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11/15

もち丸式哲学~名前とは~

朝。


食卓の上には、焼きたてのトーストと、湯気の立つ紅茶と、半分に切られたゆで卵が並んでいた。


窓から差し込む光はやわらかく、部屋の空気は穏やかだった。


その穏やかさを台無しにするように、もち丸は真剣な顔で口を開いた。


「真白さん」


「はい」


真白は紅茶を注ぎながら返事をした。


その声には、すでにわずかな警戒が含まれていた。


もち丸が朝から真剣な顔をしている時は、たいてい碌なことを言わない。


「僕は最近、重大なことに気づきました」


「仕事の締切ですか」


「違います」


「では、部屋の片づけですか」


「違います」


「では、現実ですか」


「真白さんは僕に何を気づかせたいんですか」


「一般的に、人が気づいた方がいいものです」


真白は静かにカップを置いた。


もち丸は、両手を組んでテーブルの上に置き、神妙な面持ちで言った。


「名前とは、存在の首輪なのではないでしょうか」


真白は無言でまばたきをした。


「……朝食中に出す話題としては、やや重いですね」


「しかし重要です」


「しょうもない方向に行く予感しかしません」


「今回は哲学です」


「しょうもない哲学というものもあります」


「真白さん、最初から退路を断つのはやめてください」


もち丸は咳払いをした。


「たとえば、僕はもち丸です」


「はい」


「しかし、もち丸と呼ばれる前の僕は、本当にもち丸だったのでしょうか」


「西園寺様だったのでは」


「それは家名です。社会的分類です。僕が問うているのは、もっと根源的な問題です」


「朝から根源に行かないでください。胃に悪いです」


「名前があるから、僕は僕として固定される。そう思いませんか」


真白はカップに口をつけた。


「一応、聞きます」


「ありがとうございます。つまりですね、人は生まれた瞬間から、まだ何者でもないわけです。泣く、寝る、飲む、たまに笑う。存在としては非常にふわふわしている」


「赤ん坊ですからね」


「しかし、そこに名前が与えられる」


もち丸は人差し指を立てた。


「その瞬間、その子は世界から呼ばれる存在になる。名前によって、周囲の人々はその子を認識し、その子に語りかけ、その子を記憶する。つまり名前とは、ただの記号ではなく、存在を世界につなぎとめる杭なのです」


「なるほど」


真白は意外にも、すぐには否定しなかった。


もち丸はそれに気をよくしたのか、ますます声に熱を帯びさせた。


「名前は祝福です。誰かがその人のために考え、祈りを込め、未来を託す。優しい子に育ってほしい。強くあってほしい。幸せになってほしい。そういう願いが名前には宿る」


「そこまでは、比較的まともですね」


「比較的」


「続けてください」


「しかし同時に、名前は呪いでもある」


もち丸は急に低い声を出した。


「その人がどのように呼ばれるかによって、その人の輪郭は決まってしまう。可愛い名前なら可愛くあることを期待される。立派な名前なら立派であることを期待される。名前は祈りであると同時に、命令でもあるのです」


「命令」


「そうです。たとえば、真白さん」


「はい」


「真白さんは、真白さんという名前があまりにも綺麗です」


「急に何ですか」


「真白。白く、清らかで、冷たく、美しい。しかも冷泉真白です。もう名前の時点で完成度が高すぎる」


「褒めているのですか」


「もちろんです」


「では続けてください」


「真白さんという名前には、すでにクールビューティーの運命が刻まれているんです。もし真白さんの名前が、たとえば、ぽよ子さんだったら」


「やめてください」


「ぽよ子さんだったら、今のように冷静で凛としたメイドさんではなく、もう少し、ぽよっとした存在になっていた可能性が」


「ありません」


「なぜ断言できるんですか」


「名前に敗北するほど、私は柔らかくありません」


「そこが真白さんなんですよ」


もち丸はしみじみと言った。


「名前に支配されるのではなく、名前を支配している。冷泉真白という名前を背負い、その名にふさわしい気配をまとい、なおかつ名前に飲まれていない。これはかなり高度な存在運用です」


「存在運用という言葉を初めて聞きました」


「今作りました」


「でしょうね」


真白は淡々とトーストにバターを塗った。


その仕草は丁寧で、無駄がなく、確かに名前の印象に似合っていた。


もち丸は自分の皿の上のトーストを見下ろした。


「一方で、僕です」


「はい」


「西園寺もち丸」


「はい」


「重厚な家名のあとに、もち丸」


「はい」


「この落差です」


「自己分析はできているようですね」


「西園寺で一度格式を上げておいて、もち丸で全てを丸める。この名前には、逃れがたい丸さがあります」


「実際、丸いですし」


「否定してほしかった」


「事実を歪めることはできません」


もち丸は自分の頬を軽くつまんだ。


「僕はもち丸と呼ばれ続けた結果、もちもちして丸い存在になったのではないでしょうか」


「呼ばれる以前から、その傾向はあったのでは」


「つまり素質と環境が一致したと」


「よかったですね」


「よかったんですかね」


「名前負けはしていません」


「褒めています?」


「半分くらいは」


「残り半分は?」


「見たままです」


もち丸は少しだけ肩を落とした。


しかしすぐに持ち直した。


「でも、ここで重要なのは、名前が人を決めるのか、人が名前を決めるのか、という問題です」


「それは少し面白いですね」


「でしょう」


「ただし、調子に乗らないでください」


「はい」


もち丸は姿勢を正した。


「人は名前を与えられる。最初は自分で選べない。つまり、存在の入口は他者によって開かれるわけです。自分が何者であるかを、自分ではなく他人から呼ばれることで知る」


「赤ん坊は自分で名乗れませんからね」


「そうです。最初の自己認識は、必ず他者の声から始まる。名前を呼ばれ、振り向き、返事をする。その繰り返しの中で、人は自分を覚えていく」


もち丸は少し声を落とした。


「だから、人は一人では自分になれないのかもしれません」


真白の手が、わずかに止まった。


もち丸は続けた。


「誰にも呼ばれない名前は、世界に浮かんだままになる。誰かに呼ばれて初めて、その名前は温度を持つ。僕がもち丸であることも、真白さんが僕をもち丸と呼んでくれるから成立している」


「……珍しく、まともなことを言いますね」


「でしょう」


「最後までそのまま進めば、いい話になります」


「それは振りですか」


「警告です」


もち丸は少し考えた。


そして、慎重に言葉を選ぶように言った。


「でも名前って、少し不思議です。自分のものなのに、自分が一番使わない」


「確かに、自分で自分の名前を呼ぶ機会は少ないですね」


「そうなんです。僕が一番聞いている“もち丸”は、真白さんや他の誰かの口から出てくる。つまり、名前は自分の所有物のようでいて、実際には他者とのあいだに存在している」


「名前は関係性の中にある、ということですか」


「はい。名前は僕の内側にあるのではなく、僕と真白さんの間にある。呼ぶ人と呼ばれる人の間に生まれる橋なんです」


真白は少しだけ黙った。


その沈黙は、呆れではなく、考えるためのものだった。


「なら、呼び方が変わると関係も変わりますね」


「そうです」


もち丸は勢いよく頷いた。


「西園寺様、と呼ばれる僕。もち丸様、と呼ばれる僕。もち丸くん、と呼ばれる僕。もち、と呼ばれる僕」


「最後は呼びません」


「なぜですか」


「甘やかしになるので」


「呼び方にそんな力が」


「あります」


「やはり名前は危険ですね」


「あなたの場合は、調子に乗る危険があります」


「真白さんが“もち”と呼んでくれたら、僕はきっと三日は元気になります」


「では呼びません」


「存在の燃料を断たれた」


「自家発電してください」


もち丸は胸に手を当てた。


「しかし考えてみてください。たとえば真白さんが僕を“ご主人様”と呼ぶ時、そこには職務上の距離があります」


「はい」


「“西園寺様”と呼ぶ時、そこには家名と礼節があります」


「はい」


「“もち丸様”と呼ぶ時、そこには少しだけ柔らかさがある」


「それはあなたの主観です」


「いいえ、あります」


「断言しましたね」


「そして、もし“もち丸くん”と呼んだなら」


「呼びません」


「そこには日常と親しみと、少しの甘さが」


「呼びません」


「まだ最後まで言っていません」


「最後まで言わせると面倒なので」


もち丸は大げさに肩を落とした。


「真白さんは言葉の力を理解しているからこそ、言葉を厳密に管理しているんですね」


「単純に、あなたを甘やかしたくないだけです」


「それを言語統制と呼びます」


「呼びません」


「真白さん、僕の存在は今、呼称の不足によって飢えています」


「朝食は出しました」


「物理的な栄養ではなく、存在論的な栄養です」


「面倒な栄養ですね」


もち丸はトーストを一口かじった。


しばらく黙って咀嚼する。


その顔は、哲学者というより、よく焼けたパンに素直に喜んでいる人間のものだった。


真白はそれを見て、少しだけ目元を和らげた。


「では、名前が首輪だとして」


「はい」


「あなたはその首輪を外したいのですか」


もち丸は口を止めた。


「外したい、とは少し違います」


「違うのですか」


「首輪というと、束縛のように聞こえます。でも首輪は、迷子札でもあります」


「迷子札」


「はい。どこかへ行ってしまっても、誰かが名前を見て、ここに戻してくれるかもしれない。名前は縛るものでもあるけれど、帰る場所を示すものでもある」


もち丸は、紅茶の水面を見つめた。


「人はたぶん、完全に自由だと不安になるんです。何者でもなく、どこにも属さず、誰からも呼ばれない自由は、少し怖い。名前があることで、僕は僕としてここにいられる」


真白は静かに聞いていた。


いつものようにすぐ切り捨てることはしなかった。


もち丸は続けた。


「だから、名前は首輪であり、糸であり、帰り道なんです。誰かに呼ばれることで、人は自分の場所を思い出す」


「では、あなたにとって、私が名前を呼ぶことには意味があるのですね」


「非常にあります」


「どの程度ですか」


「かなりあります」


「語彙が急に弱くなりましたね」


「ここを深掘りすると、少し照れるので」


真白は軽く息を吐いた。


「あなたにも照れることがあるんですね」


「あります。僕を何だと思っているんですか」


「現実逃避の語彙が豊富な、もちもちした人です」


「だいたい合っていますけど」


「合っているんですね」


もち丸は少しだけ拗ねたように頬を膨らませた。


「でも、真白さん」


「はい」


「僕は、真白さんに呼ばれる名前が一番好きです」


真白の表情がわずかに変わった。


ほんの一瞬だけ、返事が遅れた。


「……そうですか」


「はい。真白さんが“もち丸様”と呼ぶと、僕はちゃんとこの家の人間でいられる気がします」


「家の人間、ですか」


「はい。ご主人という立場でも、西園寺という家名でもなく、ただここで朝ごはんを食べて、紅茶を飲んで、真白さんに呆れられている僕です」


「呆れられることまで含むのですか」


「含みます。むしろ重要です」


「なぜですか」


「真白さんに呆れられている時、僕はかなり僕らしいので」


「自覚があるなら改善してください」


「改善すると僕らしさが損なわれる可能性があります」


「損なわれてください」


もち丸は小さく笑った。


「でも本当に、誰かに名前を呼ばれるって、不思議な安心感がありますよね。世界の中から、自分だけを選んで声が届く。たくさんの人がいても、その名前が呼ばれた瞬間、自分は振り向く。そこには、自分がここにいることを認められたような感覚がある」


「存在確認ですね」


「そうです。点呼に近い」


「急に学校っぽくなりましたね」


「点呼とは、小さな存在論なのです」


「また変な分類を」


「名前を呼ばれて、はい、と答える。たったそれだけで、自分はここにいると世界に返事をする。これはかなり哲学的です」


「では、毎朝点呼しますか」


「してくれるんですか」


「西園寺もち丸様」


「はい」


「仕事はしましたか」


「急に現実確認になった」


「存在確認と現実確認は近いものです」


「真白さんの哲学は厳しい」


真白は空いた皿を重ねた。


「名前とは、存在の首輪であり、迷子札であり、橋であり、点呼である」


「まとめると、かなり忙しいですね」


「あなたが広げたのです」


「そして、おかわりを頼むための呼び鈴でもあります」


真白はぴたりと手を止めた。


「今、最後に何か余計なものを足しましたね」


「哲学は生活と結びついてこそ意味があります」


「おかわりが欲しいだけですね」


「真白さん」


「はい」


「紅茶のおかわりをお願いします」


真白は無言でポットを持ち上げた。


そして、もち丸のカップに紅茶を注ぐ。


琥珀色の液体が、ゆっくりと満ちていく。


もち丸は嬉しそうにそれを眺めた。


「ありがとうございます、真白さん」


「どういたしまして、もち丸様」


その名を呼ばれた瞬間、もち丸は少しだけ表情を緩めた。


本当に、それだけで満足したような顔だった。


真白はそれを見て、呆れたように、しかしどこか穏やかに言った。


「あなたは本当に、名前を呼ばれるだけで嬉しそうですね」


「はい」


「燃費がいいですね」


「愛情効率が高いと言ってください」


「言いません」


「では、存在安定性が高い」


「それも違います」


もち丸は紅茶を一口飲んだ。


「でも、真白さん」


「はい」


「もし僕がいつか、自分が何者かわからなくなったら」


真白は黙ってもち丸を見た。


もち丸は冗談めかして笑っていたが、その声だけは少し静かだった。


「その時は、名前を呼んでください」


「……もち丸様、と?」


「はい。それだけで、たぶん僕は戻ってこられるので」


真白は少しの間、何も言わなかった。


朝の光が、白いテーブルクロスの上に落ちていた。


紅茶の湯気が細く立ちのぼり、すぐに消えていく。


やがて真白は、いつもの落ち着いた声で言った。


「わかりました」


もち丸は目を瞬かせた。


「え、いいんですか」


「必要な時には」


「今は?」


「今は必要ありません」


「僕の存在は今もわりと不安定ですが」


「朝食を完食できる程度には安定しています」


「厳密ですね」


「厳密です」


真白は皿を片づけ、最後にもち丸の前に残っていた小さなパンくずを指先で払った。


その仕草は、ごく自然だった。


「ただし」


「はい」


「あなたが本当に迷子になった時は、呼びます」


もち丸は少し黙った。


それから、照れ隠しのように笑った。


「真白さんに呼ばれるなら、迷子になるのも悪くないですね」


「迷子になる前提で話さないでください」


「では、迷子になりかけるくらいで」


「それもやめてください」


「心配してくれています?」


「管理対象が勝手に迷子になると困るだけです」


「管理対象」


「ご主人様ですから」


「真白さんの中で、ご主人様の扱いが備品寄りなんですよね」


「丁重には扱っています」


「丁重な備品」


「高価ですから」


「高価な備品」


もち丸はしばらく考え込んだ。


「なるほど。西園寺もち丸とは、高価で、もちもちした、存在論的備品」


「変な方向にまとめないでください」


「でも、真白さんが管理してくれるなら、それも悪くないです」


「そこに着地しないでください」


真白は呆れたように言いながらも、声は柔らかかった。


もち丸はカップを両手で包み、満足げに頷いた。


「名前とは、存在の首輪である。だが、その首輪は必ずしも不自由の象徴ではない。誰かがこちらを見つけ、呼び、つなぎとめてくれるための、優しい輪でもある」


「急に綺麗にまとめましたね」


「そして、首輪を持つ者には、おかわりを要求する権利が」


「ありません」


「なぜ」


「二杯目を飲んだばかりです」


「存在がまた揺らぎそうです」


「揺らいでください」


「真白さん」


「はい」


「もち、と」


「呼びません」


「では、もち丸くん」


「呼びません」


「では、もち丸様でいいので、もう一度」


真白はじっともち丸を見た。


もち丸は期待に満ちた顔で見返した。


部屋の中に、短い沈黙が落ちる。


やがて真白は、小さくため息をついた。


「……もち丸様」


「はい」


もち丸は即座に返事をした。


あまりにも嬉しそうだった。


真白は少しだけ目を伏せる。


「仕事をしてください」


「名前を呼ばれたと思ったら、現実が付属してきた」


「名前とは、存在を現実につなぎとめるものなのでしょう?」


「真白さん、僕の哲学を武器にしないでください」


「便利でしたので」


「僕の思想が僕を縛っている」


「首輪ですね」


もち丸は愕然とした顔をした。


「そうか。僕は自らの言葉によって、自らの首輪を編んでしまったんですね」


「では、その首輪をつけて机に向かってください」


「真白さんは哲学を実務に落とし込むのが早すぎる」


「哲学も生活に結びついてこそ意味があるのでしょう?」


「それ、僕の言葉です」


「使いやすかったので」


もち丸はしばらく天井を見上げた。


それから、観念したように立ち上がった。


「わかりました。行ってきます」


「はい。行ってらっしゃいませ、もち丸様」


その声は、いつも通り静かだった。


けれど、もち丸には十分だった。


彼は少しだけ背筋を伸ばし、机へ向かう。


名前を呼ばれた存在は、今日もかろうじて現実へ戻っていく。


真白はその背中を見送りながら、小さく息を吐いた。


「本当に、手のかかる方ですね」


その声は誰に聞かせるでもないほど小さかった。


けれど、もち丸は振り向いた。


「今、何か言いました?」


「何も」


「僕の名前を呼びました?」


「呼んでいません」


「残念」


「仕事をしてください」


「はい、真白さん」


もち丸はそう答えて、机の前に座った。


存在とは、きっと一人では少し頼りない。


けれど、呼んでくれる誰かがいるなら。


その声の方へ、今日も戻ってこられる。


西園寺もち丸は、今日ももち丸であった。


そして冷泉真白は、今日も真白だった。

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