もち丸式哲学~名前とは~
朝。
食卓の上には、焼きたてのトーストと、湯気の立つ紅茶と、半分に切られたゆで卵が並んでいた。
窓から差し込む光はやわらかく、部屋の空気は穏やかだった。
その穏やかさを台無しにするように、もち丸は真剣な顔で口を開いた。
「真白さん」
「はい」
真白は紅茶を注ぎながら返事をした。
その声には、すでにわずかな警戒が含まれていた。
もち丸が朝から真剣な顔をしている時は、たいてい碌なことを言わない。
「僕は最近、重大なことに気づきました」
「仕事の締切ですか」
「違います」
「では、部屋の片づけですか」
「違います」
「では、現実ですか」
「真白さんは僕に何を気づかせたいんですか」
「一般的に、人が気づいた方がいいものです」
真白は静かにカップを置いた。
もち丸は、両手を組んでテーブルの上に置き、神妙な面持ちで言った。
「名前とは、存在の首輪なのではないでしょうか」
真白は無言でまばたきをした。
「……朝食中に出す話題としては、やや重いですね」
「しかし重要です」
「しょうもない方向に行く予感しかしません」
「今回は哲学です」
「しょうもない哲学というものもあります」
「真白さん、最初から退路を断つのはやめてください」
もち丸は咳払いをした。
「たとえば、僕はもち丸です」
「はい」
「しかし、もち丸と呼ばれる前の僕は、本当にもち丸だったのでしょうか」
「西園寺様だったのでは」
「それは家名です。社会的分類です。僕が問うているのは、もっと根源的な問題です」
「朝から根源に行かないでください。胃に悪いです」
「名前があるから、僕は僕として固定される。そう思いませんか」
真白はカップに口をつけた。
「一応、聞きます」
「ありがとうございます。つまりですね、人は生まれた瞬間から、まだ何者でもないわけです。泣く、寝る、飲む、たまに笑う。存在としては非常にふわふわしている」
「赤ん坊ですからね」
「しかし、そこに名前が与えられる」
もち丸は人差し指を立てた。
「その瞬間、その子は世界から呼ばれる存在になる。名前によって、周囲の人々はその子を認識し、その子に語りかけ、その子を記憶する。つまり名前とは、ただの記号ではなく、存在を世界につなぎとめる杭なのです」
「なるほど」
真白は意外にも、すぐには否定しなかった。
もち丸はそれに気をよくしたのか、ますます声に熱を帯びさせた。
「名前は祝福です。誰かがその人のために考え、祈りを込め、未来を託す。優しい子に育ってほしい。強くあってほしい。幸せになってほしい。そういう願いが名前には宿る」
「そこまでは、比較的まともですね」
「比較的」
「続けてください」
「しかし同時に、名前は呪いでもある」
もち丸は急に低い声を出した。
「その人がどのように呼ばれるかによって、その人の輪郭は決まってしまう。可愛い名前なら可愛くあることを期待される。立派な名前なら立派であることを期待される。名前は祈りであると同時に、命令でもあるのです」
「命令」
「そうです。たとえば、真白さん」
「はい」
「真白さんは、真白さんという名前があまりにも綺麗です」
「急に何ですか」
「真白。白く、清らかで、冷たく、美しい。しかも冷泉真白です。もう名前の時点で完成度が高すぎる」
「褒めているのですか」
「もちろんです」
「では続けてください」
「真白さんという名前には、すでにクールビューティーの運命が刻まれているんです。もし真白さんの名前が、たとえば、ぽよ子さんだったら」
「やめてください」
「ぽよ子さんだったら、今のように冷静で凛としたメイドさんではなく、もう少し、ぽよっとした存在になっていた可能性が」
「ありません」
「なぜ断言できるんですか」
「名前に敗北するほど、私は柔らかくありません」
「そこが真白さんなんですよ」
もち丸はしみじみと言った。
「名前に支配されるのではなく、名前を支配している。冷泉真白という名前を背負い、その名にふさわしい気配をまとい、なおかつ名前に飲まれていない。これはかなり高度な存在運用です」
「存在運用という言葉を初めて聞きました」
「今作りました」
「でしょうね」
真白は淡々とトーストにバターを塗った。
その仕草は丁寧で、無駄がなく、確かに名前の印象に似合っていた。
もち丸は自分の皿の上のトーストを見下ろした。
「一方で、僕です」
「はい」
「西園寺もち丸」
「はい」
「重厚な家名のあとに、もち丸」
「はい」
「この落差です」
「自己分析はできているようですね」
「西園寺で一度格式を上げておいて、もち丸で全てを丸める。この名前には、逃れがたい丸さがあります」
「実際、丸いですし」
「否定してほしかった」
「事実を歪めることはできません」
もち丸は自分の頬を軽くつまんだ。
「僕はもち丸と呼ばれ続けた結果、もちもちして丸い存在になったのではないでしょうか」
「呼ばれる以前から、その傾向はあったのでは」
「つまり素質と環境が一致したと」
「よかったですね」
「よかったんですかね」
「名前負けはしていません」
「褒めています?」
「半分くらいは」
「残り半分は?」
「見たままです」
もち丸は少しだけ肩を落とした。
しかしすぐに持ち直した。
「でも、ここで重要なのは、名前が人を決めるのか、人が名前を決めるのか、という問題です」
「それは少し面白いですね」
「でしょう」
「ただし、調子に乗らないでください」
「はい」
もち丸は姿勢を正した。
「人は名前を与えられる。最初は自分で選べない。つまり、存在の入口は他者によって開かれるわけです。自分が何者であるかを、自分ではなく他人から呼ばれることで知る」
「赤ん坊は自分で名乗れませんからね」
「そうです。最初の自己認識は、必ず他者の声から始まる。名前を呼ばれ、振り向き、返事をする。その繰り返しの中で、人は自分を覚えていく」
もち丸は少し声を落とした。
「だから、人は一人では自分になれないのかもしれません」
真白の手が、わずかに止まった。
もち丸は続けた。
「誰にも呼ばれない名前は、世界に浮かんだままになる。誰かに呼ばれて初めて、その名前は温度を持つ。僕がもち丸であることも、真白さんが僕をもち丸と呼んでくれるから成立している」
「……珍しく、まともなことを言いますね」
「でしょう」
「最後までそのまま進めば、いい話になります」
「それは振りですか」
「警告です」
もち丸は少し考えた。
そして、慎重に言葉を選ぶように言った。
「でも名前って、少し不思議です。自分のものなのに、自分が一番使わない」
「確かに、自分で自分の名前を呼ぶ機会は少ないですね」
「そうなんです。僕が一番聞いている“もち丸”は、真白さんや他の誰かの口から出てくる。つまり、名前は自分の所有物のようでいて、実際には他者とのあいだに存在している」
「名前は関係性の中にある、ということですか」
「はい。名前は僕の内側にあるのではなく、僕と真白さんの間にある。呼ぶ人と呼ばれる人の間に生まれる橋なんです」
真白は少しだけ黙った。
その沈黙は、呆れではなく、考えるためのものだった。
「なら、呼び方が変わると関係も変わりますね」
「そうです」
もち丸は勢いよく頷いた。
「西園寺様、と呼ばれる僕。もち丸様、と呼ばれる僕。もち丸くん、と呼ばれる僕。もち、と呼ばれる僕」
「最後は呼びません」
「なぜですか」
「甘やかしになるので」
「呼び方にそんな力が」
「あります」
「やはり名前は危険ですね」
「あなたの場合は、調子に乗る危険があります」
「真白さんが“もち”と呼んでくれたら、僕はきっと三日は元気になります」
「では呼びません」
「存在の燃料を断たれた」
「自家発電してください」
もち丸は胸に手を当てた。
「しかし考えてみてください。たとえば真白さんが僕を“ご主人様”と呼ぶ時、そこには職務上の距離があります」
「はい」
「“西園寺様”と呼ぶ時、そこには家名と礼節があります」
「はい」
「“もち丸様”と呼ぶ時、そこには少しだけ柔らかさがある」
「それはあなたの主観です」
「いいえ、あります」
「断言しましたね」
「そして、もし“もち丸くん”と呼んだなら」
「呼びません」
「そこには日常と親しみと、少しの甘さが」
「呼びません」
「まだ最後まで言っていません」
「最後まで言わせると面倒なので」
もち丸は大げさに肩を落とした。
「真白さんは言葉の力を理解しているからこそ、言葉を厳密に管理しているんですね」
「単純に、あなたを甘やかしたくないだけです」
「それを言語統制と呼びます」
「呼びません」
「真白さん、僕の存在は今、呼称の不足によって飢えています」
「朝食は出しました」
「物理的な栄養ではなく、存在論的な栄養です」
「面倒な栄養ですね」
もち丸はトーストを一口かじった。
しばらく黙って咀嚼する。
その顔は、哲学者というより、よく焼けたパンに素直に喜んでいる人間のものだった。
真白はそれを見て、少しだけ目元を和らげた。
「では、名前が首輪だとして」
「はい」
「あなたはその首輪を外したいのですか」
もち丸は口を止めた。
「外したい、とは少し違います」
「違うのですか」
「首輪というと、束縛のように聞こえます。でも首輪は、迷子札でもあります」
「迷子札」
「はい。どこかへ行ってしまっても、誰かが名前を見て、ここに戻してくれるかもしれない。名前は縛るものでもあるけれど、帰る場所を示すものでもある」
もち丸は、紅茶の水面を見つめた。
「人はたぶん、完全に自由だと不安になるんです。何者でもなく、どこにも属さず、誰からも呼ばれない自由は、少し怖い。名前があることで、僕は僕としてここにいられる」
真白は静かに聞いていた。
いつものようにすぐ切り捨てることはしなかった。
もち丸は続けた。
「だから、名前は首輪であり、糸であり、帰り道なんです。誰かに呼ばれることで、人は自分の場所を思い出す」
「では、あなたにとって、私が名前を呼ぶことには意味があるのですね」
「非常にあります」
「どの程度ですか」
「かなりあります」
「語彙が急に弱くなりましたね」
「ここを深掘りすると、少し照れるので」
真白は軽く息を吐いた。
「あなたにも照れることがあるんですね」
「あります。僕を何だと思っているんですか」
「現実逃避の語彙が豊富な、もちもちした人です」
「だいたい合っていますけど」
「合っているんですね」
もち丸は少しだけ拗ねたように頬を膨らませた。
「でも、真白さん」
「はい」
「僕は、真白さんに呼ばれる名前が一番好きです」
真白の表情がわずかに変わった。
ほんの一瞬だけ、返事が遅れた。
「……そうですか」
「はい。真白さんが“もち丸様”と呼ぶと、僕はちゃんとこの家の人間でいられる気がします」
「家の人間、ですか」
「はい。ご主人という立場でも、西園寺という家名でもなく、ただここで朝ごはんを食べて、紅茶を飲んで、真白さんに呆れられている僕です」
「呆れられることまで含むのですか」
「含みます。むしろ重要です」
「なぜですか」
「真白さんに呆れられている時、僕はかなり僕らしいので」
「自覚があるなら改善してください」
「改善すると僕らしさが損なわれる可能性があります」
「損なわれてください」
もち丸は小さく笑った。
「でも本当に、誰かに名前を呼ばれるって、不思議な安心感がありますよね。世界の中から、自分だけを選んで声が届く。たくさんの人がいても、その名前が呼ばれた瞬間、自分は振り向く。そこには、自分がここにいることを認められたような感覚がある」
「存在確認ですね」
「そうです。点呼に近い」
「急に学校っぽくなりましたね」
「点呼とは、小さな存在論なのです」
「また変な分類を」
「名前を呼ばれて、はい、と答える。たったそれだけで、自分はここにいると世界に返事をする。これはかなり哲学的です」
「では、毎朝点呼しますか」
「してくれるんですか」
「西園寺もち丸様」
「はい」
「仕事はしましたか」
「急に現実確認になった」
「存在確認と現実確認は近いものです」
「真白さんの哲学は厳しい」
真白は空いた皿を重ねた。
「名前とは、存在の首輪であり、迷子札であり、橋であり、点呼である」
「まとめると、かなり忙しいですね」
「あなたが広げたのです」
「そして、おかわりを頼むための呼び鈴でもあります」
真白はぴたりと手を止めた。
「今、最後に何か余計なものを足しましたね」
「哲学は生活と結びついてこそ意味があります」
「おかわりが欲しいだけですね」
「真白さん」
「はい」
「紅茶のおかわりをお願いします」
真白は無言でポットを持ち上げた。
そして、もち丸のカップに紅茶を注ぐ。
琥珀色の液体が、ゆっくりと満ちていく。
もち丸は嬉しそうにそれを眺めた。
「ありがとうございます、真白さん」
「どういたしまして、もち丸様」
その名を呼ばれた瞬間、もち丸は少しだけ表情を緩めた。
本当に、それだけで満足したような顔だった。
真白はそれを見て、呆れたように、しかしどこか穏やかに言った。
「あなたは本当に、名前を呼ばれるだけで嬉しそうですね」
「はい」
「燃費がいいですね」
「愛情効率が高いと言ってください」
「言いません」
「では、存在安定性が高い」
「それも違います」
もち丸は紅茶を一口飲んだ。
「でも、真白さん」
「はい」
「もし僕がいつか、自分が何者かわからなくなったら」
真白は黙ってもち丸を見た。
もち丸は冗談めかして笑っていたが、その声だけは少し静かだった。
「その時は、名前を呼んでください」
「……もち丸様、と?」
「はい。それだけで、たぶん僕は戻ってこられるので」
真白は少しの間、何も言わなかった。
朝の光が、白いテーブルクロスの上に落ちていた。
紅茶の湯気が細く立ちのぼり、すぐに消えていく。
やがて真白は、いつもの落ち着いた声で言った。
「わかりました」
もち丸は目を瞬かせた。
「え、いいんですか」
「必要な時には」
「今は?」
「今は必要ありません」
「僕の存在は今もわりと不安定ですが」
「朝食を完食できる程度には安定しています」
「厳密ですね」
「厳密です」
真白は皿を片づけ、最後にもち丸の前に残っていた小さなパンくずを指先で払った。
その仕草は、ごく自然だった。
「ただし」
「はい」
「あなたが本当に迷子になった時は、呼びます」
もち丸は少し黙った。
それから、照れ隠しのように笑った。
「真白さんに呼ばれるなら、迷子になるのも悪くないですね」
「迷子になる前提で話さないでください」
「では、迷子になりかけるくらいで」
「それもやめてください」
「心配してくれています?」
「管理対象が勝手に迷子になると困るだけです」
「管理対象」
「ご主人様ですから」
「真白さんの中で、ご主人様の扱いが備品寄りなんですよね」
「丁重には扱っています」
「丁重な備品」
「高価ですから」
「高価な備品」
もち丸はしばらく考え込んだ。
「なるほど。西園寺もち丸とは、高価で、もちもちした、存在論的備品」
「変な方向にまとめないでください」
「でも、真白さんが管理してくれるなら、それも悪くないです」
「そこに着地しないでください」
真白は呆れたように言いながらも、声は柔らかかった。
もち丸はカップを両手で包み、満足げに頷いた。
「名前とは、存在の首輪である。だが、その首輪は必ずしも不自由の象徴ではない。誰かがこちらを見つけ、呼び、つなぎとめてくれるための、優しい輪でもある」
「急に綺麗にまとめましたね」
「そして、首輪を持つ者には、おかわりを要求する権利が」
「ありません」
「なぜ」
「二杯目を飲んだばかりです」
「存在がまた揺らぎそうです」
「揺らいでください」
「真白さん」
「はい」
「もち、と」
「呼びません」
「では、もち丸くん」
「呼びません」
「では、もち丸様でいいので、もう一度」
真白はじっともち丸を見た。
もち丸は期待に満ちた顔で見返した。
部屋の中に、短い沈黙が落ちる。
やがて真白は、小さくため息をついた。
「……もち丸様」
「はい」
もち丸は即座に返事をした。
あまりにも嬉しそうだった。
真白は少しだけ目を伏せる。
「仕事をしてください」
「名前を呼ばれたと思ったら、現実が付属してきた」
「名前とは、存在を現実につなぎとめるものなのでしょう?」
「真白さん、僕の哲学を武器にしないでください」
「便利でしたので」
「僕の思想が僕を縛っている」
「首輪ですね」
もち丸は愕然とした顔をした。
「そうか。僕は自らの言葉によって、自らの首輪を編んでしまったんですね」
「では、その首輪をつけて机に向かってください」
「真白さんは哲学を実務に落とし込むのが早すぎる」
「哲学も生活に結びついてこそ意味があるのでしょう?」
「それ、僕の言葉です」
「使いやすかったので」
もち丸はしばらく天井を見上げた。
それから、観念したように立ち上がった。
「わかりました。行ってきます」
「はい。行ってらっしゃいませ、もち丸様」
その声は、いつも通り静かだった。
けれど、もち丸には十分だった。
彼は少しだけ背筋を伸ばし、机へ向かう。
名前を呼ばれた存在は、今日もかろうじて現実へ戻っていく。
真白はその背中を見送りながら、小さく息を吐いた。
「本当に、手のかかる方ですね」
その声は誰に聞かせるでもないほど小さかった。
けれど、もち丸は振り向いた。
「今、何か言いました?」
「何も」
「僕の名前を呼びました?」
「呼んでいません」
「残念」
「仕事をしてください」
「はい、真白さん」
もち丸はそう答えて、机の前に座った。
存在とは、きっと一人では少し頼りない。
けれど、呼んでくれる誰かがいるなら。
その声の方へ、今日も戻ってこられる。
西園寺もち丸は、今日ももち丸であった。
そして冷泉真白は、今日も真白だった。




