もち丸式哲学~自由とは~
## 第七話 空を飛ぶ鳥は自由か
「真白さん、空を飛ぶ鳥は自由だと思いますか」
午前九時。
朝食を終え、食後の紅茶も飲み終え、あとは仕事をするだけという、逃げ場のない時間帯だった。
そんな絶妙に現実が重くのしかかってくる瞬間に、もち丸は窓の外を眺めながら、いきなり意味深なことを言い出した。
真白は食器を下げる手を止めない。
「急にどうしました。仕事から逃げるために、とうとう鳥類の自由意志まで持ち出しましたか」
「違います。これは哲学です」
「ご主人様の場合、哲学という言葉は現実逃避の高級包装紙です」
「真白さん、辛辣ですね」
「事実を丁寧に包んだつもりです」
「包み方に棘がある」
もち丸はソファに座り、窓の外を見ていた。
空は晴れている。
雲は薄く、風はやわらかい。
庭の木の枝が、わずかに揺れている。
その向こうを、一羽の鳥が横切っていった。
小さな影は屋根の上を越え、青い空をすいと滑るように進んでいく。
「見てください、真白さん。あの鳥を」
「見えています」
「あの軽やかさ。あの身軽さ。あの、誰にも縛られていない感じ」
「鳥も重力には縛られています」
「そういうことではなく」
「餌を探す必要もあります。外敵もいます。縄張り争いもあります。天候にも左右されます」
「でも会議がない」
「そこをそんなに重視しますか」
「かなり重視します」
もち丸は深く、そして厳かにうなずいた。
「鳥はいいですよ。朝起きて、空を飛ぶ。木に止まる。ちゅんちゅん言う。気が向いたらまた飛ぶ。メールの返信もない。締め切りもない。資料確認もない。なんというシンプルライフ」
「かなり雑な鳥類観ですね」
「僕も鳥になりたい」
「ではまず、床に置いた書類の山を巣材にするのをやめてください」
真白が視線だけを向ける。
リビングの隅には、もち丸が昨日から今日にかけて「あとで見る」と言って積み上げた書類の山があった。
高さだけなら、そこそこ立派な巣に見える。
ただし、中身はすべて未処理の現実である。
もち丸は目を逸らした。
「あれは巣です」
「仕事の未処理書類です」
「仕事の未処理書類で作られた巣です」
「最悪の巣ですね」
「でも、あたたかみはあります」
「責任の熱で発火しそうです」
もち丸は肩を落とした。
「真白さんは、詩情を現実で殴るのが上手ですね」
「ご主人様が現実から逃げるのが上手なので」
「なるほど。名勝負です」
「勝負にしないでください」
真白は食器をキッチンへ運んでいった。
その背中はいつも通り、まっすぐで隙がない。
黒髪がさらりと揺れ、エプロンの白が朝の光を受けて淡く光っている。
もち丸はその後ろ姿を見ながら、ふむ、と頷いた。
「真白さん」
「はい」
「真白さんは、空を飛べそうですよね」
「飛べません」
「でも雰囲気としては飛べそうです」
「雰囲気で人は飛びません」
「真白さんが屋根の上に立って、ふわっと風に乗ったら、誰も驚かない気がします」
「私は驚きます」
「僕は拍手します」
「止めてください」
真白は戻ってくると、テーブルの上を整えた。
もち丸はなおも窓の外を見ている。
さっきの鳥は、近くの電線に止まっていた。
細い脚で器用に身体を支え、首を小さく動かしている。
「しかし、真白さん」
「はい」
「鳥が本当に自由だとしたら、なぜ電線に止まるのでしょうか」
真白がわずかに目を細めた。
「……はい?」
「空を飛べるんですよ。どこへでも行ける。山にも行ける。海にも行ける。遠くの街にも行ける。なのに、あの鳥は電線に止まっている」
「休んでいるのでは」
「そうです。そこです」
もち丸は急に真剣な顔になった。
「自由とは、飛び続けることではないのではないでしょうか」
「ほう」
「自由とは、止まる場所を選べることなのではないでしょうか」
真白は一瞬、黙った。
いつものように即座に切り返すこともできたはずだ。
だが、その言葉は意外にも、少しだけ形を持っていた。
「珍しく、それらしいことを言いましたね」
「でしょう」
もち丸は胸を張る。
「つまり僕も、自由に止まる場所を選びたいのです」
「具体的には」
「ソファです」
「仕事をしてください」
「僕は今、電線に止まる鳥です」
「あなたはソファに沈む餅です」
「詩的存在から急に食品に落とされた」
「正確な分類です」
真白はテーブルの下に落ちていたペンを拾い、もち丸の前に置いた。
さらに、昨日から準備していたファイルを一冊、どさりと置く。
青い表紙のそれは、いかにも仕事という顔をしていた。
「こちら、午前中に確認してください」
「真白さん」
「はい」
「今、自由について語っていたところです」
「はい。ですので、仕事をする自由を行使してください」
「それは自由ではなく義務では」
「義務を果たす自由です」
「哲学の刃を向け返してきた」
もち丸はファイルを見下ろした。
そこには、確認待ちの資料、返信すべき内容、判断を要する項目がきれいにまとめられている。
真白の仕事は丁寧だ。
だからこそ、逃げ場がない。
どのページを開いても「ここを見ればよい」という導線があり、どこにも「よく分からないから後でいい」という隙間がない。
「真白さんの資料って、優しいのに厳しいですね」
「作業しやすいように整理しています」
「つまり、逃げにくいようにしている」
「結果的にはそうですね」
「罠の完成度が高い」
「仕事環境です」
もち丸はファイルを開いた。
一ページ目。
文字が並んでいる。
現実である。
もち丸はそっとファイルを閉じた。
「真白さん」
「はい」
「鳥の話に戻りませんか」
「戻りません」
「即答」
「鳥の話はもう十分しました」
「自由については、まだ議論の余地があります」
「ご主人様の仕事については、議論の余地がありません」
真白は、もち丸の正面に立った。
涼しい目。
整った顔。
淡々とした声。
そのすべてが、もち丸の逃走経路を封鎖している。
「ご主人様」
「はい」
「鳥が自由かどうかは、私には分かりません」
「はい」
「ですが、今日のご主人様が自由ではないことは分かります」
「なぜ」
「午後に予定があります」
「現実が翼をもいでくる」
「翼があるように言わないでください」
「もちにも翼はあります」
「ありません」
「心の翼が」
「でしたら心で仕事をしてください」
「物理的に手伝ってほしいです」
「まずご自身で一ページ目を読んでください」
もち丸はしぶしぶファイルを開いた。
今度はきちんと目を通そうとする。
眉間にしわが寄る。
数秒後、真剣な表情になった。
さらに数秒後、困った顔になった。
そして、すぐに顔を上げた。
「真白さん」
「早いですね」
「最初の一行から、僕の翼が折れました」
「まだ飛んでいません」
「助けてください」
「一行目です」
「一行目が一番強い敵ということもあります」
「ありません」
真白はため息をつき、もち丸の隣に立った。
彼女が指先で資料の一部を示す。
「ここは、前回の内容の確認です。重要なのはこの三点です。まず、納期。次に費用。最後に先方からの追加要望」
「なるほど」
「ご主人様が判断するのは、追加要望を受けるかどうかです」
「なるほど」
「分かりましたか」
「真白さんの声が綺麗だということは」
「資料を見てください」
「はい」
もち丸は資料を見た。
真白の説明は分かりやすかった。
だから、分かってしまう。
分かってしまうと、判断しなければならない。
もち丸にとって、それは空を飛ぶよりも難しいことだった。
「真白さん」
「はい」
「鳥は判断とかするんでしょうか」
「しますよ」
「本当に?」
「どこに降りるか、何を食べるか、どこに逃げるか、いつ飛ぶか。生きるための判断ばかりです」
「鳥って大変ですね」
「はい」
「じゃあ、僕は鳥にならなくていいです」
「結論が早いですね」
「鳥になっても判断から逃げられないなら、人間のままでいいです」
「賢明です」
「なぜなら人間の僕には、真白さんがいます」
真白の手が、ほんの少しだけ止まった。
もち丸は気づいているのかいないのか、にこにこと続ける。
「鳥は自由かもしれません。でも、真白さんに朝食を用意してもらえない。真白さんに紅茶を淹れてもらえない。真白さんに仕事を促してもらえない。真白さんに冷たい目で見てもらえない」
「最後の項目は必要ですか」
「重要です。真白さんの冷たい目には、生活習慣を改善する効果があります」
「改善されていますか」
「まだ臨床試験中です」
「結果は芳しくありませんね」
「長期的な視点で見てください」
「まず今日の午前中を見ます」
「視野が現実的すぎる」
真白は資料に視線を戻した。
「では、まずこの追加要望について。受ける場合の利点と問題点を考えてください」
「利点」
「はい」
「先方が喜ぶ」
「そうですね」
「問題点」
「はい」
「僕が大変」
「もう少し業務的に言ってください」
「こちらの負担が増える」
「その通りです」
「真白さん、僕はいま仕事をしていますね」
「はい」
「褒めてもいいですよ」
「まだ一問一答です」
「でも、鳥で言えば羽ばたき始めたところです」
「巣から出る準備段階です」
「厳しい」
もち丸は真面目に資料へ向き直った。
部屋の中は静かだった。
窓の外では、鳥の声が聞こえる。
ちゅん、という短い声。
それから、羽音。
もち丸はペンを持ち、紙に少しだけメモを書いた。
真白はその横顔を見ていた。
普段はしょうもないことばかり言っている。
すぐ逃げる。
すぐ甘える。
すぐ妙な哲学を持ち出す。
それでも、完全に投げ出すわけではない。
真白が横に立てば、文句を言いながらも手を動かす。
その姿は、空を飛ぶ鳥とはだいぶ違う。
けれど、不思議と見ていて飽きなかった。
「真白さん」
「はい」
「今、僕を見ていましたか」
「見ていました」
「おや」
「仕事をしているか確認するためです」
「なるほど。監視」
「管理です」
「真白さんに管理される生活」
「言い方に問題があります」
「でも、ちょっといい響きですね」
「ありません」
真白は即座に否定した。
もち丸は少し笑い、それからまた資料に目を落とした。
十分。
二十分。
ゆっくりではあるが、仕事は進んだ。
途中で三回ほど空を見た。
五回ほど真白を見た。
一度だけ「もちゅん」と鳴いた。
そのたびに真白は淡々と軌道修正した。
「ご主人様」
「はい」
「鳴き声で進捗は増えません」
「でも心が軽くなります」
「手を動かしてください」
「もちゅん」
「二度目は減点です」
「厳しい世界」
やがて、一つ目の資料が片づいた。
もち丸はペンを置き、深く息を吐いた。
「終わりました」
「確認します」
真白が資料に目を通す。
その横顔を、もち丸は期待に満ちた目で見つめていた。
犬のようでもあり、餅のようでもあり、鳥ではなかった。
真白は内容を確認し、小さく頷く。
「問題ありません」
「つまり?」
「よくできました」
もち丸の顔がぱっと明るくなった。
「真白さん」
「はい」
「今の、もう一回お願いします」
「しません」
「録音しておけばよかった」
「しなくていいです」
「よくできました、は人を飛ばしますね」
「飛ばないでください」
「心が飛びました」
「戻ってきてください。次があります」
「墜落しました」
もち丸は机に突っ伏した。
だが、すぐに顔を横に向け、窓の外を見た。
さっき電線にいた鳥は、もういない。
代わりに、庭の木の枝に別の鳥が止まっている。
飛んで、止まって、また飛ぶ。
それを繰り返している。
「真白さん」
「はい」
「あの鳥、また別の場所に止まっています」
「そうですね」
「自由に飛んで、自由に止まる」
「はい」
「でも、ずっと飛んでいるわけじゃない」
「そうですね」
「つまり、自由とは、何にも縛られないことではなく、どこに身を置くかを選べることなのかもしれません」
真白は鳥を見た。
それから、机に突っ伏しているもち丸を見た。
「そして、ご主人様は今、仕事机に身を置いています」
「置かされています」
「最終的に座ったのはご自身です」
「真白さんの圧があったので」
「環境要因ですね」
「自由とは環境との交渉である」
「急にそれらしく言わないでください」
もち丸は笑った。
真白も、ほんの少しだけ表情をゆるめた。
それは笑顔と呼ぶには小さすぎる。
だが、もち丸は見逃さなかった。
「真白さん」
「はい」
「今、ちょっと笑いましたね」
「気のせいです」
「鳥が見たら恋に落ちるくらい、素敵でした」
「鳥を巻き込まないでください」
「僕は落ちました」
「仕事に戻ってください」
「はい」
もち丸は素直に次の資料を開いた。
今度は少しだけ早かった。
真白が横で補足する。
もち丸が考える。
また質問する。
また少し進む。
そうして午前の時間は、ゆっくりと過ぎていった。
空を飛ぶ鳥ほど軽やかではない。
むしろ、一歩ずつ足元を確かめるような進み方だった。
それでも、進んではいた。
昼が近づくころには、予定していた確認作業の半分以上が終わっていた。
真白は時計を見て、少しだけ満足そうに頷く。
「思ったより進みましたね」
「真白さん」
「はい」
「今のは褒めですか」
「褒め寄りの評価です」
「褒め寄り」
「完全な褒めではありません」
「でも、かなり褒めに近い」
「そうですね」
「真白さんの褒め寄り評価、心に染みます」
「午後も続けてください」
「現実に戻された」
もち丸は椅子の背にもたれた。
そして、窓の外を眺める。
青い空。
遠くを飛ぶ鳥。
その姿は、やはり自由に見えた。
けれど、朝とは少し違って見えた。
何にも縛られず飛んでいるのではない。
風を読み、場所を選び、疲れれば止まり、危険があれば逃げ、必要があれば戻る。
自由とは、ただ軽いことではないのかもしれない。
選ぶこと。
戻ること。
引き受けること。
そういう重さを含んで、それでも飛ぶことなのかもしれない。
「真白さん」
「はい」
「自由って、思ったより大変ですね」
「そうですね」
「鳥も大変。人間も大変。もち丸も大変」
「最後だけ急に軽くなりましたね」
「でも、僕には真白さんがいます」
「はい」
「だから、まあ、人間でいいかなと思いました」
真白は少しだけ視線を落とした。
それから、いつもの声で言う。
「それは何よりです」
「真白さんは?」
「はい?」
「真白さんは、鳥になりたいと思いますか」
真白は少し考えた。
窓の外で、鳥が一羽、屋根の向こうへ消えていく。
真白はその影を目で追い、それから静かに答えた。
「私は、今のままで構いません」
「どうしてですか」
「鳥になったら、ご主人様の仕事を見張れませんので」
「理由が僕」
「はい」
「真白さん……」
「感動するところではありません」
「いえ、僕にとっては十分感動的です」
「では、その感動を午後の仕事に活かしてください」
「情緒を労働力に変換された」
もち丸は机に両手をつき、立ち上がる。
「よし。昼食まで、もう少し頑張ります」
「その意気です」
「僕は鳥ではありません」
「はい」
「空は飛べません」
「はい」
「でも、真白さんに褒めてもらうためなら、資料の海くらいは渡ってみせましょう」
「飛ぶ話から航海になりましたね」
「もち丸は自由ですから」
「では、自由に続きをどうぞ」
「はい」
もち丸は座り直し、資料を開いた。
その姿は、やはり鳥ではない。
羽もない。
軽やかでもない。
むしろ、どこか丸く、少し頼りなく、すぐに転がりそうだった。
けれど、真白はその隣に立っていた。
逃げそうになれば戻し、止まりそうになれば促し、できたところは静かに認める。
窓の外では、鳥がまた一羽、空を横切っていく。
自由かどうかは分からない。
けれど少なくともこの家には、空を飛べないもち丸と、それを机に戻す真白がいる。
そして、もち丸はふと顔を上げた。
「真白さん」
「はい」
「もし僕が鳥だったら、どこに戻ってくると思いますか」
真白は資料を整える手を止めた。
少しだけ間が空く。
「……この家ではないですか」
「僕もそう思います」
「そうですか」
「真白さんがいるので」
真白は何も言わなかった。
代わりに、資料の次のページを指先で示す。
「では、戻る場所があるご主人様は、次の項目に進んでください」
「はい」
もち丸は笑って、ペンを持った。
空を飛ぶ鳥は自由か。
その答えは、まだ分からない。
けれど、どこへ行けるかより、どこへ戻りたいかのほうが大事な日もある。
そしてもち丸にとって、今日の戻る場所は、真白の隣の仕事机だった。
しょうもなくて、少しだけ意味深で、結局いつも通りの午前。
今日もまた、もち丸と真白の一日は、穏やかに転がっていくのだった。




