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13/15

もち丸と文学

「真白さん」


朝食後のリビングには、紅茶の香りが静かに広がっていた。


窓の外は薄曇りで、庭の木々は風に揺れるでもなく、ただそこに立っている。何かが起こりそうで、しかし何も起こらない。そういう朝だった。


西園寺もち丸は、やけに神妙な顔でソファに座っていた。


真白はその顔を見ただけで、だいたいの事情を察した。


神妙な顔。


真剣な目。


意味ありげに組まれた指。


これは、ろくなことを考えていない時のご主人である。


「なんでしょうか、ご主人」


「文学とは何でしょうか」


真白は紅茶を注ぐ手を止めた。


かすかに、銀のポットが傾いたまま静止する。


「急ですね」


「人はいつだって、急に文学に目覚めるものです」


「昨日はポテトチップスの袋に残った粉を、いかに美しく食べるかについて語っていましたよね」


「それも文学です」


「違います」


「袋の底に残された塩。届きそうで届かない指先。最後の一口に人間の欲望が凝縮されている。これはもう文学でしょう」


「行儀の悪さです」


「真白さん、文学とは視点なのです」


「都合の悪いことを視点で包まないでください」


真白はポットを戻し、もち丸の前にカップを置いた。


琥珀色の紅茶が、白いカップの中で静かに揺れる。


もち丸はそれをじっと見つめた。


「ほら」


「何がですか」


「今の真白さんの動作です」


「紅茶を置いただけです」


「違います。白い指先が陶器の縁に添えられ、朝の光を吸った紅茶が、僕の前に静かに差し出される。その瞬間、世界は一杯の紅茶に収束した」


「大袈裟です」


「文学です」


「ご主人の視線が入ると、普通の動作が少し気持ち悪くなりますね」


「文学的粘性です」


「その言葉を定着させないでください」


もち丸は紅茶を一口飲んだ。


そして、深く息を吐いた。


「僕は思ったんです」


「はい」


「文学的な男になりたいと」


真白は少しだけ眉を動かした。


「文学的な男」


「はい。窓辺で本を読み、雨音に耳を澄ませ、ふと遠い目をするような男です」


「まず、窓辺で本を読む前に仕事をしてください」


「仕事は現実です。文学は現実の向こう側です」


「現実から逃げる口実として文学を使うのは、作家の方々に失礼です」


「ぐうの音も出ない正論」


もち丸は胸を押さえた。


「真白さんの正論は、いつも僕の胸にまっすぐ刺さりますね」


「刺しているつもりはありません」


「刺さるんです。真白さんは言葉のナイフ使いです」


「では、そのまま仕事机まで切り開いて差し上げましょうか」


「文学の話をしましょう」


「逃げましたね」


もち丸は姿勢を正した。


「では真白さんに質問です。文学とは何ですか」


真白はすぐには答えなかった。


カップを持ち上げ、紅茶の表面を見つめる。


もち丸はその沈黙さえ、ありがたいもののように見つめていた。


やがて真白は静かに言った。


「言葉にできないものを、言葉にしようとすることではないでしょうか」


もち丸は目を丸くした。


「……急に本物が出てきた」


「本物とは」


「僕がふわっと投げた話に、真白さんが急に芯のある答えを返してくる現象です」


「質問されたので答えただけです」


「そこなんです」


「どこですか」


「真白さんは、たまに何気なく文学そのものみたいなことを言うんです」


真白は小さく息をついた。


「ご主人の文学の基準が少し心配です」


「でも、今のは本当に良かったです。言葉にできないものを、言葉にしようとすること」


もち丸は何度かその言葉を口の中で転がした。


「たしかに、好き、という言葉だけでは足りない時がありますよね」


「なぜ急にそちらへ行くんですか」


「僕の中で一番わかりやすい言葉にできないものが、真白さんへの気持ちだからです」


「重いですね」


「重さは愛の質量です」


「物理に謝ってください」


もち丸は真白を見た。


真白は涼しい顔をしている。


いつものように整った姿勢で立ち、いつものように淡々としていて、いつものように美しい。


けれど、その「いつものように」を言葉にしようとすると、急に難しくなる。


白い肌。


整った顔立ち。


静かな目。


涼やかな声。


無駄のない所作。


そういう言葉をいくら積み上げても、目の前の真白には届かない。


「真白さん」


「はい」


「僕は今、文学が少しわかった気がします」


「本当ですか」


「はい。真白さんを説明しようとすると、言葉が足りないんです」


「私を説明する必要はありません」


「あります。僕の心の整理に必要です」


「でしたら、心の中だけでお願いします」


「それができたら文学は生まれません」


「生まれなくて結構です」


もち丸はテーブルの上に置かれていた一冊の本を手に取った。


昨日、真白が選んでくれた薄い文庫本だった。


まだ栞は序盤に挟まっている。


「僕は昨日、この本を読みました」


「三ページで寝ていましたね」


「三ページ読みました」


「言い方を変えただけです」


「でも、その三ページの中に気になる一文があったんです」


真白は少し意外そうにした。


「どの一文ですか」


もち丸は本を開き、栞のあたりを探した。


しばらくページをめくる。


そして、少し困った顔をした。


「見つかりません」


「文学以前の問題ですね」


「でも、たしかにあったんです。何でもない風景なのに、なんだか胸に残る一文が」


「それはよい読書です」


「そうなんですか」


「はい。全部を理解できなくても、一文だけ残ることがあります。その一文が、後になって意味を持つこともあります」


もち丸は本を閉じた。


「真白さんみたいですね」


「また私ですか」


「はい。真白さんも、たまに何でもない一言が後から効いてくるんです」


「たとえば」


「『仕事をしてください』」


「ただの業務命令です」


「でも、そこには信頼がある」


「ありません」


「仕事をしろと言うのは、僕が仕事をできると信じているからです」


「仕事をしてほしいからです」


「そして『紅茶を淹れました』」


「事実報告です」


「そこには優しさがある」


「業務です」


「『風邪をひきますよ』」


「注意です」


「そこには愛がある」


「健康管理です」


「真白さんの言葉は、表面上は業務連絡。でも行間に愛がある」


真白はわずかに目を細めた。


「ご主人」


「はい」


「それは読解ではなく、願望です」


「文学的読解です」


「都合のいい読解です」


「読者の自由です」


「作者の意図を無視しすぎです」


もち丸ははっとしたように顔を上げた。


「そうか。真白さんは作者なんですね」


「何の話ですか」


「真白さんという作品の作者は真白さん自身です。でも僕は読者として真白さんを読んでいる。作者の意図と読者の解釈がズレる。そこに文学が生まれる」


「私は作品ではありません」


「しかし解釈は発生しています」


「発生させないでください」


もち丸は楽しそうに笑った。


真白は呆れたように見ている。


いつもの光景だった。


けれどその朝のもち丸は、ただふざけているだけではなかった。


彼は本当に、何かを掴みかけている顔をしていた。


「でも、不思議ですね」


「何がですか」


「文学って、嘘なのに本当みたいです」


真白は黙って続きを待った。


もち丸は本の表紙を指で撫でた。


「小説に出てくる人物は実在しない。そこで起こる事件も、たぶん嘘です。でも読んでいると、本当にその人が悲しんでいるような気がする。存在しない人の言葉に、自分が傷ついたり救われたりする」


「はい」


「それってすごいですよね。嘘でできているのに、心には本当に届く」


真白の目元が、ほんの少し柔らかくなった。


「よいところに気づきましたね」


「褒めました?」


「少しだけ」


「真白さんが褒めた」


「撤回します」


「早い」


もち丸は大事そうに本を抱えた。


「でも僕、そこが好きです。文学って、嘘なのに誠実なんです」


「誠実」


「はい。たとえば僕が『真白さんは天使です』と言うと、これは事実としては嘘です」


「当然です」


「でも僕の感情としては、かなり本当です」


「かなり」


「真白さんが朝、カーテンを開けてくれる。部屋に光が入る。僕は思う。あ、天使が朝を連れてきた、と」


「寝ぼけていますね」


「文学です」


「便利な言葉になっていますね」


「でも、そういう嘘は悪くないと思うんです。現実を騙す嘘じゃなくて、現実を別の角度から照らす嘘」


真白は少しだけ黙った。


「……それは、かなり文学的な考え方です」


「また褒めた!」


「騒がないでください」


もち丸は嬉しそうに肩を揺らした。


「僕、文豪になれるかもしれません」


「今ので台無しです」


「文豪もち丸」


「響きが軽いですね」


「代表作は『真白さん讃歌』」


「出版差し止めです」


「続編は『続・真白さん讃歌』」


「一作目の時点で止めます」


「三部作構想なんですが」


「構想段階で焼却します」


「焚書だ」


「生活防衛です」


もち丸は笑った。


真白も、ほんのわずかに口元を緩めた。


その小さな変化を、もち丸は見逃さない。


「今、笑いましたね」


「笑っていません」


「笑いました」


「気のせいです」


「文学において、気のせいは重要です」


「ご主人の観察眼は、都合の良い時だけ鋭いですね」


「真白さんの笑顔は希少資料ですから」


「保管しないでください」


「心に保管しました」


「削除してください」


「バックアップ済みです」


「厄介ですね」


そんな会話をしているうちに、窓の外で小さな音がした。


ぽつ。


雨粒だった。


一粒、二粒と庭石に落ち、やがて葉の上で細かな音を立て始める。


もち丸は窓の外を見た。


「真白さん、雨です」


「雨ですね」


「文学が来ました」


「気象現象です」


「でも、文学作品って大事な場面で雨が降るじゃないですか」


「演出として多いだけです」


「つまり今は大事な場面です」


「ご主人が仕事を始めるなら、大事な場面ですね」


「雨の日の仕事は詩的ではありません」


「晴れの日もしていません」


「逃げ場がない」


真白はソファの近くに立ち、窓の外を見た。


雨に濡れた庭は、朝よりも少し色を深くしている。


木の葉は重たげに垂れ、灰色の空の下で静かに光っていた。


もち丸はその横顔を見上げた。


真白は雨を見る時、少しだけ表情が変わる。


寂しそうというほどではない。


嬉しそうというほどでもない。


ただ、いつもの冷静さの中に、遠いものを見るような静けさが混ざる。


もち丸は思った。


こういう顔を、何と書けばいいのだろう。


綺麗。


静か。


儚い。


どれも違う。


どれも近いけれど、届かない。


「真白さん」


「はい」


「雨、好きですか」


「嫌いではありません」


「好き寄りですか」


「少し」


「なぜですか」


真白はしばらく雨を見ていた。


「音が、余計なものを消してくれる気がするからです」


もち丸は黙った。


真白は続けた。


「雨の日は、外の世界が少し遠くなります。道を歩く人の声も、車の音も、輪郭がぼやける。部屋の中にいると、自分のいる場所だけが小さく切り取られたように感じます」


もち丸はゆっくり頷いた。


「それ、すごく文学です」


「ただの感想です」


「真白さんのただの感想は、僕には文学なんです」


「困った読者ですね」


「はい。僕は真白さんの困った読者です」


真白は少しだけもち丸を見た。


「では、読者として質問します」


「はい」


「私を読んで、今の私は何を考えていると思いますか」


もち丸は姿勢を正した。


難問である。


真白の表情はいつも静かで、読み解くにはかなりの熟練を要する。


しかし、もち丸は真白の読者として日々鍛えられている。


紅茶を出す角度。


ため息の深さ。


返事までの間。


眉のほんのわずかな動き。


すべてが文字であり、句読点であり、行間である。


もち丸は真剣に考えた。


「真白さんは今、こう思っています」


「どうぞ」


「ご主人は本当に面倒な人だ。文学などと言いながら、結局は私のことばかり話している。しかし、雨の日にこうしてくだらない話を聞くのも、悪くはない。紅茶もまだ温かい。もう少しだけ、このままでもよいかもしれない」


真白は何も言わなかった。


雨の音が、二人の間に落ちる。


もち丸は少し不安になった。


「どうでしょう」


「六十五点です」


「低くはない」


「前回より下がりました」


「どこが違いましたか」


真白はカップを持ち上げ、静かに紅茶を飲んだ。


そして、何でもないように言った。


「『くだらない話』の部分は正解です」


「そこだけ?」


「それから」


「それから?」


「『悪くはない』も、まあ、間違いではありません」


もち丸は一瞬、固まった。


次の瞬間、両手で顔を覆った。


「真白さん」


「はい」


「今のはずるいです」


「何がでしょう」


「そんな一文を突然差し込まれると、読者は死にます」


「死なないでください」


「今、心の余白に深々と刺さりました」


「また刺さったんですね」


「刺さりました。栞を挟みたい」


「挟まないでください」


もち丸は顔を覆ったまま、ソファに沈み込んだ。


真白はその様子を見て、ほんの少しだけ目を細めた。


「ご主人」


「はい」


「文学的な男になりたいのでしたら、まずは本を最後まで読んでください」


「真白さんを読むので忙しいです」


「私は読書対象ではありません」


「でも難解で、魅力的で、何度読んでも新しい発見があります」


「そういうことを言う時間で、一章読めます」


「現実的」


「文学は現実から逃げるためだけのものではありません」


真白は本を一冊取り、もち丸の膝の上に置いた。


「読んでください」


「今ですか」


「今です」


「真白さんが隣で?」


「監視します」


「それは読書会というより検閲です」


「ご主人にはそのくらいが必要です」


もち丸は本を開いた。


文字が並んでいる。


黒い文字。


白い紙。


当たり前のはずなのに、その日は少し違って見えた。


一行目を読む。


二行目を読む。


三行目で、いつものように真白を見たくなる。


しかし真白が静かにこちらを見ていたので、もち丸は慌てて本に視線を戻した。


「読んでください」


「はい」


雨の音がする。


紅茶の香りがする。


ページをめくる音がする。


真白は隣に座ってはいない。


少し離れた椅子に座り、背筋を伸ばしている。


近すぎず、遠すぎず。


もち丸が顔を上げれば見える距離。


けれど、手を伸ばしても届かない距離。


その距離感まで、真白らしい。


もち丸は少しずつ読み進めた。


物語の中では、知らない町に雨が降っていた。


主人公は何かを失っていた。


それが何なのか、もち丸にはまだよくわからない。


けれど、その人が雨の音を聞きながら、誰にも言えないことを胸に抱えているのだけはわかった。


もち丸は思った。


言葉にできないものを、言葉にしようとすること。


真白が言った言葉。


それは、たぶんこういうことなのだ。


悲しい、と書くだけでは足りない。


寂しい、と書くだけでも足りない。


だから雨を降らせる。


部屋を暗くする。


紅茶を冷ます。


窓に映った顔を見せる。


そうやって、言葉にならないものの周りに、いくつもの言葉を置いていく。


中心には触れられない。


けれど、その輪郭が少しずつ見えてくる。


「真白さん」


「はい」


「少しだけ、わかった気がします」


「何がですか」


「文学って、中心を直接言わないんですね」


真白はもち丸を見た。


もち丸は本を開いたまま続けた。


「本当に言いたいことがある。でもそれをそのまま言うと、たぶん壊れてしまう。だから別のものを置く。雨とか、紅茶とか、沈黙とか、後ろ姿とか」


真白は静かに聞いていた。


「好き、って言えば簡単だけど、それだけでは足りない時がある。寂しい、って言えば伝わるけど、それだけでは軽くなる時がある。だから物語にする。遠回りする。行間に置く」


もち丸は少し照れたように笑った。


「僕はいつも、真白さんに好きって言っていますけど」


「はい。かなり頻繁に」


「でも、たぶんそれだけでは足りないんです」


真白は目を伏せた。


「……そうですか」


「はい。だから僕は、くだらないことを言ってしまうんです」


「それは文学のせいではありません」


「違いますか」


「ご主人の性格です」


「厳しい」


「ですが」


真白は少しだけ間を置いた。


「そのくだらない言葉の中に、ご主人なりの本心が混ざっていることくらいは、わかっています」


もち丸は本を落としそうになった。


「真白さん」


「はい」


「それは、かなり危険な一文です」


「何がですか」


「読者が一生忘れられなくなるタイプの一文です」


「では忘れてください」


「無理です。心に傍線を引きました」


「消してください」


「蛍光ペンです」


「厄介な読者ですね」


もち丸は嬉しそうに笑い、また本に視線を落とした。


雨はまだ降っている。


物語の中の雨と、窓の外の雨が重なる。


現実と嘘の境目が、少しだけ曖昧になる。


存在しない主人公の孤独が、もち丸の胸にほんの少し移ってくる。


そしてその孤独の向こう側に、椅子に座る真白の気配がある。


もち丸は思う。


たぶん、文学は一人で読むものだ。


けれど、一人で読んだものを誰かと分け合えた時、そこにはまた別の何かが生まれる。


同じ本を読んでも、同じ場所で立ち止まるとは限らない。


同じ一文に救われるとは限らない。


それでも、どこで立ち止まったのかを話すことはできる。


自分が何に傷ついたのか。


何を美しいと思ったのか。


何を思い出したのか。


そういうことを、少しだけ誰かに渡すことができる。


「真白さん」


「今度は何ですか」


「読み終わったら、感想を言ってもいいですか」


「もちろんです」


「たぶん、めちゃくちゃになります」


「ご主人の感想は、いつもだいたいめちゃくちゃです」


「でも聞いてくれますか」


真白は少しだけ視線を柔らかくした。


「聞きます」


その一言で、もち丸はまた本を閉じそうになった。


「真白さん」


「閉じないでください」


「まだ何も言ってないのに」


「顔でわかります」


「僕という本を読んでいる」


「非常に単純な本です」


「真白さんに読まれているなら本望です」


「いいから読みなさい」


「はい」


もち丸は再びページをめくった。


雨の音は、相変わらず部屋の外を満たしている。


けれど、部屋の中は静かで温かい。


紅茶は少し冷めてきた。


それでも、まだ飲める。


真白は何も言わずに座っている。


もち丸も、しばらく何も言わなかった。


いつもの彼からすれば、かなり珍しいことだった。


真白は本を読むもち丸を見た。


真剣というには、少し表情が忙しい。


眉を寄せたり、首を傾げたり、納得したように頷いたりしている。


たぶん半分も理解していない。


けれど、何かを受け取ろうとしている。


その姿は、少しだけ不器用で、少しだけ可笑しくて、そして少しだけ悪くなかった。


もち丸がページをめくる。


雨が降る。


紅茶が冷める。


何も特別なことは起きていない。


けれど、その何も起きていない時間が、なぜか静かに残っていく。


やがてもち丸は顔を上げた。


「真白さん」


「はい」


「文学って、難しいですね」


「そうですね」


「でも、嫌いじゃないです」


「それはよかったです」


「ただ」


「ただ?」


もち丸は真剣な顔で言った。


「真白さんの方が難しいです」


真白は一瞬だけ黙った。


それから、深くため息をついた。


「結局そこに戻るんですね」


「はい。僕の文学は真白さんに始まり、真白さんに終わります」


「狭い文学ですね」


「でも深いです」


「自分で言わないでください」


「真白さんという一冊を、僕は一生かけて読みたい」


真白は少しだけ目を伏せた。


雨音が、その沈黙をやわらかく包む。


やがて真白は、静かに言った。


「でしたら」


「はい」


「誤読はほどほどにしてください」


もち丸はぱっと笑った。


「つまり、読むこと自体は許された?」


「そういう解釈をするところが誤読です」


「行間を読みました」


「行間を捏造しましたね」


「文学です」


「便利な言葉にしすぎです」


それでも、真白は本を取り上げなかった。


紅茶を淹れ直し、もち丸の前に置く。


温かな湯気が立ちのぼる。


もち丸はそれを見て、今度は大げさな描写を口にしなかった。


ただ、小さく言った。


「ありがとうございます、真白さん」


真白は少しだけ驚いたように見えた。


「どういたしまして」


それだけの会話だった。


けれど、もち丸にはその一言が、今日読んだどの文章よりも深く残った。


雨は降り続いている。


本はまだ終わっていない。


文学も、たぶんまだよくわからない。


それでももち丸は思った。


わからないものを、わからないまま大事にすること。


言葉にできないもののそばに、何度も言葉を置いてみること。


そして、隣にいる人の何気ない一言を、心の中で何度も読み返してしまうこと。


それが文学なら。


自分はきっと、ずいぶん前から文学の中にいたのだ。


「真白さん」


「はい」


「僕、文学が少し好きになりました」


「それは何よりです」


「でも、真白さんの方が好きです」


「比較しないでください」


「文学より真白さん」


「読みなさい」


「はい」


もち丸は本に目を戻した。


真白は静かに紅茶を飲んだ。


雨音とページをめくる音が、部屋の中で重なる。


それはただの雨の日だった。


ただの朝で、ただの読書で、ただの会話だった。


けれどもち丸にとっては、そのすべてが少しだけ物語のように思えた。


そして真白にとっても。


ほんの少しだけ。


悪くない朝だった。

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