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12/15

もち丸と夢

「真白さん」


朝食後。


窓から差し込む光は柔らかく、庭の木々はまだ眠たげに揺れていた。食卓には焼きたてのトーストと、半熟の目玉焼きと、真白が淹れた紅茶が並んでいる。


本来であれば、穏やかな朝だった。


ただし、もち丸がやけに神妙な顔をしていなければ、の話である。


もち丸は紅茶のカップを両手で包み込み、まるで世界の真理について考え込んでいる哲学者のような顔をしていた。


真白は、その顔を見ただけで少しだけ警戒した。


こういう時のもち丸は、大抵しょうもない。


しかも本人は、そのしょうもなさを非常に大切に抱えている。


「はい。なんでしょうか、ご主人様」


「夢って、不思議だと思いませんか」


「将来の夢の方ですか」


「いえ」


もち丸は静かに首を横に振った。


「寝ている時にみる方です」


「そちらでしたか」


真白は紅茶を一口飲んだ。


「昨晩、何か夢でも見たのですか」


「見ました」


「どのような夢を?」


「真白さんが出てきました」


「そうですか」


「そして僕に言ったんです」


「なんと?」


もち丸は深く息を吸った。


それから、低く重々しい声で言った。


「仕事をしてください、と」


真白は表情を変えなかった。


「現実ですね」


「夢です」


「内容は現実です」


「寝ている時くらい、労働から解放されてもよくないですか」


「普段からかなり解放されているように見えますが」


「そんなことはありません。僕はいつだって仕事に追われています」


「仕事に追われている方は、仕事から逃げる速度がもう少し遅いものです」


「真白さん。僕は逃げているのではありません」


もち丸は胸に手を当てた。


「仕事との距離感を大切にしているのです」


「距離を取りすぎて、もはや別居状態です」


「それでも心は繋がっています」


「仕事側が否定していると思います」


もち丸は少しだけ傷ついた顔をした。


しかし、その表情は長く続かなかった。彼は再び真剣な顔に戻る。


「でも、考えてみてください」


「はい」


「夢の中の真白さんが、現実の真白さんと同じことを言う。これはつまり、真白さんという存在が僕の深層心理にまで浸透しているということです」


「仕事をしなければならないという当然の認識が、ようやくご主人様の深層心理に届いただけでは?」


「違います。これは愛です」


「違います。生活習慣の警告です」


「夢の中でも真白さんに会えるなんて、僕は幸せ者ですね」


「夢の中でも仕事を促されるなんて、相当追い詰められていますね」


「真白さんの解釈、常に労働基準監督署みたいですね」


「ご主人様の生活態度が常に監査対象だからです」


もち丸は少し口を尖らせた。


「でも、夢って本当にすごいと思うんです」


「急にまともな話に戻りましたね」


「だって夢の中では、当たり前のことが当たり前ではなくなるんですよ。空を飛んでも変ではない。昔亡くなった人に会っても不思議ではない。場所も時間もぐちゃぐちゃなのに、夢の中ではなぜか納得している」


「確かに、夢の中では矛盾を矛盾として認識しにくいですね」


「つまり、夢とは脳が作った小さな世界なんです」


「それは比較的まともな見解です」


「そしてその小さな世界に、真白さんが出てくる」


「はい」


「ということは、真白さんは僕の世界の基礎構造に組み込まれている」


「急に危険な方向へ行きましたね」


「真白さんは僕の夢のOSなんです」


「今すぐ再起動してください」


「真白OSです」


「不正なアプリケーションを削除します」


「それ、僕ですか」


「心当たりがあるのですね」


もち丸は黙った。


沈黙は短かった。


「ちなみに夢の中の真白さんは、現実の真白さんより少し優しかったです」


「そうですか」


「仕事をしてください、と言いながら毛布をかけてくれました」


「寝ている相手に仕事を促すのは矛盾していますね」


「そこが夢なんです」


「ご主人様にとって都合のいい部分だけ夢扱いしないでください」


「でも、夢の中の僕は思ったんです。これはすごいことだと」


「何がですか」


「真白さんに毛布をかけてもらいながら、仕事をしろと言われる。つまりこれは、労働と安眠の統合です」


「統合しないでください」


「働きながら休む。休みながら働く。これは現代人に必要な新しい生活様式では?」


「ただの寝落ちです」


「夢の中で仕事をしていたら、現実の仕事も進んだことになりませんか」


「なりません」


「そこをなんとか」


「なりません」


「夢の中の僕は、かなり頑張っていたんですよ」


「何をしていたのですか」


「書類に判子を押していました」


「現実でもやってください」


「でも、夢の中の書類は全部ふわふわのパンケーキだったんです」


「それは仕事ではなく朝食です」


「一枚押すごとに、シロップが染みていくんです」


「判子を押す対象として最悪ですね」


「しかも真白さんが横で、丁寧に言うんです。『ご主人様、そこはメープルです』って」


「夢の中の私は何を管理しているのですか」


「糖分です」


「現実の私も、そろそろご主人様の糖分管理をした方がよさそうですね」


もち丸の顔色が変わった。


「夢の話ですよね?」


「現実の話です」


「夢と現実の境界が曖昧になってきました」


「ご主人様の場合、都合の悪い現実を夢扱いしているだけです」


もち丸は紅茶を一口飲んだ。


そして、少しだけ視線を落とす。


「でも、夢から覚めた時って、少し寂しくありませんか」


真白は答えず、もち丸を見た。


もち丸は珍しく、ふざけた調子を少しだけ落としていた。


「夢の中では、当たり前みたいにそこにあったものが、目を覚ますとなくなっているんです。夢の中では確かに知っていた場所も、話していた人も、覚めた瞬間に遠くなる。さっきまで自分の世界だったのに、急に自分のものではなくなる」


「……そうですね」


「だから夢って、不思議というより、少しずるいです」


「ずるい?」


「はい。見せるだけ見せて、何も持ち帰らせてくれない」


部屋に、しばらく静かな時間が流れた。


庭の木に止まっていた小鳥が鳴く。


その声は現実のものだった。


夢ではなく、朝の音だった。


真白はカップを置き、静かに言った。


「何も、ではないと思います」


「そうですか?」


「夢の内容は消えても、目覚めた時の感覚は残ることがあります。嬉しかった、怖かった、懐かしかった、寂しかった。そういうものは、完全には消えません」


「真白さん」


「はい」


「今日、少し優しいですね」


「夢ではありませんよ」


「現実ですか」


「現実です」


もち丸は少しだけ目を細めた。


「では、現実の真白さんも毛布をかけてくれますか」


「今は朝です」


「朝の毛布も乙なものです」


「仕事をしてください」


「やっぱり現実ですね」


真白は淡々と書類をもち丸の前に置いた。


それは昨日のうちに片付ける予定だった書類だった。


つまり、もち丸が昨日のうちに片付けなかった書類である。


もち丸はそれをじっと見つめた。


「真白さん」


「はい」


「この書類、パンケーキではありませんね」


「紙です」


「メープルは?」


「ありません」


「夢がないですね」


「寝ている時にみる方の夢なら、昨晩済ませたのでは?」


「真白さん、上手いこと言いましたね」


「ありがとうございます。では、仕事をしてください」


もち丸はペンを持った。


しかし、すぐには書かない。


真白はそれも予想していた。もち丸は仕事を始める前に、必ず何かを言う。言うことで仕事をしたような気持ちになり、しばらく満足するのである。


「でも、思ったんです」


「まだ続きますか」


「夢の中で真白さんに会って、目が覚めたら現実にも真白さんがいる」


「はい」


「これはかなり贅沢では?」


真白は少しだけ視線を逸らした。


「……そういう解釈も、できなくはありませんね」


もち丸はにこりと笑った。


「つまり僕は、夢から覚めても夢の続きにいるわけです」


「その夢の続きでは、書類仕事があります」


「急に悪夢になりました」


「寝ている時にみる方ではなく、起きている時に片付ける方です」


「それは夢ではなく現実です」


「ようやく理解しましたね」


もち丸は深くため息をついた。


そして、ようやく一枚目の書類に手をつけた。


真白はその様子を見ながら、静かに紅茶を注ぎ足す。


もち丸の手は遅い。


非常に遅い。


一文字書くたびに、なぜか魂を削られているような顔をする。


「ご主人様」


「はい」


「名前を書く欄でそこまで苦しまないでください」


「真白さん、名前とは自己存在の証明なんです」


「住所欄もあります」


「現実は個人情報の要求が多すぎます」


「必要事項です」


「夢の中なら、名前を書かなくても僕は僕なのに」


「現実でも名前を書いてください」


もち丸は渋々、名前を書いた。


そして住所を書いた。


それから、日付の欄で止まった。


「真白さん」


「はい」


「今日は何日でしたっけ」


「そこからですか」


「夢と現実を行き来していたので、時間感覚が曖昧に」


「ただ寝て起きただけです」


真白が日付を告げると、もち丸はそれを書き込んだ。


それだけで、本人は一仕事終えたような顔をする。


「頑張りました」


「まだ一枚目です」


「夢ならここで場面転換していました」


「現実なので続きます」


「夢の編集能力が恋しいです」


「ご主人様には、現実を編集しようとする前に、まず現実を処理する能力が必要です」


「真白さん、現実に厳しすぎませんか」


「現実がご主人様に甘くないだけです」


「では真白さんは?」


「私は現実側です」


「敵ですね」


「味方です」


「仕事を持ってくる味方は、敵より恐ろしいです」


「仕事を片付けさせる味方は貴重ですよ」


もち丸はまたペンを動かした。


しばらく、紙をめくる音だけが部屋に響く。


真白はその横で立ったまま、もち丸の手元を見守っていた。


その姿は、夢の中で毛布をかけてくれた真白とは少し違う。


現実の真白は、毛布ではなく書類を差し出す。


甘やかすより先に、整える。


慰めるより先に、背筋を伸ばさせる。


それでも、もち丸は思う。


この人が現実側にいてくれるなら、現実もそこまで悪くないのではないかと。


「真白さん」


「はい」


「夢の中の真白さんは、僕に優しく毛布をかけてくれました」


「何度も聞きました」


「現実の真白さんは、僕に厳しく書類を出してきます」


「はい」


「どちらが本物の真白さんなのでしょう」


真白は少し考えた。


「どちらも、ご主人様が見たものなら、ご主人様にとっては真白さんなのではないですか」


もち丸は目を丸くした。


「真白さん」


「はい」


「今日、やっぱり優しいですね」


「気のせいです」


「いえ、これはかなりの優しさです。真白さん史に残る優しさです」


「歴史にしないでください」


「真白さん優しさ元年です」


「改元しないでください」


「では、真白さん慈愛暦」


「ご主人様の書類処理が一枚進むごとに、一日進めてください」


「暦が止まりますよ」


「自覚があるなら進めてください」


もち丸は笑いながら、また書類に向かった。


少しずつ、少しずつ。


本当に少しずつだが、書類は進んでいった。


やがて昼前になった頃、もち丸は椅子にもたれかかり、大きく息を吐いた。


「真白さん」


「はい」


「僕はもう限界です」


「まだ午前中です」


「精神的には三日働きました」


「実働は四十分ほどです」


「夢ならここで真白さんが褒めてくれます」


「現実でも褒めますよ」


もち丸はぴくりと反応した。


「本当ですか」


「はい。先ほどよりは進みました。よく頑張りましたね」


もち丸は固まった。


まるで予想外のところから光を浴びた小動物のように、じっと真白を見つめる。


「真白さん」


「はい」


「今の、もう一回いいですか」


「嫌です」


「録音しておけばよかった」


「仕事中に録音機材を構えないでください」


「夢じゃないですよね」


「現実です」


「現実なのに褒められました」


「現実でも、必要な時は褒めます」


「真白さん」


「はい」


「僕は今、夢と現実の境界で揺れています」


「椅子の上で揺れないでください。危ないです」


もち丸は胸に手を当てた。


「なるほど。夢とは、現実にないものを見ることではないんですね」


「と、言いますと?」


「現実では見落としてしまうものを、別の形で見ることなのかもしれません」


真白は少しだけ目を細めた。


「随分と詩的ですね」


「真白さんに褒められたので、脳が詩を生成しています」


「単純ですね」


「真白さんが僕の夢に出てくるのも、きっとそうなんです。僕は普段から真白さんを見ています。でも夢の中では、現実とは違う角度で真白さんを見る。毛布をかけてくれる真白さん。仕事を促す真白さん。メープルを管理する真白さん」


「最後の私は不要では?」


「夢に不要なものなどありません」


「夢だからこそ不要なものが混ざるのでは」


もち丸は少し笑った。


「でも、夢の中でも現実でも、真白さんは真白さんでした」


「それは、どういう意味ですか」


「どこにいても、ちゃんと僕を現実に戻してくれるということです」


真白は一瞬、何も言わなかった。


もち丸はその沈黙を見て、少し慌てた。


「今の、結構いいことを言いましたよね」


「自分で言わなければ、もう少し良かったです」


「惜しかった」


「非常に惜しかったです」


「夢なら、ここで綺麗に締まっていました」


「現実なので、ご主人様が台無しにしました」


「現実って難しいですね」


「だからこそ、きちんと向き合う価値があります」


真白はそう言って、残りの書類を整えた。


「では、あと三枚です」


「急に現実を増やさないでください」


「元からありました」


「僕の認識からは消えていました」


「夢ではなく怠慢です」


「厳しい」


もち丸はまた机に向かった。


しかし今度は、さっきより少しだけ素直にペンを動かした。


窓の外では、朝だった光が昼の明るさに変わっていく。


夢は覚める。


どんなに楽しい夢も、寂しい夢も、意味のわからない夢も、やがて輪郭を失っていく。


けれど、夢から覚めた先に誰かがいるなら。


「仕事をしてください」と言いながらも、紅茶を淹れてくれる人がいるなら。


毛布の代わりに現実を差し出してくれる人がいるなら。


それは案外、夢よりもずっと温かいのかもしれない。


もち丸は最後の一枚に判を押した。


「終わりました」


「お疲れ様です」


真白が静かに言う。


もち丸は机に突っ伏した。


「真白さん」


「はい」


「今夜も夢に出てきてくださいね」


「内容によります」


「毛布をかけてくれる感じで」


「仕事を終わらせたら考えます」


「終わらせました」


「では、善処します」


「真白さんの善処、信頼できますね」


「ご主人様の善処よりは」


「それはそう」


もち丸は顔だけを横に向け、真白を見上げた。


「でも、もし夢に出てきてくれなくても、大丈夫です」


「なぜですか」


「起きたら、現実の真白さんがいますから」


真白はほんの少しだけ目を伏せた。


「……寝坊したら起こします」


「夢の続きを?」


「現実の開始を、です」


「それも悪くないですね」


もち丸は満足そうに笑った。


そして、少しだけ目を閉じる。


真白はそれを見て、静かに言った。


「ご主人様」


「はい」


「ここで寝ないでください」


「夢について考えていたら、実践したくなりまして」


「寝室でお願いします」


「真白さんが毛布を?」


「かけません」


「夢がないですね」


「起きているので」


もち丸は名残惜しそうに体を起こした。


その顔は少し眠そうで、少し幸せそうだった。


夢の話をしていたはずなのに、結局もち丸は現実の真白に一日を整えられている。


夢の中でも、現実でも。


結局もち丸は、真白に仕事を促されている。


そしてたぶん、それをそれほど嫌がってはいない。


むしろ。


夢から覚めた先に真白がいることを、かなり気に入っている。


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