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もち丸と美学

「真白さん、僕には僕なりの美学があります」


 朝食後の居間で、西園寺もち丸はやけに神妙な顔をしてそう言った。


 窓から差し込む朝の光は柔らかく、磨かれた床には薄い金色の線が落ちている。テーブルの上には読みかけの本、冷めかけの紅茶、そして明らかに未処理の書類の山。


 その向こう側で、冷泉真白は銀盆を片手に立っていた。


 今日も姿勢がいい。

 背筋はまっすぐで、黒髪は絹糸のように整っている。白いエプロンには皺ひとつなく、その立ち姿だけで部屋の空気が少し引き締まる。


「美学、ですか」


「はい」


 もち丸は重々しくうなずいた。


「人間には、ただ生きるだけではなく、どう生きるかが問われると思うんです」


「なるほど」


「何をするかではなく、どうするか。どのような姿勢で、どのような品位をもって、どのような美意識のもとに行動するか。それこそが人生の質を決めるのではないでしょうか」


「おっしゃることは立派です」


「でしょう」


「では、その美意識に基づいて、まず書類を片付けてください」


 真白は銀盆を置き、テーブルの上の書類を指差した。


 もち丸は目を閉じた。


「真白さん」


「はい」


「美学とは、ただ働くことではありません」


「逃げましたね」


「逃げていません。美学的に距離を置いているだけです」


「それを一般には逃避と呼びます」


「言葉というものは、視点によって意味を変えるのです」


「では私の視点では逃避です」


「真白さんの視点は厳しすぎる」


「ご主人様の現実認識が甘すぎるだけです」


 もち丸は胸に手を当てた。


「僕は思うのです。人はただ書類を処理するために生まれてきたわけではない、と」


「少なくとも、その書類はご主人様が処理するために生まれてきました」


「書類に生誕の目的を押し付けるのは危険思想では?」


「ご主人様が署名しなければ進まない案件です」


「では僕は、書類の運命を握っているわけですね」


「そうです」


「責任が重い」


「だから早く処理してください」


 もち丸は紅茶を一口飲んだ。

 冷めかけていたはずなのに、なぜかその仕草だけは妙に優雅だった。


「真白さん、美学とは間合いです」


「今度は間合いですか」


「はい。たとえば剣士が不用意に踏み込まないように、僕もまた書類との間合いを測っているのです」


「測り始めて三日目です」


「強敵ですから」


「紙です」


「紙ほど恐ろしいものはありません。薄いくせに束になる。軽いくせに積み重なる。白い顔をして、人の時間を奪っていく」


「その白い紙に追い詰められているご主人様の方が恐ろしいです」


「真白さん、紙を甘く見てはいけません」


「ご主人様は紙に負けすぎです」


 もち丸は書類の山を見た。


 そして、そっと視線を逸らした。


「僕には、僕なりの流儀があります」


「流儀」


「まず紅茶を飲み、心を整える」


「それは朝一番に済ませました」


「次に真白さんの御髪を眺め、精神の清浄を得る」


「仕事に関係ありません」


「大いに関係あります。美しいものを見ずして、美しい仕事はできません」


「では三秒だけ許可します」


「短い」


「二秒にしますか」


「三秒で十分です」


 もち丸は真白を見た。


 まっすぐな黒髪。涼やかな目元。無駄のない所作。

 それはたしかに、ひとつの美学だった。


 本人がそれを語ることはない。

 飾らず、誇らず、ただ淡々と整っている。


 もち丸は深くうなずいた。


「やはり真白さんは美しい」


「三秒経ちました」


「もう少し余韻を」


「余韻で書類は減りません」


「美は無益だからこそ美しいのです」


「その理屈で仕事を無益にしないでください」


「真白さんは時々、詩を刃物で切りますね」


「ご主人様が詩を盾にするからです」


 真白は淡々と書類の束を揃えた。

 紙の端がぴたりと揃う音がした。


 もち丸はそれを見て、はっとした顔をした。


「真白さん」


「はい」


「今の、少し美しかったです」


「紙を揃えただけです」


「ただ紙を揃えただけなのに、そこに秩序が生まれました」


「それはよかったです」


「これです。僕が求めていた美学とは」


「ではご主人様も秩序を生んでください」


「僕は混沌側の存在なので」


「誇らないでください」


 真白は一枚目の書類をもち丸の前に置いた。


「こちらは確認して署名するだけです」


「署名にも美学が必要です」


「普通に書いてください」


「普通という言葉ほど、人間の創造性を殺すものはありません」


「癖字で提出しないでください」


「僕の名前は西園寺もち丸ですよ。これを普通に書けという方が無理では?」


「名前の問題にしないでください」


 もち丸はペンを取った。


 そして、妙に真剣な顔で紙面を見つめた。


「……真白さん」


「はい」


「字が綺麗な人って、人生の信頼度が高く見えますよね」


「突然まともなことを言いましたね」


「真白さんは字も綺麗そうです」


「それなりには」


「やはり」


「何がやはりですか」


「顔がいい人は字もいい」


「雑な理論です」


「美は細部に宿るのです。髪、姿勢、声、字、所作。真白さんは全部が整っている」


 真白は一瞬だけ黙った。


 表情はほとんど変わらない。

 だが、まつげがわずかに伏せられた。


「……ご主人様」


「はい」


「そういうことを言えば仕事をしなくていいと思っているなら、誤解です」


「半分くらいはそう思っています」


「正直ですね」


「残り半分は本心です」


「余計に扱いづらいです」


 もち丸は満足げに笑い、ようやく署名を書いた。


 真白はそれを確認する。


「はい。問題ありません」


「どうでしたか、僕の署名は」


「読めます」


「評価が実務的」


「実務ですので」


「もっとこう、流麗とか、典雅とか、もちもちしているとか」


「最後だけ字の評価ではありません」


「もち丸の署名がもちもちしていないのは、名前への裏切りでは?」


「署名に弾力を求めないでください」


 次の書類が差し出される。


 もち丸はそれを見て、少しだけ肩を落とした。


「真白さん」


「はい」


「美学には休憩も必要です」


「一枚しか終わっていません」


「一枚終えたという事実が重要なのです。ゼロと一の間には、哲学的断絶があります」


「二枚目との間には実務的連続があります」


「真白さんは現実の使い方が上手い」


「ご主人様は現実から逃げるのが上手いです」


「お褒めいただき光栄です」


「褒めていません」


 もち丸は二枚目に目を通しながら、ふと呟いた。


「でも、美学って難しいですね」


 真白は少しだけ目を向けた。


「どういう意味ですか」


「僕は、何となく美学というと、優雅で、余裕があって、格好よくて、面倒なことから少し離れた場所にあるものだと思っていたんです」


「ご主人様らしい解釈ですね」


「でも真白さんを見ていると、少し違う気がします」


 ペン先が紙の上で止まった。


「真白さんは、たぶん面倒なことから逃げないですよね」


「仕事ですので」


「でも、それだけじゃない。紅茶を淹れる時も、掃除をする時も、僕を叱る時も、全部きちんとしている。別に誰かが見ていなくても、手を抜かない」


「最低限です」


「僕にとっては、そこが美しいんです」


 真白は何も言わなかった。


 もち丸は照れ隠しのように、書類へ視線を落とす。


「美学って、面倒なことを綺麗に避けるための言葉じゃなくて、面倒なことを雑に扱わないための姿勢なのかもしれません」


「……珍しく、よいことをおっしゃいますね」


「でしょう」


「その調子で署名してください」


「余韻が短い」


「よいことを言った直後に止まるからです」


 もち丸は渋々、二枚目に署名した。


 真白は受け取り、確認して、次の書類を出す。


「こちらもお願いします」


「まだある」


「あります」


「美学が試されている」


「はい」


「真白さん、僕は今、人生の美学的岐路に立っています」


「右手にペンを持って、前方に書類があります」


「岐路が一本道」


「進んでください」


 もち丸は三枚目、四枚目と処理していった。


 途中で何度も紅茶を見た。

 窓の外も見た。

 真白の顔も見た。

 だが、そのたびに真白の静かな視線が戻ってきて、もち丸は観念したようにペンを動かした。


 やがて、書類の山は半分ほどになった。


 もち丸は椅子にもたれた。


「真白さん」


「はい」


「僕は今、美学に勝ちました」


「書類はまだ半分残っています」


「では引き分けです」


「負け寄りです」


「真白さんは判定が厳しい」


「現実に即しています」


 真白は新しい紅茶を淹れ直した。


 香りがふわりと広がる。

 もち丸はカップを受け取り、ほっと息をついた。


「ありがとうございます」


「休憩は十分です。五分後に再開します」


「真白さん」


「はい」


「その厳しさにも美学がありますね」


「便利な言葉にしないでください」


「でも本当に」


 もち丸は紅茶を見つめた。


「真白さんの美学は、たぶん冷たいんじゃなくて、崩れないんです」


 真白の手がわずかに止まる。


「崩れない?」


「はい。僕みたいにすぐ流される人間から見ると、真白さんはすごいです。毎日ちゃんとしている。怒る時も、呆れる時も、優しくする時も、ちゃんと真白さんの形を保っている」


「……私は、ただ自分の仕事をしているだけです」


「その“ただ”が美しいんですよ」


 もち丸はにこりと笑った。


「僕もいつか、ただ仕事をするだけで美しい男になりたいです」


「まず、ただ仕事をする男になってください」


「段階がある」


「かなり手前からです」


「真白さん、僕を育ててください」


「ご主人様は観葉植物ではありません」


「水と褒め言葉で伸びます」


「仕事で伸びてください」


 もち丸は笑った。


 真白も、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 それは一瞬だった。

 けれど、もち丸は見逃さなかった。


「真白さん、今笑いましたね」


「笑っていません」


「微笑みました」


「気のせいです」


「美しいものは儚い」


「休憩時間はあと二分です」


「儚すぎる」


 もち丸は紅茶を飲み、また書類に向き直った。


 残りの山は、まだ高い。

 だが、最初ほど恐ろしくは見えなかった。


「真白さん」


「はい」


「僕は気づきました」


「今度は何ですか」


「美学とは、やるべきことをやった後に語るべきものですね」


「非常に正しいです」


「つまり、僕がこれからすべての書類を終わらせた後に語る美学は、かなり説得力がある」


「そうですね」


「では終わったら、僕の美学論を聞いてくれますか」


「長さによります」


「三時間ほど」


「却下です」


「短縮して一時間」


「却下です」


「では三十分」


「五分なら」


「真白さん、交渉が強い」


「ご主人様の美学より実務経験がありますので」


 もち丸はペンを構えた。


「では、五分の美学論のために、僕は働きます」


「動機はともかく、よいことです」


「見ていてください、真白さん。これが西園寺もち丸の美学です」


「はい」


 真白は静かにうなずいた。


「最後までやり遂げてください」


 もち丸は書類に署名した。


 一枚、また一枚。

 途中で少しだけ文句を言い、少しだけ真白を褒め、少しだけ現実から逃げようとして、そのたびに連れ戻された。


 それでも、ペンは止まらなかった。


 やがて、最後の一枚が終わる。


 もち丸は大きく息を吐いた。


「終わりました」


「お疲れ様でした」


 真白は書類を丁寧に揃えた。


 朝にはあれほど混沌としていた紙の山が、今はひとつの整った束になっている。


 もち丸はそれを見て、どこか満足げに笑った。


「真白さん」


「はい」


「美しいですね」


「書類がですか」


「はい。終わった書類は美しい」


「それは同感です」


「そして、仕事を終えた僕も少し美しいのでは?」


 真白はもち丸を見た。


 少し考えたように間を置く。


「そうですね」


「おお」


「仕事をしている時のご主人様は、普段より少しだけ見られます」


「真白さん、それは褒めていますか」


「かなり譲歩しています」


「僕にとっては大勝利です」


 もち丸は胸を張った。


「では約束通り、僕の美学論を」


「五分だけです」


「はい。まず第一に、美学とは真白さんのような存在を前にした時、人が自然と背筋を伸ばしたくなる現象のことであり――」


「私を題材にしないでください」


「では第二に、真白さんの顔がいいという事実は、世界に秩序をもたらし――」


「五分を三十秒にします」


「厳しい」


「ご主人様」


「はい」


「美学以前に、節度です」


 もち丸はしばらく黙った。


 そして、深くうなずく。


「なるほど。節度のある褒め言葉」


「はい」


「では一言だけ」


「どうぞ」


 もち丸は真白を見た。


「真白さんは、今日もお綺麗です」


 真白は静かに目を伏せた。


「……ありがとうございます」


 その返事は、いつもより少しだけ柔らかかった。


 もち丸は満足そうに笑う。


「やはり、美学とは節度ですね」


「今だけは同意します」


「では、節度ある範囲で、もう一言」


「一言だけです」


「真白さんがいてくれる日常は、美しいです」


 真白は今度こそ、返事に少しだけ困ったようだった。


 だがすぐに、いつもの涼しい顔に戻る。


「……それは、書類を終わらせたご褒美として受け取っておきます」


「やった」


「明日もお願いします」


「美学には継続が必要ということですね」


「はい」


「真白さん」


「何でしょう」


「継続って、ちょっと大変ですね」


「ようやくお気づきですか」


「でも」


 もち丸は空になった机を見た。


「真白さんが見ていてくれるなら、少しは頑張れる気がします」


 真白は書類を抱え、扉の方へ歩き出す。


 そして、出ていく前に一度だけ振り返った。


「では、明日も美しく働いてください」


 もち丸はその言葉に、しばらく固まった。


 扉が閉まる。


 少し遅れて、もち丸は両手で顔を覆った。


「……真白さん、そういうことを急に言うのは美学に反します」


 誰もいない部屋で、もち丸は小さく呟いた。


 けれどその声は、どこか嬉しそうだった。

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