襲撃1
特殊潜在能力研究所は千葉県鴨川市の清澄山中にある。
JR外房線安房天津駅から県道を清澄山方面に向かい、五キロメートルほど進むと木々に囲まれた日蓮宗千光山清澄寺が見えてくる。清澄寺は日蓮宗の大本山で、日蓮上人が出家得度及び立教開宗された寺とされ、日蓮宗四霊場のひとつである。
清澄寺から更に県道を進み、清澄隧道を抜けた五十メートルほど先に、清澄山の山中に上る細い脇道がある。木々の枝に頭上を覆われた隧道のような脇道を一キロメートル上ると、ポカリと開けた明るい高台に出る。そこが特殊潜在能力研究所である。小学校の運動場ほどの広さの敷地に、鉄筋コンクリート造三階建ての研究所と平屋建ての集会所兼食事室、鉄筋コンクリート造四階建ての居住棟が中庭を囲むようにコの字型に建てられていて、それぞれが渡り廊下で繋がっている。高さ三メートルのコンクリート製の塀が建物を取り囲むように巡らされていて、正門には頑丈な鋼鉄製の扉が付けられている。
第二次大戦中に日本陸軍特殊兵器研究所に設けられた特殊潜在能力開発室が、戦後に神宮寺商事という会社に譲渡されて特殊潜在能力研究所と名称を変えた。一年ほど前に神宮寺商事の傘下から離れて、いまは一般社団法人となっている。
矢沢瞭の運転する黒のSUVが脇道から姿を現した。御手洗達造の別荘で大巌坊と戦ってから二日目の、時刻は午後一時を過ぎている。
長野県軽井沢町千元谷集落の御手洗達造の別荘から、フラフラの状態で何とか脱出した瞭は、千元谷集落の入口で巡回を続けていた小太りの巡査と痩せた巡査のふたり組に保護された。そら見ろ言わんこっちゃないという顔をした小太りの巡査だったが、そんな顔とは裏腹に、親切に軽井沢町までパトカーで送ってくれた。軽井沢中央病院で点滴を打って、その日は軽井沢のホテルに泊まり、翌日は軽井沢警察署に呼ばれて任意の事情聴取を受けて、解放されたのが午後三時。結局、軽井沢にもう一泊して、今朝、軽井沢を出発して千葉県鴨川市に直行してきたのだ。
正門の鋼鉄製の扉は開いていた。研究所の前まで車を乗り入れると、駐車スペースに止まっている十人乗りのワゴン車の隣に車を止めた。リュックサックとお土産の紙袋を両手に持って車から降りた瞭は、途端にムッとするような熱気に包まれた。息をすると鼻の奥がチリリと痛むような暑さだ。避暑地の軽井沢と安房鴨川では二十度近い気温差なのだ。肌を刺すような陽光に追い立てられるようにして、瞭は研究所に入った。辺り一面は耳を聾するほどの蝉しぐれだ。
受付には人影がないが、勝手知ったる研究所だ。瞭はそのまま真っ直ぐ廊下を進むと、階段を三階まで上がり、所長室のドアをノックした。
「どうぞ」
瞭がドアを開けると、明日香早苗は既に壁際の応接セットの椅子に座っていて、椅子の前のテーブルにはアイス珈琲の入ったグラスがふたつ並んでいる。瞭の来訪を察知して淹れたばかりなのだろう、グラスにはまだ水滴が付いていない。テレパスのなせる業か・・・いや、窓から瞭の車が見えただけかも知れない。
瞭をチラリと見た早苗の大きな鳶色の瞳が、くるのが遅いじゃないと言っている。
「いやあ、耕文社の朝倉さんの依頼で軽井沢に取材に行って、えらい目に遭ったよ。殺されかけるは、警察に事情聴取されるは・・・ハハハ。はい、軽井沢のお土産、リンゴのパイ。これ美味いんだ、みんなで分けて食べてよ」
気まずい空気を吹き飛ばすようにわざとらしく陽気な声を上げながら、瞭は早苗の前の椅子に腰を下ろした。瞭は目の前のグラスに手を伸ばした。
「知ってるわ。場所は千元谷、誰かの別荘でしょ」
ゴホッ! ストローに口を付けて珈琲を啜っていた瞭がむせた。すました顔の早苗はさりげなくティッシュペーパーの箱を瞭の前に置いた。くたびれたポロシャツに付いた珈琲をティッシュペーパーで拭きとりながら瞭が尋ねた。
「早苗ちゃん、どうしてそれを・・・」
「クレアボヤンスよ。フラフラと歩いている瞭が見えたわ。ねえ瞭、テレパスが一緒だったんじゃない? そのテレパスはどうしたの?」
瞭がスッと真顔になった。錫杖に胸を貫かれたハドソンの姿がまだ目に焼き付いている。
「テレパス・・・名前はハドソン・スミス、アメリカ人だ。御手洗達造の別荘に向かう途中で知り合ったんだ。バックパッカーだと言っていたが、違うな。拳銃を持っていた。彼は大巌坊と名乗る修験者に殺されたよ。大巌坊はサイコキネシスを操る超能力者だ。僕はハドソンに助けられた」
瞭は御手洗達造の別荘で起こったことを早苗に話した。早苗は顎を指でつまみ、少し首を傾げて熱心に瞭の話を聞いている。話し終わった瞭は、今度は早苗の番だという風に目を向けた。早苗は小さく頷くと話し始めた。
「私はハドソンがカミラとマイルズに向けて発した思念波を感得したのよ。その思念波の痕跡を辿っていったら、瞭がフラフラと歩いている姿が見えたって訳。そして、誰かの別荘が・・・暗い穴が見えたの。何を意味するのか分からなかった。そしたら突然クレアボヤンスが途切れた。そうか、あの衝撃波を察知したのね。そのすぐ後だわ、凄まじい衝撃波が未来から過去へ駆け抜けたの。人類の厄災が見えた。あれは予知だわ」
早苗は予知した人類の厄災について瞭に話した。
「全てを吸い込む歪んだ空間・・・魔人か。大巌坊はこう言った、『自分は鏡の世界におられるギギアハウ様の僕だ』と。人類の厄災は鏡の中の魔人ギギアハウによってもたらされるのだろうか?」
瞭の脳裏に大巌坊の姿が蘇った。あの大巌坊を操る魔人とは、どんな力を持っているのだろう。瞭のサイコキネシスで対抗できるものなのか。
「ギギアハウ? その名前、どこかで見た覚えがあるわ。あれは・・・」
早苗はスウッと目を閉じて考えに沈んだ。
早苗の脳内には記憶生命体が共生している。
約四万年前から一万年前まで、ヨーロッパ大陸の一部にホモサピエンスのひとつの系統であるクロマニヨン人がいた。またヨーロッパには約三万年前まで旧人類といわれるネアンデルタール人がおり、クロマニヨン人と同じ時代を生きていた。現在の人類の遺伝子情報を解析すると、ネアンデルタール人の遺伝子と考えられるものが幾つか見られる。現在の人類に繋がるクロマニヨン人とネアンデルタール人との交雑が一部で行われていた痕跡ではないかと考えられている。
ネアンデルタール人の地域集団のひとつに、言語が未発達であった代わりに複数の個体間で意識を同化することのできる能力を得た集団Xがあった。そして意識の同化は記憶の共有へと進化し、集団Xで記憶を共有する特殊能力にまで発展した。集団Xで共有された記憶は、世代を超えて数万年という長い時間、集団Xのネアンデルタール人を渡っていくうちに記憶自体が生命を宿した記憶生命体へと進化した。ネアンデルタール人は約三万年前に滅びたが、交雑によりその遺伝子はクロマニヨン人へ、そして現在の人類に引き継がれている。そして集団Xのネアンデルタール人の遺伝子(遺伝子X)と共に記憶生命体も現在の人類に渡ってきたのである。
記憶生命体が共生する人類は、記憶生命体の蓄積した厖大な記憶を活用し、蓄積した過去の記憶を基礎として新しい技術や文化を構築することができるようになった。人類の歴史の中で、転換点をもたらす理論の構築、技術の開発や文化芸術の発展には、記憶生命体を脳内に宿した天才たちがいた。プラトン、アリストテレス、ニュートン、レオナルドダヴィンチ、アインシュタイン・・・彼らの卓越した頭脳の中には記憶生命体の影が見えるのである。
増殖する機能を有しない記憶生命体は、宿主から次の宿主へ、またその次の宿主へと渡りを繰り返しながら永い時間を越えてきた。そして、時間を経るにつれて徐々にその数を減らした。早苗の脳内に共生している記憶生命体は、この世界に残った最後の一体なのである。
早苗は記憶生命体が蓄積している厖大な量の人類の記憶を探っていた。
・・・ギギアハウ・・・魔人・・・鏡?・・・鏡だ! 鏡に封じ込められた魔人ギギアハウ・・・マヤだ、マヤのカンクエン遺跡の石碑に刻まれていた碑文・・・これだわ!・・・
早苗はスッと目を開けた。
「瞭、分かったわ。ギギアハウは九世紀に古典期マヤ文明の崩壊をもたらした邪悪な神官よ。大呪術師トカゥン・ナパウとの戦いに敗れて、鏡の世界に封じ込まれた。碑文によると、戦いで傷ついたトカゥン・ナパウは、ギギアハウが蘇ることのないように、ギギアハウを封じ込めた鏡を神像の中に収めて、自らが息絶える直前に海に流したとされているわ」
意外な話の展開についていこうと、瞭の頭の中はフル回転している。
「そのギギアハウが、理由は分からないが、現代に蘇った。マヤ文明ということは中南米のユカタン半島一帯・・・神像が太平洋に流されたのなら、日本に流れ着いた可能性があるということか。しかし、なぜ軽井沢の御手洗達造の別荘に・・・? 待てよ、御手洗達造は不動産王で、有名な古美術品蒐集家だ。なるほど、鏡を収めた神像が御手洗達造の元に持ち込まれたってことか、そして不幸なことに封印を解いてしまった。御手洗達造は蘇ったギギアハウに殺された」
瞭は自分の推理に満足気に頷くと、どうだという顔で早苗を見た。早苗は澄ました顔で珈琲を飲んでいる。そんなものは当然の帰結で、推理でも何でもないという顔だ。
瞭はゴホンとひとつ咳払いをしてから続けた。
「とにかく、早苗ちゃんが予知した人類の厄災は、現代に蘇ったギギアハウによりもたらされることが分かった。問題は、人類の厄災を阻止するために、ギギアハウとどうやって戦うかだな。鏡の世界・・・想像もつかないな。いっそのことアリスにでも頼むか」
瞭のつまらない冗談に、早苗はクスリとも笑わない。瞭はばつの悪い顔をして珈琲に手を伸ばした。静かになった室内に年代物の空調機のカタカタという音が響いている。
部屋の入口のドアがコツコツとノックされてガチャリとドアが開き、事務員の天野が顔を出した。天野は四十を超えたばかりだというのに頭頂部まで見事に禿げ上がり、それを埋め合わせるかのように顔の下半分は髭剃り跡が青々としている。小太りの体形で、上下のジャージを着ている。濃紺のジャージの背中には特殊潜在能力研究所の文字がでかでかとプリントされている。どう見ても研修生用だ。
「所長・・・あ、矢沢さん、お見えになってたんですか。気がつきませんでした。お久しぶりです。そうだ、所長。いましがた鴨川市民病院から連絡がありまして、斎藤加奈の退院の許可が下りたそうです。これから私が車で迎えにいってきます」
早苗の顔がパアッと明るくなった。
「ああ、よかった。天野さん、よろしくお願いします。そうだ、悠太も美咲も理沙も心配しているでしょうから、一緒に連れていってあげて下さい。帰りは鴨川市内で、みんなでご飯でも食べてゆっくりしてくればいいわ」
早苗が人類の厄災を予知した衝撃波を無防備に感得して意識を失った研修生の斎藤加奈は、鴨川市民病院に搬送された。翌日には意識が戻ったものの、大事を取って経過観察をしていたのだ。
早苗は事務机の引出しから手提げ金庫を引っ張り出すと、入院費用と夕食代を封筒に入れて天野に渡した。
部屋を出ていく天野の背中を見送った早苗は、瞭の方を振り返った。
「私はこれからギギアハウに関する資料が何かないか、パソコンで検索してみるわ。瞭はどうする?」
「軽井沢からここまで直行してきて、ちょっと疲れたから居住棟の部屋で一休みするよ。それから取材報告を簡単にまとめるとしよう。今日はここに泊まるよ」
瞭はグラスの中の珈琲を飲み干すと、リュックサックを持って椅子から立ち上った。
居住棟の二〇三号室が瞭の部屋として割り当てられていて、研究所に泊まるときはこの部屋を利用していた。六畳の洋間は簡易ベッドと机と椅子、収納棚の上に小さなテレビが置かれているだけの簡素な部屋で、研修生の部屋の造作と同じである。机の上にはラップトップパソコンが置かれていて、簡単な仕事ができるようになっている。
瞭はリュックサックを簡易ベッドの上に置くと、収納棚から珈琲を淹れるためのドリッパーやサーバーなどを取り出した。つい先程、早苗と一緒にアイス珈琲を飲んだばかりだというのに、もう珈琲が飲みたくなったのだ。早苗からは珈琲中毒だと笑われている。
ドリッパーに紙フィルターをセットして、フィルターに珈琲粉を入れる。瞭の好みはモカだ。ケトルで沸かした湯を注ぎ、サーバーに落ちたコーヒーをカップに入れる。ズルリと一口珈琲を啜ってから、瞭は「ああ」と満足げな声を出した。
瞭は珈琲カップを持ったまま簡易ベッドに腰掛けると、ベッドの上に置いたリュックサックの中から超薄型のラップトップパソコン、スマートフォン、パスポート、手帳を取り出した。御手洗達造の別荘から逃げる際に持ち出したハドソンのリュックサックの中に入っていたものだ。これらを取り出した後の、衣類が詰まっただけになったリュックサックは、千元谷集落の道の脇の草むらに投げ込んできた。仮に見つかったとしても、所有者を特定できるようなものは残っていないはずだ。
瞭はパスポートを開いた。アメリカ合衆国発行、名前はハドソン・スミス、生まれはアメリカのカリフォルニア州のサンノゼ、二週間前に東京国際空港から日本に入国。貼られている顔写真も千元谷集落で見たハドソンの顔と同じだ。素人の目からすると、パスポートに不審な点はない。
スマートフォンはバッテリーが切れていて動かない。電源コードを繋いでみたが、電源は入るものの待ち受け画面がロックされている。指紋認証なのだろう、そこから先の操作ができない。
瞭はラップトップパソコンの電源を入れた。モニターにログイン画面が表示され、パスワードの入力を促している。よく見ると、モニターの枠の部分にシールが貼り付けてあって、シールには《PW》に続けて十六桁の文字と数字と記号が並んでいる。どう見ても、それはパスワードに違いない。
・・・これじゃあ、パスワードの意味がないよな。難しいパスワードを設定するのも考えものだ・・・
瞭はカップの中の珈琲をガブリと飲み干すと、やれやれと小さく首を振ってから、パスワードを入力した。
エンターキーを押した途端、モニターがブラックアウトし、ハードディスクが唸りを上げて回転を始めた。そして十秒後、ボンという音と共に吸気口から煙が立ち昇った。
ラップトップパソコンが自壊したのだ。
・・・やられた、シールのパスワードは罠だったのか。機密保持のためのトラップが仕掛けられていた。まるで、スパイ映画じゃないか。こりゃあ、ただごとじゃないぞ・・・
煙を上げるラップトップパソコンを見つめる瞭の眉間に深いしわが刻まれている。
瞭は最後に手帳を手に取った。単行本ほどの大きさで茶色い皮の表紙が付いている。
手帳を開くと、殴り書きのような筆記体の英語で、安石首相、松林官房長官、上岩外務大臣、外務省事務次官、審議官、北米局長の略歴、当面の日程・外出先・会合の場所や出席者が整理されていた。いずれも一月後に控えている日米首脳会談までの日程である。その次の頁には、日米首脳会談の主要議題とされている日米安全保障条約に関する両国のこれまでの立場や現時点の争点、今後の方向性などが備忘録的に整理されている。
そして頁の間には、アメリカの大手新聞社カリフォルニアタイムスの記者証と共に、日米首脳会談に関する新聞雑誌記事の切り抜きや関係者の顔写真が挟み込まれていた。これだけを見ると、アメリカの新聞社の記者が日米首脳会談の取材をしているように見える。
瞭は記者証に貼られたハドソンの顔写真を見ながら、これは擬装だと思った。取材のために日本にきた新聞記者が、拳銃を所持することなどあり得ないし、ラップトップパソコンにトラップを仕掛けることもない。やはり考えられるのはアメリカ政府機関の工作員だろう。しかも、ハドソンはテレパスだった。ハドソンはなぜ行方不明事件の現場に現れたのか。
いくら考えても、答えは思い浮かばない。諦めた瞭は記者証を手帳に挟むと、壊れたラップトップパソコンの上に手帳を置いた。
窓の外を見ると、日は西に傾いていて、夕焼けが千切れ雲を朱鷺色に染めている。あっと言う間に研究所は夕闇に埋もれるだろう。少し早いが、早苗を誘って食事室で夕食を食べようと、瞭は立ち上がった。
ジョンFケネディ国際空港を飛び立ったボーイング737ビジネスジェットは、十四時間のフライトを経て東京国際空港に着陸した。時刻は午後六時を少し回っている。もうすぐ日の入りを迎える東京国際空港は、夕凪のポッタリと重い空気に包まれている。
東京国際空港第三ターミナルビルの北サテライト西側に設けられた国際線ビジネスジェット専用ゲートから、カミラ・ウィルソンとマイルズ・ミラーが現れた。カミラは淡い栗色のパンツスーツ、マイルズはTシャツにジーンズというラフなスタイルだ。ふたりとも大きな旅行鞄を曳いていて、その姿はどこから見ても観光客である。
ふたりの後ろに、屈強な身体つきの六人の男が続いた。マクラネル社の雇った傭兵の特殊工作部隊である。傭兵たちはピッチリとしたグレーのスーツに身を包み、手に持っているのは小さなボストンバックのみ。こちらはいかにも旅慣れたビジネスマンに見える。
国際線ビジネスジェット専用ゲート前の車寄せには、三台の黒のBMWが止まっていた。
カミラたちがゲートから出ると、先頭に止まっているBMWの運転席から男が降りてきた。紺色のくたびれたスーツを着た三十代半ばの日本人と思える風貌の男が、カミラたちの前に立った。
「私はダニエル・タナカ。今回のミッションのロジスティクス(後方支援)担当です。必要な物品調達、ホテルや食事の手配、警察や官公庁との調整、関係先へのアポ取りから道案内まで、何でもご用命ください。さて、これからどうされますか、都内にホテルの部屋は確保してありますが」
ダニエルは早口でまくし立てながら、上着の内ポケットから手品のように取り出した身分証明書をチラリと見せた。在日アメリカ大使館二等書記官ダニエル・タナカと書かれているが、実際はCIAの工作員だろう。風貌からすると日系三世に違いない。
「ありがとう。私はカミラ・ウィルソン。こっちがマイルズ・ミラー。後ろにいるのが・・・」
カミラは後ろに並んでいる六人の傭兵を見た。
ジョンFケネディ国際空港を出発する直前にビジネスジェットに乗り込んできた六人は、マクラネル社に雇われた特殊工作部隊だと名乗っただけで、十四時間のフライト中一言も口を利かなかったのだ。
・・・少し驚かせてやるか・・・
カミラはリーダーと思われる黒人の大男の脳内を思念波で探った。
・・・名前は、リック・パウエル。元アメリカ海軍特殊部隊か・・・
カミラは少し得意気な顔をして、背後の黒人の大男を指差した。
「こちらが特殊工作部隊リーダーのリック・パウエル。元アメリカ海軍特殊部隊所属」
リックの両目が心持ち開かれたが、それ以外は全く表情を変えない。リックは一歩前に出ると、ダニエルと握手をした。
「リック・パウエルだ。頼んでおいた武器の調達はどうなっている」
「コルトガバメント六丁、M4―A1カービン突撃銃六丁、銃弾、手榴弾、防弾チョッキ、暗視ゴーグル、トランシーバー、サバイバルナイフは後ろの二台の車のトランクに入れてあります。カミラとマイルズにはベレッタM9二丁。そうそう、通信用のスマートフォンを車のダッシュボードの上に置いてあるから使ってください。これ以外に何か必要ですか?」
「いや、これで十分だ」
丸腰の民間人を襲撃するのだ、十分すぎるほどの装備だが、用心するに越したことはない。リックは表情を変えることなく頷いた。
カミラはダニエルに向かって言った。
「行方不明になったハドソン・スミスの捜索に速やかに取り掛かりたいの。このまま長野県の軽井沢町へ直行しましょう」
「了解しました。都内の渋滞を考慮して・・・所要時間は三時間半といったところでしょう。午後十時過ぎには現地に到着できると思いますよ。千元谷集落の中の貸別荘を借りてありますので、そこに向かいましょう。それじゃあ、カミラさんとマイルズさんは先頭の車へ、リックさんたちは後ろの二台に分乗してください。私が先導します」
ダニエルは腕時計にチラリと目をやってから、先頭に止まっているBMWの運転席に滑り込んだ。カミラが後部座席のドアを開けようとしたとき、突然、首筋を強い力で掴まれた。激しい痛みに一瞬息が詰まったカミラの耳元で、リックが氷のような冷たい声を出した。
「テレパスか何か知らないが、今度俺の頭の中を勝手に覗いたら、この首をへし折ってやるからな、覚えておけ!」
リックは威嚇するようにカミラの頭を二、三度揺さぶってから、放り投げるようにしてカミラの首から手を放した。
「おい、乱暴するな!」
マイルズがリックに掴みかかったが、手首を掴まれるとあっという間に肘を決められて、後ろ手の体勢で車の屋根に押し付けられた。マイルズの顔が苦痛で歪む。腕の骨がミシミシと不気味な音を立てている。リックは無表情のままマイルズの耳元でささやいた。
「素人が無茶をするな、怪我をするぜ。今回のミッションのリーダーは俺だ。お前たちは行方不明の工作員と、そいつを襲った超能力者とやらを見つけるだけでいい。そこから先は口出しするな。いいな」
額に脂汗を浮かべながらマイルズが小さく頷くと、リックはマイルズの腕を放した。
「よし、それじゃあミッションスタートだ」
リックはスーツの上着の襟を直しながら、二台目のBMWに向かってゆっくりと歩いた。
日の入り時を過ぎて、周囲には早くも薄闇が広がっている。昼間の熱気がこもったままのネットリとした空気の中に、離陸するジェット旅客機のエンジン音が響いている。
国際線ビジネスジェット専用ゲート前の車寄せから、三台の黒のBMWが滑るように走り出した。
首都高速道路中央環状線を関越自動車道に向かって走る三台の黒のBMWが、板橋JCTの手前に差し掛かったとき、カミラのスマートフォンに着信が入った。
「はい、カミラ・ウィルソン」
「リチャードだ。今どこにいる」
「東京国際空港を出て、車で軽井沢に向かっている途中です。酷い渋滞で、まだ東京都内の高速道路を走っています」
「そうか、よく聞け。ハドソンのスマートフォンからの電波を受信した。通話はされていないが、位置情報を確認した。また、ラップトップパソコンの自壊トラップ発動信号も同じ場所から発信された。そこにハドソンが監禁されているか、ハドソンを襲った超能力者がいる可能性が高い。軽井沢は後回しだ、至急そちらに向かってくれ。場所は千葉県鴨川市清澄六百四十二。地図によれば、そこは特殊潜在能力研究所となっている。どのような組織なのかは現在確認中。分かり次第連絡する。以上だ、抜かるなよ」
「了解しました。至急向かいます」
カミラはスマートフォンから耳を放した。後部座席の隣のシートに背中を預けて目を閉じていたマイルズが何ごとかと目を開けた。カミラはマイルズを目で制してから、身体を乗り出してダニエルの耳元に顔を近づけた。
「ダニエル、行き先変更よ。ハドソンのスマートフォンに電源が入って位置情報が確認できたの。場所は千葉県鴨川市清澄六百四十二、特殊潜在能力研究所だそうよ」
「千葉県鴨川市ですって? 何てこった、もう少し早く分かっていれば、東京国際空港からアクアラインを通っていけたものを・・・。了解しました。後ろの車にもその旨伝えて下さい」
ダニエルは首都高速道路の複雑な路線図を頭の中に思い浮かべた。隅田川花火大会による交通規制の影響でいつもより交通渋滞が激しい。ノロノロと少し動いては止まる前の車のテールランプを見ながら、ダニエルは苛立たし気にハンドルを指でコツコツと叩いた。
国道四百六十五号線から分かれて、小櫃川に沿って鴨川市天津に向けて延びる県道八十一号線は清澄養老ラインと呼ばれている。七里川渓谷の周辺は、片側は急な山の斜面、反対側は切り立った断崖となっていて、車がすれ違うことができないほど道幅が狭く、街灯などもない。新月を迎えた空は月光がなく、その代わりに天頂には白く煙る銀河が帯のように横たわっている。
三台のBMWは、車一台分ほどの幅員しかない県道を恐ろしいスピードで走っていた。時刻は午後十一時になろうとしている。
山の中に開けた盆地のような四方木集落の先の隧道をふたつ抜けると、県道の左手に清澄山に上る細い脇道が見えた。ヘッドライトの明かりの中に、『この先私有地につき無断立入禁止』と書かれた小さな看板が浮かび上がった。看板は生い茂る夏草に半ば埋もれていて、その先の脇道も頭上に木々の枝が張り出して隧道のようになっている。意識して目を配っていないと見過ごしてしまうだろう。
ダニエルの運転するBMWが脇道に入りかけたところで、連絡用のスマートフォンに着信が入った。
「こちら、カミラ」
応答したカミラの耳に、リックの罵声が飛び込んできた。
「お前は馬鹿か! この暗闇にヘッドライトを付けたまま、ターゲットがいるかも知れない建物の前に車でノコノコと顔を出すつもりか。まさかお前、インターホンを押して『ハロー、ハドソン・スミスを知らないか?』とでも尋ねるつもりじゃないだろうな。たかが一キロメートルほどの距離だ。車はこの先の路肩に止めて、徒歩で向かうんだ」
三台のBMWは五十メートルほど先の清澄隧道の入口前の、赤土がむき出したままの路肩に止まった。崩れた山肌の補強工事のための作業スペースのようだ。
リックたちは車から降りると素早く迷彩服に着替え、編み上げブーツを履いて防弾チョッキを身に付けた。コルトガバメントとサバイバルナイフをベルトのフォルダに差し、M4―A1カービン突撃銃を肩から下げると、暗視ゴーグルを掛けた。
カミラとマイルズは空港から出てきたままの姿だ。そうはいっても、さすがに足元はスニーカーに履き替えている。ダニエルからベレッタM9を手渡されると、カミラとマイルズは困ったような表情で顔を見合わせた。簡単な射撃訓練は受けたものの、普段は拳銃などに全く縁がないのだ。
特殊工作部隊の五人が半円状に並び、その前にリックが立った。リックは押し殺したような低い声を出した。
「時計を合わせる。現在時刻は二三一五・・・マーク。スマートフォンで検索した地図で一帯の地形と建物の配置は頭に入れたな。よし。この先の脇道を五百メートル進んだ所で、山中に入る。ビルは建物の背後に回れ。アンダーソンは建物の右、ジョナサンは建物の左、俺とデイビスとドミニクは建物の正面だ。行動開始は〇二〇〇。それまでに山中を進んで受け持ち場所に到達、そこで待機だ。あらかじめ監視カメラの位置を確認しておけ。
リチャード室長からの追加情報によれば、特殊潜在能力研究所は超能力を研究する民間機関であり、人員は、所長・研究員・事務員が十名、研修生が四名の計十四人。但し、いま現在建物内に残っている人数は不明。
問題は、ここにハドソンが拘束されているとなると、単なる民間研究機関ではない可能性があるということだ。もし、日本政府の諜報機関であれば、武力抵抗を想定しておく必要がある。油断するな。
〇二〇〇に突入。俺とデイビスとドミニクは居住棟、ビルは中央の集会所兼食事室、アンダーソンとジョナサンは研究所の建物をそれぞれ襲撃・制圧する。抵抗する者は射殺しろ、投降した者は居住棟の一階へ集める。
カミラとマイルズとダニエルは、この場で〇二〇〇まで待機だ。〇二〇〇になれば、三台の車に分乗して研究所の正門前まで移動し、車のエンジンは掛けたまま、そこで制圧が終わるまで待機だ。制圧が終われば連絡するから、カミラとマイルズは居住棟へ移動し、俺たちと合流。そこでテレパシーとやらでハドソンの捜索と投降者の中に超能力者がいるかどうかを確認しろ。
拘束されているハドソンを救出し、確認した超能力者を処理した後、撤収する。三十分でケリを付けるぞ、撤収予定時間は〇二三〇だ。いいな。よし、行動開始!」
リックを先頭に、六名の特殊工作部隊が清澄山に向かう脇道に向かって駆け出した。リックたちの姿が消えるや否や、周囲の草むらから虫の鳴き声が津波のように押し寄せてきた。
「いっちまった。さてと、午前二時までまだ二時間四十分ほどある。車の中でひと眠りするか」
マイルズは緊張感のない声で独り言のように呟くと、ウンとひとつ背伸びをした。カミラは浮かない顔でマイルズに話しかけた。
「ねえ、マイルズ。リックは、抵抗する者は射殺し、投降した者は居住棟の一階に集めるって言ったわよね」
「ああ。それがどうした」
「拘束されているハドソンを救出して、ハドソンを襲った超能力者を殺・・・いえ、処理するのはやむを得ないのかも知れないけど、その他の投降した人たちはどうなるのかしら」
「そりゃあ・・・」
マイルズはその先の言葉を呑み込んだ。リックのことだ、『ハイさようなら』とはいかないだろう。
「まさか、全員・・・」
カミラの声が沈む。カミラの背後でポッと明かりが灯り、煙草を咥えたダニエルの顔が闇の中に浮かび上がってすぐ消えた。ダニエルはチリリと音を立てて煙草を吸うと、煙を天に向かってフウッと吹き上げた。
「おふたりとも任務は初めて? ははあ、どうりで落ち着かないはずだ。忠告しておきますが、この仕事に私情を挟むことは厳禁ですよ。与えられた任務を淡々とこなす、それ以上でもそれ以下でもない。おふたりの任務はハドソンの捜索と超能力者の確認でしょう、それ以外のことはリックに任せておけばいいんですよ。おふたりが口を挟む話じゃないし、気を揉む必要もない。余計なことを考えていると命を落とすことになりますよ」
ダニエルはいかにも老練な工作員だという風にサバサバとした口調でそう言うと、先頭に止まっているBMWのドアを開けて運転席に滑り込んだ。時間まで仮眠をとるのだろう。カミラとマイルズはダニエルの言葉を反芻しながら、とんでもないことになったという顔で暗闇の中に立っていた。
三台のBMWから二百メートルほど離れた県道に、銀色のレクサスES300hと二台のスズキGSX1300R隼が止まっている。
レクサスの助手席に座って暗視双眼鏡を構えているのは、内閣危機管理室危機管理対策班の羽賀隆一である。運転席の伊藤誠也、隼に跨っている敷島純也と成田繁の合計四名が羽賀のチームである。
羽賀のチームは、東京国際空港国際線ビジネスジェット専用保安検査場で、検査官がカミラとマイルズの手荷物に忍び込ませた位置発信装置の電波を追ってきたのだ。長野県軽井沢町に向かっていた三台のBMWが突然進路を変えたときは、尾行に気付かれたかとヒヤリとしたが、思い過ごしだったようだ。
羽賀は暗視双眼鏡を構えたまま呟いた。羽賀の声は胸元の小型マイクで拾われて、オートバイのヘルメットに装着されているレシーバーを通じて敷島と成田にも届いている。
「軽井沢に向かわずに、やつらこんな千葉県の山奥で何をするつもりなんだ。お、着替え始めた。やつらの装備を確認するぞ。大型拳銃、四十五口径だな、おそらくコルトガバメントだ。あれは・・・M4―A1カービン突撃銃! こいつは厄介だな。防弾チョッキに暗視ゴーグル。サバイバルナイフに・・・何だ! 手榴弾まで持ってやがる。ここは日本だぞ、やつら戦争でもおっぱじめようってのか?・・・うん? 特殊工作部隊の六人が脇道を上っていく。伊藤、この上に何があるんだ」
伊藤はダッシュボードのカーナビの画面を見た。
「脇道を一キロメートルほど上った先に運動場ほどの空き地があって建物が建ってまっせ。特殊潜在能力研究所という名前やけど・・・あれ?・・・スマホで検索しても何も出てきまへん。けったいやな・・・とっくの昔に廃屋になっとるんかも知れまへんな」
「特殊潜在能力だと? そりゃ何だ」
「そらあ・・・特殊な潜在能力とちゃいますか」
「そのままじゃねえか」
羽賀の脳裏に、佐田危機管理官の顔が浮かんだ。特殊工作部隊の任務は日本人超能力者の殺害又は拉致だと佐田は説明した。羽賀の頭の中で、『特殊潜在能力』という単語が『超能力』という単語に置き換わった。この上の建物に超能力者とやらがいるのかも知れんと羽賀は思った。そうであれば、特殊工作部隊の手から守らなければならない。
羽賀は再び暗視双眼鏡を構えた。
「CIAの工作員のふたりは車に残った。待機しているようだな。そうなると、先程の特殊工作部隊は下見を兼ねた先遣隊だな。あのふたりが動き出したときに襲撃が始まるんだろう」
「どないします」
羽賀は左手の斜面を見た。見上げるような急斜面は闇に埋もれていた。木々がうっそうと生い茂っているのだろう、時折吹き抜ける風を受けてザワザワという枝を揺らす音が聞こえている。新月で月光のない暗闇の山中を、暗視ゴーグルも地図もなしに移動することは不可能だ。下手をすると散開している特殊工作部隊に発見される恐れがある。しかも、羽賀のチームが所持している火器は、各自が持つニューナンブM60三十八口径と、レクサスのトランクに入っているレミントンM870ショットガン一丁とH&KMP5サブマシンガン一丁のみだ。まともに戦っては、勝ち目はない。
「ふたりの工作員が動き出したらその後を追う。そこに特殊工作部隊もいるはずだ。いまのうちにバックアップを要請しておくか」
羽賀は運転席と助手席の間のコンソールボックスの蓋を開け、収納されている通信機のマイクを手にした。専用回線で内閣危機管理室の佐田危機管理官のデスクを呼び出した。
午後十一時三十分を過ぎているが、佐田はデスクで待機していたのだろう、ワンコールで繋がった。
「佐田だ」
「こちら羽賀。現在、CIAの工作員のふたりと特殊工作部隊の乗った三台のBMWを追跡中」
「場所はこちらでもモニターしている。千葉県のそんな山の中で何をしているんだ」
「ここから脇道を一キロメートル上った所に特殊潜在能力研究所があります。恐らくそこに目的の超能力者がいるのだと思われます。先程、特殊工作部隊が先遣隊として出発しました。現地の状況把握の後、ふたりの工作員が合流して襲撃するものと思われます。我々はふたりの工作員の動きを追って、行動開始する予定です」
「了解した」
「特殊工作部隊の主力火器はM4―A1カービン突撃銃。それにコルトガバメントを所持。防弾チョッキ、暗視ゴーグル、手榴弾と実戦装備です。我々は、携帯している拳銃の他にはショットガン一丁とサブマシンガン一丁のみ。これじゃあ太刀打ちできません。襲撃開始に合わせてバックアップの派遣を要請します」
「危機管理対策班の他のチームは全て別任務遂行中で動けない。・・・分かった、何かほかの手を考えてみる」
「よろしくお願いします」
通信機のスイッチを切り、コンソールボックスの蓋を閉めると、羽賀はフロントガラスの外の闇に眼を向けた。長い夜になりそうだと羽賀は思った。
午前一時。リックはデイビスとドミニクと共に、山中に生える一抱えほどもある杉の幹に身体を預けて、特殊潜在能力研究所の正門を見下ろしていた。襲撃開始まで残り一時間。研究所の背後に回っているビルは、まだ山中を移動しているはずだ。
研究所の敷地から十五メートルほど高い場所にいるリックの目に、研究所の建物の全容が見えている。こんな何もない山の中にポカリと空いた空き地に建っている民間の研究施設にしては異様だ。しかも、三メートルもあるコンクリート製の塀が、建物の敷地をグルリと取り囲んでいる。塀の四隅には防犯カメラも設置されている。正門の扉も頑丈に造られている。おそらく鋼鉄製だ。強行突破するには戦車が必要だろう。まるで外部からの侵入を拒んでいるようだ。
正門の脇や塀の要所要所に外灯が灯っていて、漆黒の沼に陽炎のように浮かび上がる要塞のように見える。
「こいつは驚いた。民間の研究施設のはずが、これじゃあ要塞だ。やはりここは日本政府の諜報機関の極秘施設だろう。特殊潜在能力研究所とやらは擬装だな。そうなると、俺たちの相手は丸腰の民間人ではなく訓練された諜報員で、当然に武器を携帯しているはずだ。問題は、中に何人いるかだな」
高い塀や鋼鉄製の頑丈な正門は、旧日本陸軍特殊兵器研究所だった時代の名残りだが、そのことをリックは知る由もない。誤解したリックの緊張感が一気に高まった。
リックの呟きが聞こえたかのように、耳に装着しているレシーバーに、研究所の右側に展開しているアンダーソンの声が響いた。
「こちらアンダーソン。所定の位置に付いた。建物の右側は高さ三メートルの塀が続いていて、出入口らしきものは見えない」
「そうか。ジョナサン、左側はどうだ」
「こちらジョナサン。こっちも同じだ。左側の塀にも出入口らしきものはない。いまの装備じゃあ、ひとりでこの高さの塀を乗り越えるのは無理だぜ」
リックはしばらく考え込んだ。今更撤収することはあり得ない。こちらの動きはまだ敵には察知されていないはずだ。敵の不意を突いて急襲し、混乱に乗じて一気に制圧するしかないだろう。
「分かった。アンダーソン、ジョナサン、お前たちふたりは研究所の背後に回り、ビルと合流しろ。四方向からの襲撃は諦めて、表と裏の二方向からの襲撃に変更だ。三人いれば協力して塀を乗り越えられるだろう」
「了解」
通信を終えたリックは、再び特殊潜在能力研究所に目をやった。外灯の明かりだけが建物の外観を暗闇の中に浮かび上がらせている。リックは暗視ゴーグルの倍率を上げて、敷地の隅や建物の陰に目を配ったが、警備のために配置されている諜報員らしき姿は確認できなかった。ここから見る限りでは、研究所は無防備に眠りの底に沈んでいるようだ。
突然、居住棟の二階の一室に明かりが灯った。
「リック、居住棟に明かりが点いたぜ」
デイビスの声にリックは頷いた。
「ああ、見えている。まさか、こっちに気付いた訳じゃあるまい」
リックは暗視ゴーグルを外して双眼鏡を構えた。明かりの点いた部屋の白いカーテンが三十センチほど開いて、カーテンの隙間から二十代半ばと思われる若い女が顔を出した。女の顔は真っ直ぐにリックに向けられている。リックは双眼鏡越しに女の視線を感じた。
・・・見られている? そんな馬鹿な。この暗闇だ、俺たちの姿が見えるはずがない・・・
リックが気のせいだと小さく首を振ったとき、今度は居住棟の三階の二部屋に明かりが灯った。リックは三階に双眼鏡を向けた。二部屋ともカーテンが開けられていて、片方の部屋には十代後半の少年が、もう片方の部屋には十代前半から十代後半の三人の少女が肩を寄せ合って、いずれもリックを見ていた。突然、リックの頭の中に声が浮かんだ。
『あなたは誰?・・・お前、誰だよ!・・・そんな所で何しているの?・・・何しているの・・・ねえ、あなた・・・お前・・・誰・・・何してるの・・・誰なんだ・・・そんな所で・・・あなた、いったい・・・どうしたの・・・誰・・・誰なの・・・誰だ・・・』
少年と少女の声が入り混じってリックの頭の中を駆け巡った。
双眼鏡の中で、リックを見据えた四人の少年少女の目が青白く光っている。
「ウオオッ!」
リックは思わず叫び声を上げると、むしり取るように双眼鏡を外した。その途端、居住棟の二階と三階の部屋の明かりがフッと消えた。
リックの背中を冷たい汗がゆっくりと流れた。
・・・超能力・・・やつら、テレパスなのか・・・
マクラネル社が超能力兵器の研究開発に取り組んでいると聞いたときには、荒唐無稽な話だと鼻で笑っていたリックだったが、たったいま考えを改めた。超能力兵器が実用化されれば、戦争のやり方が一変するだろう。いや、テレパスによるマインドコントロールができるのであれば、戦争にすらならない。超能力兵器を手にした国が世界の覇者になるのだ。それだけではない。その先に待っているのは、超能力を持つ者と持たない者、新人類と旧人類の戦いだ。違う、旧人類が新人類に勝てるはずがないのだ。やがて旧人類は淘汰されて、新人類の世界がやってくるだろう。
旧人類が未来永劫この世界の覇者であり続けるためには、新人類の萌芽を全て摘み取らなければならない。超能力とは人工的な手法で発露させるもので、旧人類のコントロール下で利用されるツールでなければならない。日本人の超能力者を抹殺すること、それは新人類の萌芽を摘み取ることに他ならない。リックは今回のミッションの真の意味を理解した。
「リック、どうした」
ドミニクの声にリックは我に返った。
「ああ、何でもない」
リックはチラリと腕時計に目をやってから、何気ない風に杉の幹に身体を預けた。こうなれば、ハドソンの行方不明と関係があろうがなかろうが、そんなことは問題ではない。女子供だろうが、訓練された諜報員だろうが、この建物の中にいる人間はひとり残らず殺すだけだとリックは思った。
リックは襟元のマイクをオンにした。
「全員聞こえるか。予定変更だ、襲撃時間を〇一三〇に繰り上げる。繰り返す、襲撃時間を〇一三〇に繰り上げる。カミラ、マイルズ、ダニエル、お前たちは〇一二五に行動開始。中にいるのは武器を携帯した日本の諜報員と超能力者だ。全員射殺する。抵抗の有無にかかわらず、見つけ次第発砲しろ。投降者の確保は不要だ。ハドソンの救出は、全員を射殺した後にゆっくりとやればいい。以上だ」
命令を下したリックは、腕を組んで目を瞑った。リックの身体から死神のような瘴気がユラユラと立ち昇っている。
居住棟の二階の二〇一号室でベッドに横になっていた早苗は、息苦しさを覚えて目を開けた。枕元のデジタル時計を見ると午前一時を少し過ぎていた。ベッドで横になったまま、暗闇の中で目を開けていると、早苗の脳内に鮮やかな映像が浮かび上がってきた。迷彩服を着て突撃銃を肩から下げた兵士が、塀を次々と乗り越えて研究所の敷地に入ってくる。兵士たちは突撃銃を構えたまま誰かを探している。兵士たちはこの研究所にいる全員を殺すつもりだ。逃げなくてはいけない!
早苗はベッドの上に上体を起こした。
・・・感じる。誰かがこちらを見ている・・・
早苗は部屋の明かりを点けると、ベッドから降りて窓際に立ち、カーテンの隙間から外に目をやった。外灯の明かりが敷地内の建物をボンヤリと照らしているだけで、その先は暗黒に埋もれている。早苗の両目が暗闇の中の一点に吸い付けられた。
早苗は胸の前で手を組み、両目を閉じた。スウッと息を吸って精神を集中する。早苗の額の内側がほんのりと温かくなった。
早苗は、暗闇に向けて思念波の触手を伸ばした。早苗の思念波の触手は、早苗に向けられている視線に巻き付くように伸びていく。クレアボヤンスが発現した。
・・・山の斜面・・・杉の幹・・・兵士が三人座っている・・・その中のひとりが双眼鏡でこちらを見ている・・・黒人の大男・・・突撃銃を持っている・・・
早苗は頭上の階から四人の未熟な思念波が広がっていくことに気付いた。
・・・ああ、加奈たちも気付いたのね・・・いけない、あの子たちは感じたまま無防備に思念波を送っている。やめさせなきゃ・・・
早苗はクレアボヤンスを閉じると、三階に向けて思念波を発した。
・・・加奈、悠太、美咲、理沙、やめなさい!・・・すぐに部屋の明かりを消して・・・逃げられるように身支度をして、私の部屋にきなさい!・・・
早苗はカーテンを閉めて部屋の明かりを消すと、クローゼットに駆け寄った。パジャマを脱ぎ、麻のゆったりとしたパンツとスエットのTシャツに着替えながら、早苗は瞭に思念波を送った。
・・・瞭、起きて! 危険が迫っているの。直ぐに逃げなきゃいけない。起きて、瞭!・・・
二〇三号室の簡易ベッドの上で熟睡していた瞭は、誰かに肩を掴まれて乱暴に揺すられたような気がしてハッと目を開けた。早苗の思念波が言葉として瞭の脳内に浮かび上がる。ジーンズにくたびれたポロシャツのまま横になっていた瞭は、ベッドから跳び起きた。
バタバタと廊下を走る音がしたかと思うと、ドアが激しくノックされた。瞭がドアを開けると、緊張した顔の早苗と怯えたような顔をした加奈、悠太、美咲、理沙が立っていた。
「早苗ちゃん、危険が迫っているっていうのはどういう意味だい」
突然叩き起こされた瞭は、まだ頭が回り切っていないのか、間延びした声で早苗に尋ねた。緊張感の足りない瞭の顔を、早苗の大きな瞳が睨んだ。
「武装した兵士に襲撃されるの。やつら、私たちを殺すつもりだわ。だからすぐにここから逃げなきゃいけない」
早苗はクレアボヤンスで感得した情景を、瞭の脳内に送った。
「黒人の大男、迷彩服に突撃銃をぶら下げている。後ろに白人男性が二名、こいつらも突撃銃を持っている。なるほど厄介だな。しかし、なぜ外国の兵士がこの研究所を襲撃するんだろう?」
そう呟いた瞭の脳裏に、ハドソンの顔が浮かんだ。やはりハドソンはアメリカ政府機関の工作員だったのだ。これはハドソンの救出作戦なのか。しかし、なぜ研究所が襲われるのかが分からない。ハドソンとこの研究所は何の繋がりもないはずだ。
アッと瞭は思った。パスワードを入力した途端煙を上げて自壊したハドソンのパソコンの姿が蘇ったのだ。瞭は頭をぶん殴られたような気がした。
・・・パソコンだ! 自壊しただけじゃなくて、位置情報を発信したんだ。やつらはそれを受信してここにたどり着いたに違いない。やつらは、ハドソンがここに監禁されていると思っている。僕が中途半端にハドソンの身元に興味を抱いて、不用意にパソコンやスマートフォンを持ってきたのが原因だ・・・
瞭はガックリと項垂れた。
「早苗ちゃん、すまない。僕がハドソンのパソコンやスマートフォンを持ってきたばっかりに、みんなを危険にさらすことになってしまった。やつらは、ここにハドソンが監禁されていると誤認して、ここを襲撃しようとしているんだ。・・・すべて僕の責任だ」
早苗が口をへの字に曲げ、腕を組んで瞭を見た。
「ハドソンって、千元谷集落で大巌坊に殺された人? マッタク瞭は何をやって・・・。いやいや、今更そんなこといっても始まらないわ。ねえ瞭、とにかく逃げましょう」
瞭は顔を上げた。そうだ、今更どうにもならない。それよりも全員を安全に避難させることが最重要課題だ。
「分かった、逃げよう。早苗ちゃん、この研究所には、このメンバーの他に誰がいるんだい」
「事務員の天野さんと用務員の橋本さん夫婦よ。一階の一〇一号室と一〇三号室。一階は家族用宿舎なの」
瞭は伸び始めた顎髭をザラリと撫でながら考えている。
「合計で九名か。よし、ワゴン車を使おう。天野さんと橋本夫婦に声を掛けて、一階の玄関ロビーに集合だ。照明は点けないこと。いまが午前一時十六分・・・一時三十分までに集合してくれ」
瞭はひと呼吸置くと、早苗の目を覗き込むようにして続けた。
「早苗ちゃん、天野さんに伝えてほしい。駐車場のワゴン車を運転して、午前一時三十分に居住棟の玄関前に付けて、全員を乗せたらすぐに発車しろと。僕は正門の扉の脇で待機している。ワゴン車が玄関前を発車したら、僕が正門の扉を開ける。正門の扉を走り抜けたら、僕に構わず、そのまま走り去って鴨川市内まで逃げるんだ。僕ひとりなら何とでもなる。いいね、正門の扉で止まっちゃあダメだ。スピードを落とさずに、そのまま走り抜けろと、そう伝えてほしい」
早苗は両目をいっぱいに見開いて瞭の顔を見た。早苗の顔が青ざめている。
「瞭・・・」
『瞭さん・・・ダメだよ瞭・・・死ぬ気なの?・・・いやだよ瞭・・・』
瞭の頭の中に、加奈、悠太、美咲、理沙の発する未熟な思念波が流れ込んできた。
瞭は右の眉をグイっと上げて早苗と後ろの加奈たちを見ると、おどけたように笑った。
「何だいみんな、その顔は。僕は死ぬつもりはないよ。サイコキネシスで切り抜けて見せる。九人も一緒じゃあ手が回らないから、みんなには先に逃げろと言ってるだけだよ」
「分かったわ」
早苗は唇を噛んで少し考えてから、小さく頷いた。




