表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/17

鏡屋敷1

 二台の黒のトヨタアルファードが、国道百四十六号線から千元谷集落に向かう脇道に入った。

 前を走るアルファードを運転するのは伊藤誠也で、助手席には成田繁が乗っている。後ろを走るアルファードを運転するのは瞭で、助手席には早苗が、二列目のシートには羽賀隆一が乗っている。不眠不休で関係部署との調整を済ませた羽賀をおもんばかって、瞭が運転を買って出たのだ。最初は恐縮していた羽賀だが、車が走り出すや否や、シートに背中を預けて鼾をかき始めたところを見ると、よほど疲れていたのだろう。

 アルファードの運転席脇のコンソールボックスには保温ボトルが入っていて、瞭はその中の珈琲を時々口にしながら運転している。

 時刻は午後七時を少し過ぎたところで、三十分ほど前に日没を迎えた脇道は、見る見るうちに闇に沈んでいく。アルファードのヘッドライトが照らし出す光の輪の中に、ミズナラやカラマツの自然林の中をクネクネと縫うように延びる細い道が白く浮かび上がっている。脇道の左右の草むらから聞こえてくる虫の音は、既に秋の虫に変わっている。季節は確実に歩みを進めているのだ。

 小さなカーブを抜けると、ヘッドライトの光の先の暗闇の中で何かがチカリと光った。

 前を走るアルファードを運転する伊藤は、咄嗟にブレーキを踏んで速度を落とした。CIAの工作員と特殊工作部隊が潜んでいる可能性がある。ここから先は細心の注意が必要だ。

「成田!」

 伊藤がそう声を掛けるより先に、成田の身体が反応していた。助手席の成田は身体を捩って二列目のシート席の床に置いているジュラルミンケースを開けると、H&KMP5サブマシンガンと予備のマガジンを手に取った。成田は膝の上にサブマシンガンを置くと、伊藤に向かって小さく頷いた。

 今回の作戦に使用しているアルファードは内閣危機管理室用の特別仕様で、対テロ市街戦を想定して防弾ガラスと防弾装甲で車体が覆われていた。二列目のシート席と三列目の後部座席には、人数分のサブマシンガンとショットガン、予備の拳銃のほか、手榴弾まで用意されている。特殊潜在能力研究所では、特殊工作部隊の圧倒的火力の前に為す術がなかったが、今回は十分な火力と特殊車両が用意できた。敷島の借りを返すという羽賀に、火力が過大だと渋る佐田危機管理官が押し切られたのだ。

 伊藤が運転するアルファードが、何かが光った場所にゆっくりと近づくと、脇道の路肩に高校生らしき少年が怯えたような顔をして立っていた。夜道で、車が突然速度を落としてゆっくりと近づいてきたのだ、何ごとかと警戒するのも無理はない。えんじ色のジャージの上下にスニーカーを履いてリュックサックを背負っている。チカリと光ったのは、手に持っているペン型の懐中電灯だ。身長は百七十センチほどで、ヒョロリと痩せている。

 高校生が課外授業で浅間山にきて、仲間とはぐれて道に迷っているような姿を見て、伊藤は肩の力を抜いた。少なくとも銃撃を受ける恐れはなさそうだ。

 伊藤は少年の横でブレーキを踏みかけて思い止まった。仮に少年が道に迷っていたとしても、この先、特殊工作部隊と銃撃戦があるかも知れないのだ、この車に乗せる訳にはいかない。

 伊藤はアクセルを踏み込んだ。少年の横をアルファードが走り抜ける。少年は怪訝な顔をしてアルファードのテールランプを見送った。

 瞭の運転するアルファードがその後に続いた。運転席から、瞭がチラリと少年を見た。

「伊藤さんの車がスピードを落としたから、何かあるのかと思ったら、こんな夜道を人が歩いていたのか。うん? 高校生みたいだな・・・千元谷集落にいくつもりなのかな」

 独り言のような瞭の呟きを耳にして、早苗が後ろを振り返った。リアウィンドウの中で少年の姿は既に闇に埋もれていて、懐中電灯の微かな明かりだけがチラチラと動いている。

 早苗の頭の中に、突然『大巌坊』という名前が浮かんだ。少年が心の中で強く念じている言葉に、早苗の無意識の思念波が共鳴したのだ。

「瞭、車を止めて!」

 早苗は思わず声を上げた。

 驚いた瞭がブレーキを踏み込むと、アルファードは土埃を蹴立てながら、つんのめるようにして止まった。二列目のシートで寝ていた羽賀の身体がガクンと揺れた。一瞬で目覚めた羽賀は咄嗟に身体を起こし、脇の下のホルスターから素早く拳銃を引き抜いた。

「どうした!」羽賀が叫ぶ。

 瞭はハンドルを握ったままで、早苗の顔を見た。

「早苗ちゃん、いったいどうしたんだい」

 早苗は後ろを振り返って、リアウィンドウの中に少年の姿を探した。早苗に釣られたように羽賀が後ろを振り返った。

「瞭、あの子・・・超能力者だわ、まだ未発現だけど。大巌坊・・・、そう、あの子、大巌坊のことを考えていた。凄く思い詰めているみたい」

 瞭の顔に不審な色が浮かぶ。

「大巌坊? 御手洗邸の?」 

「そうよ。あの子、ひとりで御手洗邸に向かうつもりだわ」

 瞭と早苗の会話を聞いて、特殊工作部隊の襲撃ではないと分かった羽賀は、拳銃をホルスターに仕舞うと早苗に尋ねた。

「明日香さん、あの子とはいったい誰のことです」

 車が止まるまで眠っていた羽賀は、少年の姿を見ていないのだ。

「あの子よ、もうすぐくるわ。ねえ瞭、羽賀さん、あの子をこの車に乗せてあげて欲しいの。一緒に御手洗邸に向かわなきゃいけない、そんな気がするの。あの子・・・」

 早苗の目がスウッと細くなった。瞭は早苗の発する思念波を感得して、思わず身を硬くした。早苗は未来から伝わってくる、次元を揺らす波動を感得しようとしている。

 ・・・大巌坊との戦い・・・瞭、そして・・・やはりあの少年だわ・・・あの子、サイコキネシスを・・・親父? 親父と呼んだのかしら・・・あの子に助けられるの?・・・

 早苗は鳶色の瞳を大きく開けると、キッパリと宣言した。

「あの子は、この先に待ち受けている大巌坊との戦いで私たちを助けてくれるわ。しかもあの子は・・・大巌坊の息子だわ。ねえ、瞭、あの子も一緒に連れていきましょう」

 瞭は怪訝な顔をした。

「大巌坊の息子だって? なぜこんな所へ・・・それよりも、大巌坊が御手洗邸にいることを、どうやって知ったんだろう? テレパスなのかな」

「テレパスじゃない、おそらく瞭と同じサイコキネシスを操る能力だと思うけど、まだ未発現だわ。潜在的超能力者ね。何かきっかけがあれば、あの子の能力は発現するはずよ。おそらく御手洗邸で・・・」

 瞭と早苗の会話に羽賀が割り込んだ。

「おふたりの話の邪魔をして恐縮ですが、これから向かう御手洗邸ではふたつのミッションが我々を待ち構えています。ひとつ目のミッションは、御手洗邸で網を張って、CIAの工作員と特殊工作部隊を発見して監視下に置くもので、やつらが日本国民に何らかの危害を加えようとした場合には、それを阻止しなければならない。ふたつ目のミッションは、人類の厄災を阻止することで、そのためには大巌坊や魔人ギギアハウと戦わなければならない。いずれの場合も、銃撃戦は避けられないでしょう。この車に乗せるということは、その子を危険にさらすことになります。たとえその子が大巌坊の息子だったとしても、そんなことはできません。軽井沢警察署に連絡して、その子を保護してもらいましょう」

 羽賀の意見は正論だ。未成年者をあえて危険な現場に連れていくなど論外だ。

「羽賀さんのおっしゃるとおりだけど、人類の厄災を防ぐための戦いには、あの子が潜在的に持つ、サイコキネシスを扱う能力がきっと必要になるはずよ。私が感得した戦いのイメージの中に、あの子の姿が見えたわ。あの子は、きっと何かの役割を負っている。羽賀さん、お願い。あの子をこの車に乗せて、一緒に連れていきましょう」

 早苗の頭の中には、超能力者同士の戦いが浮かんでいる。超能力者ではない羽賀には、そのイメージを浮かべることができない。羽賀の頭の中には銃撃戦が浮かんでいる。ふたりが思い描く、戦いの意味も危険の意味も異なるのだ。

「しかし、明日香さん・・・」

 反論しようとした羽賀の言葉が途切れた。早苗の極めて指向性の高い思念波が、触手のように羽賀の脳内に伸びた。

 ・・・羽賀さん、あの子の力が必要なの。分かるわね・・・

 羽賀の思考を早苗の思念波が揺さぶる。

「・・・そうだ、必要だ・・・あの子を連れていかなければ・・・」

 羽賀は夢を見ているかのような目をしてボソリと呟くと、それに続けてきっぱりと言った。

「明日香さん、分かりました、あの子を連れていきましょう」

 瞭が驚いた顔をして、突然意見を変えた羽賀の顔を見つめている。羽賀は、自分が意見を変えたことを認識していないのだろう、キョトンした顔で瞭を見た。

「何か、私の顔に付いていますか?」

「いやいや、何でもありません」

 瞭は、早苗がテレパシーを使って羽賀の思考に干渉したことを理解した。助手席に座って前を向いている早苗は、わざとらしく目を逸らせているが、表情が硬い。早苗はテレパスとして禁じ手を使ったことを、内心で反省していた。テレパスが人の思考を自由に操ることができると知れば、人々はテレパスを恐れ、テレパスを排除しようとするだろう。テレパスはその能力を自制しなければならない。早苗がしたことは自らの首を絞めることに繋がるのだ。

 少年が車に近づくと、瞭は運転席のウィンドウガラスを下ろした。

「やあ、こんな所でどうしたんだい。道に迷ったのかい? もし良ければ、この車に乗せてあげるよ」

 瞭はとっておきの人懐っこい笑顔を浮かべて少年に声を掛けた。フリージャーナリストの瞭が、取材先の警戒を解くために使う商売道具だ。

 少年は棒を呑んだように固まって、警戒するような目で瞭を見ている。五分刈りの坊主頭に秀でた額、ギョロリとした大きな目と掌のように大きな耳、神経質そうな細い鼻梁と尖った顎。森の中で茂みの中から出てきた小鹿が、猟師に気付いて驚いたような顔だと瞭は思った。

 瞭の肩越しに、早苗が助手席から少年に声を掛けた。

「ビックリさせてごめんなさい。私たちはこれから千元谷集落にいくの。この道を歩いているということは、あなたも千元谷集落にいくんじゃないかと思って。千元谷集落までは、まだこの先二キロメートルほどあるわ。こんな夜道を、ひとりじゃ危ないわ。ねえ、一緒にいきましょう」

 少年は下を向いて考えていたが、やがて顔を上げると無言で頷いた。

「さあ、乗った乗った」

 瞭はアルファードの後部自動スライドドアを開けた。二列目のシートに座っている羽賀が、「やあ」と右手を上げて挨拶した。

 少年はオドオドとした仕草で車に乗り込むと、羽賀の横に座りシートベルトを締めた。

 瞭はアルファードのアクセルをゆっくりと踏み込みながら、一瞬振り返って、チラリと横目で少年を見た。

「どうも初めまして、自己紹介しておこうか。僕は矢沢瞭、助手席に座っているのが明日香早苗、君の隣に座っているのが羽賀隆一。僕たちは雑誌の取材で千元谷集落にいくところなんだ。君の名前は?」

 瞭の紹介に併せて、早苗と羽賀が小さく会釈をした。

「僕は九鬼祥吾といいます。和歌山県の熊野からやってきました。高校三年、十八歳です」

 声変わりを迎えているのだろう、少し掠れた甲高い声だ。

 瞭の頭の中に、熊野の修験者だと名乗った大巌坊の声が蘇った。やはり早苗が感得したとおり、この少年は大巌坊の子供なのだと瞭は思った。

「九鬼君か・・・祥吾って呼んでいいよな。その代わり、僕のことは瞭って呼んでよ。ハハハ、矢沢より短くていいだろ。和歌山県の熊野というと、熊野那智大社とか熊野古道とかの、その熊野だよね。やけに遠くからきたんだなぁ。ひとりで? ハハア、それで、千元谷集落にはどんな用事で? ああ、親戚の家でもあるのかな?」

 瞭はハンドルを握りながら何気ない風に尋ねた。祥吾は首を横に振った。

「親父を探しにきたんです」

「お父さんを? お父さんは行方不明なのかい。そのう・・・千元谷集落で多発している行方不明者の中のひとりだってことなのかな?」

「行方不明者が多発している? そんなことは知りませんでした。親父の名前は九鬼巌。熊野の修験者で大巌坊と名乗っています。親父は、熊野山中の牛鬼集落にある封魔の祠から盗まれた神像を取り戻すために、この先の千元谷集落にある御手洗という人の家に向かったきり、帰ってこないんです。言い伝えでは、盗まれた神像には魔が封じ込められているそうです。きっと、親父に何かがあったに違いない。僕は毎晩夢でうなされて、とうとう居ても立っても居られなくなって、親父を探しにきたんです」

「お母さんは?」

「母親は僕が小さい頃に亡くなりました」

「兄弟はいるのかい?」

 祥吾は首を横に振った。

「父ひとり、子ひとりってことか。そりゃ心配だな」

 瞭の脳裏には、鏡屋敷で対峙した大巌坊の姿が浮かんでいる。大巌坊は鏡の世界に取り込まれて魔人ギギアハウの僕となり、ギギアハウに捧げる生贄を狩る狩猟者として、人々を捕らえては鏡の世界に引きずり込んでいるのだ。瞭はそのことを祥吾に告げることができなかった。

 瞭は思いついたかのように尋ねた。

「ねえ祥吾。お父さんが千元谷集落の御手洗宅に向かったことを、どうやって知ったんだい。メールとかラインでやり取りしていたの?」

 祥吾はしばらく口をつぐんでいたが、やがて秘密を打ち明けるかのように喋り出した。

「みなさんは信じられないかも知れませんが、僕の親父は熊野山中で厳しい修行を重ねた結果、役小角の再来といわれるほどの強い験力を授かったのです。『気』で人を倒し、けものや鳥を操り、空を飛翔することができるそうです。もっとも、僕は、親父が空を飛翔する姿を見たことがありませんが・・・。親父は、盗まれた神像を探すために烏ノ目の秘儀を使いました。飼い慣らした烏を放ち、烏の目を使って失せ物を探す秘儀です」

 それは、烏を憑代にしたレアボヤンス(千里眼)だろうと早苗は思った。サイコキネシスを操り、かつ、テレパスでもある大巌坊は卓越した超能力者に間違いない。その大巌坊と戦わなければならない。早苗は助手席に座って前を向いたまま、唇をかみしめた。勝てるだろうか、いや、勝たねばならない。

 祥吾の話が続いている。

「親父が神像を取り戻すために家を出てから、六日後に烏が帰ってきました。ところが、しばらく経っても親父が帰ってこないので、親父の知り合いの修験者の善義坊にお願いして、もう一度烏ノ目の秘儀を使ってもらったんです。それで、親父が最後に向かったのが、軽井沢の千元谷集落にある御手洗という人の家だと分かったんです」

「なるほどねぇ、烏ノ目の秘儀か」

 熊野で烏といえば、神武天皇を熊野国から大和国へ導いたとされる八咫烏の伝説がある。烏は熊野三山では神使とされ、熊野のシンボルとされる。熊野の修験者が烏を使役した秘術を使うことは頷ける。瞭は三本足の八咫烏の姿を思い浮かべた。

「・・・やはり信じて貰えないでしょうね。こんな話をすると、学校の同級生にいつも笑われますから」

 いつも友達にからかわれているのだろう、祥吾の声に力がない。祥吾は目を伏せて下を向いた。

 祥吾を元気づけようと、瞭は場違いなほど明るい声を出した。

「とんでもない、信じているさ。『超感覚的知覚(ESP)』と『念動力(PK)』を合わせた、PSIサイ能力は、人類が脳を進化させた後に得ることのできる未発現能力であり、ネオニューロンという特殊な脳細胞が発する生体エネルギーにより生じる物理的又は生理的現象に過ぎない、まさに科学の領域だからね。ハハハ、ちょっと難しかったかな。いまの話の専門家は隣にいる早苗ちゃんだけどね」

 早苗が鳶色の瞳でジロリと瞭を睨んだ。祥吾は煙に巻かれたのか、ポカンとした顔をしている。

「ああ、そういっている間に千元谷集落に着いたぞ」

 ミズナラやカラマツの自然林が途切れて、平坦な場所に出た。道の脇に道路標識のような看板が立っていて『千元谷』とだけ書かれている。

 看板の前に、先行していた伊藤が運転するアルファードが止まっていた。以前、瞭が訪れたときには、この場所にパトカーが待機していたが、いまは姿が見えない。内閣危機管理室から軽井沢警察署に内々に申し入れがあったに違いない。

 二台のアルファードが看板の前に並んで止まった。

 ここから御手洗邸まで、車なら十分もかからない距離だ。集落の中に向かって延びる真っ直ぐな道には街灯がなく、左右の別荘地に入る脇道の脇に立っている住居表示の数字が記された看板の上に、申し訳程度に電燈が灯っているだけで、集落は闇に沈んでいた。普段ならきれいに整備されている集落内の道は、行方不明事件の影響だろう、路肩に雑草が生い茂り、路面には所々に木の枝やごみが落ちている。

 空には針のように細い月が昇っているが、気休めのような微かな月光は、地面に届く前に夜の闇に染み入り消えている。

 羽賀はイヤホンとマイクが一体化した小さな通信機を耳に掛けると、前の車の伊藤と成田に細かな指示を与えながら、ジャケットを脱ぎ、代わりに防弾チョッキを着てヘルメットを被った。首から暗視ゴーグルをぶら下げている。後部座席に置いてあるジュラルミンケースを開けると、H&KMP5サブマシンガンと予備のマガジンを掴み上げた。

 羽賀の横に座っている祥吾は、サブマシンガンを見てポカンと口を開けている。モデルガンだと思っているのかも知れない。羽賀は祥吾に向かってこれ見よがしにサブマシンガンを持ち上げて見せると、いたずらっぽくニヤリと笑った。

「オモチャじゃないぜ、本物だ。防弾チョッキは予備がふたつしかない、さて、どうするか」

「僕はいいから、早苗ちゃんと祥吾に着せてあげて下さい。武器は・・・」

 瞭の言葉を羽賀が遮った。

「素人が武器なんか持つと怪我をする。下手すりゃ味方に後ろからけつを撃たれかねない。この車は防弾ガラスと防弾装甲の特別仕様だから、もし銃撃戦が始まれば、この車の中に逃げ込んで、ドアをロックして隠れていること。この中なら安全です。我々を援護する必要はないし、もし我々がやられたら、構わないからこの車で逃げてください」

 羽賀の顔は危機管理対策班のリーダーの顔に戻っている。

「あのう・・・これはいったい・・・」

 祥吾の声が震えている。先程、瞭は確かに、雑誌の取材で千元谷集落にいくと言ったはずだ。それなのに、千元谷集落に着いた途端、本物のサブマシンガンが目の前に現れて、銃撃戦云々と脅かされれば、気が動転するのは当たり前だ。

 瞭と早苗は顔を見合わせた。これから向かう御手洗邸で起こることを祥吾に理解させなければならない。問題は大巌坊のことをどのように伝えるかだ。尊敬している父親の今の姿を知れば、ショックを受けるだろう。しかも、その大巌坊と戦わなければならないのだ。

 早苗が瞭に向かって、説明しろと言わんばかりに顎をしゃくった。瞭は運転席で身体を捩ると、祥吾の顔を正面から見た。

「祥吾、僕がこれから話すことを、落ち着いて聞いてほしい。君のお父さんのことだ」

 祥吾は心持ち目を見開いて、瞭の顔を見返した。唇をキュッと閉じて、口を真一文字に結んでいる。

「君のお父さん、大巌坊は御手洗達造の別荘で行方不明になった訳じゃないんだ。大巌坊は神像に封じ込まれていた魔人ギギアハウの僕となり、鏡の世界に取り込まれた。そして、大巌坊はギギアハウに捧げる生贄を狩る狩猟者として、人々を捕らえては鏡の世界に引きずり込んでいる。そして、魔人ギギアハウと大巌坊によって、人類の厄災がもたらされる恐れがあることを、早苗ちゃんが予知した」

 祥吾の瞳が小さく揺れた。熊野の修験者の息子である祥吾にとっては、験力すなわち超能力は身近に存在するものであり、荒唐無稽な話ではないのだ。

「自己紹介をやり直すよ。僕は矢沢瞭、サイコキネシスを操る超能力者だ。彼女は明日香早苗、テレパスと呼ばれるテレパシーを操る超能力者だ。君の隣に座っている羽賀隆一は、内閣危機管理室の危機管理対策班のリーダーで、僕たちをバックアップしてくれる。僕たちはこれから、人類の厄災を阻止するために、魔人ギギアハウと大巌坊との戦いに向かうんだ」

 瞭はあえてCIA工作員と特殊工作部隊のことに触れなかった。CIA工作員たちの監視ミッションは祥吾に直接関係するものではないし、これ以上話をややこしくしても混乱するだけだ。

 祥吾がゴクリと生唾を呑み込んだ。瞭が続けた。

「そして祥吾、君はサイコキネシスを操る能力を秘めた潜在的超能力者だ。祥吾は、人類の厄災を阻止するための戦いの中で、何かの役割を負っている。これは早苗ちゃんが感得したことだ。だから祥吾を車に乗せたんだ。だが、祥吾に無理強いはできない。当然、この先には危険が待ち受けているからね。祥吾が嫌なら、僕たちと一緒に行動する必要はない。祥吾はここで車から降りて、警察に保護してもらうことができる。それは君が決めればいい」

「連れていってください! お願いします」

 瞭の話が終わるや否や、祥吾が叫ぶように声を上げた。

「親父が・・・親父が僕の夢の中に出てくるんです。血のように赤い目をして、僕の顔を見つめている。親父は苦しんでいる・・・魔人の僕になっても、心の奥底に親父の魂が残っていて、苦しんでいるんです。僕はその夢にうなされ続けて・・・居ても立っても居られなくなって、ここにきたんです。親父を救うために、いや、きっと親父は僕を待っているはずです」

 瞭を見つめる祥吾の顔は朱に染まっている。その顔には恐怖など欠片も浮かんでいない。

 瞭は祥吾の目を見つめながら右手を差し出した。その右手を祥吾が力強く握り返した。

「よし、これで僕たちはチームだ。よろしくな」

 祥吾は早苗と羽賀とも握手をすると、急に大人びた顔になった。祥吾なりに腹を括ったのだ。

「瞭、それじゃあ、出発しようぜ!」

 まるでリーダーのような祥吾の口調に、瞭はニヤリと笑い返した。頼もしいぜと瞭は心の中で呟いた。

「祥吾、了解!」

「ああ、矢沢さん、運転を代わりましょう。ここからは用心のために無灯火で進みます。暗視ゴーグルなしでは運転できませんからね」

 羽賀が瞭の肩を叩き、首から下げている暗視ゴーグルをこれ見よがしに持ち上げた。

 二台のアルファードは、用心のためにヘッドライトもスモールライトも点けず、暗視ゴーグルの視界を頼りに、人が歩くほどの速さで御手洗邸に向かって動き出した。

 一キロメートルの距離を十分かけて慎重に進んだ二台のアルファードは、七〇三とだけ書かれた看板を横目に見て、御手洗邸へ通じる脇道に進入した。脇道を二百メートル進むと、道の両脇に一メートルほどの高さの門柱が立っていた。門柱を抜けた先は、砂利道のロータリーが母屋玄関の車寄せに通じている。

 二台のアルファードは門柱の手前で止まった。

 外灯も門灯も消えている無人の御手洗邸は、闇の中に沈んでいた。本来であれば草むらの至る所から聞こえてくるはずの虫の音も絶えて、周囲は水底のように静まり返っている。

 静かすぎると瞭は思った。早苗は鳶色の瞳を半ば伏せるようにして意識を集中している。早苗の発する思念波が、早苗を中心とした同心円状に広がっていくのを瞭は感じた。潜在的超能力者の祥吾も、何か違和感を覚えたのか、こめかみを擦りながら、しきりに辺りを見回している。

 早苗がハッと目を上げた。囁くような声は緊張で震えている。

「カミラがいる。もうひとりのテレパスも。その他に襲撃者が六人。特殊潜在能力研究所を襲撃したやつらだわ。既に母屋を取り囲んでいる・・・」

 ハンドルを握る羽賀の表情がにわかに険しくなった。羽賀は小型マイクに向かって指示した。

「伊藤、成田、聞こえるか。CIAの工作員と特殊工作部隊は既に別荘の敷地内に散開しているらしい。車を脇道の草むらに入れて、一旦様子見だ。伊藤、斥候に出ろ。無理はするな、十分に注意しろよ」

 二台のアルファードは門柱の前で右に曲がると、二十メートル先の草むらの中に乗り入れて止まった。前のアルファードの助手席から滑り出た伊藤が、サブマシンガンを腰だめに構えると、砂利道の上を足音ひとつ立てずに母屋の方向に消えた。

 伊藤が斥候に出て五分が経過した。

 突然、中庭の方角からタタタという突撃銃の乱射音が響いた。ガシャンとガラスの割れる音に続いて、怒号と悲鳴が上がった。

「何か動きがあったようだ。母屋の玄関前まで進むぞ」

 羽賀はアルファードのアクセルを踏み込んだ。二台のアルファードは門柱の間を抜けると、砂利を蹴立てながらロータリーを母屋に向かって進んだ。


 カミラとマイルズ、そしてリックたち特殊工作部隊は、軽井沢市街地を出て旧スイス公使館から山中に延びる未舗装の細い抜け道を通って千元谷集落に入った。瞭たちが千元谷集落に入った国道百四十六号線を使うルートとは、集落を挟んで丁度反対側に位置する抜け道で、冬期は積雪のために通行できない。

 カミラたちが御手洗達造の別荘の前に到着したのは、瞭たちよりも三十分早い午後七時。御手洗邸に隣接する無人の別荘の敷地に車を止め、そこから敷地と敷地を区切るように広がるカラマツ林を徒歩で抜けてきたのだ。後方支援担当のダニエルは、前回の襲撃で懲りたのか、車の中で待機すると言い張ってそこから梃子でも動こうとしなかった。ひょっとすると、老練な工作員の勘が危険を察知したのかも知れない。

 リック、ビル、アンダーソンの三人は、御手洗邸の中庭に島のように配置されている奇岩の陰に身を潜めて、暗視ゴーグルで母屋の中を観察していた。その後ろで、膝を抱えて地面に腰を下ろしているのはカミラとマイルズだ。ジョナサンとデイビスは母屋の裏手に回り、ドミニクは玄関の車寄せの陰で待機している。

 御手洗邸は闇に埋もれていて、人の気配は感じられなかった。中庭に面したガラス戸には人が出入りできるほどの大きな穴が空いていて、その穴から吹き込む風が白いカーテンを揺らしている。真夏の太陽に焼かれた地面はまだ熱を蓄えていて、時折吹く風は日向水のように生暖かい。

 リックは足音を忍ばせてカミラとマイルズの前に立つと、屈みこむようにしてふたりの顔を見た。

「おい、テレパスのおふたりさん。お得意のテレパシーとやらを使って、建物の中を探ってみろ。拘束されているハドソンか、ハドソンを襲った超能力者が建物の中にいれば分かるんだろ? あるいは、日本の諜報組織の工作員が武器を持って潜んでいるかも知れん。用心しないと命が幾つあっても足りないからな」

 リックは溜息が漏れているかのような小さな声を吐き出すと、やれとばかりにカミラの右肩を指で突いた。

「分かったわよ、やるわ。マイルズ、手を貸して」

 マイルズは返事をする代わりにグズッと鼻を鳴らした。了解したという意味だろう。リックが横を向いた隙に、マイルズはズボンの尻のポケットからスキットルを素早く掴み出すと、ウイスキーをゴクリと一口飲んだ。特殊潜在能力研究所の襲撃に際して、子供たちの荒々しい思念波を受けて半ば意識を失い、日本の工作員に手足を縛られて拘束され、ダニエルに助けられて辛くも脱出した経験をしてから、マイルズの酒量がそれまでの倍に増えた。のべつ幕無しに酒を口にしているのは、恐怖心から逃れるためだ。

 カミラはマイルズと向かい合って、両手を繋ぐと目を閉じた。カミラとマイルズの思念波の波長がゆっくりと同調して、強い思念波のうねりに変わると、同心円状に広がった。

 ・・・ハドソン返事をして・・・助けにきたのよハドソン・・・建物の中には誰もいないようね・・・うん?・・・あれは・・・

 同心円状に広がる思念波のうねりがいびつに歪んだ。盥の底に穴が開いて、盥の中の水が渦を巻いてその穴に吸い込まれるかのように、カミラとマイルズの発した思念波が建物の中の一点に吸い込まれている。その流れはどんどん強くなり、カミラとマイルズの脳内から思念波が否応なしに吸い出されていく。脳内の情報が、記憶が、意識が抜き取られているようだ。カミラとマイルズは必死に抗おうとしているが、流れ出る思念波の奔流を止めることができない。このままでは全てを吸い尽くされて廃人になってしまう。カミラとマイルズの心臓は恐怖に鷲掴みにされた。

 カミラとマイルズの身体が激しく痙攣を始めた。カミラの喉から獣のような唸り声が漏れ、口から泡を吹いている。マイルズの鼻腔から鮮血がドロリと流れ出た。

「どうした! おい、しっかりしろ!」

 ふたりの異変に気付いたリックが、慌てて肩を揺さぶった。カミラとマイルズの頭部は意識を失っているかのようにグラグラと大きく前後に揺れた。マイルズのTシャツの胸の部分が、流れ出た鼻血で真っ赤に染まっている。

 リックはカミラとマイルズの腕を掴むと、肘の内側にある孔最という経穴を、親指で力いっぱい押した。格闘術で相手の動きを封じる技のひとつで、大男でも身を捩るような強い痛みを感じる急所である。

 カミラとマイルズは強烈な痛みに身体をのけ反らせると、呪縛から逃れたようにフッと目を開けた。ふたりは抱き合うようにしてヘナヘナと地面に座り込んだ。

「大丈夫か、何があった」

 リックの声に、カミラが掠れた声で答えた。

「何かがいる。建物の中に何かが・・・」

「建物の中に? それはハドソンか、それとも超能力者か」

「分からない・・・恐ろしいものが・・・全てが吸い込まれる・・・」

 掠れた声で繰り返すカミラの横で、マイルズは痴呆したように両目を見開いて下を向いている。ポタリポタリと滴り落ちる鼻血を拭おうともしない。

 コリャダメだとリックは思った。だが、建物の中に何かがいることは間違いないようだ。もし、超能力者なら排除しなければならない。

 リックはヘッドギアの小型マイクのスイッチを入れた。

「こちらリックだ。カミラが、建物の中に何かがいると言っている。詳細は不明。一分後に突入だ。その何かを確認の上、排除する。狭い建物だ、突入後五分でケリをつけるぞ、抜かるなよ。以上だ」

 これ以上使い物になりそうにないカミラとマイルズをその場に残し、リックは岩陰に身を潜めているビルとアンダーソンに向かって、前進のハンドシグナルを送った。そして、リック自らも、M4―A1カービン突撃銃を構えると、中庭に面したウッドデッキに向かってゆっくりと歩き始めた。

 リックはウッドデッキの縁で一旦止まり、腕時計を見た。残り三秒、二秒、一秒、突入!

 リックはウッドデッキに駆け上がると、割れたガラス戸の穴から部屋の中に走り込んだ。ビルとアンダーソンが後に続く。母屋の裏手と玄関からもドサドサという足音が響いてきた。

「何だこれは」

 暗視ゴーグルの視界の中に浮かんだ光景を見て、リックは思わず呟いた。

 鏡、鏡、鏡・・・至る所に鏡がある。

 北の壁に立て掛けられている、高さが二メートルはあろうかという大きな鏡の前に、異形の男が立っていた。坊主頭に頭巾を乗せ、身に袈裟と篠懸を纏い、括袴をはいて、白手甲・脚絆をつけ、足元は草鞋を履いている。左手には背丈を超えるほど長い錫杖を持っている。

 一瞬、リックは等身大の人形が鏡の前に置かれていると錯覚した。

 暗闇の中で大巌坊の両目が赤く光った。

「ウン!」

 気合いと共に突き出された錫杖が、矢のように宙を飛び、リックの右横に立っているビルの喉元を貫いた。

「ケエェ!」

 奇声を発して居間の天井付近まで飛び上がった大巌坊の身体が、リックの左横に立っているアンダーソンに迫る。何ごとが起きているのか咄嗟に理解できていないアンダーソンは、身体を硬直させたまま立ち尽くしている。大巌坊の強烈な前蹴りがアンダーソンの顔面を捉えた。ゴクリと鈍い音を立てて、アンダーソンの首の骨が折れた。

 リックの左側面の至近距離に大巌坊がフワリと着地した。ビルとアンダーソンの身体が、同時にグシャリと床に崩れ落ちた。

「クソッ」リックが毒づく。

 リックが大巌坊に向けようとした突撃銃の銃口を、大巌坊は右手で払いのけた。

 タタタタ 発砲音が響き、払いのけられて上を向いた突撃銃が、居間の天井に銃弾をまき散らした。天井に吊り下げられていたシャンデリアから、ガラスの破片が雨のように居間の床に降り注いだ。

 大巌坊がリックの胸の真ん中に右手を当てた。

「ヌッ!」

 大巌坊が気を発すると、リックの身体は真後ろに吹き飛ばされた。穴が空いていない方のガラス戸に背中から激突したリックは、ガラス戸を突き破ってウッドデッキに転がり落ちた。ガラスの割れるガシャンと大きな音が響いた。リックは言葉にならない呻き声を上げながら、ウッドデッキの上でもがいている。

「リック!」

 母屋の裏手にある勝手口から突入してきたジョナサンとデイビスが居間に飛び込んだ。ジョナサンとデイビスは、居間の中央に立って、ジョナサンたちに背中を見せている大巌坊に向けて、ためらいなく突撃銃の引き金を引いた。

 タタタタ タタタタ フルオートモードで発射された銃弾が、雨のように大巌坊の背中に降り注いだ。

 至近距離から発射された五・五六ミリNATO弾を受けて、血煙を上げて倒れるはずの大巌坊は、ジョナサンたちに背中を見せたまま、何ごともないように立っている。

 大巌坊の背中から一メートルほどの所に、モヤモヤとした光の膜が広がっていて、大巌坊の背中にめり込むはずの銃弾が、光の膜にめり込むようにして宙に浮いていた。

「何だこりゃ、どうなってるんだ!」ジョナサンが驚愕の声を上げた。

 デイビスは無言のまま突撃銃の引き金を引き続けた。しかし、発射された銃弾は光の膜を貫通せずに、宙に浮いたまま止まっている。

 大巌坊が肩越しにジョナサンとデイビスに目を向けた。ぽっかりと空いた空洞のような両目の穴は、一面が血塗られたように真っ赤に染まっている。

「ウウッ・・・」「オウッ!」ジョナサンとデイビスは思わず呻き声を漏らした。大巌坊の視線に射竦められて、ふたりの身体は金縛りにあったように動かなくなった。

 大巌坊はゆっくりとジョナサンとデイビスに向き直った。大巌坊がダラリと垂らした左手の掌を開くと、ビルの喉元を貫通していた錫杖がユラリと動き、ジャラリと音を立てて宙を飛んだ。一瞬の後に、大巌坊の左手が錫杖を掴んでいた。

 大巌坊がジョナサンとデイビスに向かって一歩足を踏み出すと、光の膜がスウッと消えて、宙に浮いていた銃弾がバラバラと音を立てて居間の床に落ちた。

 大巌坊は摺り足であっという間にふたりの前に進むと、左手に持っていた錫杖を床に突きたてた。そして、右手でジョナサンの首を、左手でデイビスの首を掴むと、ふたりの身体を持ち上げた。ジョナサンは身長百九十センチ、体重百五キロ、デイビスは身長百八十五センチ、体重九十七キロ。身長百六十五センチという小柄な大巌坊が、巨漢のふたりを軽々と持ち上げていた。床から離れたふたりの両足がユラユラと揺れている。ジョナサンとデイビスは口を利くことも、身体を捩ることもできない。

 大巌坊は、ふたりを持ち上げたまま、北の壁に立て掛けられている大きな鏡の前まで進むと、ふたりを無造作に鏡面の中に投げ込んだ。鏡面は一度大きく撓み、水面に広がる波紋のような振動が全面に広がると、ノッペリとした平面に戻った。

 鏡面の内側から、ジョナサンとデイビスが、外の世界を驚愕の表情を浮かべて見ている。

 ふたりの背後に、異形の男が現れた。

 身長は百五十センチほどでヒョロリと痩せている。頭髪は一本もなく、落ち込んだ眼窩と胡坐をかいたように横に広がった鼻、頬は恐ろしいほどコケていて、鼻から下は髭で覆われている。腰布を巻き、ジャガーの革の貫頭衣を纏い、翡翠のベルトを締めている。裸足の足元は革のサンダルを履いている。貫頭衣から覗く身体には、赤白青黄の鮮やかなペイントが施されている。

 九世紀に古典期マヤ文明の崩壊をもたらした邪悪な神官、鏡の中の魔人、ギギアハウが姿を現したのだ。

 異様な気配に気づいたジョナサンとデイビスは振り返ってギギアハウを見た。あまりの衝撃にポカンと口を開けたまま、ふたりは魅入られたように立ちすくんでいる。

 ギギアハウは歯を剥きだしてハハアと笑った。ギギアハウはふたりに無造作に歩み寄ると両腕を伸ばした。ギギアハウの両腕がジョナサンとデイビスの胸の真ん中にズブリズブリとめり込んだ。そして、ギギアハウはジョナサンとデイビスの胸から心臓を掴み出した。

 ジョナサンとデイビスは両目をこれでもかと見開いて、掴み出された自分の心臓を見ている。心臓はまだ小刻みにドクリドクリと動いている。ふたりは痛みを感じていない。

 ギギアハウは両手に持った心臓を天に捧げるかのように一度頭上に高々と掲げてから、林檎でも齧るかのようにムシャムシャと食べた。食べ終えたギギアハウが、血に濡れた歯を剝き出してハハアと笑うと、ギギアハウの姿が消えた。それと同時にジョナサンとデイビスの姿も消えた。

 北の壁に立て掛けられている大きな鏡は、何ごともなかったかのように、整然と居間の風景を映していた。その風景の中に、デッキウッドから飛び込んできたリックの姿が映った。

 鏡だ! リックの脳裏に閃いた。鏡を壊せばいい。

「この化け物め! こうしてやる!」

 リックは突撃銃の銃口をあえて大巌坊から逸らすと、居間の中に無数に掛けられている鏡に向かって突撃銃の引き金を引いた。

 タタタタ タタタタ 発砲音に併せて銃口から炎の舌のような発砲炎が吹き出している。リックは狂ったように銃口を左右に振って、めくらめっぽうに発砲した。壁や床や天井にめり込んだ銃弾が、木片や金属片やガラス片を周囲にまき散らした。しかし、居間の中に無数に掛けられている鏡は一枚も割れなかった。鏡面に当たった銃弾は、水面に撃ち込まれた銃弾のように鏡面の中に吸い込まれている。

「そんな馬鹿な・・・」

 リックは北の壁に立て掛けられている大きな鏡に照準を絞って銃弾を撃ち込んだ。

 タタタタ 発砲音と共に、水面に夕立の雨粒が落ちたかのように、大きな鏡の鏡面に無数の同心円状の波紋が浮かんだが、鏡面には傷ひとつ付いていない。

 リックは突撃銃をダラリと下ろした。銃撃が無駄だと悟ったのだ。

 大きな鏡の横で、左手に錫杖を持った大巌坊がノッソリと立っている。大巌坊の真っ赤な両目は、ひたとリックを見据えている。リックの腹の底で恐怖がムクリと頭をもたげた。こいつは化け物だ。

 居間の入口に、玄関から突入してきたドミニクが顔を出した。さっきまで鳴り響いていた銃声が消えて、静かになった室内を不思議そうな顔で見ている。リックとドミニクの目が合った。

「ドミニク、逃げろ!」

 リックはそう叫ぶと、大巌坊にくるりと背を向けて猛然と走り出した。何が何だか分からないドミニクだが、『逃げろ』という言葉に身体が無意識に反応した。一瞬の間を置いてから、ドミニクも玄関に向かって走り出した。

 大巌坊は胸の前で小さく印を結び、「ノウマクサンマンダ バサラダン センダンマカロンシャダソハタヤ ウンタラタカンマン」と呪文を唱えると、リックの背中に向けて右手の人差し指と中指を突き出した。

「ヤァーッ!」

 大巌坊は雷鳴のような声と共に気を発した。

 ウッドデッキを駆け抜けて、中庭に飛び降りたリックの身体がよろめいた。心臓発作でも起こしたかのように力なくヨタヨタと二、三歩進んでから、ドサリと両膝を地面に突いた。

 ・・・熱い、熱い・・・身体が燃えるようだ・・・熱い・・・

 リックは手袋をむしり取り、ヘルメットと暗視ゴーグルを投げ飛ばすと、迷彩服の上着の襟をはだけた。

 ボッ リックの身体が紅蓮の炎に包まれた。

 頭部も両手もはだけた胸元からも炎が上がっているが、迷彩服やブーツには何の変化も見られない。リックの肉体だけが炎を発している。大巌坊の火焔の術である。

「ヴゥオオオー!」

 獣のような唸り声を上げて、痙攣するかのようにリックが身体を捩った。燃え上がる頭髪を、炎に包まれた両手が掻きむしる。焼け爛れたリックの顔は、もはや目鼻口の区別すらつかない。頭を激しく振りながらゆっくりと立ち上がったリックは、足を一歩前に踏み出そうとして止まり、棒を倒すようにバタンと倒れると、すぐに動かなくなった。


 玄関に向かって廊下を走っていたドミニクは、視界の端にドミニクと並んで走る影を捉えた。その影は廊下の壁に一面に掛けられている無数の鏡の中を走っていた。

「リック、ビル、アンダーソン、何があったんだ・・・ジョナサン、デイビス・・・誰か応答しろ・・・。クソッどうなっているんだ」

 ドミニクのヘッドギアの小型スピーカーからは、誰の声も返ってこない。言葉にできない恐怖がドミニクを襲った。特殊工作部隊リーダーのリックとは、アメリカ海軍特殊部隊の頃からの付き合いだ。十年近く行動を共にしてきたが、リックが任務を放棄して、逃げろと言ったのは今日が初めてだ。これはただごとではない。

 ドミニクの目に玄関ホールが見えてきた。玄関ホールの壁にも無数の鏡が掛けられていて、上がり框の脇には大きな姿見鏡が置かれている。

 ドミニクと並走していた影がスッと先行すると、姿見鏡の中に小さな男の姿が浮かんだ。

 鏡の中の魔人、ギギアハウだ。

 玄関ホールに走り込んだドミニクは、姿見鏡の前でギギアハウと向かい合った。ドミニクがアッと思う間もなく、ギギアハウの落ち込んだ眼窩の底から炯炯と光る赤い目が、ドミニクを捕らえた。ドミニクは声を上げることも、身体を動かすこともできなくなった。

 ギギアハウがニタリと邪悪な笑みを浮かべた。姿見鏡の鏡面が撓み、盛り上がるように膨らむと、ギギアハウの痩せた二本の腕が植物の芽のように鏡面から突き出た。ギギアハウの二本の腕はドミニクの首を掴むと、ドミニクの身体を鏡面の中に引きずり込んだ。


 地面に座り込んでいたカミラは、目の前に現れたリックが突然炎を発して燃え上がるのを見た。リックの口から発せられる獣のような断末魔の唸り声が、カミラの耳に届いた。

「イヤアァァー!」

 カミラが狂人のような悲鳴を上げた。カミラの横で、痴呆したように両目を見開いて下を向いているマイルズは、もはや顔を上げようともしない。

 ジャラリと錫杖の音が響いた。

 中庭に敷かれた黒い玄武岩の平たい踏み石の上を、大巌坊がゆっくりと歩いている。大巌坊が履いている草鞋が踏み石を咬むシャラシャラという音が響いている。ザクリザクリと鑿で削り出したような彫りの深い大巌坊の顔には何の表情も浮かんでいない。ただ、ポカリと空いた穴のような赤い目が、夜の闇の中で狐火のように揺れている。その目はカミラとマイルズをひたと見つめていた。

「マイルズ、逃げなきゃ・・・ねえ、マイルズ、このままじゃ殺されちゃうわ・・・逃げなきゃ、ねえ、マイルズ・・・」

 カミラがマイルズの腕を掴んで揺すっても、マイルズは下を向いたまま返事もしない。マイルズはおかしくなっちゃったとカミラは思った。

 カミラは必死の思いで立ち上がった。膝がガクガクと笑って足に力が入らない。カミラは酔っ払いのように身体を左右に揺らしながら、中庭から外のロータリーに通じている枝折戸に向かって走り出した。

 背後でジャラリと錫杖の音が響いた。それに続いてグシャリという卵の殻を潰したような音がしたが、カミラは振り向くこともできずに走り続けた。

 錫杖で頭部を砕かれたマイルズが、崩れるように地面に倒れ伏した。一陣の風が吹き抜けて、中庭に植えられている楓の枝をザアッと揺らした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ