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もち丸の発見

「真白さん、僕は物凄い発見をしました」


 昼下がりの書斎で、もち丸はずいぶんと厳かな声を出した。


 その声音だけを聞けば、長年人類を悩ませてきた難問に、ついに一つの答えを見いだした学者のようである。あるいは、世界の成り立ちそのものを覆す真理を手に入れた賢者のようでもあった。


 もっとも、当の本人はソファに半分沈み込み、膝の上には開かれたまま一向に進んでいないノートパソコンを乗せている。画面には、朝からずっと同じ文書が表示されていた。


 真白は、銀のトレイに紅茶を載せたまま、わずかに視線だけを向けた。


「そうですか」


「はい。これは人類史に残る発見かもしれません」


「でしたら、まずは聞きましょう」


 真白はいつも通りの調子でそう言って、もち丸の前にティーカップを置いた。白磁の縁から立ちのぼる湯気が、午後の光に淡く揺れる。


 もち丸は一度、意味ありげに目を伏せた。偉大な発見には、発表前の沈黙が必要である。少なくとも本人はそう思っている。


 そして、ゆっくりと顔を上げた。


「仕事というものは、やる前から疲れるんです」


「…………」


 真白は黙っていた。


 決して理解が追いつかなかったわけではない。ただ、その発言に対して、どの程度の反応を返すのが社会的に適切なのかを、一瞬だけ選別していた。


「それが、物凄い発見ですか」


「はい」


「先ほどから一文字も進んでいない理由の説明ではなく?」


「説明でもあります」


 もち丸は胸を張った。仕事が進んでいないことについて一切の後ろめたさを見せず、むしろそれを学術的成果の裏付けであるかのように扱っている。


「真白さん。考えてもみてください。目の前に仕事がある。しかもそれが、やらなければならない仕事である。人はその事実を認識した瞬間から、すでに疲労を開始しているんです」


「認識しただけで」


「はい。まだ一文字も打っていなくても、頭の中ではもう『あれをやらねば』『これも片づけねば』『ああ、でも先方への確認も必要だ』と、仕事が勝手に増殖を始めています。これは実質、労働です」


「実質ではありません」


「精神的には労働です」


「精神的にも、現時点では現実逃避に近いかと」


 真白はソファ脇の小卓に置かれた資料の束を、静かに揃えた。朝に渡したときとほぼ同じ厚みである。恐ろしいほど減っていない。


 もち丸はティーカップを手に取り、慎重に一口飲んだ。紅茶の香りに満足げに目を細め、それからまた深刻そうな顔を作る。


「たとえばです。山に登る人は、麓に立った時点で、すでに山の高さに圧倒されますよね」


「はい」


「仕事も同じです。僕はいま、仕事という山の麓に立っている。見上げるだけで疲れる。これはもう登山の一部です」


「登山では、麓に立っただけの人を登頂者とは呼びません」


「ですが、心はもう山にあります」


「身体も手も、まだソファにあります」


 真白の声はあくまで穏やかだった。責める色はない。だからこそ、逃げ道だけがきれいに塞がれていく。


 もち丸は少しだけ視線を泳がせたが、すぐに立て直した。


「さらに言えば、仕事には観測問題があります」


「急に物理学めいた話になりましたね」


「仕事は、開くまでは一つの仕事です。しかし開いた瞬間、三つにも四つにも分裂することがある。メールを一通確認しようとしたら、その返信のために別の資料が必要になり、その資料を確認するために前月の記録を探し、その途中で別件の未処理を発見する。仕事は観測によって増えるのです」


「それは発見ではなく、放置の結果です」


「真白さんは容赦がありませんね」


「事実に情けをかけても、締切は延びませんので」


 もち丸は紅茶をもう一口飲んだ。正論は紅茶で流し込むに限る。噛みしめると苦い。


「つまりですね。僕はいま、仕事に取りかかる前段階で、すでに相応の疲労を負っているわけです」


「はい」


「であれば、まず休憩が必要なのではないでしょうか」


「先ほどまでの一時間は何をなさっていたのですか」


「準備です」


「ソファで横になって目を閉じておられましたが」


「精神統一です」


「途中から寝息が聞こえておりました」


「深い集中状態です」


「でしたら、非常によく休めたようで何よりです。そろそろ働けますね」


 真白はにこりともせずにそう言った。


 もち丸は思わず背筋を伸ばした。真白は怒鳴らない。声を荒らげもしない。だが、あまりに淡々と正論を積み上げてくるため、気がつけばこちらの退路が消えている。


 それでももち丸は諦めなかった。今日の彼は、一つの真理にたどり着いた者として、その学説を守り抜く使命感に燃えている。


「いえ、しかし真白さん。重要なのは、僕が怠けているかどうかではありません。仕事は、着手前から人を疲れさせる性質を持つ。ここです」


「仮にそうだとして、何をお望みですか」


「社会全体が、仕事前疲労への理解を深めるべきではないかと」


「具体的には」


「まず、仕事を始める前に一度休む権利を認める」


「お食事の前に間食をなさる理屈に似ていますね」


「次に、仕事の存在を知ってしまった時点で、半分くらいは終わったことにする」


「知っただけで半分終わるなら、世の中の大半の仕事は通知の時点で完了します」


「それは効率的ですね」


「破綻しています」


「そして最後に、真白さんが『今日はもう十分に頑張りましたね』と褒めてくれる制度の導入を」


「何に対してですか」


「仕事の存在に耐えたことに対して」


「耐えているだけで片づくのでしたら、私もお茶を淹れずに茶葉を眺めて済ませます」


「それは困ります」


「私も困ります。ですので、実行してください」


 真白は書斎机の方へ視線を向けた。そこには、午前中からもち丸が見ないふりをしてきた資料が、静かに、しかし確かな存在感を持って待ち構えている。


 もち丸はその視線の先を追い、露骨に顔をしかめた。


「真白さん。もしかして、人は見なければ仕事に疲れないのでは?」


「目を閉じても締切は消えません」


「では、仕事の方が僕を見つけられない場所へ行くというのは」


「締切を置き去りにしても、明日のご主人が拾うだけです」


「明日の僕が?」


「はい」


 真白は、整った所作でポットから自分のカップにも紅茶を注いだ。


「今日のご主人が仕事を明日に回した場合、明日のご主人は、本来明日するはずだった仕事に加えて、今日のご主人が置いていった仕事まで引き受けることになります」


「……明日の僕は大変ですね」


「原因は今日のご主人です」


「明日の僕に、少し申し訳ない気持ちが湧いてきました」


「でしたら、今のうちに助けて差し上げては」


 その言葉に、もち丸はしばし黙り込んだ。


 真白の言うことは、あまりにも正しい。今日の自分が楽をするほど、明日の自分が苦しむ。過去の自分に何度も裏切られてきたもち丸にとって、それは身に覚えがありすぎる話だった。


 しかし、人は正しいだけでは動けないこともある。


「でも、真白さん」


「はい」


「明日の僕は、もしかしたら今日より頑張れる僕かもしれません」


「その期待を毎日なさっている結果が、現在のご主人では?」


「今日の真白さんは、刃物のように鋭いですね」


「ご主人の理屈が、紙のように薄いだけです」


 もち丸はカップを置き、ふう、と大きく息を吐いた。


「わかりました。では譲歩しましょう」


「ご主人に譲歩される立場ではないのですが」


「僕は今から、仕事の一部にだけ着手します」


「全部ではなく」


「全部という山を見るから疲れるのです。まずは小石を一つ拾うところから始めます」


「それは珍しく、悪くない考えです」


 真白が即座に否定しなかったので、もち丸はわずかに目を丸くした。


「おや。真白さんが僕の発見を認めてくださる」


「発見ではありません。対処法です」


「しかし、疲れている人間に必要なのは、山頂を見ろという叱咤ではなく、まず靴紐を結べという導きなのでは?」


「ご自身で靴紐をほどいて寝転がっていた方の言葉とは思えませんね」


「人は過ちから学ぶ生き物です」


「では、学んだ成果を拝見します」


 真白はそう言うと、もち丸の膝の上にあったノートパソコンをそっと閉じ、代わりに机へ移動するよう促した。ソファで仕事をしようとするから、そのまま沈んでいくのである。


 もち丸はしぶしぶ立ち上がった。立ち上がるまでに三秒、机まで歩くのに五秒。大仕事を成し遂げたような顔で椅子に座る。


「まず、何をすればよろしいでしょうか」


「午前中にお渡しした文書の確認です。全文ではなく、ひとまず一ページ目だけ」


「一ページ目だけ」


「はい。誤字脱字の確認と、日付の整合だけで結構です」


「それなら、まあ」


 もち丸は文書を開き、眉間に少しだけ皺を寄せた。最初は嫌々だった指が、ゆっくりとスクロールを始める。数分後には、赤字を一か所入れ、日付の齟齬を一つ見つけ、ついでに次のページまで目を通していた。


 真白は少し離れた場所で、静かにそれを見ている。


 もち丸は三ページ目の途中でふと顔を上げた。


「真白さん」


「はい」


「僕はまた物凄い発見をしました」


「今度は何でしょう」


「仕事は、始める前が一番いやです」


「先ほどの発見よりは、幾分ましですね」


「そして、始めてしまうと、意外と少し進みます」


「大変よくできました」


 ごく自然に返ってきたその一言に、もち丸はぱちりと瞬きをした。


 それから、わかりやすく機嫌を良くする。


「いま、褒めました?」


「事実を述べました」


「ではもう一度お願いできますか」


「調子に乗るので嫌です」


「一度褒めたのですから、二度褒めても大差ないのでは」


「では、一度で十分です」


「真白さんは制度設計に隙がありませんね」


 口ではそう言いつつ、もち丸の指は止まらなかった。先ほどまであれほど巨大に見えていた仕事の山は、いざ手をつけてみれば、少なくとも足元の道くらいは見えるものだった。


 しばらくして、ひと区切りついたところで、もち丸は椅子の背にもたれかかった。


「しかし、真白さん」


「はい」


「今日の僕が頑張ることで、明日の僕が少し楽になる。これはなかなか良いことですね」


「はい」


「つまり僕はいま、未来の僕を助けている」


「珍しく殊勝な認識です」


「さらに言えば、未来の僕から見たら、今日の僕は恩人なのでは?」


「そこまで持ち上げるほどではありません」


「未来の僕は、今日の僕に感謝するでしょうか」


「少なくとも恨まれはしないでしょう」


「それは大きいですね。過去の僕には、ずいぶん恨みがありますから」


「積み重ねの問題です」


「なるほど。では今日から、過去の僕を少しずつ尊敬できるように生きていくことにします」


「よい心がけです」


 真白がそう言うと、もち丸は満足げに頷いた。そして次の瞬間、少しばかり期待を含んだ目で彼女を見る。


「ところで真白さん」


「はい」


「未来の僕を助けた今日の僕には、何かご褒美があってもよいのでは?」


「まだ一件終えただけですが」


「一件終えたことが重要です。人は小さな成功体験によって育つものです」


「先ほどまでの学説より、こちらの方がよほどまともですね」


「では」


「夕食後に、プリンをお出しします」


 もち丸の表情がぱっと明るくなった。


「さすが真白さん。人を働かせる術を心得ています」


「ご主人が単純なだけです」


「単純ではありません。明確な報酬設計に合理的に反応しているのです」


「はいはい」


「それと、できれば褒め言葉も一つ」


「欲張りですね」


「労働者の待遇改善を要求します」


「では、残りも片づけられましたら考えます」


 もち丸は再び画面へ向き直った。


 先ほどまで仕事は、手をつける前から人を疲れさせる巨大な怪物だった。けれど今は、プリンと褒め言葉の向こう側にある、少しだけ乗り越えられそうなものに見えている。


 もちろん、明日になればまた同じように、仕事を前にして壮大な発見を披露する可能性は高い。もち丸とは、そういう男である。


 けれどそのたびに真白は、きっと今日と同じように、紅茶を淹れ、逃げ道を塞ぎ、最初の一歩だけは踏み出させてくれるのだろう。


 もち丸は赤字を入れながら、ふと思いついたように言った。


「真白さん」


「今度は何ですか」


「僕はもう一つ、物凄い発見をしました」


「聞くだけ聞きましょう」


「真白さんに見ていてもらうと、仕事が少し進みます」


 真白はわずかに目を細めた。


「それは、ご自身で進めているだけです」


「ですが、真白さんがいると進むのです」


「では、私がいないときも進められるようになってください」


「冷たい」


「甘やかしてはおりません」


「でも、いてはくれるんですね」


 真白は答えず、空になったカップを静かに片づけた。


 ただ、部屋を出る前に一度だけ振り返り、机に向かうもち丸へ淡々と言った。


「あと二ページ進みましたら、先ほどよりは少しだけ褒めて差し上げます」


 もち丸の背筋が、実にわかりやすく伸びた。


「真白さん」


「はい」


「僕はいま、かつてないほど仕事をしたい気持ちです」


「発見ではなく、どうぞ実践を」


 午後の書斎に、再びキーボードを打つ音が響き始める。


 その音は、少なくとも今日に限っては、もち丸が人類史に残るほどではない発見を、ほんの少しだけ役立てた証なのであった。


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