鏡屋敷2
枝折戸まであと数歩という所で、カミラは踏み石の縁に足を取られて地面に倒れた。咄嗟に地面に突いた両手と両膝は擦りむけて血が滲み、淡い栗色のパンツの膝には大きな穴が開いている。興奮しているからだろう、痛みは感じない。
左手をグイッと掴まれて、カミラは思わず悲鳴を上げた。
「しっかりしなはれ。立てまっか?」
左わきの下に身体を入れて、抱え上げるようにしてカミラの身体を持ち上げたのは、斥候に出ていた伊藤だった。
「あなたは?」
「話はあとや。とにかくここから逃げなあかん」
カミラに肩を貸した伊藤は、カミラを引きずるようにして枝折戸から外へ出た。砂利の敷かれたロータリーを走りながら、伊藤はヘッドギアの小型マイクに向って叫んだ。
「こちら伊藤。CIAの女性工作員を連れて退避中。屋内で銃撃戦が発生。その後、中庭で特殊工作部隊員がひとり焼死、男性工作員は撲殺。残りの特殊工作部隊員の生死は不明。大巌坊は無傷の模様で、我々を追って・・・ああっ何や!」
ゴオッと風が舞ったかと思うと、伊藤とカミラの五メートル先に、大巌坊が空中からヒラリと降り立った。伊藤の目には、宙を飛ぶ錫杖の上に両足で立ち、飛翔する大巌坊の姿がハッキリと映っていた。地面に突いた錫杖がジャラリと音を立てた。
「大巌坊が空を飛びよった! あかん、追いつかれてしもうた」
伊藤は叫びながらサブマシンガンの銃口を上げた。
砂利を蹴立てて伊藤に走り寄った大巌坊が、錫杖を下から振り上げてサブマシンガンの銃口を跳ね上げた。
天を向いたサブマシンガンが火を噴いた。ガガガという発砲音と共に、銃弾があらぬ方向に飛んでいく。
銃口を跳ね上げた錫杖が、弧を描いて上段から伊藤の顔面に振り下ろされた。
「あっ!」伊藤の口から声が漏れた。それと同時に、瞭の声が闇の中に響いた。
「大巌坊!」
大巌坊の振り下ろした錫杖は、伊藤の顔面を叩き割る直前で、宙に止まった。瞭のサイコキネシスが錫杖の動きを止めたのだ。見えない力が均衡を保っているのだろう、錫杖は宙に止まったままでブルブルと震えている。
大巌坊は素早く錫杖を引くと、ゆっくりと振り返った。
左掌を開いて前に突き出した態勢のまま、瞭が大巌坊に向かって歩いていた。瞭の背後のロータリーには、二台のアルファードが並んで止まっている。瞭の足元から、砂利を踏むザクリザクリという音が聞こえてくる。大巌坊は銃火器では倒せない。サイコキネシスで戦うしかないのだ。瞭の脳内は一瞬で沸騰していた。暗闇の中で瞭の両目が青白い炎を上げた。
「ウヌ、お前は・・・儂が操る三頭の黒い犬を験力で倒した男か。名前は、たしか矢沢・・・瞭。お前は、なぜここへ戻ってきた」
修行で鍛えた太く張りのある大巌坊の声が響いた。
「名前を覚えてもらっていたとは光栄だ。矢沢じゃあ長いから瞭と呼んでいいよ。なぜ戻ってきた? お前とギギアハウが引き起こそうとしている人類の厄災を阻止するためさ」
瞭は大巌坊と十メートルの距離を置いて立ち止まった。瞭の左手は大巌坊に向かって突き出されたままだ。左掌の王冠のような形をした傷痕が、銃口のように大巌坊に向けられている。
大巌坊は油断なく瞭に目を配りながら、盾にするかのように錫杖を身体の正面に移動させると、錫杖を地面に突いた。錫杖がジャラリと音を立てた。
「人類の厄災だと? そんなものは知らぬ。儂はギギアハウ様の僕であり、ギギアハウ様に捧げる生贄を狩る狩猟者にすぎん。もっとも、ギギアハウ様の御心は存じておらぬから、ギギアハウ様が人類に厄災を及ぼすことをお望みかも知れぬ」
『そう、ギギアハウが九世紀に古典期マヤ文明の崩壊をもたらしたようにね。そんなことはさせないわ!』
大巌坊の脳内に突然言葉が浮かんだ。早苗の発した指向性の強い思念波が、触手のように伸びて大巌坊の脳内に入り込んだのだ。
「誰だ!・・・おのれ、他心通力か・・・ノウマクサンマンダ バサラダン センダンマカロンシャダソハタヤ ウンタラタカンマン」
大巌坊は口の中で小さく呪文を唱えると、右手の人差し指と中指を突き出し、額の前で二本の指を天に向けると、ヤッと気合いを掛けて振り下ろした。
早苗が伸ばした思念波の触手は真っ二つに引き裂かれた。アルファードの助手席で目を瞑り、思念波を発していた早苗が「キャッ」と小さく悲鳴を上げた。
「ヤッ!」
大巌坊は腹の底に響くような声と共に気を発した。早苗の思念波の触手を逆に辿るようにして、大巌坊の思念波が毒蛇のように身をくねらせながら早苗に向かった。言霊返しの術である。相手の発した思念波を電線のように伝って、破壊的な思念波を相手の脳内に送り返すのだ。
早苗は風圧のようなものを感じた。それは胸の悪くなるような臭気と共に邪悪な意思を運んできた。早苗の後頭部がゾワリと総毛だった。
・・・黒い思念波、まるで蛇だわ!・・・
早苗の前頭葉のネオニューロンが炎を上げるように活性化した。早苗の両目が狐のように吊り上がる。防御本能が瞬時に早苗を思念波の繭で包んだ。
黒い濁流のような思念波が早苗を襲った。黒い思念波は早苗を包んだ繭を呑み込み、早苗の脳内に入り込もうと、無数の牙を繭に突き立てた。しかし、テレパスとしての能力は、早苗の方が勝っているのだろう、大巌坊の思念波は繭を突き破ることができない。そして、潮が引くように、大巌坊の思念波が消えた。
早苗はアルファードの助手席でフウと息を吐いた。早苗の額には脂汗が浮かんでいる。
「早苗さん・・・」
祥吾が掛けた声に、早苗は大丈夫だと力強く頷いた。運転席に羽賀の姿がない。羽賀は瞭が動き出したと同時に、瞭の後を追ったのだ。
「親父・・・あれは親父だ」
早苗がアッと思う間もなく、祥吾はスライドドアを開けて外に飛び出した。
「祥吾! 戻ってきなさい!」
早苗の声は祥吾の耳には届かない。祥吾をひとりにする訳にはいかない。早苗は祥吾の後を追った。
大巌坊と向き合っている瞭は、大巌坊の意識に一瞬の隙ができたことを感じた。大巌坊の意識は早苗に向かっている。攻撃のチャンスだ。
瞭はジーンズのポケットからコインを素早く掴み出した。左掌の中のコインは五百円玉が一枚、百円玉が三枚。
瞭が左掌を開くや否や、四枚のコインは銃弾のように大巌坊に向かって飛んだ。空気を切り裂くビリリという微かな音と共に、暗闇の中のあるかなきかの微かな光を反射して、銀色の軌跡が針のように光った。
カンカンカンという硬い金属音が響いた。
大巌坊が身体の前に立てた錫杖が、手を触れていないにもかかわらず揺れるように左右に動いて、コインを弾き飛ばし、あるものはコインの軌道を変えたのだ。
「子供だましの術は、儂には通用せんぞ」
大巌坊は左手で錫杖を掴むと、瞭に向かって槍のように投げつけた。
瞭が突き出した左掌から、念動波が目に見えない雷光のようにほとばしった。
ユラユラと揺れる巨大なコンタクトレンズ状の光の膜が現れると、光の膜は瞭の胸元目掛けて飛ぶ錫杖を弾き飛ばした。
光の膜の縁に沿うように、ほぼ垂直に方向を変えた錫杖は、五十メートルほどの高さまで達すると、操られているかのように方向を変え、大きく旋回して大巌坊の元に戻っていく。
瞭の身体の前に広がっていたコンタクトレンズ状の光の膜が見る見るうちに収斂して、テニスボールほどの大きさの光球に変化した。瞭の頭の中の仮想空間で、念動波の集積球が高温のエネルギー弾に変換されている。グニャリと目の前の風景が歪み、目の前の現実空間と瞭の脳内の仮想空間が置き換わった。
瞭の左掌の上でユラユラと揺れていた光球が、瞬く間に膨張して直径一メートルの火球に変わり、大巌坊目掛けて飛んだ。
大巌坊は防御の結界を張ろうと、咄嗟に右手の人差し指と中指を突き出したが一瞬遅れた。
瞭の発した火球は更に大きくなって大巌坊を呑み込み、結界ごと大巌坊を吹き飛ばした。火球はクルクルと回転して、砂利を巻き上げながらロータリーを横切ると、中庭との境のコンクリートブロックを吹き飛ばし、植え込みの躑躅を一瞬で燃え上がらせた。火球は勢いを弱めることなく中庭に到達すると、小山のような奇岩にぶち当たって四散した。奇岩の側面が高温のために黒く変色している。
瞭の前から中庭の奇岩まで、ブルドーザーで踏みつぶしたような道ができていた。
瞭は左手を前に突き出した態勢のまま立っていた。体力を消耗したのだろう、肩で息をしている。
「こりゃ凄い・・・こんなことができるなんて、信じられん。いや、これは現実だ・・・」
瞭のバックアップのために車から走り出て、瞭の背後に控えていた羽賀がサブマシンガンをダラリと下ろして、自分自身に言い聞かせるように呟いた。羽賀の横には伊藤とカミラが地面の上に腰を下ろしている。伊藤とカミラの顔色は、真っ青をとおり越して土気色をしている。
「さすがの大巌坊も、これでは生きていまい」
震える声で呟いた羽賀に向かって、瞭は首を横に振った。
「羽賀さん、大巌坊は生きていますよ」
瞭は右手で空中を指差した。羽賀と伊藤とカミラの目が、瞭の指先を追って空を見上げた。
中庭の上空三十メートルに、宙に浮かぶ錫杖に左手一本でぶら下がった大巌坊の姿があった。大巌坊は笑っているようだ。瞭の目には、火球を掠めるように飛んだ錫杖に向かって、化鳥のように跳び上がる大巌坊の姿が見えていた。瞭と大巌坊との戦いはまだ終わっていないのだ。
大巌坊がスウッと高度を下げて中庭に姿を消した。鏡屋敷の中で瞭と戦うつもりなのだろう。
「さて、決着を付けますか」
瞭は独り言のようにそう口にすると、目の前に延びるブルドーザーで踏みつぶしたような道を歩き始めた。それは、瞭を死地に誘うレッドカーペットのようだ。瞭の額の内側が、次の戦いに備えてチリチリと音を立て始めた。
羽賀は顔を引き締めると、サブマシンガンを抱えて銃口を天に向けた。
「伊藤、その女性を車に乗せて、手当てをしてやれ。伊藤と成田はそのまま車で待機。明日香さんと祥吾の安全確保を最優先しろ。矢沢さん・・・瞭のバックアップは俺がやる」
「羽賀さん、そんなあほな・・・」
伊藤が不満げに声を上げた。そのとき、ヘッドギアのスピーカーから成田の慌てた声が響いた。
「こちら成田。祥吾が母屋の玄関から中に・・・あっ、明日香さんも後を追って・・・ええい、私はふたりの後を追います!」
羽賀と伊藤は思わず顔を見合わせた。想定外の展開だ。羽賀は瞬時に今後の方針を決めると、ヘッドギアの小型マイクに向って怒鳴った。
「成田、了解した。ふたりを頼む。瞭と大巌坊の戦いは超能力戦だ。俺たちの戦いとは次元が違う。俺たちの常識も、持っている火器も通用しないことを肝に銘じておけ。無理をするな、繰り返す、無理をするな。以上だ」
「了解」
通信を終えた羽賀を、伊藤が睨みつけている。一歩も引かないという顔だ。
「羽賀さん、こないになったら私もいきまっせ。この女性を車に乗せたら後を追います。ひとりだけ安全な所で待機だなんてでけまへん。よろしいな」
噛みつくように言った伊藤の肩を、羽賀がポンとひとつ叩いた。チームリーダーとしては部下をあえて危険に晒すことは避けなければならないが、自分が伊藤の立場なら、伊藤と同じことを言うだろう。
「分かった。俺たちはチームだからな。超能力者同士の戦いに、一般人ができることなどたかが知れているだろうが、少しでも瞭のためになるように、俺たちなりにジタバタして見せようぜ」
羽賀はニヤリと笑うと、瞭の後を追うために走り出した。伊藤は羽賀の背中を見送ると、カミラの肩を抱いてアルファードに向かった。
瞭は中庭に入る一歩手前で立ち止まった。
母屋から明かりが漏れている。中庭に立てられている石灯籠に灯が入り、中庭が暗闇の中に明るく浮かび上がったかと思うと、背後のロータリーに立っている外灯にも灯が入った。
暗闇に慣れた瞭の目の前に、昼間のような光景が広がっている。鏡の魔力を最大限に発揮させるためには、光が必要不可欠である。この明かりは、大巌坊が瞭に向かって叩きつけた挑戦状だ。
瞭の背後に羽賀が追い付いた。瞭は肩越しにチラリと羽賀に視線を送ると、中庭に足を踏み入れた。玄武岩の平たい踏み石の上を、瞭と羽賀は並んで、ウッドデッキに向かってゆっくりと歩いた。羽賀はサブマシンガンを腰だめに構えている。
「瞭、祥吾と明日香さんが母屋に入ったそうだ。ふたりを保護するために成田が後を追っている」
囁くような羽賀の声がした。
「そうですか」
瞭は驚きもせず、穏やかに頷いた。人類の厄災を阻止するための戦いの中で、祥吾が何かの役割を負っていると早苗が感得したのだ。ふたりの行動は必然なのだろう。
中庭には、伊藤からの報告どおり、頭を叩き割られた死体と焼死体が転がっていた。瞭はリックの焼死体を見て眉をひそめた。
・・・パイロキネシス(発火能力)か、やっかいだな・・・
パイロキネシスは念動力の一形態だが、瞭にとっては未知の能力だ。発現方法もそれを防御する方法も思い浮かばない。
「焼死体か・・・大巌坊の仕業だな。これは、瞭がさっき使った火球と同じなのかなぁ」
羽賀が誰にともなく呟いた。
・・・火球? さっきは咄嗟に使ったが、あれは念動波を光波から熱エネルギーへと変換したものだ。そうか、同じことなのか。それであれば、熱エネルギーを念動波に逆変換すればいい・・・ちょっと待て、逆変換はできるのか? ダメだ、分からない・・・
「分からない」瞭の口から思わず声が漏れた。
眉間にしわを寄せて何やら首を振っている瞭の顔を、羽賀はチラリと横目で見た。超能力者の考えていることが分からないのはこっちの方だと羽賀は思った。
中庭を抜けた瞭と羽賀は、ウッドデッキに上がった。居間とウッドデッキを隔てていたガラス戸は、大穴が開いてほとんど枠だけになっている。ふたりを招き入れるかのように、目の前の白いカーテンが風でフワリと捲れ上がった。
居間の床には、首を貫かれて血を流して倒れている死体と、頸骨が折れているために、頭部を不自然な方向に曲げた形で倒れている死体が転がっていた。
居間には大巌坊の姿はなかった。しかし、居間には禍々しい気が満ちていて、中央に立っていると、何人もの視線に見つめられているような錯覚に陥る。周囲の壁一面に掛けられている夥しい数の鏡のせいだ。
視界の端にある鏡の中で、チラリと何かが動いた気がした。咄嗟に顔を向けると、そこには自分の顔が映っている。その顔が突然笑った。思わず目を閉じて、もう一度見ると、それは驚いた表情の自分の顔だ。
鏡の中に映っている自分の背後の鏡の中に、誰かがいる。振り向いた先の背後の鏡には何も映っていない。視界の端にある鏡の中で、また何かが動いた。咄嗟に視線が追う。視線のひとつ先の鏡に何かがいるが、視線が追い付かない。
瞭と羽賀の視線がせわしなくキョロキョロと動いている。その視線は壁に掛けられた夥しい数の鏡の中を動く何かを追っている。ふたりは、もはや鏡から視線を外すことができなくなっていた。無意識の内に大巌坊の術中に嵌っているのだ。
北の壁に立て掛けられている、高さが二メートルはあろうかという大きな鏡の中に、大巌坊の姿が浮かび上がった。瞭と羽賀はその大きな鏡の前に立っているにもかかわらず、ふたりの視線はその大きな鏡には向けられていない。瞭と羽賀は、目の前の大巌坊の姿に気付かないのだ。
大きな鏡の鏡面が撓み、盛り上がるように膨らむと、水面から浮かび上がったかのように、大巌坊が鏡面から姿を現した。
大巌坊はニタリと笑うと、瞭と羽賀の首に向けて両手を伸ばした。ふたりを鏡面世界に引きずり込むつもりだ。
「親父! 何やってるんだよ!」
祥吾の怒鳴り声が居間の中に響いた。居間の入口に立っている祥吾の顔は、怒りで真っ赤に染まっている。いまにも大巌坊に飛び掛からんばかりの祥吾の肩を、早苗がしっかりと抱いている。早苗の後ろには、サブマシンガンを構えた成田が立っていて、早苗の肩越しに居間の中を覗き込んでいた。
大巌坊の腕が止まり、まるで人形のように頭部だけが百八十度回転して、背後から声を掛けた祥吾を見た。ポカリと空いた穴のような、血の色をした大巌坊の両目には、何の感情も浮かんでいない。大巌坊の真っ赤な両目から、禍々しい瘴気が流れ出ている。
祥吾が目を見開いた。
「親父、その目は・・・どうしちまったんだよ・・・。僕だよ、祥吾だよ、分からないのか!」
祥吾が叫んでも大巌坊は無表情のままだ。祥吾の目の前に立っているのは、父親の姿をした何かだ。祥吾は必死になって、自分自身にそう思い込ませようとしている。
大きな鏡の前にボンヤリと立っている瞭を見て、早苗の前頭葉のネオニューロンが炎を上げたかのように活性化した。
『瞭! しっかりしなさいよ! 目の前に大巌坊がいるのよ! ボケッと立っている場合じゃないわ!』
早苗は強烈な思念波の塊を瞭に向かって投げつけて、瞭の脳内のニューロンを思念波の拳でぶん殴った。
顔面を思いきり殴られたように、瞭の頭がグラリと揺れ、鼻血が一筋垂れた。瞭の両目の焦点がスウッと戻った。
「イテテ・・・僕は何を・・・ああ、早苗ちゃん・・・もう、大丈夫だ」
頭を軽く二、三度振ってから、右手の甲で鼻血を拭うと、瞭は左手を前に突き出した。瞭の脳内が一瞬で沸騰した。
「大巌坊!」
瞭が叫ぶ。大巌坊の頭部がクルリと回って正面を向いた。
瞭の左掌から、念動波が目に見えない雷光のようにほとばしった。
瞭の念動波は硬質の光の矢と変わり、大巌坊の心臓を貫いた。背中から抜けた光の矢は、大巌坊の背後の大きな鏡の鏡面に吸い込まれた。強烈な念動波の直撃を受けた大巌坊の心臓は、過電流で焼き切れたマイクロチップのように、その機能が破壊されて動かなくなったはずだ。
瞭の左手がゆっくりと下がった。勝ったと思っているのだ。
壁に掛けられている鏡に視線を奪われていた羽賀が、ようやく目の前の大巌坊に気付いた。大巌坊の術が解けたのだ。
「オッ!」
驚いた羽賀が、サブマシンガンの銃口を大巌坊に向けた。大巌坊の様子がおかしい。羽賀はその姿勢のまま固まった。
「クックックッ・・・」
大巌坊の肩が小さく揺れて、口から笑い声が漏れている。
瞭は両目を見開いて、信じられないという顔をしている。確かに心臓を撃ち抜いたのだ。それとも、大巌坊が無意識に発動した防御が間に合ったのか。いや、念動波は防御されずに身体を貫いている、それは念動波を発した瞭には分かっていた。
大巌坊は笑いを引っ込めると、両手を開いて胸を張った。
「驚いているようだが、儂はこのとおり生きている。瞭、お前の験力は大したものだ、それは認めよう。だが、ギギアハウ様の僕である儂には勝てん。お前は験力で儂の心臓を撃ち抜いたはずだと思っているのだろう」
大巌坊はゆっくりとした動作で、篠懸の襟元を寛げて胸を見せた。
「儂の心臓はギギアハウ様に捧げてある。ここにはないのだ」
痩せてはいるが、針金を捩り合わせたように引き締まった大巌坊の胸の心臓があるべき場所には、こぶし大の穴がポカリと空いていた。
「そんな!」瞭が叫ぶ。
「馬鹿な・・・」羽賀が痴呆のように呟く。
「ケェッ!」
奇声と共に大巌坊が床を蹴って跳び上がった。大巌坊の背後の大きな鏡の鏡面から、大巌坊の背中を追うように錫杖が飛び出した。大巌坊の左手が空中で錫杖を掴んだ。
タタタタ 羽賀のサブマシンガンが空中の大巌坊に向かって火を噴いた。だが、サブマシンガンの銃口を振り上げるタイミングが僅かに遅れたため、銃弾は天井に穴を開けただけだ。
錫杖が唸りを上げて瞭の頭上に振り下ろされた。
瞭は左手を上げて、防御のための念動波を発しようとした。
そのとき、瞭の目は、大巌坊の後ろの大きな鏡の中から瞭をジッと見据えている異形の影に吸い寄せられた。
・・・あれは何だ?・・・目だ、赤い目が・・・吸い込まれそうだ・・・赤い目だ・・・
ギギアハウの落ち込んだ眼窩の底から炯炯と光る赤い目が、瞭を捉えて離さない。瞭は動けなくなった。
「瞭!」
左手を上げかけた姿勢のままで固まっている瞭の身体を、羽賀は体当たりするようにして思いきり突き飛ばした。大巌坊が振り下ろした錫杖が、羽賀の左肩にめり込んだ。ゴクリと音がした。肩甲骨と鎖骨が砕けた音だ。脳天に突き抜けるような痛みを羽賀は咄嗟に無視した。痛みを無視して速やかに次の攻撃又は退避行動に移ること、それは戦場で生き残るための鉄則だ。
空中から勢いを付けて、羽賀の身体の上に圧し掛かるように下りてくる大巌坊の篠懸の襟首を、羽賀は咄嗟に右手で掴んだ。そして大巌坊の下で身体を丸めると、目にも止まらぬ背負い投げを放った。危機管理対策班の班員が習得している格闘術の中でも、柔道五段の羽賀の得意技である。
空中からの勢いをさらに加速させて、受け身を取ることもできずに、大巌坊は背中から床に叩きつけられた。大巌坊の手から離れた錫杖が、ジャラリと音を立てて床の上を滑っていく。
両膝を床に突いて上体を起こした羽賀は、床の上の大巌坊を見た。
羽賀の動きに合わせるかのように、大巌坊も床の上に片膝を突いて立ち上がろうとしている。背負い投げの衝撃が影響しているのだろう、動きが鈍い。
早苗の横に立った成田が大巌坊に向けて、腰だめに構えたサブマシンガンをセミオートモードで発砲した。
タン タン タン 短い発砲音が響いた。
「ヌッ」
大巌坊は咄嗟に右手の人差し指と中指を突き出して、防御の結界を張った。大巌坊に向かって飛んだ銃弾は、大巌坊の一メートル手前で宙に浮いたまま止まった。
中庭から風のように走り込んできた伊藤が、床の上に転がっている錫杖を拾い上げると、背中を向けている大巌坊の後頭部に錫杖を叩きつけた。
ゴッという鈍い音がした。
大巌坊は崩れるようにグシャリと床に倒れた。大巌坊は血のように赤い両目を見開いたまま動かない。少し開いた口から舌が覗いている。
伊藤はフウフウと肩で息をしながら、錫杖を床に放り投げた。錫杖が床の上でジャラリと音を立てた。
「何とか間に合うたでぇ。羽賀さん、大丈夫でっか」
羽賀は伊藤の手を借りてゆっくりと立ち上がった。
「肩甲骨と鎖骨が折れているだろうが、死にやしないさ」
そう言った途端、羽賀の左肩が焼けるように疼いた。羽賀は顔をしかめてムウと呻いた。
「親父!」
祥吾が走り込んできて、大巌坊の脇に座った。祥吾の後を追って、早苗と成田が居間の中に足を踏み入れた。
「成田、大巌坊を身動きできないように結索バンドで縛れ。・・・もっとも、超能力者が相手だ、どこまで効果があるか分からんが。祥吾、明日香さん、ここは危険だ。すぐ退避してください。ああ、瞭、大丈夫ですか?」
羽賀は早口で指示を出しながらゆっくりと周囲を見回した。突き飛ばされて床に転がったままの瞭が、ボンヤリとした目を宙に向けている。瞭の両目は虚ろで生気が感じられない。
祥吾は変わり果てた父親の姿を見て、目に涙を浮かべている。厳しい修行に打ち込んで、役小角の再来とまで称された験力を得た父親が、魔物に操られていることが信じられなかった。はだけた襟元から覗く胸にポカリと空いた穴を見て、祥吾は唇をかんだ。修験者が魔物に心臓を差し出したのだ、もはや修験者ではない。
「親父、何でこんな姿に・・・。死んじまった、親父は死んじまったんだな。ここにいるのは親父じゃない。魔物に魅入られた化け物だ」
両手首と両足首を結束バンドで縛られた大巌坊の篠懸の襟元を直してやると、祥吾はズボンの尻のポケットに折りたたんで入れてあった熊野牛王符を大巌坊の胸元にねじ込んだ。烏文字で書かれた熊野三山の特有の御神符である。祥吾が高校に入学したときに、魔除けだといって大巌坊、いや、九鬼巌が祥吾に与えたものだ。
祥吾の指先が硬いものに触れた。それは布に包まれていた。祥吾はそれを掴み出した。
「独鈷杵だ。親父・・・なぜこれを使わなかったんだよ」
独鈷杵は両端の尖った法具で、魔を打ち砕く力を秘めていると信じられている。
祥吾はガクリと項垂れると、独鈷杵で大巌坊の肩を力なく叩いた。大巌坊がスウッと息を吸い、瞼を閉じた。再び瞼を開けた大巌坊の両目には黒い瞳が戻っていた。
「祥吾か・・・」
大巌坊の穏やかな声が響いた。
「親父」
「祥吾、すまん。お前に恥ずかしい姿を見せてしまった・・・儂は自らの験力にうぬぼれていた。その慢心の隙を突かれた。不覚だ・・・いや、違う、儂はもっと強い力に憧れていたのだ。ギギアハウの持つ強い力に惹かれたのだ。虚栄と力への執着・・・儂は堕ちるべくして魔道に堕ちたのだ。祥吾、ここから逃げろ。ギギアハウが・・・ギギアハウがくる!」
大巌坊の両目から黒い瞳がスッと消えた。
大巌坊がおもむろに上体を起こした。大巌坊のポカリと空いた穴のような両目は、血塗られたように真っ赤だ。ジロリと祥吾を見たその顔には、表情がない。
「ケエエェ!」
獣のような叫び声を上げて、大巌坊は身体を捩っている。両手首と両足首の結束バンドを切ろうとしているのだ。大巌坊の験力をもってすれば、結束バンドを切ることなどたやすいはずだが、大巌坊がいくら念じても結束バンドが切れない。床の上に転がっている錫杖を手にしようと念を送ったが、錫杖はピクリとも動かない。
大巌坊の邪悪な験力は、祥吾が胸元に入れた熊野牛王符によって封じられていた。
「いかん、大巌坊が暴れ出した。成田、祥吾と明日香さんを連れてここから退避しろ! 伊藤、瞭のバックアップに回れ。瞭!・・・瞭? どうした、瞭・・・」
左腕を庇うように右手で抱えた羽賀が振り返ると、瞭がフラフラとした足取りで北の壁に立て掛けられた大きな鏡に向かって歩いていた。
・・・赤い目が呼んでいる・・・いかなくては・・・赤い目が・・・呼んでいる・・・
瞭の意識はギギアハウに操られていた。瞭の両目は虚ろで、羽賀の声も耳に届かないのか振り向きもしない。
そして瞭がフラフラと向かう大きな鏡の鏡面には、異形の男が映っていた。瞭は魔人ギギアハウに呼び寄せられているのだ。
大きな鏡の鏡面が撓み、盛り上がるように膨らむと、ギギアハウの痩せた二本の腕が植物の芽のように鏡面から突き出た。二本の腕は蔓のように互いに絡み合いながら、瞭に向かってスルスルと伸びた。
「矢沢さん! どないしたんや」
伊藤は瞭に走り寄ると、瞭の左肩に手を掛けて顔を覗き込んだ。無表情の瞭は右手で伊藤の手を邪険に振り払うと、伊藤の胸を軽く突いた。伊藤は真後ろに五メートルも吹き飛ばされて、背中から床に落ちた。大理石のテーブルの角で背中を強打したのだろう、伊藤が床の上で身体を丸めて呻いている。羽賀が膝を突いて伊藤の背中を抱きかかえた。
「瞭!」
祥吾が叫ぶ。早苗が無駄だと首を横に振った。
「ダメよ、瞭はギギアハウに魅入られている。このままじゃ、鏡の世界に引きずり込まれるわ」
もう一度思念波の塊でぶん殴るしかなさそうだと早苗は思った。まったく世話が焼ける。早苗の前頭葉のネオニューロンが炎を上げた。
早苗は強烈な思念波の塊を瞭に向かって投げつけた。しかし、早苗の思念波は全身を鎧のように覆う瞭の念動波にぶつかると、引き千切られたように四散した。
瞭の全身から炎のように念動波が立ち昇っている。
「瞭のこんなに強い念動波は初めて見たわ。きっと、ギギアハウによってネオニューロンのリミッターが解除されたのね。このままじゃ、瞭は暴走してしまうかもしれない。あるいは限界を超えたネオニューロンが焼き切れるまで活性化した後に壊死してしまうか・・・何としても止めなきゃ」
早苗は瞭に向かって走り出そうとした。早苗の肩を成田が抑えた。
「明日香さん、危険だ。下がって」
成田は早苗の身体を押しのけるようにして大鏡の前に進むと、鏡面に映るギギアハウに向かってサブマシンガンの引き金を引いた。
タタタ タタタ 至近距離からサブマシンガンの銃弾を受けても、大きな鏡はヒビひとつ入らず、鏡面に吸い込まれた銃弾は、鏡面世界に入るや否やたちどころに消えてしまう。
「クソッ、クソッ」成田は続けざまに引き金を引いた。
タタタ タ・・・ マガジン内の全ての銃弾を撃ち尽くしたサブマシンガンが沈黙した。
鏡の中のギギアハウが成田を見てニタリと笑った。ギギアハウは口をすぼめてフウウと息を吐いた。吐き出された黒い霧が鏡面から流れ出て、毒蛇が絡みつくように成田を取り巻いた。
「グウウ・・」
成田は喉を掻きむしりながら床に崩れ落ちた。成田は口から泡を吹き出しながら苦し気に身体を捩っている。
ギギアハウが伸ばした両手が瞭の首を掴んだ。瞭の身体は氷の上を滑るかのように、床の上を大きな鏡に向かって引き寄せられていく。
「瞭!」
早苗が瞭に向かって走った。その横を祥吾が脱兎のごとく駆け抜けた。
祥吾は飛びつくようにして瞭の腰に手を回した。途端に祥吾の身体は瞭の発する念動波の炎に包まれた。
・・・熱い・・・身体が焼ける・・・頭が、頭が割れるようだ・・・ああ、頭が!・・・
祥吾の頭が小さく痙攣を始めた。祥吾の瞳が左右バラバラにグルグルと動いている。眼球が異常運動を起こしていた。
祥吾の脳内からブチブチと何かが焼き切れるような音がした。同時に額の内側が沸騰したように熱くなり、迷路のように張り巡らされた細いチューブの中に高圧の蒸気が注入されて、チューブがムクムクと膨らんでいくような感覚を覚えた。祥吾の脳内を霞のように覆っていた古い滓が焼き切れて、眠っていた回路が繋がって生体エネルギーが流れ始めたようだ。
祥吾の眼球の異常運動が止まった。スウッと中心に戻った祥吾の瞳は、黒から鮮やかな青色に変化していた。
祥吾の前頭葉で埋もれていたネオニューロンが、瞭の念動波を受けて急激に増殖し、ネットワークを構築して活性化した。祥吾の超能力が発現したのだ。
瞭の身体が大きな鏡の鏡面に呑み込まれた。瞭の腰に手を回している祥吾の身体も、ゆっくりと鏡面に呑み込まれていく。
『祥吾! 手を伸ばして、私の手を掴んで! 私の思念波の糸を離さないで!』
早苗の思念波の声が祥吾の頭の中に響いた。祥吾は咄嗟に左手を後ろに伸ばした。
鏡面から祥吾の左手の肘から先だけが突き出ている。その左手はゆっくりと鏡面に沈んでいく。
走り寄った早苗が祥吾の左手を掴んだ。早苗は右掌を祥吾の左掌に重ね合わせた。早苗の思念波の糸が祥吾の掌の神経細胞に絡み付く。祥吾は思念波の糸を離さないよう、左掌をギュッと握った。
早苗の思念波の糸を握りしめたと同時に、祥吾の左拳が鏡面にトプンと沈んだ。
早苗は北の壁に立て掛けられた大きな鏡の前で、床に両膝を突いていた。早苗の目の前の大きな鏡の鏡面には、ギギアハウも瞭も祥吾の姿もなく、早苗の途方に暮れたような顔だけが映っている。
早苗の背後では、床に仰向けに寝かされた成田の上に覆いかぶさるようにして、伊藤が心臓マッサージをしていた。羽賀はアルファードのリアシートに置いてある医療キットを取りに向かっていた。
床の上に転がされている大巌坊が、芋虫のように身体をくねらせながら床を這っていた。大巌坊の向かう先には、床の上に置かれた直径二十センチの手鏡がある。大巌坊が手鏡の前まで進むと、水面に水滴が落ちたかのように鏡面が揺らいだ。
大巌坊の頭が鏡面の中に沈んだ。身を捩るように大巌坊の身体が動き、小さな鏡面に身体が捻じ込まれていく。両肩がスポリと鏡面の中に抜けると、胸・腰・脚がスルスルと鏡面に呑み込まれた。
大巌坊が鏡面世界に戻った後には、折りたたまれた熊野牛王符が手鏡の前に落ちていた。




