もち丸式哲学~仕事とは何か~
「真白さんにとって、仕事とはなんですか」
夕暮れ時。
窓の外では、傾いた陽が庭木の影を長く引き伸ばしていた。
部屋の中には、洗濯物のやわらかな匂いと、真白さんが淹れた紅茶の香りが静かに漂っている。
一日の終わりに向かう、穏やかな時間だった。
ただし、その穏やかさの中心で、西園寺もち丸は、なぜか世界の真理に触れようとする哲学者みたいな顔をしていた。
ソファに深く腰かけ、肘掛けに片肘を置き、指先を組む。
そして、低い声でもう一度言った。
「真白さん。仕事とは、なんでしょうか」
真白さんは、テーブルの上に置かれた洗濯物を畳みながら、表情ひとつ変えなかった。
「業務です」
「終わらせないでください」
「質問に答えました」
「僕が求めているのは、そういう辞書的なものではないんです」
「では、給与の発生する作業です」
「もっと現実になりましたね」
もち丸は胸を押さえた。
「真白さん。僕は今、魂の話をしているんです」
「私は今、雇用契約の話をしています」
「魂と雇用契約、こんなにも相性が悪いんですね」
「大抵の場合、雇用契約の方が優先されます」
「世知辛い」
もち丸は深く息を吐いた。
テーブルの端には、本日中に確認しなければならない書類の束が置かれている。
本日中、と言っても、真白さんが昼過ぎから三度ほど声をかけているので、すでに本日の残り時間はかなり少ない。
もち丸は、その書類から目を逸らしながら続けた。
「僕は思うんです。仕事とは、単なる労働ではない。己の時間を捧げ、社会という巨大な機構の歯車となり、それでもなお、自分という存在の証明を刻みつける行為なのではないかと」
「仕事をしたくない人の言い回しですね」
「まだ本題に入っていないのに刺さないでください」
真白さんは、畳み終えたシャツを几帳面に重ねた。
「もち丸様がその話を始める時は、大抵、書類仕事から逃げたい時です」
「違います」
「違うんですか」
「少し違います」
「少し」
「書類仕事という地上の苦しみを前にして、人間の尊厳について考えているだけです」
「つまり逃げたいんですね」
「表現を単純化しすぎです」
もち丸は、テーブルの端に置かれた書類の束を見た。
見た。
見たあと、そっと視線を庭へ逃がした。
真白さんはそれを見逃さなかった。
「見ましたね」
「見ていません」
「今、書類を見てから窓の外に逃がしました」
「目にも自由があります」
「手にも仕事があります」
「真白さんの返し、今日も強いですね」
「ありがとうございます」
「褒めてはいません」
「では、仕事をしてください」
もち丸は観念したように、一枚だけ書類を手に取った。
三秒ほど見つめる。
そして、そっと戻した。
「なぜ戻したんですか」
「まだ心の準備が」
「書類に心の準備はいりません」
「いりますよ。書類とは紙ではありません。あれは責任が薄く伸ばされたものです」
「上手いことを言っているようで、何も進んでいません」
「責任が束になって僕を見ているんです」
「見返してください」
「怖い」
「署名欄だけです」
「署名欄には人生が出るんですよ」
「名前が出ます」
「現実の言葉が強すぎる」
真白さんは、今度はタオルを一枚手に取った。
角を合わせ、皺を伸ばし、また角を合わせる。
その動きは静かで、迷いがなく、余計な力もない。
もち丸はその様子を眺めて、ふと真面目な顔になった。
「真白さんは、すごいですよね」
「突然なんですか」
「毎日、きちんと仕事をしている」
「それが仕事ですから」
「僕には、その“それが仕事ですから”がすごいんです」
真白さんの手が、ほんの少しだけ止まった。
もち丸は続けた。
「僕は何かをする時、いちいち意味を探してしまうんです。これは何のためなのか。自分にとって価値があるのか。将来につながるのか。魂が震えるのか」
「最後の条件はいりませんね」
「でも、真白さんは、必要なことを必要なようにやる。それが当たり前みたいにできる」
「当たり前ではありません」
真白さんは、タオルを畳み終えてから言った。
「やりたくない日もあります」
「え」
もち丸が、少し驚いた顔をした。
「真白さんにも、やりたくない日があるんですか」
「あります」
「そんな……真白さんは朝露と規律でできている存在だと思っていたのに」
「人間です」
「知ってはいましたが、改めて言われると衝撃があります」
「なぜですか」
「真白さんは、いつも綺麗にちゃんとしているので」
真白さんは、何も言わずに次の洗濯物を手に取った。
もち丸は、少しだけ声を落とした。
「疲れている日もあるんですか」
「あります」
「面倒くさい日も?」
「あります」
「僕がしょうもないことを言っている時、無視したい日も?」
「毎回です」
「毎回」
「はい」
「そこは少し迷ってください」
真白さんは表情を変えずに続けた。
「ですが、やりたくないことと、やらなくていいことは別です」
もち丸は黙った。
「気分が乗らない日でも、洗濯物は乾きます。食器は汚れます。部屋は散らかります。書類は締切を迎えます」
「書類の話に戻ってきましたね」
「戻します」
「逃がしてくれない」
「逃がしません」
真白さんは畳んだタオルを重ね、静かに言った。
「仕事とは、世界が放っておくと崩れていく部分を、少しずつ整えることだと思います」
もち丸は目を瞬かせた。
その言葉は、真白さんにしては珍しく、少しだけ詩的だった。
「真白さん」
「はい」
「今の、かなり良いです」
「ありがとうございます」
「もう一回言ってください。録音します」
「嫌です」
「名言は残すべきです」
「書類を残してください」
「書類は残したくないんです」
「残ります」
「残酷な真理」
真白さんは、畳んだタオルを棚にしまうために立ち上がった。
その時、足元に丸まっていた靴下が一つ、ころりと転がった。
真白さんが少しだけ眉をひそめる。
「片方がありませんね」
「失われし半身」
「探してください」
「僕がですか」
「はい」
「今、壮大な仕事論の最中なのに」
「実践編です」
もち丸は、しぶしぶソファから降りた。
床に膝をつき、テーブルの下を覗き、ソファの隙間を探る。
「真白さん」
「なんですか」
「世界の崩壊は、思ったよりソファの下にありますね」
「よくあります」
「ありました」
もち丸は、ほこりを少しつけた靴下をつまみ上げた。
「見つけました。失われし半身です」
「ありがとうございます」
真白さんが受け取ると、二つの靴下は静かに揃った。
もち丸は、その光景を見つめた。
「なるほど」
「何がですか」
「今、少しわかりました」
「仕事がですか」
「はい。仕事とは、失われし半身を探すこと」
「違います」
「違いましたか」
「かなり限定的です」
「でも、誰かが困っていることに手を伸ばすことではありますよね」
真白さんは、靴下を畳みながら少し考えた。
「それは、近いかもしれません」
もち丸は嬉しそうにした。
「やはり。つまり仕事とは、誰かの小さな困難を見つけ、そこに手を差し伸べること。そして、その積み重ねが世界を支えている」
「急に規模を大きくしましたね」
「仕事とは、世界を少しだけ壊れないようにする営み……」
「書類もその一部です」
「台無しです」
「台無しではなく本題です」
もち丸は、書類の束を見た。
先ほどまで、責任の化身に見えていた紙の束が、今は少しだけ違って見えた。
いや、やはり面倒ではある。
かなり面倒ではある。
けれど、それを確認することで、誰かの手間が減る。
誰かが後で困らずに済む。
誰かの一日が、ほんの少しだけ整う。
そう考えると、完全に敵というわけでもない気がした。
「真白さん」
「はい」
「僕、仕事します」
「素晴らしいです」
「今、世界を支える覚悟ができました」
「署名欄に名前を書くところからです」
「世界、意外と簡単に支えられますね」
「その簡単なことを後回しにしていました」
「真白さん。余韻を壊すのが上手すぎます」
もち丸はペンを取った。
書類を一枚めくり、内容を確認し、名前を書く。
一枚目。
二枚目。
三枚目。
その手つきは決して速くない。
けれど、先ほどよりはずっと真面目だった。
真白さんは、紅茶のカップを新しく用意して、そっと彼の横に置いた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
もち丸は、カップを見て言った。
「真白さんの仕事は、世界を整える仕事ですね」
「大げさです」
「洗濯物を畳み、紅茶を淹れ、靴下の片方を捜索させ、もち丸様を書類へ導く」
「最後だけ介護に近いですね」
「ひどい」
「ですが、まあ」
真白さんは少しだけ目を伏せた。
「誰かが少しでも過ごしやすくなるなら、それは悪くない仕事だと思います」
もち丸はペンを止めた。
「真白さん」
「はい」
「今のも録音していいですか」
「駄目です」
「なぜ名言を残させてくれないんですか」
「もち丸様は、残すべきものの優先順位がおかしいからです」
「たとえば?」
「私の発言より、まず書類です」
もち丸は、しばらく真白さんを見つめた。
そして、大きく頷いた。
「わかりました。僕は今日、学びました」
「何をですか」
「仕事とは、世界を少し整えること。誰かの困りごとに手を伸ばすこと。そして、名言よりも書類を残すこと」
「最後が一番重要です」
「現実の圧がすごい」
それでも、もち丸は笑いながら書類に向き直った。
夕暮れの光は、少しずつ薄れていく。
部屋の中に、ペン先が紙を滑る音と、真白さんが静かに食器を片づける音だけが残った。
しばらくして、もち丸が小さく呟いた。
「真白さん」
「はい」
「僕にとって仕事とは、真白さんに褒められるために世界を整えることかもしれません」
真白さんは、少しだけ間を置いた。
「では、あと三枚整えてください」
「はい」
「終わったら褒めます」
もち丸の背筋が、すっと伸びた。
「世界、整えてきます」
「規模は書類三枚です」
「小さな世界から始めます」
真白さんは、ほんのわずかに口元を緩めた。
「それでいいと思います」
その一言で、もち丸は今日一番まじめな顔になり、残りの書類に向かった。
まるで人類の未来を背負う勇者のように。
ただし、やっていることは署名だった。




