もち丸と文学
「真白さん」
朝食後のリビングには、紅茶の香りが静かに広がっていた。
窓の外は薄曇りで、庭の木々は風に揺れるでもなく、ただそこに立っている。何かが起こりそうで、しかし何も起こらない。そういう朝だった。
西園寺もち丸は、やけに神妙な顔でソファに座っていた。
真白はその顔を見ただけで、だいたいの事情を察した。
神妙な顔。
真剣な目。
意味ありげに組まれた指。
これは、ろくなことを考えていない時のご主人である。
「なんでしょうか、ご主人」
「文学とは何でしょうか」
真白は紅茶を注ぐ手を止めた。
かすかに、銀のポットが傾いたまま静止する。
「急ですね」
「人はいつだって、急に文学に目覚めるものです」
「昨日はポテトチップスの袋に残った粉を、いかに美しく食べるかについて語っていましたよね」
「それも文学です」
「違います」
「袋の底に残された塩。届きそうで届かない指先。最後の一口に人間の欲望が凝縮されている。これはもう文学でしょう」
「行儀の悪さです」
「真白さん、文学とは視点なのです」
「都合の悪いことを視点で包まないでください」
真白はポットを戻し、もち丸の前にカップを置いた。
琥珀色の紅茶が、白いカップの中で静かに揺れる。
もち丸はそれをじっと見つめた。
「ほら」
「何がですか」
「今の真白さんの動作です」
「紅茶を置いただけです」
「違います。白い指先が陶器の縁に添えられ、朝の光を吸った紅茶が、僕の前に静かに差し出される。その瞬間、世界は一杯の紅茶に収束した」
「大袈裟です」
「文学です」
「ご主人の視線が入ると、普通の動作が少し気持ち悪くなりますね」
「文学的粘性です」
「その言葉を定着させないでください」
もち丸は紅茶を一口飲んだ。
そして、深く息を吐いた。
「僕は思ったんです」
「はい」
「文学的な男になりたいと」
真白は少しだけ眉を動かした。
「文学的な男」
「はい。窓辺で本を読み、雨音に耳を澄ませ、ふと遠い目をするような男です」
「まず、窓辺で本を読む前に仕事をしてください」
「仕事は現実です。文学は現実の向こう側です」
「現実から逃げる口実として文学を使うのは、作家の方々に失礼です」
「ぐうの音も出ない正論」
もち丸は胸を押さえた。
「真白さんの正論は、いつも僕の胸にまっすぐ刺さりますね」
「刺しているつもりはありません」
「刺さるんです。真白さんは言葉のナイフ使いです」
「では、そのまま仕事机まで切り開いて差し上げましょうか」
「文学の話をしましょう」
「逃げましたね」
もち丸は姿勢を正した。
「では真白さんに質問です。文学とは何ですか」
真白はすぐには答えなかった。
カップを持ち上げ、紅茶の表面を見つめる。
もち丸はその沈黙さえ、ありがたいもののように見つめていた。
やがて真白は静かに言った。
「言葉にできないものを、言葉にしようとすることではないでしょうか」
もち丸は目を丸くした。
「……急に本物が出てきた」
「本物とは」
「僕がふわっと投げた話に、真白さんが急に芯のある答えを返してくる現象です」
「質問されたので答えただけです」
「そこなんです」
「どこですか」
「真白さんは、たまに何気なく文学そのものみたいなことを言うんです」
真白は小さく息をついた。
「ご主人の文学の基準が少し心配です」
「でも、今のは本当に良かったです。言葉にできないものを、言葉にしようとすること」
もち丸は何度かその言葉を口の中で転がした。
「たしかに、好き、という言葉だけでは足りない時がありますよね」
「なぜ急にそちらへ行くんですか」
「僕の中で一番わかりやすい言葉にできないものが、真白さんへの気持ちだからです」
「重いですね」
「重さは愛の質量です」
「物理に謝ってください」
もち丸は真白を見た。
真白は涼しい顔をしている。
いつものように整った姿勢で立ち、いつものように淡々としていて、いつものように美しい。
けれど、その「いつものように」を言葉にしようとすると、急に難しくなる。
白い肌。
整った顔立ち。
静かな目。
涼やかな声。
無駄のない所作。
そういう言葉をいくら積み上げても、目の前の真白には届かない。
「真白さん」
「はい」
「僕は今、文学が少しわかった気がします」
「本当ですか」
「はい。真白さんを説明しようとすると、言葉が足りないんです」
「私を説明する必要はありません」
「あります。僕の心の整理に必要です」
「でしたら、心の中だけでお願いします」
「それができたら文学は生まれません」
「生まれなくて結構です」
もち丸はテーブルの上に置かれていた一冊の本を手に取った。
昨日、真白が選んでくれた薄い文庫本だった。
まだ栞は序盤に挟まっている。
「僕は昨日、この本を読みました」
「三ページで寝ていましたね」
「三ページ読みました」
「言い方を変えただけです」
「でも、その三ページの中に気になる一文があったんです」
真白は少し意外そうにした。
「どの一文ですか」
もち丸は本を開き、栞のあたりを探した。
しばらくページをめくる。
そして、少し困った顔をした。
「見つかりません」
「文学以前の問題ですね」
「でも、たしかにあったんです。何でもない風景なのに、なんだか胸に残る一文が」
「それはよい読書です」
「そうなんですか」
「はい。全部を理解できなくても、一文だけ残ることがあります。その一文が、後になって意味を持つこともあります」
もち丸は本を閉じた。
「真白さんみたいですね」
「また私ですか」
「はい。真白さんも、たまに何でもない一言が後から効いてくるんです」
「たとえば」
「『仕事をしてください』」
「ただの業務命令です」
「でも、そこには信頼がある」
「ありません」
「仕事をしろと言うのは、僕が仕事をできると信じているからです」
「仕事をしてほしいからです」
「そして『紅茶を淹れました』」
「事実報告です」
「そこには優しさがある」
「業務です」
「『風邪をひきますよ』」
「注意です」
「そこには愛がある」
「健康管理です」
「真白さんの言葉は、表面上は業務連絡。でも行間に愛がある」
真白はわずかに目を細めた。
「ご主人」
「はい」
「それは読解ではなく、願望です」
「文学的読解です」
「都合のいい読解です」
「読者の自由です」
「作者の意図を無視しすぎです」
もち丸ははっとしたように顔を上げた。
「そうか。真白さんは作者なんですね」
「何の話ですか」
「真白さんという作品の作者は真白さん自身です。でも僕は読者として真白さんを読んでいる。作者の意図と読者の解釈がズレる。そこに文学が生まれる」
「私は作品ではありません」
「しかし解釈は発生しています」
「発生させないでください」
もち丸は楽しそうに笑った。
真白は呆れたように見ている。
いつもの光景だった。
けれどその朝のもち丸は、ただふざけているだけではなかった。
彼は本当に、何かを掴みかけている顔をしていた。
「でも、不思議ですね」
「何がですか」
「文学って、嘘なのに本当みたいです」
真白は黙って続きを待った。
もち丸は本の表紙を指で撫でた。
「小説に出てくる人物は実在しない。そこで起こる事件も、たぶん嘘です。でも読んでいると、本当にその人が悲しんでいるような気がする。存在しない人の言葉に、自分が傷ついたり救われたりする」
「はい」
「それってすごいですよね。嘘でできているのに、心には本当に届く」
真白の目元が、ほんの少し柔らかくなった。
「よいところに気づきましたね」
「褒めました?」
「少しだけ」
「真白さんが褒めた」
「撤回します」
「早い」
もち丸は大事そうに本を抱えた。
「でも僕、そこが好きです。文学って、嘘なのに誠実なんです」
「誠実」
「はい。たとえば僕が『真白さんは天使です』と言うと、これは事実としては嘘です」
「当然です」
「でも僕の感情としては、かなり本当です」
「かなり」
「真白さんが朝、カーテンを開けてくれる。部屋に光が入る。僕は思う。あ、天使が朝を連れてきた、と」
「寝ぼけていますね」
「文学です」
「便利な言葉になっていますね」
「でも、そういう嘘は悪くないと思うんです。現実を騙す嘘じゃなくて、現実を別の角度から照らす嘘」
真白は少しだけ黙った。
「……それは、かなり文学的な考え方です」
「また褒めた!」
「騒がないでください」
もち丸は嬉しそうに肩を揺らした。
「僕、文豪になれるかもしれません」
「今ので台無しです」
「文豪もち丸」
「響きが軽いですね」
「代表作は『真白さん讃歌』」
「出版差し止めです」
「続編は『続・真白さん讃歌』」
「一作目の時点で止めます」
「三部作構想なんですが」
「構想段階で焼却します」
「焚書だ」
「生活防衛です」
もち丸は笑った。
真白も、ほんのわずかに口元を緩めた。
その小さな変化を、もち丸は見逃さない。
「今、笑いましたね」
「笑っていません」
「笑いました」
「気のせいです」
「文学において、気のせいは重要です」
「ご主人の観察眼は、都合の良い時だけ鋭いですね」
「真白さんの笑顔は希少資料ですから」
「保管しないでください」
「心に保管しました」
「削除してください」
「バックアップ済みです」
「厄介ですね」
そんな会話をしているうちに、窓の外で小さな音がした。
ぽつ。
雨粒だった。
一粒、二粒と庭石に落ち、やがて葉の上で細かな音を立て始める。
もち丸は窓の外を見た。
「真白さん、雨です」
「雨ですね」
「文学が来ました」
「気象現象です」
「でも、文学作品って大事な場面で雨が降るじゃないですか」
「演出として多いだけです」
「つまり今は大事な場面です」
「ご主人が仕事を始めるなら、大事な場面ですね」
「雨の日の仕事は詩的ではありません」
「晴れの日もしていません」
「逃げ場がない」
真白はソファの近くに立ち、窓の外を見た。
雨に濡れた庭は、朝よりも少し色を深くしている。
木の葉は重たげに垂れ、灰色の空の下で静かに光っていた。
もち丸はその横顔を見上げた。
真白は雨を見る時、少しだけ表情が変わる。
寂しそうというほどではない。
嬉しそうというほどでもない。
ただ、いつもの冷静さの中に、遠いものを見るような静けさが混ざる。
もち丸は思った。
こういう顔を、何と書けばいいのだろう。
綺麗。
静か。
儚い。
どれも違う。
どれも近いけれど、届かない。
「真白さん」
「はい」
「雨、好きですか」
「嫌いではありません」
「好き寄りですか」
「少し」
「なぜですか」
真白はしばらく雨を見ていた。
「音が、余計なものを消してくれる気がするからです」
もち丸は黙った。
真白は続けた。
「雨の日は、外の世界が少し遠くなります。道を歩く人の声も、車の音も、輪郭がぼやける。部屋の中にいると、自分のいる場所だけが小さく切り取られたように感じます」
もち丸はゆっくり頷いた。
「それ、すごく文学です」
「ただの感想です」
「真白さんのただの感想は、僕には文学なんです」
「困った読者ですね」
「はい。僕は真白さんの困った読者です」
真白は少しだけもち丸を見た。
「では、読者として質問します」
「はい」
「私を読んで、今の私は何を考えていると思いますか」
もち丸は姿勢を正した。
難問である。
真白の表情はいつも静かで、読み解くにはかなりの熟練を要する。
しかし、もち丸は真白の読者として日々鍛えられている。
紅茶を出す角度。
ため息の深さ。
返事までの間。
眉のほんのわずかな動き。
すべてが文字であり、句読点であり、行間である。
もち丸は真剣に考えた。
「真白さんは今、こう思っています」
「どうぞ」
「ご主人は本当に面倒な人だ。文学などと言いながら、結局は私のことばかり話している。しかし、雨の日にこうしてくだらない話を聞くのも、悪くはない。紅茶もまだ温かい。もう少しだけ、このままでもよいかもしれない」
真白は何も言わなかった。
雨の音が、二人の間に落ちる。
もち丸は少し不安になった。
「どうでしょう」
「六十五点です」
「低くはない」
「前回より下がりました」
「どこが違いましたか」
真白はカップを持ち上げ、静かに紅茶を飲んだ。
そして、何でもないように言った。
「『くだらない話』の部分は正解です」
「そこだけ?」
「それから」
「それから?」
「『悪くはない』も、まあ、間違いではありません」
もち丸は一瞬、固まった。
次の瞬間、両手で顔を覆った。
「真白さん」
「はい」
「今のはずるいです」
「何がでしょう」
「そんな一文を突然差し込まれると、読者は死にます」
「死なないでください」
「今、心の余白に深々と刺さりました」
「また刺さったんですね」
「刺さりました。栞を挟みたい」
「挟まないでください」
もち丸は顔を覆ったまま、ソファに沈み込んだ。
真白はその様子を見て、ほんの少しだけ目を細めた。
「ご主人」
「はい」
「文学的な男になりたいのでしたら、まずは本を最後まで読んでください」
「真白さんを読むので忙しいです」
「私は読書対象ではありません」
「でも難解で、魅力的で、何度読んでも新しい発見があります」
「そういうことを言う時間で、一章読めます」
「現実的」
「文学は現実から逃げるためだけのものではありません」
真白は本を一冊取り、もち丸の膝の上に置いた。
「読んでください」
「今ですか」
「今です」
「真白さんが隣で?」
「監視します」
「それは読書会というより検閲です」
「ご主人にはそのくらいが必要です」
もち丸は本を開いた。
文字が並んでいる。
黒い文字。
白い紙。
当たり前のはずなのに、その日は少し違って見えた。
一行目を読む。
二行目を読む。
三行目で、いつものように真白を見たくなる。
しかし真白が静かにこちらを見ていたので、もち丸は慌てて本に視線を戻した。
「読んでください」
「はい」
雨の音がする。
紅茶の香りがする。
ページをめくる音がする。
真白は隣に座ってはいない。
少し離れた椅子に座り、背筋を伸ばしている。
近すぎず、遠すぎず。
もち丸が顔を上げれば見える距離。
けれど、手を伸ばしても届かない距離。
その距離感まで、真白らしい。
もち丸は少しずつ読み進めた。
物語の中では、知らない町に雨が降っていた。
主人公は何かを失っていた。
それが何なのか、もち丸にはまだよくわからない。
けれど、その人が雨の音を聞きながら、誰にも言えないことを胸に抱えているのだけはわかった。
もち丸は思った。
言葉にできないものを、言葉にしようとすること。
真白が言った言葉。
それは、たぶんこういうことなのだ。
悲しい、と書くだけでは足りない。
寂しい、と書くだけでも足りない。
だから雨を降らせる。
部屋を暗くする。
紅茶を冷ます。
窓に映った顔を見せる。
そうやって、言葉にならないものの周りに、いくつもの言葉を置いていく。
中心には触れられない。
けれど、その輪郭が少しずつ見えてくる。
「真白さん」
「はい」
「少しだけ、わかった気がします」
「何がですか」
「文学って、中心を直接言わないんですね」
真白はもち丸を見た。
もち丸は本を開いたまま続けた。
「本当に言いたいことがある。でもそれをそのまま言うと、たぶん壊れてしまう。だから別のものを置く。雨とか、紅茶とか、沈黙とか、後ろ姿とか」
真白は静かに聞いていた。
「好き、って言えば簡単だけど、それだけでは足りない時がある。寂しい、って言えば伝わるけど、それだけでは軽くなる時がある。だから物語にする。遠回りする。行間に置く」
もち丸は少し照れたように笑った。
「僕はいつも、真白さんに好きって言っていますけど」
「はい。かなり頻繁に」
「でも、たぶんそれだけでは足りないんです」
真白は目を伏せた。
「……そうですか」
「はい。だから僕は、くだらないことを言ってしまうんです」
「それは文学のせいではありません」
「違いますか」
「ご主人の性格です」
「厳しい」
「ですが」
真白は少しだけ間を置いた。
「そのくだらない言葉の中に、ご主人なりの本心が混ざっていることくらいは、わかっています」
もち丸は本を落としそうになった。
「真白さん」
「はい」
「それは、かなり危険な一文です」
「何がですか」
「読者が一生忘れられなくなるタイプの一文です」
「では忘れてください」
「無理です。心に傍線を引きました」
「消してください」
「蛍光ペンです」
「厄介な読者ですね」
もち丸は嬉しそうに笑い、また本に視線を落とした。
雨はまだ降っている。
物語の中の雨と、窓の外の雨が重なる。
現実と嘘の境目が、少しだけ曖昧になる。
存在しない主人公の孤独が、もち丸の胸にほんの少し移ってくる。
そしてその孤独の向こう側に、椅子に座る真白の気配がある。
もち丸は思う。
たぶん、文学は一人で読むものだ。
けれど、一人で読んだものを誰かと分け合えた時、そこにはまた別の何かが生まれる。
同じ本を読んでも、同じ場所で立ち止まるとは限らない。
同じ一文に救われるとは限らない。
それでも、どこで立ち止まったのかを話すことはできる。
自分が何に傷ついたのか。
何を美しいと思ったのか。
何を思い出したのか。
そういうことを、少しだけ誰かに渡すことができる。
「真白さん」
「今度は何ですか」
「読み終わったら、感想を言ってもいいですか」
「もちろんです」
「たぶん、めちゃくちゃになります」
「ご主人の感想は、いつもだいたいめちゃくちゃです」
「でも聞いてくれますか」
真白は少しだけ視線を柔らかくした。
「聞きます」
その一言で、もち丸はまた本を閉じそうになった。
「真白さん」
「閉じないでください」
「まだ何も言ってないのに」
「顔でわかります」
「僕という本を読んでいる」
「非常に単純な本です」
「真白さんに読まれているなら本望です」
「いいから読みなさい」
「はい」
もち丸は再びページをめくった。
雨の音は、相変わらず部屋の外を満たしている。
けれど、部屋の中は静かで温かい。
紅茶は少し冷めてきた。
それでも、まだ飲める。
真白は何も言わずに座っている。
もち丸も、しばらく何も言わなかった。
いつもの彼からすれば、かなり珍しいことだった。
真白は本を読むもち丸を見た。
真剣というには、少し表情が忙しい。
眉を寄せたり、首を傾げたり、納得したように頷いたりしている。
たぶん半分も理解していない。
けれど、何かを受け取ろうとしている。
その姿は、少しだけ不器用で、少しだけ可笑しくて、そして少しだけ悪くなかった。
もち丸がページをめくる。
雨が降る。
紅茶が冷める。
何も特別なことは起きていない。
けれど、その何も起きていない時間が、なぜか静かに残っていく。
やがてもち丸は顔を上げた。
「真白さん」
「はい」
「文学って、難しいですね」
「そうですね」
「でも、嫌いじゃないです」
「それはよかったです」
「ただ」
「ただ?」
もち丸は真剣な顔で言った。
「真白さんの方が難しいです」
真白は一瞬だけ黙った。
それから、深くため息をついた。
「結局そこに戻るんですね」
「はい。僕の文学は真白さんに始まり、真白さんに終わります」
「狭い文学ですね」
「でも深いです」
「自分で言わないでください」
「真白さんという一冊を、僕は一生かけて読みたい」
真白は少しだけ目を伏せた。
雨音が、その沈黙をやわらかく包む。
やがて真白は、静かに言った。
「でしたら」
「はい」
「誤読はほどほどにしてください」
もち丸はぱっと笑った。
「つまり、読むこと自体は許された?」
「そういう解釈をするところが誤読です」
「行間を読みました」
「行間を捏造しましたね」
「文学です」
「便利な言葉にしすぎです」
それでも、真白は本を取り上げなかった。
紅茶を淹れ直し、もち丸の前に置く。
温かな湯気が立ちのぼる。
もち丸はそれを見て、今度は大げさな描写を口にしなかった。
ただ、小さく言った。
「ありがとうございます、真白さん」
真白は少しだけ驚いたように見えた。
「どういたしまして」
それだけの会話だった。
けれど、もち丸にはその一言が、今日読んだどの文章よりも深く残った。
雨は降り続いている。
本はまだ終わっていない。
文学も、たぶんまだよくわからない。
それでももち丸は思った。
わからないものを、わからないまま大事にすること。
言葉にできないもののそばに、何度も言葉を置いてみること。
そして、隣にいる人の何気ない一言を、心の中で何度も読み返してしまうこと。
それが文学なら。
自分はきっと、ずいぶん前から文学の中にいたのだ。
「真白さん」
「はい」
「僕、文学が少し好きになりました」
「それは何よりです」
「でも、真白さんの方が好きです」
「比較しないでください」
「文学より真白さん」
「読みなさい」
「はい」
もち丸は本に目を戻した。
真白は静かに紅茶を飲んだ。
雨音とページをめくる音が、部屋の中で重なる。
それはただの雨の日だった。
ただの朝で、ただの読書で、ただの会話だった。
けれどもち丸にとっては、そのすべてが少しだけ物語のように思えた。
そして真白にとっても。
ほんの少しだけ。
悪くない朝だった。




