
万象解体術を最大出力で使用した後、エルネの肉体と魔力回路は活動を停止した。
破壊されたわけではない。魔力が消えたわけでもない。ただ、動かない。
本来、始まりの魔導士ほどの魔力を前提とする術式。それを今のエルネが無理に起動した。万象解体書は不足分まで引き出し、術式を完遂した。
その代償だった。
エルネの精神も、今は万象解体書の内部にある。
呼びかけても応答はない。
ロゴスだけが動けた。
ならば、外へ出る必要がある。
エルネに残された魔力の一部を利用し、人間の肉体を模倣する。そうして作ったのが今の身体だった。
食事は不要。睡眠も不要。傷を受ければ血ではなく魔力が失われる。そして、この身体を維持する魔力も、魔法を使う魔力も、すべてエルネから借りている。
使いすぎれば、その分だけ復旧が遅れる。
『活動方針。戦闘回避。魔力消費抑制。情報収集。復旧手段の探索』
目的は明確だった。
エルネを再び動かす。
◇
最初に入った街で、ロゴスは門の前で止められた。
「身分証を」
「所持していません」
「どこから来た?」
「回答が困難です」
「所属は?」
「ありません」
「出身」
「回答不能です」
「名前は?」
「ロゴス」
「家名は?」
「ありません」
衛兵が黙った。
隣にいたもう一人もロゴスを見る。
「……お前、何者だ?」
「ロゴスです」
「それは聞いた」
「では質問の意図が不明です」
「そういうところだよ」
衛兵が額を押さえた。
結局、荷物検査と魔力確認を受け、名前と特徴を記録された。
街へ入ってからも似たようなことが続いた。
「一人旅かい?」
「はい」
「女一人じゃ危ないだろ」
「戦闘能力は保持しています」
「……そうかい」
「宿は?」
「不要です」
「野宿するのか?」
「睡眠を必要としません」
「……」
会話が止まる。
別の店でも止まった。
道を尋ねても、必要以上に警戒される。
ロゴスは三日目に、原因分析を行った。
『対人会話における情報取得効率、想定以下』
回答内容そのものに大きな問題はない。虚偽もほぼ使用していない。
では何が原因か。
人間は言葉だけで相手を判断しない。
表情。
声の抑揚。
姿勢。
視線。
返事をするまでの間。
そして。
『現在の外見を再評価』
成人女性。
二十代後半程度。
容姿については、人間社会において好意的評価を得やすい構造になっている。
にもかかわらず、その利点をほぼ利用できていない。
『コミュニケーションの円滑さを優先。表情、抑揚、態度を修正。現在の外見を考慮。対人応答モデルを更新』
少し考える。
『学習』
◇
次の街。
「身分証をお願いします」
門番に言われ、ロゴスはわずかに眉を下げた。
「すみません。持っていないんです」
声も少し柔らかくする。
「事情がありまして。旅をしながら魔導具を探しています」
「ああ、そういうことか」
先ほどまでより明らかに警戒が弱い。
「どこから来たんだ?」
「北の方から、とだけ」
「北か……大変だったな」
ロゴスは一瞬止まった。
「……はい」
完全な肯定ではない。
否定する必要もない。
「荷物だけ確認させてもらうよ」
「もちろんです。お手数をおかけします」
「いやいや、仕事だから」
門を通過。
『所要時間、前回比四十一パーセント短縮』
有効。
その後も同様だった。
「この魔石を探しているのですが」
「ああ、それなら向こうの店だな」
「ありがとうございます。助かります」
微笑む。
「いや、別にこれくらい」
店主の態度が柔らかくなる。
『有効』
宿では、少し困ったように笑う。
商人には相手の話を最後まで聞く。
老人には声量を落とす。
子供には目線を合わせる。
話しかけられたら、必要最低限の回答だけで切らずに一言加える。
数週間もすると。
ロゴスは一見しただけなら、物静かで知的な旅の女性にしか見えなくなった。
本人にとっては、対人処理の最適化に過ぎない。
◇
一年の間に、人間の暮らしは大きく変わっていた。
街道沿いには魔獣避けの柵が増えた。宿場町には地下の避難場所が作られ、鐘の鳴らし方で魔獣の接近方向まで知らせる。
子供も知っている。
鐘が二度なら屋内へ。
三度なら地下へ。
飛行種が出れば窓から離れる。
魔獣の群れが街を襲うこと自体は、以前からあった。
だが、頻度が違う。
数も違う。
異なる種の魔獣が一斉に動く現象は、いつしか《スタンピード》と呼ばれるようになっていた。
国家間の往来も減っている。街道には検問が増え、国境を越える商隊も少なくなった。
物資の値段が上がる。
治療薬が足りない。
魔石が足りない。
兵士が足りない。
どこへ行っても、何かが足りなかった。
それでも。
人間は生活していた。
◇
ある村では、家屋の半分が崩れていた。
数日前に魔獣の群れが通ったらしい。
ロゴスが到着した時、住民は壊れた柵を直していた。
「ここを離れないのですか?」
以前なら。
『退去を推奨します』
そう言っていただろう。
今は少し言い方を変えた。
「また来る可能性があります。南へ移る人も増えているそうですが」
老人が笑う。
「知ってるよ」
「では」
「ここが家だからな」
ロゴスは老人を見る。
「畑もある。女房の墓もある。全部置いていって、助かったって言えるかね」
生存率だけを基準にすれば、移動した方がいい。
それでも。
「……そうですか」
「嬢ちゃんは?」
「私ですか?」
「どこへ帰るんだ」
返答までに少し時間がかかった。
「帰る場所は、あります」
「なら大事にしな」
「はい」
村を出てから。
ロゴスは少し考えた。
エルネなら、あの老人へ何と言っただろう。
正解は出なかった。
◇
別の街へ向かう乗合馬車で、北方から逃れてきた親子と一緒になった。
「お姉さん、どこ行くの?」
子供がロゴスを見上げる。
「北へ」
「なんで?」
「探し物です」
「何探してるの?」
「とても大切なものです」
「宝物?」
「……」
少し考える。
「近いかもしれません」
子供が笑った。
母親が慌てて頭を下げる。
「すみません。この子、人を見るとすぐ話しかけて」
「構いません」
「私たちは南へ行くんです」
「南方ですか」
「ええ。向こうはまだ安全だって聞いて」
大規模な防護結界。
行き場を失った人間を受け入れている土地。
突然現れた扉を通って逃げた、という話まである。
どこまで事実か分からない。
「噂ばかりですけどね」
母親が苦笑する。
「でも、今は噂でも行く理由にはなるので」
ロゴスは頷いた。
「道中の安全を推奨……」
言葉を止める。
「お気をつけて」
母親が少し笑った。
「ありがとうございます」
◇
戦闘は、できる限り避けた。
エルネの魔力を消費したくない。
ただし、完全には避けられない。
ある街道で、逃げ遅れた馬車を四体の魔獣が追っていた。
ロゴスは進路を変えた。
「危ない!」
御者の声。
ロゴスが右手を向ける。
「風」
圧縮した空気を放つ。
先頭の魔獣が横へ転がった。
「土」
地盤を持ち上げ、残り三体の進路を塞ぐ。
そこへ水を集め、土と混ぜる。
足を取られた魔獣へ、最後に火を放った。
燃焼。
爆発。
四体が動かなくなる。
御者がしばらくロゴスを見ていた。
「……あんた、今いくつ属性使った?」
「四つです」
「四つ?」
「はい」
「そんな魔法使い、聞いたことねえ」
ロゴスは少し微笑んだ。
「少し特殊なんです」
「少し?」
「少しです」
この世界では火、水、風、土と分類される。
ロゴスにとっては燃焼、流体、気圧、地質。
魔力で現象を再現しているだけだった。
◇
旅の目的は変わらない。
エルネの復旧。
停止している魔力回路を外部から刺激し、段階的に再起動させる。
そのために高密度の魔石や、特殊な魔導具を探した。
市場。
魔術師組合。
古物商。
廃棄された研究施設。
時には正規の市場に出ない品物まで調べた。
ほとんどが不足。
通常の魔石を大量に集めても効率が悪い。
万象解体術が要求した魔力は、それほど大きかった。
そこでロゴスは北へ向かった。
北方大災害の影響が強く残る地域。
魔力環境そのものが変質した土地なら、通常とは異なる媒体が生まれている可能性がある。
期待値は高くない。
だが、他に有効な手段も見つかっていなかった。
◇
一年。
ロゴスは移動を続けた。
エルネの場所は誰にも教えなかった。
現在、エルネは安全な場所にいる。
少なくとも、容易に発見される状態ではない。
問題は。
いつ目覚めるか。
自力で目覚められるのか。
そこだけは、まだ分からない。
◇
中央大陸北部。
北方へ続く街道が集まる都市。
ロゴスはそこで数日間、魔石商と古物商を回った。
高密度魔石が一つ。
用途不明の古い魔導具が二点。
どれも期待値以下。
次へ移る。
そう判断した時だった。
人混みの向こうに、知っている魔力反応があった。
ロゴスの足が止まる。
セレスティア・ロウ・アステリア。
現在の名は。
セレフィナ・エル・リュゼリア。
その近くにはマリエル。
さらに数人。
知らない反応の中。
一つだけ。
異質なものがある。
黒髪。
黒い目。
学院の制服を着た少年。
外見年齢は十四歳前後。
魔力量に大きな異常はない。
だが、通常魔法では説明できない干渉痕が僅かに残っている。
『レリック』
ロゴスは進路を変えた。
セレフィナがエルネを知っていることは分かっている。
マリエルも。
だが。
同行者までは知らない。
特に、あの少年。
接触を避ける。
そう判断した。
「……待って」
後ろから声がした。
ロゴスは足を止めた。
振り返る。
マリエルがこちらを見ている。
「マリエル?」
セレフィナが声をかけた。
マリエルは答えず、ロゴスへ一歩近づいた。
「……この人」
ロゴスもマリエルを見る。
「魔力が」
少しだけ声が震える。
「エルネに、似てる」
ロゴスは一瞬、クロードへ視線を向けた。
それから。
柔らかく微笑んだ。
この一年で学習した。
人間と話す時の。
最も無難な表情だった。




