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もち丸と沈黙

「真白さん。沈黙とは、会話よりも雄弁なものだと思いませんか」


昼下がり。


屋敷の書斎には、やわらかな日差しが差し込んでいた。窓の外では庭木の葉が風に揺れ、遠くで小鳥の鳴き声がする。穏やかで、静かで、いかにも仕事が捗りそうな午後である。


もっとも、仕事が捗りそうな午後と、実際に仕事が捗る午後は別物だった。


机の前に座る西園寺もち丸は、書類の山を前にして、なぜか哲学者のような顔をしていた。手元には未処理の書類。横には飲みかけの紅茶。ペンは机の上に転がっているだけで、まったく働く気配がない。


冷泉真白は銀盆を持ったまま、静かにもち丸を見下ろしていた。


「沈黙、ですか」


「はい」


もち丸は重々しく頷いた。


「人は言葉によって何かを伝えようとします。しかし、言葉とは不完全です。言えば言うほど、本質から遠ざかることもある。むしろ本当に大切なものは、言葉にならない沈黙の中にこそ宿るのではないか。僕は今、そういう高みに到達したわけです」


「なるほど」


真白は紅茶を机に置いた。


「では、その高みに到達した状態で、黙って仕事をしてください」


「沈黙が急に労働に接続された」


もち丸は震えた。


「真白さん。今のは哲学の話です」


「はい。哲学をしながらでも仕事はできます」


「そんな労働倫理に満ちた哲学、僕は知らない」


「ご主人様は哲学以前に、まず締切を知ってください」


「現実が強い」


もち丸は紅茶を一口飲み、目を細めた。


「ですが真白さん。沈黙というものは、非常に繊細なものなのです。単に黙っていれば沈黙になるわけではありません。そこには余白があり、深みがあり、言葉にされなかった感情がある」


「そうですか」


「そうです。たとえば、真白さんが僕に『仕事をしてください』と言うでしょう」


「言いますね」


「その言葉だけを聞けば、ただの命令です。しかし、その前後にある沈黙を読み解けば、そこには心配、期待、愛情、諦念、そしてほんの少しのデレが含まれている可能性がある」


「最後の一つは誤読です」


「沈黙の解釈は自由ですから」


「自由には責任が伴います」


真白は即座に言った。


もち丸は少しだけ視線をそらした。


「つまり、真白さんの沈黙には、僕への深い感情が込められている可能性があるわけです」


「はい」


真白はあっさり頷いた。


「おお」


もち丸の顔が明るくなる。


「ただし、その感情が好意とは限りません」


「沈黙が急に怖くなってきた」


「言葉にしない優しさもあれば、言葉にする気にもならない呆れもあります」


「真白さんの沈黙、二択が厳しい」


「ご主人様の場合、後者が多いです」


「統計が出ている」


もち丸は椅子の背もたれに沈み込んだ。


書斎に、短い沈黙が落ちた。


真白はその間に、もち丸の机の上を見る。書類は減っていない。本は開いたまま。ペンは一度も握られていない。紅茶だけが順調に減っている。


「ご主人様」


「はい」


「沈黙を大切にするのは結構ですが、沈黙したまま仕事を放置するのは違います」


「真白さん」


もち丸はゆっくりと顔を上げた。


「沈黙には、抵抗の意味もあると思うんです」


「抵抗」


「そうです。権力に対して、あえて語らない。沈黙によって意思を示す。僕はいま、仕事という巨大な制度に対して、沈黙による抵抗を試みているのです」


「なるほど」


真白は頷いた。


そして、もち丸の前に書類を一枚置いた。


「では、こちらの書類に署名してください」


「抵抗運動が鎮圧された」


「まだ始まってもいません」


「思想弾圧です」


「業務遂行です」


もち丸はしぶしぶペンを持った。


持っただけだった。


真白が見つめる。


もち丸も見つめ返す。


二人の間に、また沈黙が生まれた。


今度の沈黙は少し長かった。窓の外では風が葉を揺らし、庭のどこかで水音がした。屋敷全体が、午後の静けさの中に沈んでいる。


もち丸は、ふと真白を見た。


真白はいつも通り美しかった。背筋は伸び、表情は涼やかで、余計な動きがない。黙って立っているだけで、部屋の空気が整うようだった。


「真白さん」


「はい」


「真白さんは、沈黙が似合いますね」


「それは褒め言葉でしょうか」


「もちろんです。真白さんが黙っていると、まるで雪みたいなんです」


「雪」


「はい。音もなく降って、世界の輪郭を少しずつ変えていく。静かなのに、確かにそこにある。真白さんの沈黙には、そういう美しさがあります」


真白は少しだけ目を伏せた。


ほんのわずかな変化だった。


しかし、もち丸はそれを見逃さない。


「今の沈黙には、照れが含まれていましたね」


「含まれていません」


「では何が含まれていたんですか」


「ご主人様がたまに綺麗なことを言うので、処理に困っていました」


「処理に困られた」


「はい」


「それはもう、だいぶ照れでは?」


「違います」


「真白さんの『違います』って、たまに『そうです』に聞こえるんですよね」


「耳鼻科に行きましょう」


「医療に繋げられた」


真白は涼しい顔でカップを整えた。


もち丸はまたペンを置く。


「しかし、真白さん」


「はい」


「沈黙が似合う人ほど、言葉の価値も高いと思うんです」


「どういう意味ですか」


「普段から騒がしい人の言葉は、日常の延長です。でも、普段静かな人が何かを言うと、その一言に重みが出る。だから真白さんの『仕事をしてください』には、通常の三倍くらいの重力があります」


「でしたら、その重力に従ってください」


「落下するしかない」


「はい。書類へ」


「僕は林檎か何かですか」


「林檎は黙って落ちます」


「真白さん、今日ちょっと上手いですね」


「ありがとうございます。では署名を」


「褒めても進路変更しない」


もち丸は渋々ペンを動かした。


一枚目に署名。


二枚目に確認。


三枚目で止まった。


「真白さん」


「今度は何ですか」


「静かな部屋で仕事をしていると、自分が立派な人間になった気がしますね」


「気のせいです」


「即答」


「立派な人間は、仕事を始めるまでにここまで時間をかけません」


「真白さんの言葉、切れ味がありすぎる」


「沈黙していた方がよろしいですか」


「いえ、真白さんの声は聞きたいです」


そう言ってから、もち丸は少しだけ黙った。


真白も黙った。


今度の沈黙は、先ほどまでとは少し違っていた。からかうための沈黙でもない。仕事を避けるための沈黙でもない。言葉を探すための、小さな間だった。


もち丸は書類に目を落としたまま、ぽつりと言った。


「僕はたぶん、真白さんが黙って隣にいてくれる時間が好きなんです」


真白は答えなかった。


もち丸は続けた。


「話してくれる真白さんも好きです。怒ってくれる真白さんも、呆れてくれる真白さんも、僕に仕事をさせようとする真白さんも、まあ、そこそこ好きです」


「そこそこ」


「いえ、とても好きです」


「訂正が早いですね」


「命に関わる気がしました」


真白は何も言わず、もち丸の横に立っていた。


もち丸は、少し照れくさそうに笑う。


「でも、真白さんが何も言わずにそこにいてくれると、なんだか安心するんです。僕がしょうもないことを言っても、言わなくても、真白さんは真白さんのままそこにいる。そういう沈黙が、僕は好きです」


真白は静かにもち丸を見た。


それから、ほんの少しだけ表情を和らげる。


「ご主人様」


「はい」


「それは、悪くない沈黙ですね」


もち丸は目を丸くした。


「真白さんが認めた」


「はい」


「今の言葉、額縁に入れて飾っていいですか」


「やめてください」


「では心の額縁に」


「それも少し嫌です」


「心の額縁も駄目だった」


けれど、もち丸は嬉しそうだった。


真白はそれを見て、軽く息をつく。


「ただし」


「ただし」


「安心する沈黙と、仕事をしない沈黙は別です」


「戻ってきた」


「はい。現実は常に戻ってきます」


「真白さん、現実の使者すぎる」


「ご主人様が現実から逃げすぎるだけです」


もち丸は深く頷いた。


「わかりました」


「本当ですか」


「はい。僕は沈黙の尊さを理解しました。よって、これから一切余計なことを言わず、静かに仕事をします」


「それは素晴らしいですね」


「見ていてください、真白さん。ここからの僕は沈黙のもち丸です」


「語呂が悪いですね」


「最初の一撃が早い」


「失礼しました。続けてください」


もち丸は口を閉じた。


ペンを持つ。


書類を見る。


署名する。


確認する。


判を押す。


また次の書類を見る。


真白は少し意外そうに、その様子を見守った。もち丸が本当に黙って仕事をしている。これは珍しい。非常に珍しい。雨の日に庭で金貨を拾うくらい珍しい。あるいは、もち丸が朝から自発的に机へ向かうくらい珍しい。後者はもはや未確認生物に近い。


書斎には紙の擦れる音と、ペン先の走る音だけが響いた。


真白は何も言わない。


もち丸も何も言わない。


数分が経った。


十数分が経った。


仕事は、驚くほど順調に進んだ。


真白は内心で、これは良い傾向かもしれないと思った。沈黙の話をした結果、もち丸が静かに仕事をするようになった。理屈はどうであれ、成果が出ている。ならば、この思想も多少は評価していい。


そう思った、その時だった。


もち丸がすっと手を上げた。


「真白さん」


「はい」


「沈黙している間に、すごいことに気づきました」


真白は嫌な予感がした。


「何に気づいたのですか」


「沈黙とは、言葉を発する前の準備状態なんです」


「はい」


「つまり、長い沈黙のあとには、それに見合うだけの素晴らしい言葉が必要になる」


「はい」


「僕は今、十数分も沈黙しました」


「はい」


「つまり、今から僕は十数分ぶんの価値ある言葉を発しなければならないのでは?」


真白は静かに目を細めた。


「必要ありません」


「でも沈黙がもったいない」


「沈黙は消費ポイントではありません」


「貯めた沈黙を言葉に交換できないんですか」


「できません」


「沈黙経済、厳しい」


真白はもち丸の前に、追加の書類を置いた。


「では、余った沈黙はこちらに使ってください」


「真白さんはすぐ沈黙を労働に換算する」


「最も生産的ですので」


「資本主義のメイドさんだ」


「ご主人様が非生産的すぎるだけです」


もち丸は、追加された書類を見た。


そして、真白を見た。


真白は黙っている。


もち丸も黙った。


しばらくして、もち丸は小さく笑った。


「真白さん」


「はい」


「今の沈黙には、『頑張ってください』が入っていましたか」


真白は少し考えた。


それから、静かに言った。


「少しだけ」


もち丸はぱっと顔を明るくした。


「少しだけ入ってた」


「はい。少しだけです」


「少しだけでも、もち丸は生きていけます」


「燃費が良いですね」


「真白さん由来の成分に限ります」


「妙な栄養素にしないでください」


もち丸はまたペンを取った。


今度は、さっきよりも少しだけ真面目な顔をしていた。


書類を読む。必要な箇所に印をつける。署名をする。確認する。


真白は黙ってその横に立つ。


その沈黙は、もう冷たいものではなかった。命令でも、圧力でも、呆れでもない。もちろん、全部が全部そうではないにしても。少なくとも、その中には確かに「頑張ってください」が少しだけ入っていた。


もち丸はその少しだけを、大げさなくらい大切そうに受け取った。


やがて、机の上の書類が一段落した。


もち丸は大きく伸びをする。


「終わりました」


「お疲れ様です」


真白がそう言うと、もち丸は満足げに頷いた。


「真白さん」


「はい」


「やはり沈黙には力がありますね」


「そうですね」


「僕は今日、沈黙によって仕事を成し遂げました」


「正確には、私の監視によってです」


「沈黙の監視」


「ただの監視です」


「言い切られた」


もち丸は紅茶の残りを飲み干した。


「でも、たまにはいいですね。こういうのも」


「静かに仕事をすることですか」


「はい。真白さんが隣にいて、何も言わない。僕もたまには何も言わない。そういう時間も、悪くないです」


真白はカップを片付けながら、少しだけ頷いた。


「私も、悪くないと思います」


もち丸はにこにこした。


「真白さんがそう言うなら、明日から毎日沈黙の時間を設けましょう」


「よろしいですね」


「おお」


「一日八時間ほど」


「勤務時間だった」


「静かに仕事ができます」


「僕の沈黙が制度化されようとしている」


「良いことです」


「真白さん。沈黙とは自由であるべきです。管理された沈黙は、もはや沈黙ではなく労働です」


「では自由に黙って働いてください」


「逃げ道がない」


真白は銀盆を持ち、扉の方へ向かった。


その背中に、もち丸が声をかける。


「真白さん」


「はい」


「最後に一つだけ」


「何でしょう」


もち丸は少し得意げに言った。


「沈黙は金なり、と言いますよね」


「言いますね」


「つまり、僕が黙っていた時間には金銭的価値があるのでは?」


真白は振り返った。


そして、今日一番静かな声で言った。


「では、その分をお給料から差し引いておきます」


書斎に沈黙が落ちた。


今度の沈黙には、明確に恐怖が含まれていた。


もち丸はそっとペンを握り直した。


「真白さん」


「はい」


「僕、もう少し仕事します」


「大変よろしいです」


真白は満足げに頷き、静かに部屋を出ていった。


扉が閉まる。


もち丸は一人、机に向かう。


部屋は静かだった。けれど、その静けさは不思議と寂しくなかった。真白の気配が、まだ少しだけ残っている気がした。


もち丸は書類を一枚手に取る。


そして、小さく呟いた。


「沈黙も、真白さんがいると、ちょっとかわいいな」


もちろん、その言葉に返事はない。


けれど、返事がないことすら、今日は少しだけ嬉しかった。

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