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真白さんとスポーツ

「真白さんってスポーツも上手そうですよね」


 朝食を終えた直後のことだった。


 西園寺もち丸は、食後の紅茶を待ちながら、ふと思いついたようにそんなことを言った。


 冷泉真白は、ティーポットを傾ける手を止めないまま、視線だけをもち丸へ向ける。


「どうしてそう思われたのですか」


「なんとなくです」


「ずいぶん曖昧な根拠ですね」


「でも、真白さんって何をやっても上手そうじゃないですか。走れば速そうですし、球を投げればきれいな放物線を描きそうですし、バドミントンをすれば羽根まで緊張して真白さんのラケットに吸い寄せられそうです」


「最後は競技能力ではなく、あなたの妄想です」


 真白は、注ぎ終えた紅茶をもち丸の前に置いた。


 白磁のカップから、静かに湯気が立つ。持ち手の向きまで自然にもち丸の右手へ合わせられているあたり、こういうところにも真白の隙のなさが表れていた。


 もち丸はカップを両手で包み、ふむ、と感心したように頷く。


「やっぱり。今の紅茶の置き方だけで、もうスポーツができそうです」


「紅茶を置く動作に競技性を見出さないでください」


「所作が美しい人は、きっと運動神経もいいんです。身体の動かし方を知っているということですから」


「珍しく、それらしいことを言いますね」


「でしょう」


「もっとも、あなたが私に何かをやらせたい時は、だいたい最初だけ理屈が整っています」


 もち丸は、紅茶に口をつける寸前で止まった。


「真白さん。僕のことをよく見ていますね」


「雇用主の行動傾向を把握するのは、業務上必要です」


「それは愛では」


「管理です」


「愛情の管理」


「言い換えても違います」


 もち丸は紅茶を一口飲み、満足そうに息をついたあと、いそいそと椅子から立ち上がった。


「では、検証しましょう」


「嫌です」


「まだ何をするか言っていませんよ」


「あなたが『検証』と言い出した時点で、ろくなことにはならないと、すでに何度も検証済みです」


「さすが真白さん。過去のデータを未来に活かしている。これはもうアスリートの素養です」


「それは一般的な学習能力です」


 しかし、もち丸はめげない。


 リビングの中央まで移動すると、両手を腰に当てて、なぜか大変誇らしげな顔をした。


「第一種目。にらめっこ」


「スポーツではありません」


「顔面筋肉を用いた対人競技です」


「分類の仕方だけ立派ですね」


「しかも、真白さんはお顔がいいので、顔を使う競技には適性があると思います」


「褒めているようで、競技の公平性を根底から破壊しています」


「では、始めます。笑った方が負けです」


「私は参加すると申し上げていません」


「真白さん、勝負から逃げるのですか」


「業務に戻るだけです」


「つまり僕の不戦勝」


「相手がいない競技で一人だけ負けるという、かなり高度な負け方をされています」


 もち丸は胸元を押さえて、よろめいた。


「強い……」


「まだ何もしていません」


「何もせずに勝つ。達人の領域ですね」


「あなたが勝手に倒れているだけです」


 真白はそう言って、何事もなかったかのようにティーカップを手に取った。


 その所作がまた静かで、もち丸の目には、たしかに何かの達人のように映った。武道の達人か、茶道の達人か、あるいはもち丸をあしらうことだけに特化した何かの達人かもしれない。


「では、第二種目」


「まだ続くのですか」


「もちろんです。スポーツテストは複数種目で総合的に測るものですから」


「にらめっこを含むスポーツテストなど聞いたことがありません」


 もち丸は近くのソファからクッションを一つ持ち上げた。


「クッション投げ」


「室内で物を投げないでください」


「では、クッション置き」


「それは片付けです」


「片付けにも美しさは宿ります」


「今度は何を言い出すのですか」


「真白さんがクッションをソファへ戻すだけで、きっと一流選手のような無駄のない動きが見られるはずです」


「私は今、あなたが散らかしたものを戻す係にされているだけでは」


「検証のためです」


「都合のいい言葉ですね」


 真白は、少しだけ呆れたように目を細めながらも、もち丸の手からクッションを受け取った。


 そして、ソファの端へそっと戻す。


 ただ、それだけである。


 腰を折る角度も、指先の添え方も、クッションを置いたあとに残る沈み方さえも、どこか妙に整って見えた。


 もち丸は、しばらくその様子を凝視してから、重々しく頷く。


「満点です」


「何の採点ですか」


「姿勢、手首の角度、静音性、そしてお顔」


「最後が不要です」


「むしろ大幅な加点対象です」


「その時点で競技として成立していません」


「真白さんが出場している時点で公平な勝負ではありませんからね」


「では私を出場させないでください」


「強者ゆえの孤独ですね」


「あなたが勝手に大会を開いて、勝手に私を優勝させているだけです」


 もち丸は、そこでふと気づいたように首を傾げた。


「そういえば、真白さん。実際のところ、得意なスポーツはあるんですか」


「特に得意と申し上げるほどのものはありません」


「何でも人並み以上にはできる感じですか」


「普通です」


「真白さんの『普通』は、世間一般の普通よりかなり高い位置にありそうですね」


「あなたの基準が低すぎる可能性もあります」


「僕の得意競技はお昼寝ですからね」


「スポーツではありません」


「全身を使って休みます」


「それは生活です」


「寝返りには体幹が必要です」


「必要最低限です」


「夢の中ではかなり走っています」


「現実で走ってください」


 あまりにも即答だったので、もち丸は一瞬だけ黙った。


 それから、何か名案を思いついた顔になる。


「では、真白さん。勝負をしましょう」


「嫌な予感しかしませんが、一応お聞きします。何を賭けるのですか」


「僕が勝ったら、今日は仕事を休みます」


「却下です」


「真白さんが勝ったら、僕は仕事をします」


「私にしか利益がありませんね」


「真白さんのための勝負です」


「あなたが普通に仕事をすれば、勝負そのものが不要です」


「それでは日常にドラマがありません」


「日常業務にドラマ性は求めていません」


 もち丸は少し考えたあと、テーブルの上に置かれていたボールペンを一本手に取った。


「第三種目。ペン立て」


「何ですか、それは」


「このペンを指先に立てます。先に落とした方が負けです」


「突然、縁日の遊びのような競技になりましたね」


「動体視力、集中力、バランス感覚。総合的な身体能力を問われます」


「言い方だけは立派です」


「しかも仕事道具を使っているので、実質これは業務の一環です」


「違います」


 真白は即座に否定したが、もち丸があまりにも期待に満ちた目で見上げてくるので、わずかに間を置いたあと、静かに手を差し出した。


「一回だけです」


「やってくださるんですね」


「終わったら仕事です」


「つまり真白さんが僕と遊んでくださるということですね」


「言い方を改めてください」


「真白さんが僕に構ってくださるということですね」


「悪化しました」


 もち丸は嬉しそうにペンを一本渡した。


 真白はそれを受け取ると、人差し指の上にそっと立てる。


 ペンは、まるで最初からそこに立つことが決められていたかのように、ぴたりと静止した。


 真白の背筋はまっすぐで、肩には余計な力が入っていない。視線はペンの先に向けられているが、表情には緊張らしい緊張がなく、いつもの涼やかな顔のままである。


 もち丸は感嘆の息を漏らした。


「すごい。真白さん、完全に静止画みたいです」


「褒め方が独特ですね」


「このまま美術館に展示できます」


「できません」


「作品名は『働けと言うメイド』」


「鑑賞者に対する圧が強すぎます」


「きっと展示室を出た人から順に仕事を始めます」


「まずあなたが始めてください」


 もち丸も真似をして、指先にペンを立てた。


 一秒。


 二秒。


 三秒。


 からん、と乾いた音を立てて、ペンは床へ落ちた。


 対する真白のペンは、まだ微動だにしていない。


「負けですね」


「今のはウォーミングアップです」


「本番でした」


「では、練習試合ということで」


「本番でした」


「真白さん、判定が厳しい」


「あなたに仕事をしていただくためです」


 もち丸は床のペンを拾いながら、しみじみとした声で言った。


「真白さんはスポーツも強いし、審判としても強いし、お顔も強いですね」


「顔は関係ありません」


「真白さんの存在は、常に関係があります」


「それらしいことを言っても、仕事は消えません」


「消えない仕事。消えるやる気。残る真白さんの美しさ」


「詩に逃げないでください」


 真白は、あらかじめ用意していた書類の束を机の上へ置いた。


 紙の端を揃える白い指先が、軽く机を叩く。


「それでは、本日の分です」


 もち丸は書類を見た。


 次に、真白を見た。


 そして、ひどく真剣な顔で口を開く。


「第四種目。現実逃避」


「失格です」


「まだ始めてもいないのに」


「競技開始前に失格です」


「真白さんの判断速度、もはや反射神経の領域ですね」


「あなたの行動パターンが単純なだけです」


 もち丸はしばらく書類とにらめっこをしていたが、やがて観念したように椅子へ戻った。


 ただし、完全に敗北を認めた顔ではない。最後の一押しを狙う者の顔だった。


「真白さん」


「はい」


「僕が仕事を頑張ったら、褒めてくださいますか」


「成果が出れば」


「途中経過は?」


「手が止まっていなければ」


「存在は?」


「働いていれば」


「では、僕はいまから存在します」


「今までは何だったのですか」


「概念です」


「書類を書いてください、概念」


 もち丸はペンを握った。


 先ほどは指先から三秒で落ちたペンだったが、今度はどうにか逃がさずに済んでいる。


 最初の一行を書き始め、二行目へ進み、三行目で少しだけ姿勢が崩れたところを、真白が何も言わずに見る。


 もち丸は、その視線に気づいて背筋を伸ばした。


「やればできるではありませんか」


 真白が、ほんのわずかに柔らかい声でそう言った。


 もち丸の手がぴたりと止まる。


「真白さん」


「何ですか」


「今のを、もう一度お願いします」


「仕事をしてください」


「はい」


 今度こそ、もち丸は素直に書類へ向かった。


 褒め言葉をもう一度もらうには、まず目の前の仕事を片付けなければならないと理解したらしい。


 真白は、空になったティーカップを静かに下げながら、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 スポーツが上手いかどうかは、結局よく分からなかった。


 けれど少なくとも、もち丸を机へ戻す競技においては。


 真白は、今日も危なげなく無敗だった。

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