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『もちりて時に、もちをもちる。』

 休日の昼下がり。


 冷泉家のリビングには、静かな空気が流れていた。


 窓から差し込む春の陽光が床に四角く落ち、白いカーテンを柔らかく透かしている。エアコンの送風音だけが小さく響き、どこか眠気を誘うような穏やかな時間だった。


 そんな空間の中心で。


 西園寺もち丸は、床に転がっていた。


 しかもかなりだらしない格好で。


 クッションを抱え込み、頬を床に押しつけ、足をぱたぱたと揺らしている。人類が長い進化の果てに獲得した知性というものを、全力で裏切る姿勢だった。


 一方。


 冷泉真白はソファに座り、タブレットで買い物リストを整理していた。


 白いシャツに黒のロングスカートという簡素な格好だが、それでも妙に絵になる。黒髪はいつも通り整っていて、背筋は真っ直ぐ。休日であっても空気に隙がない。


 その真白へ、床の生き物が声をかける。


「真白さん」


「なんですか」


 真白は視線を上げない。


 経験上、この返答速度が最適解だと知っているからだ。


 間を与えると、もち丸は勢いづく。


 しかし早く返しても勢いづく。


 つまり詰みである。


 もち丸はゆっくり顔を上げた。


 そして、妙に厳かな声音で言った。


「もちりて時に、もちをもちる。また楽しからずや」


 沈黙。


 真白の指が止まる。


 数秒、空気が静止した。


 冷蔵庫のモーター音だけがやけに大きく聞こえる。


「……はい?」


「もちりて時に、もちをもちる。また楽しからずや」


「復唱されても意味が分かりません」


「でしょうね」


 もち丸は満足そうに頷いた。


 なぜか誇らしげだった。


 真白はゆっくりタブレットを置く。


「説明を求めます」


「まず、論語ってあるじゃないですか」


「急に広い」


「“学びて時に之を習う、また説ばしからずや”って有名でしょう」


「有名ですね」


「僕、あれ好きなんですよ」


「初耳です」


「知的な感じがするから」


「中身が伴ってない人の発想ですね」


「厳しい」


 もち丸は起き上がった。


 そのままソファへ近寄り、テーブルに肘をつく。


「でも思ったんです」


「はあ」


「“学び”って、“餅”に似てるなって」


「全然違いますね」


「待ってください。ここから論理が繋がります」


「嫌な予感しかしません」


「まず、“学ぶ”という行為には反復があります」


「まあ、はい」


「人は繰り返すことで定着する」


「はい」


「そして餅もまた、人類が繰り返し求める食物なんです」


「雑」


「正月に餅」


「はい」


「鍋に餅」


「はい」


「小腹が空いたら餅」


「人によります」


「つまり人類は、定期的に餅を欲している」


「だいぶ強引ですね」


「そこで、“学び”を“餅”に置換する」


 もち丸は人差し指を立てた。


「すると、“もちりて時に、もちをもちる”になるわけです」


「説明を聞いた結果、さらに意味が分からなくなったんですが」


「つまり!」


 もち丸は勢いよく立ち上がる。


 無駄に演説家みたいな動きだった。


「“定期的に餅を食べるのって、なんか嬉しいよね”という、人類普遍の真理です!」


 真白は数秒沈黙した。


 それから静かに立ち上がる。


「真白さん?」


 真白は何も言わずキッチンへ向かった。


 冷凍庫を開く。


 もち丸が後ろをついていく。


「……お?」


 真白は冷凍の切り餅を取り出した。


 一キロ入りだった。


「責任を取ってください」


「えっ」


「そんなに餅について熱弁したんですから、当然食べたいんでしょう」


「いやまあ、食べたいか食べたくないかで言えば食べたいですけど」


「でしょうね」


「でもそんな、“思想の流れで餅が出てくる”とは思わなくて」


「思想?」


「餅思想」


「人類史から消えてください、その思想」


 真白は淡々と準備を始める。


 オーブントースターを開き、餅を並べる。


 もち丸はその横でそわそわしていた。


「真白さん」


「なんですか」


「もしかして優しい?」


「違います」


「でも餅を焼いてくれる」


「面倒になっただけです」


「ツンデレだ」


「違います」


「餅デレだ」


「意味が分からないです」


 真白はタイマーを回す。


 カチ、という小さな音。


 しばらくして、餅がじわじわ膨らみ始めた。


「おお……」


 もち丸の目が輝く。


 真白は横目でそれを見る。


「子供みたいですね」


「いやだって、餅ってすごくないですか?」


「どの辺がですか」


「最初、硬いじゃないですか」


「はい」


「でも熱を与えると膨らむ」


「はい」


「しかも伸びる」


「はい」


「つまり餅とは、“可能性”なんですよ」


「違います」


「外圧によって変化し、柔軟性を獲得し、他者と繋がる」


「餅に哲学を見出さないでください」


「しかも美味しい」


「最終的に食欲なんですね」


 ぷく、と餅が膨らむ。


 香ばしい匂いが広がった。


 もち丸はそわそわし始める。


「まだですか」


「まだです」


「真白さん」


「なんですか」


「僕、待つの苦手で」


「知ってます」


「人類はなぜ待たねばならないのでしょう」


「焼けてないからです」


「即物的」


「餅相手に抽象論を展開する方がおかしいんです」


 やがて真白は餅を取り出した。


 皿へ並べる。


 醤油。


 海苔。


 完璧な磯辺餅だった。


「おおおお……」


「うるさいです」


 もち丸はさっそく箸で持ち上げた。


 びよーん、と伸びる。


「うわぁ……」


「そんな感動します?」


「しますよ。見てくださいこの伸び」


「はい」


「生命って感じがする」


「餅です」


「この、“抗うような伸び”」


「餅です」


「人類の可能性」


「餅です」


 もち丸はもぐもぐ食べ始めた。


 幸せそうだった。


「……おいしい」


「そうですか」


「真白さん、天才」


「焼いただけです」


「でも焼き加減が絶妙」


「ありがとうございます」


「しかも美人」


「知ってます」


「自己肯定感が高い」


「事実確認です」


 もち丸は二個目に手を伸ばす。


「真白さんも食べましょう」


「では一つだけ」


「遠慮してる」


「普通の量です」


 真白は小さく餅を口に運ぶ。


 上品な食べ方だった。


 一方もち丸は、ほっぺを膨らませながら幸せそうにもぐもぐしている。


「……」


 真白はその姿を見る。


「なんですか」


「いえ」


「顔に餅ついてます?」


「少し」


「えっ」


 もち丸が慌てて頬を触る。


 しかし違う場所ばかり触っていた。


 真白は小さく息を吐く。


「じっとしてください」


「はい」


 真白は指を伸ばし、もち丸の口元についた海苔を取った。


 一瞬。


 もち丸が固まる。


「……真白さん」


「なんですか」


「距離が近い」


「海苔です」


「でもちょっとドキドキした」


「よかったですね」


「他人事みたい」


「他人ですから」


「ひどい」


「餅食べます?」


「食べます」


 即答だった。


 真白は呆れたように目を細める。


「本当に、餌付けされる動物みたいですね」


「人は皆、餅の前では無力なんですよ」


「主語が大きい」


「古代より、人類と餅は共に歩んできた」


「急に文明史が始まった」


「米文化の結晶ですよ」


「まあ、それはそうですが」


「つまり餅とは、日本の魂」


「また始まった」


 もち丸は真剣な顔で頷く。


「考えてみてください」


「嫌です」


「人は苦しい時、“餅でも食べるか……”となる」


「なりません」


「嬉しい時、“餅食べよう!”となる」


「限定的です」


「つまり餅は人生に寄り添う存在」


「だいぶ寄り添い方が偏ってますね」


「そして」


 もち丸は箸を掲げた。


「そんな餅を、人は繰り返し求める!」


「はい」


「故に!」


「はい」


「もちりて時に、もちをもちる!」


「もういいです」


 真白はぴしゃりと言った。


「結局それを言いたかっただけでしょう」


「はい」


「知ってました」


 もち丸は満足そうに笑う。


 真白はため息をついた。


 だが、その口元は少しだけ緩んでいた。


「……でもまあ」


「お?」


「たまに食べる餅が美味しいのは、分かります」


「でしょう!」


「だからって論語を巻き込まないでください」


「孔子もきっと餅好きですよ」


「根拠が雑」


「でももし孔子が日本人だったら、絶対お雑煮食べてる」


「それはそうでしょうね」


「つまり実質、もちりて時に――」


「しつこいです」


 真白はそう言って、もち丸の額を軽く押した。


 もち丸は「ぬあー」と変な声を出しながら後ろへ転がる。


 その様子を見て。


 真白は小さく笑った。


 本当に、しょうもない。


 しょうもないのに。


 なぜだか、少し楽しい。


 春の陽射しの中。


 焼き餅の香りだけが、静かに部屋へ残っていた。


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