もち丸と二つ名
「真白さん」
昼下がりの屋敷。
窓の外では、よく手入れされた庭木が風に揺れていた。初夏の陽射しは穏やかで、レースのカーテン越しに淡く差し込む光が、応接室の床にやわらかな模様を落としている。
紅茶の香りが満ちていた。
真白は静かにカップを並べ、銀のポットを傾ける。注がれる琥珀色の液体は、まるで小さな儀式のように美しく、音さえ上品だった。
そんな空間に、もち丸はやけに深刻な顔で座っていた。
背筋を伸ばし、両手を組み、何か巨大な思想を抱えた賢人のような表情をしている。
「人間には、二つ名が必要だと思うんです」
真白はポットを戻した。
「また急ですね」
「急ではありません。これは長年の思索の果てに辿り着いた結論です」
「その長年は、今朝からですか」
「真白さん。時間の長さではなく、思索の密度を見てください」
「では、密度の高い現実逃避ですね」
「まだ結論を聞いていないのに、評価が厳しい」
もち丸は胸に手を当てた。
「いいですか、真白さん。偉大な人物には、必ず異名があります」
「そうでしょうか」
「征服王アレクサンドロス。獅子心王リチャード。鉄血宰相ビスマルク。太陽王ルイ十四世。第六天魔王、織田信長」
「だいぶ方向性が物騒ですね」
「つまり、異名とは存在の要約なんです」
もち丸は人差し指を立てた。
「その人物が何者であるか。何を為したのか。人々にどう見られていたのか。それらを一言で凝縮する言葉。それが二つ名です」
「なるほど」
「僕も、そろそろ二つ名を持つべき段階に来ていると思うんですよ」
「どの段階ですか」
「真白さんに毎日仕事を促され、それでもなお心折れず、今日も元気にお茶を飲んでいる段階です」
「それは二つ名より反省が必要な段階です」
「真白さん」
「はい」
「僕の二つ名を考えてください」
もち丸は、きらきらした目で真白を見た。
真白はカップを彼の前に置きながら、平静そのものの顔で答えた。
「ご自分で考えればよろしいのでは」
「自分で名乗る二つ名って、少し痛いじゃないですか」
「人に頼んでも痛いと思います」
「真白さんから授かった、という事実に価値があるんです」
「授与するものではございません」
「では、真白さん命名でお願いします」
真白は数秒だけ沈黙した。
その間、もち丸は期待に満ちた顔で待っていた。
真白は静かに言った。
「怠惰の権化」
「いきなり魔王軍幹部みたいなのが来ましたね」
「動かざること山の如し」
「名将っぽく言えばいいと思いました?」
「仕事せざること、もちの如し」
「ちょっと語感がいいのが悔しいです」
「寝台の守護者」
「守っているものがベッドなのは弱い」
「布団の眷属」
「急に種族が人間ではなくなりましたね」
「現実逃避卿」
「爵位がついた」
「労働忌避公」
「公爵まで上がった」
「書類不受理王」
「国を治める器が一気に下がりましたね」
もち丸は腕を組み、むむむ、と唸った。
「違うんですよ、真白さん。もっとこう、聞いた瞬間に周囲がざわつくようなやつです」
「ざわつくと思いますが」
「悪い意味でじゃなくて」
「では、顔面だけ貴族」
「だけ」
「お顔特化型ご主人様」
「特化型って、他の能力を犠牲にしている感じがしませんか」
「お察しの通りです」
「真白さん、そこは否定するところです」
「否定材料が不足しております」
「ひどい」
もち丸は紅茶を一口飲んだ。
そして、少しだけ気を取り直す。
「でも、顔はあるんですね」
「ございますね」
「よかった。僕にも長所があった」
「お顔はよろしいかと」
「じゃあ、二つ名は美貌の主で」
「働かざる美貌の主」
「余計な修飾がついた」
「寝そべる美貌」
「だらしない美術品みたいですね」
「動かぬお顔」
「それはもう肖像画です」
真白は淡々としていた。
その顔には、からかいの笑みも、悪意もない。ただ事実を整理するような静けさがある。
だからこそ、言葉の切れ味は余計に鋭かった。
「真白さん。僕のこと、もう少し総合的に評価してくれてもいいんですよ」
「総合的に評価した結果です」
「総合が低い」
「個別項目で見ると、お顔は高得点です」
「他は?」
「愛嬌はございます」
「おお」
「危機感は不足しております」
「急に査定表みたいになった」
「自己肯定感は高めです」
「いいことですよね」
「高さと中身が釣り合っていない場合は、注意が必要です」
「ぐうの音も出ない」
もち丸はカップを置いた。
「では逆に、僕が真白さんの二つ名を考えます」
「結構です」
「遠慮しないでください」
「遠慮ではなく、不要という意味です」
「真白さんには絶対に必要です。真白さんほど二つ名が似合う人はいません」
「そうでしょうか」
「そうです」
もち丸は立ち上がり、真白を見つめた。
「冷泉真白。氷雪のメイド」
「ありがちですね」
「白銀の奉仕者」
「少し物騒です」
「絶対零度の美貌」
「温度が下がりすぎです」
「無慈悲なる労働監督官」
「職務の範囲です」
「仕事を促す聖女」
「聖女に失礼です」
「お顔がいいのに容赦がない人」
「もはや説明文ですね」
「冷泉家の白刃」
「刃物扱いですか」
「真白さんの言葉は斬れ味がありますから」
「それは、もち丸様が斬られやすい姿勢で立っているからでは」
「僕が悪いみたいに言う」
「実際、かなり」
もち丸は胸を押さえた。
「でも、真白さんの二つ名はもっと綺麗な方がいいですね」
「綺麗ですか」
「はい」
もち丸は今度は真剣な顔になった。
真白が紅茶を淹れる姿を、じっと見る。
白い指先。整った所作。無駄のない動き。静かな横顔。
そこには、冷たいというより、揺るがない美しさがあった。
「静謐なる白」
もち丸が言った。
真白は一瞬だけ、手を止めた。
「……急にまともですね」
「真白さんは、そういう感じです。派手じゃないけど、部屋の空気を整えるような白です」
「白にそのような機能はありません」
「真白さんにはあります」
「言い切りましたね」
「あります」
もち丸はさらに続けた。
「銀盤の微笑」
「微笑んでいません」
「沈黙の月」
「黙ってもいません」
「白磁の刃」
「また刃に戻りましたね」
「凛然たるお顔」
「結局、顔ですか」
「真白さんはお顔がいいので」
「もち丸様ほど毎日顔の話をする方も珍しいですね」
「真白さんの顔が毎日いいのが悪い」
「責任転嫁が斬新です」
真白は小さく息をついた。
そして、テーブルの端に置いてあった書類の束を、もち丸の前にすっと置いた。
「それでは、こちらをお願いいたします」
もち丸の顔から、すっと哲学者の光が消えた。
「真白さん」
「はい」
「今、僕たちは二つ名という高度に文化的な議論をしていましたよね」
「はい」
「なぜ書類が出てくるんですか」
「もち丸様に必要なものだからです」
「二つ名が?」
「仕事です」
「現実って、どうしてこんなに話の腰を折るんですか」
「現実は、逃げた分だけ追ってくるものです」
「現実は追跡者なんですね」
「もち丸様が逃亡者の動きをしているからでは」
「僕はもちですよ。逃亡者ではありません」
「では、皿の上のもちです」
「逃げ場がない」
もち丸は書類を見下ろした。
紙の束は、静かにそこにあった。
しかし彼には、それが巨大な城壁のようにも、深い谷のようにも、あるいは封印された魔導書の山のようにも見えた。
「真白さん」
「はい」
「今、僕の二つ名が一つ浮かびました」
「何でしょう」
「紙束に呪われし者」
「呪われているのではなく、溜めているだけです」
「締切の彼方より来たりし者」
「締切の手前で止まってください」
「書類に背を向けし丸き者」
「かなり正確ですね」
「真白さん、そこは否定してください」
「難しいです」
もち丸は椅子に深く沈み込んだ。
「でも、二つ名って難しいですね」
「そうですね」
「単に格好よければいいわけではない。本人の本質を表していなければならない」
「その通りかと」
「ということは、僕の本質とは何か、という問題になります」
「その前に、書類とは何か、という問題に向き合ってください」
「書類とは、人間の自由を奪う白い束です」
「不正解です」
「書類とは、文明が生んだ呪いです」
「不正解です」
「書類とは、真白さんが僕に差し向ける白い刺客です」
「不正解です」
「では何ですか」
「確認して処理するものです」
「現実的すぎる」
「現実ですので」
真白はペンを差し出した。
もち丸はそれを受け取る。
しばらく、彼はペンを握ったまま動かなかった。
「もち丸様」
「はい」
「止まっています」
「違います。今、僕は内なる労働意欲を呼び覚ましています」
「どこに眠っているのですか」
「たぶん深いところに」
「起こしてください」
「熟睡しているようです」
「叩き起こしてください」
「真白さん、急に体育会系」
もち丸はようやく書類に目を落とした。
一枚目。
文字が並んでいる。
読めば分かる内容のはずなのに、仕事として見た瞬間、脳がやんわり拒否してくる。
彼は深く息を吸った。
「真白さん」
「はい」
「僕がこれを終わらせたら、正式に二つ名をつけてくれますか」
「終わらせたら、考えて差し上げます」
「本当ですか」
「はい」
もち丸の目が輝いた。
「真白さん命名の二つ名……」
「はい」
「それは、頑張る価値がありますね」
「動機はともかく、結果が出るなら構いません」
もち丸はペンを構えた。
そして、書類の一行目を読み始めた。
五分後。
「真白さん」
「はい」
「紙束を越えしもち、というのはどうですか」
「まだ越えていません」
「越える予定です」
「予定では名乗れません」
「では、紙束に挑みしもち」
「挑んでいる最中なら、ぎりぎり許容範囲です」
「おお」
「ただし、手が止まっています」
「はい」
もち丸は再び書類に向かった。
さらに十分後。
「真白さん」
「はい」
「労働に目覚めし丸き者」
「目覚めてから言ってください」
「今、まぶたが少し開いたくらいです」
「二度寝しないでください」
「真白さん、労働意欲に対して厳しい」
「非常に眠りが深そうですので」
真白は隣に立ち、静かに進捗を見守っていた。
監視ではない。
見守りである。
ただ、もち丸にとっては、見守りと監視の違いは紙一重だった。
「真白さん」
「はい」
「真白さんの二つ名も、やっぱり必要です」
「またですか」
「僕だけ二つ名を持つのは不公平です」
「私は別に欲しくありません」
「対になる存在が必要なんです。物語的に」
「物語ではなく日常です」
「日常にも物語は宿ります」
「それらしいことを言って、仕事から逃げないでください」
「逃げてません。横道に逸れているだけです」
「同じです」
もち丸は少しだけ考えた。
「僕が、しょうもなき日々の主だとします」
「いつ決まったのですか」
「今です」
「勝手に決まりましたね」
「すると、真白さんはその対です」
「対」
「しょうもなき日々を整える白」
真白は目を伏せた。
「長いですね」
「では、日常の白」
「抽象的です」
「白き現実」
「現実担当にしないでください」
「でも、真白さんがいないと、僕は現実から足を滑らせるので」
「それは困りますね」
「でしょう?」
「ですので、書類をしてください」
「現実が戻ってきた」
もち丸は渋々ペンを動かす。
その姿を見ながら、真白は少しだけ表情を緩めた。
ほんのわずかに。
もち丸はそれを見逃さなかった。
「あ、真白さん今ちょっと笑いましたね」
「笑っていません」
「笑いました」
「気のせいです」
「では、微笑みを隠す白」
「仕事」
「はい」
しばらく、部屋には紙をめくる音とペン先の音だけが響いた。
午後の光は少しずつ傾き、窓際の影が長く伸びていく。
もち丸は何度か脱線しかけたが、そのたびに真白が短い言葉で軌道修正した。
「真白さん、紙って木からできているんですよね」
「はい」
「つまり、これは森の怨念では」
「仕事です」
「真白さん、インクって何から」
「仕事です」
「僕は今、文明と向き合って」
「仕事です」
「はい」
それでも、少しずつ書類は減っていった。
一枚。
また一枚。
山だったものが丘になり、丘だったものが平地に近づいていく。
もち丸は、自分でも驚くほど真面目に取り組んでいた。
理由はくだらない。
真白に二つ名をつけてもらいたい。
ただそれだけである。
しかし、もち丸という人間は、案外そういうくだらない動機で動くことができた。
偉大な志では動かない。
崇高な理念でも動かない。
けれど、真白が何かをしてくれるかもしれないとなると、妙に動く。
真白はそのことを、だいたい理解していた。
「終わりました!」
夕方近く。
もち丸は両手を上げた。
机の上には、確認済みの書類が整えられている。
完璧とは言わない。
だが、少なくとも今日中に必要な分は終わっていた。
真白はそれを確認し、静かにうなずいた。
「お疲れ様でした」
「真白さん」
「はい」
「約束です」
「覚えております」
もち丸は姿勢を正した。
まるで叙勲を受ける騎士のようだった。
「お願いします」
真白は少し考えた。
今度は、からかうような名ではなかった。
怠惰の権化でも、現実逃避卿でも、書類不受理王でもない。
真白は、いつもの落ち着いた声で言った。
「しょうもなき日々の主」
もち丸は目を丸くした。
「……おお」
「立派ではありませんが、もち丸様らしいかと」
「しょうもないのに、ちょっと物語感がありますね」
「はい」
「僕がこの屋敷のしょうもなさを司っている感じがします」
「実際、かなり司っています」
「真白さん、それ褒めてますか」
「半分ほど」
「もう半分は」
「事実です」
もち丸はしばらくその言葉を味わうように黙っていた。
「しょうもなき日々の主……」
彼は小さく呟く。
「いいですね」
「お気に召しましたか」
「はい。僕にぴったりです」
「それはよかったです」
「では、真白さんは?」
「私は結構です」
「だめです。対になる二つ名が必要です」
「本当に物語にしたがりますね」
「だって、真白さんがいて、僕がいるんですよ。もう物語じゃないですか」
真白は少しだけ困ったように目を伏せた。
「私は、ただのメイドです」
「そこがもう格好いいんですよね」
「何がですか」
「本当に強い人ほど、自分をただの何かと言うんです」
「そういうものでしょうか」
「そういうものです」
もち丸は自信満々にうなずいた。
「では、真白さんは――」
少し悩んでから、彼は言った。
「日常を整える白」
真白は黙った。
「長いですか」
「少し」
「でも、合ってませんか」
「……そうでしょうか」
「真白さんがいると、部屋が整います。お茶が美味しくなります。僕が仕事をします。世界が、ちゃんと今日になります」
「大げさです」
「大げさではありません」
もち丸は真面目な顔で言った。
「僕にとっては、そうなんです」
真白は返事をしなかった。
ただ、書類をそろえる手が、ほんの少しだけゆっくりになった。
沈黙が落ちる。
けれど、それは気まずいものではなかった。
夕方の光が、真白の横顔を淡く照らしている。
もち丸はその顔を見て、急に満足そうに笑った。
「やっぱり、真白さんはお顔がいいですね」
「最後はそこに戻るのですね」
「重要なので」
「はいはい」
「はいが二回。これは照れ隠しですか」
「違います」
「では、冷静なる否定の白」
「二つ名を増やさないでください」
「真白さんは二つ名が多いですね」
「もち丸様が勝手につけているだけです」
真白は書類を抱えた。
「では、こちらは片付けてまいります」
「真白さん」
「はい」
「僕、今日ちょっと偉かったですよね」
真白は扉の前で振り返った。
そして、ごく自然に答えた。
「はい。今日は少し偉かったです」
もち丸は、ぱっと顔を輝かせた。
「真白さんに褒められた」
「少しです」
「少しでも褒められた」
「調子に乗らないでください」
「もう乗っています」
「早いですね」
真白は呆れたように言ったが、その声音はやわらかかった。
もち丸は椅子に座ったまま、満足げに胸を張る。
「しょうもなき日々の主、今日も一つ使命を果たしました」
「明日もお願いします」
「明日の話は明日の僕に」
「その二つ名は、明日には没収されるかもしれませんね」
「ひどい」
「維持には努力が必要です」
「二つ名にも更新審査があるんですか」
「ございます」
「真白さんの世界、厳しい」
「現実ですので」
真白はそう言って、部屋を出ていった。
扉が静かに閉まる。
もち丸は一人、部屋に残された。
机の上はすっきりしている。
書類の山はなくなった。
紅茶はもう冷めていたが、不思議と気分は悪くなかった。
「しょうもなき日々の主、か」
もち丸はもう一度呟いた。
偉大な王でもない。
伝説の英雄でもない。
恐るべき魔王でも、歴史に名を刻む覇者でもない。
けれど、悪くないと思った。
しょうもない日々。
しょうもない会話。
しょうもない理由で仕事をして、しょうもないことで喜ぶ。
その中心に自分がいて、そのそばに真白がいる。
それなら、たしかに自分にはこの二つ名が似合っている。
もち丸は満足げに頷いた。
一方その頃。
廊下を歩く真白は、抱えた書類に視線を落としながら、心の中でひっそりと思っていた。
もし本当に、もち丸に二つ名をつけるなら。
怠惰でも、現実逃避でも、書類不受理王でもなく。
きっと、こうだろう。
――退屈を遠ざける人。
もちろん、本人には言わない。
言えば必ず調子に乗る。
それはもう、火を見るより明らかだった。
だから真白は黙っている。
ただ少しだけ、誰にも見えないところで口元を緩めた。
しょうもなき日々の主。
たしかに、その名はもち丸によく似合っていた。




