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瞭と大巌坊の遭遇

 西中野警察署の山口巡査部長が行方不明になってから一か月が経過した。

 千元谷集落に向かって延びている林の中の細い道を、小さなリュックサックを背負った矢沢瞭が歩いていた。グレーのポロシャツにジーンズ、足元はスニーカーといういつもの軽装である。瞭が乗ってきた黒のSUVは中軽井沢のコインパーキングに止め、そこから山道を歩いてきたのだ。午前九時に東京を車で出発して、軽井沢まで関越自動車道と上信越自動車道を使って約二時間半。時刻は午後二時を回ったところである。

 八月初旬の夏本番を迎えたミズナラやカラマツの自然林の中は、耳を聾するような蝉の鳴き声で埋め尽くされていた。その洪水のような鳴き声に聴覚が麻痺してしまうと、水底に沈んでいるような不思議な静寂に包まれる。不思議なことに、スニーカーが踏んだ足元の小枝が折れるピシリという音や、目の前を横切る熊蜂のブウンという羽音が聞き分けられた。頭上を木々の葉で覆われた林の中は薄暗く、むせ返るような緑の匂いがしみ込んだ空気はヒンヤリと冷たい。

 自然林の中に掘られた隧道のような道を進むと、突然自然林が途切れて明るく平坦な場所に出た。道の脇に道路標識のような看板が立っていて『千元谷』とだけ書かれている。

 看板の脇にパトカーが止まっていて、瞭の姿を認めるとふたりの巡査がパトカーから降りてきた。ひとりは四十代で小太り、もうひとりは二十代で痩せている。小太りの巡査が瞭に声を掛けた。

「どちらに行かれますか?」

「ああ、この先の千元谷集落へ」

「ご用件は?」

「用件? あのう・・・観光といいますか、仕事といいますか・・・」

 瞭が言葉を濁すと、小太りの巡査がジロリと瞭を睨んだ。瞭はムッとした顔で小太りの巡査に食って掛かった。

「用件がなければこの先へは進めないんですか? 規制線でも張られているんですか? 立入禁止ならそう言ってくださいよ」

「いやいや、気を悪くせんでください。とおりいっぺんの確認ですから。あなたは、一月ほど前にこの千元谷集落で起こった死亡事件はご存じ? はあ。それではこの千元谷集落で、行方不明者が続出していることも?」

「ええ、知っています」

 瞭が憮然とした顔で答えると、小太りの巡査と痩せた巡査は顔を見合わせて、やはりと小さく頷いた。

「事件を知った興味本位の観光客が、あ、あなたのことじゃありませんよ・・・そのう・・・観光客が行方不明になり、その後、ユーチューバーっていうんですか、そういった輩が行方不明になり、更に、テレビの取材班の中のひとりが取材中に行方不明になり・・・とにかく、警察官が定期的に巡回しているんですが、それでも行方不明者が後を絶たないんですわ。まあ、立入禁止区域ではないので、千元谷集落に入ることを止めやしませんが、とにかく注意していただきたいと、そういうお願いです」

 瞭は顔色を改めた。

「なるほど、よく分かりました。さっきは、つい声を荒げてしまって申し訳ありません。僕は矢沢瞭といいます。とある雑誌社から依頼を受けて、行方不明事件の取材にきたんです。ジャーナリストの端くれとでもいいましょうか・・・ハハハ、これは僕の名刺です。もし、僕が行方不明になったら、ここへ連絡をしてください」

 瞭はジーンズの尻のポケットに入れてある財布から名刺を取り出すと、裏面に雑誌『現代社会』の編集長朝倉幸三の電話番号を書いて、小太りの巡査に渡した。

 昨日の午後、瞭は呼び出しを受けて、日本橋にある耕文社ビル四階の応接室で、朝倉幸三と面談した。内容は千元谷集落で発生している行方不明事件の調査と記事の執筆依頼である。瞭と朝倉は、過去に何度も執筆依頼を受けた旧知の間柄だった。

 瞭は朝倉から行方不明事件に関する説明を受けた。

 御手洗達造の死亡事件も、その後の行方不明事件も、警察が情報統制をしていて詳細が伝わってこない。軽井沢警察の発表によると、御手洗達造は焼死で、事件事故の両面から捜査が進められているらしいが、その後の進展状況は不明。御手洗宅のお手伝い米山美代子が、達造の死亡事件と前後して行方不明になっていて、達造の死亡事件との関連も視野に捜査が進められているらしい。こちらもその後の進展状況は不明。別の事件に関する捜査中に御手洗宅に向かった警察官二名が行方不明になったという新聞記事が流れたが、軽井沢警察は事実関係を否認している。観光客やユーチューバーが行方不明になっているという情報がSNSで拡散されたが、軽井沢警察は事実関係を確認中としている。

 テレビ、新聞、週刊誌、SNS、ユーチューブで様々な憶測情報が飛び交い、事件の全体像すら判然としていない中で、現代版ハーメルンの笛吹き男という名称が面白おかしく喧伝されていた。

 朝倉は口には出さなかったが、言葉の端々から推測すると、どうやら耕文社所属の社会部の記者が千元谷集落で取材中に行方不明になっているようだ。朝倉が当面の取材費だと言って瞭に手渡した封筒の分厚さと、朝倉の真剣な顔が瞭の頭の中に蘇ってきた。

 瞭はふたりの巡査に向かって軽く右手を上げて挨拶すると、千元谷集落に向かって真っ直ぐに延びる道を歩き始めた。痩せた巡査は、これで見納めだという顔で瞭の背中をしばらく眺めていたが、やがて諦めたように首を振るとパトカーの中に戻った。危険を承知で飛び込んでいくもの好きには困ったもんだと思っているのだ。

 瞭は朝倉が用意してくれた千元谷集落の地図を広げた。地図には住居表示に加えて居住者の名前が手書きで追加されていた。まず向かうのは、最初に死亡事件のあった御手洗達造の別荘だ。七〇三番地とある。

 一キロメートルほど歩くと別荘地に入る脇道があり、七〇三とだけ書かれた看板が立っている。御手洗達造の別荘へ通じる道に間違いない。

 脇道を二百メートル進むと、道の両脇に一メートルほどの高さの門柱が立っていた。瞭は門柱の前で立ち止まり、リュックサックからペットボトルを取り出してゴクリと一口水を飲んだ。いくら避暑地の軽井沢とはいえ、夏本番の真昼間に歩けば、さすがに汗が噴き出してくる。

 ハンドタオルで額の汗を拭い、もう一口水を飲もうとしたとき、瞭の髪の毛がザワリと逆立った。無数の触手のようなものが瞭の脳内に侵入しようとして、瞭が無意識に発現した防御の念動波がそれを遮ったのだ。触手が触れた後頭部がピリピリと痺れている。

 ・・・テレパスだ・・・

 瞭は咄嗟に思った。近くにいるテレパスが瞭の意識を探ろうとして、瞭に向けて思念波を発したに違いない。

 瞭は何気ない風を装って、ゆっくりと振り返った。

 いつの間に追いついてきたのか、瞭の二十メートルほど後ろに白人男性が立っていた。身長は瞭より少し高い百八十五センチ、ヒョロリとした体形で手足が長い。赤い髪の毛は縮れていて、額が驚くほど広い。年齢は三十代半ばだろう。I♡NYとプリントされた薄汚れたTシャツにジーンズをはいて、瞭のものよりも一回り大きなリュックサックをこれ見よがしに背負っている。見た目は典型的なバックパッカーだ。

 男はスタスタと歩いて瞭の前まで進むと、日に焼けて痛々しいほどピンク色に変わった頬に笑みを浮かべて、「こんにちは」と流暢な日本語で瞭に声を掛けた。

「やあ、こんにちは」

 瞭も笑顔で挨拶を返した。男の落ち窪んだ眼窩の底のブラウンの瞳に一瞬浮かんだ警戒の色を瞭は見逃さなかった。やはり、この男が先程思念波を発したテレパスだろう。そして自分が発した思念波を瞭が遮ったことに驚き、警戒しているのだ。

「私の名前はハドソン・スミスといいます。生まれはアメリカのカリフォルニア州のサンノゼ。ご覧のとおりのバックパッカーで、世界中を旅しているんですよ」

「世界中を・・・それは羨ましい」

 瞭が相槌を打つと、ハドソンは小さく頷いてから続けた。

「日本へは二週間前にきました。大阪、京都、奈良を回って、東京まできたついでに、SNSで話題になっている千元谷集落の行方不明事件の現場を見てやろうと、立ち寄ったんです」

 ハドソンはそう言うと、次はお前の番だとばかりに瞭の目を覗きこんだ。

「僕は矢沢瞭。ご覧の通りの日本人で、職業はしがないフリーのジャーナリストです。ここにきたのは仕事でね、千元谷集落の行方不明事件を記事にしようと調査にきたんですよ」

「へえ、ジャーナリストですか」

 ハドソンは大げさな身振りで驚いた。いつも年齢より若く見られる瞭のことを、大学生とでも思っていたのだろう。

「瞭、あなたの調査に同行させてください。興味本位でここまできたものの、ひとりではどうも不安で・・・。ね、お願いしますよ」

 瞭が「いいよ」と頷くと、ハドソンはわざとらしいガッツポーズの後、瞭に握手を求めてきた。

 感覚神経が集中している掌を密着させることで、感覚神経を経由して先程よりも強力な思念波を送るつもりだろうと瞭は考えた。それに対抗するために、瞭の前頭葉のネオニューロンが活性化して、前頭葉がポッと温かくなった。

 瞭とハドソンはガッチリと握手をした。瞭とハドソンが互いの瞳を探り合う。落ち窪んだ眼窩の底のブラウンの瞳が揺れた。ハドソンが発した思念波が、またしても遮られたのだ。ハドソンは瞭が超能力者だと気付いたはずだ。

 瞭とハドソンは互いにぎこちない笑みを浮かべて、並んで門柱の間を抜けた。瞭たちの足元の道は、緩やかに左にカーブしながら木造平屋建ての大きな母屋の玄関前まで続いている。

 瞭は周囲に油断なく気を配りながら母屋に向かってゆっくりと歩いた。道に敷かれた砂利が、歩く度にザラリザラリと音を立てた。肌を刺すような陽光に焼かれた砂利の発する熱気がユラリと立ち昇る。短い命を燃やし尽くすかのように鳴く蝉の、狂ったような合唱が背後から追いかけてくる。

 瞭の視線の先で鈍く銀色に輝くのは逃げ水だ。その逃げ水の中に誰かが立ってこちらを見ている気がして、瞭は視線を上げた。逃げ水は消えて、そこには誰もいない。

 瞭は横を歩くハドソンにチラリと目を向けた。ハドソンの顔から、先程までの取って付けた様な笑顔が消えている。身体中に鋭い棘を纏ったハリネズミのような、刺々しい気が瞭に伝わってくる。緊張しているのだ。ハドソンは単なるバックパッカーではあるまいと瞭は思った。ここにきたのは単なる興味本位ではなく、瞭と同様に何かを探しているのだ。

 瞭とハドソンは母屋の玄関前に立った。誰かの悪戯だろう、金属製の自動ドアには黒のスプレーで文字とも絵とも判読できない落書きが書かれている。インターホン脇の御手洗という表札を確認すると、瞭は中庭に通じる枝折戸に向かった。御手洗邸の建物や庭の配置、部屋の間取り図などは、準備調査によってあらかじめ瞭の頭の中に入っている。

 生垣に設えられていた枝折戸は無残に壊されていて、枝折戸の残骸の竹が周囲に散らばっていた。興味本位の観光客やユーチューバーが、中庭に入るために壊したのだろう。

 中庭から母屋のウッドデッキに上る階段の手前に、立入禁止の規制線が張られていたようだが、引き抜かれた支柱や引き千切られた黄色いテープが中庭で泥にまみれている。L字型をした母屋の、中庭に面した大きな窓も割られていて、人が入れるほどの大きな穴が空いている。大きな穴から風が吹き込む度に、窓に吊り下げられている白いカーテンがユラユラと揺れている。

 何とも、幽霊屋敷のようだと瞭は思った。

 目の前の母屋の居間で御手洗達造が焼死した。瞭が知り得た限りでは、事件か事故かの結論は出ていないらしい。それと前後して、お手伝いの米山美代子が行方不明になった。御手洗達造の焼死事件との関係が強く疑われるものの、こちらも結論は出ていない。

 テレビや週刊誌やSNSなどによると、観光客やユーチューバーが数人、千元谷集落で行方不明になっている。耕文社所属の社会部の記者も千元谷集落で取材中に行方不明になっている。おそらく彼らは御手洗邸を訪れたのだろう。

 行方不明者は御手洗邸を訪れて、ここで行方不明になったのか、御手洗邸を出た後に集落のどこかで行方不明になったのか、答えは出ていない。行方不明イコール殺されていると考えていいのか、どこかに拉致されているのか、それすら分からない。それどころか、熊などの動物に襲われた可能性や、隠れた地割れに転落した可能性や、洞窟に迷い込んだ可能性など、そもそも事件ではなく事故の可能性も残されている。謎だらけだ。

 瞭は目の前の割れた窓の穴を見ながら、ボンヤリとそんなことを考えていた。

 ふと瞭は、身体の周囲に波紋のような思念波が広がっていくのを感じた。同心円状の波紋の中心は、隣に立っているハドソンだ。

 ハドソンは両目を閉じて意識を集中している。落ち窪んだ眼窩の底の閉じられたまぶたがピクピクと痙攣している。思念波で建物内の様子を覗っているのだ。

 一分ほどしてハドソンが目を開けると、瞭の周りに広がっていた思念波の波紋が消えた。

「ハドソン、何か分かったかい」

「建物の中には誰もいないようだ。瞭、中に入ってみよう」

 もはやハドソンは、自分がテレパスであることを瞭に隠そうともしない。

 ハドソンは白いカーテンをかき分けて、割れた窓の穴から建物の中に入った。瞭がそれに続いた。

 居間の中は惨憺たる有様だった。足元の絨毯には土足の跡が無数に付いていて、空き缶やペットボトル、ハンバーガの包み紙や食べ終えた弁当の容器などが転がっている。バーカウンターの上には酒の空き瓶やグラスが乱雑に並び、ガラスのショーケースは割られて、中に陳列されていたはずのものは姿が見えない。壁に掛けられていた絵は、持ち去られるかスプレーで落書きがされている。興味本位の観光客やユーチューバー以外に、古美術品狙いの空き巣にも入られているようだ。

 先程から感じていた異様な圧迫感の正体に気付いた瞭は、思わず息を呑んだ。

 鏡、鏡、鏡・・・、右を見ても左を見ても、視線の先には鏡がある。おびただしい数の鏡が居間の壁を埋め尽くすように掛けられていた。瞭の目は北の壁に立て掛けられている、高さが二メートルはあろうかという大きな鏡に釘付けになった。

 ・・・何かがいる・・・

 瞭が危険を察知すると、額の内側がチリチリと音を立て始めた。前頭葉のネオニューロンが活性化して前頭葉がポッと温かくなった。それが前頭葉全体に広がり、更に側頭葉、頭頂葉、後頭葉へと広がっていく。

 ハドソンは北の壁に立て掛けられている大きな鏡に無造作に近寄っている。

「ハドソン、気を付けろ。何か・・・変だ・・・」

 瞭の声に、分かっていると右手を上げて答えると、ハドソンは大きな鏡の前に立った。

「ふむ、何の変哲もない鏡のようだが」

 ハドソンは鏡面に手を伸ばした。

 ハドソンの指が鏡面に触れる直前、鏡面から突き出された錫杖の石突が、ハドソンの鳩尾を突いた。

「グウッ!」

 ハドソンは空気が漏れたような声を上げて、三メートルも後方に吹き飛ばされた。背中から床に倒れ込んだハドソンは、仰向けのまま口から泡を吹き白目を剝いている。

「ハドソン!」瞭が叫んだ。

 大きな鏡の鏡面が撓み、大巌坊がジャラリと錫杖の音を響かせながら鏡面から出てきた。

 大巌坊は坊主頭に頭巾を乗せ、身に袈裟と篠懸を纏い、括袴をはいて、白手甲・脚絆をつけ、足元は草鞋を履いている。左手には背丈を超えるほど長い錫杖を持っている。大巌坊の両目から瞳が消えて、ぽっかりと空いた空洞のような両目の穴は、一面が血塗られたように真っ赤に染まっている。

 ・・・天狗? いや、修験者だ・・・どこかで見た・・・中野だ! あのときの、空を飛翔した怪人なのか?・・・

 大巌坊の姿を見た瞭の脳裏に、春山幸吉が殺された夜、早苗と一緒に目撃した怪人の姿が蘇った。

 大巌坊はズシリズシリと足元を踏み固めるように大股でハドソンに近づくと、左手の錫杖を振り上げた。スッと息を吸って丹田に力を込めると、大巌坊は錫杖の石突をハドソンの頭部に向かって振り下ろした。

「やめろ!」

 瞭は叫びながら左手を身体の前に突き出し、左掌を広げた。瞭の左掌には、昔、アメリカで遭遇した事件で、銃弾が貫通した際にできた五百円玉ほどの大きさの王冠のような形をした傷痕がある。瞭の脳内が一瞬で沸騰した。

 瞭の左掌から、念動波が目に見えない雷光のようにほとばしった。

 ハドソンの頭部に向かって振り下ろされた錫杖は、大巌坊の左手からもぎ取られて、大巌坊の背後にある大きな鏡に向かって飛んだ。ガシャンと音が響いて錫杖が大きな鏡にぶつかったが、大きな鏡にはヒビひとつ入っていない。錫杖は床に落ちると、ジャラリと音を立てて転がった。

 大巌坊は、錫杖がもぎ取られた左手を不思議そうに見てから、真っ赤な両目を瞭に向けた。そして、身体の前で小さく印を結び、「ノウマクサンマンダ バサラダン センダンマカロンシャダソハタヤ ウンタラタカンマン」と呪文を唱えると、右手の人差し指と中指を瞭に向かって突き出して、ヤッと気を発した。

 鉄砲水のような衝撃波が瞭を襲った。

 瞭は左手を前に突き出した姿勢のまま、衝撃波の中に立っている。瞭の身体の前にはユラユラと揺れる巨大なコンタクトレンズ状の光の膜があり、その膜が盾となって衝撃波を防いでいた。

 鉄砲水のような衝撃波が去ると同時に、コンタクトレンズ状の光の膜が消えた。

 左手を前に突き出した姿勢のまま何ごともなく立っている瞭を見て、大巌坊は、口の端を歪めて小さく笑った。

「お前は・・・はて? 修験者には見えぬが、確かに験力を操るようだな。儂は大巌坊。熊野の修験者だ、いや、修験者だったと改めよう。いまは、鏡の世界におられるギギアハウ様の僕。そして、ギギアハウ様に捧げる生贄を狩る者、狩猟者だ。お前は何者か」

 修行で鍛えた太く張りのある大巌坊の声が居間の中に響いた。そう言いながら、大巌坊は左掌を広げると後ろに向けた。大きな鏡の前の床に転がっていた錫杖が、見えない力によってフワリと宙に浮き、大巌坊の左掌に吸い寄せられるように宙を飛んだ。大巌坊は顔を瞭に向けたまま左掌で錫杖を掴むと、床の上に石突をトンと突いた。ジャラリと錫杖の音が響いた。

「大巌坊? ギギアハウ様に捧げる生贄?・・・行方不明者は生贄にされたのか・・・信じられない。僕は矢沢瞭、しがないジャーナリストですよ」

 瞭は油断なく大巌坊に目を向けたまま答えた。大巌坊を牽制するかのように、瞭の左手は大巌坊に向けて突き出されている。

 大巌坊は、胸の前で小さく印を結び、「ノウマクサンマンダ バサラダンカン」と呪文を唱えると、右手の人差し指と中指を天に向けてクルクルと円を描くように回し、ヤッと気を発した。

 瞭の右側にある大理石のテーブルの上に置かれている、直径三十センチの円形の鏡の鏡面がヌタリと撓み、そこから身体をくねらせるようにして大きな黒いドーベルマンが出てきた。瞭の左側にあるガラスのショーケースの中に立て掛けられている鏡台の鏡面からもドーベルマンが出てきた。瞭の背後から、最後の一頭のドーベルマンが上げるグヴヴヴという唸り声が聞こえている。瞭の鼻腔に生臭い獣の臭いが流れてきた。

 三頭のドーベルマンは瞭を取り囲むと、長い鼻の上にしわを寄せて、瞭に向かって鋭い牙を剝き出して威嚇している。三頭のドーベルマンの両目も血のように赤い。三頭は前脚を少し屈めて体勢を低くしたまま、ジリジリと瞭に近づいている。一斉に飛び掛かるつもりだろう。グヴヴヴという唸り声が大きくなった。

 ・・・クソッ、囲まれた。三頭同時に倒せるか・・・

 瞭は必死になって考えている。ひとつの方法が瞭の脳裏に浮かんだ。

 ムウウと声を上げて、床の上に倒れていたハドソンが上体を起こした。意識が戻ったのだ。ハドソンは鳩尾に手を当てて顔を歪めている。そして、目の前にノッソリと立っている大巌坊と、瞭を取り囲んで唸り声を上げている三頭のドーベルマンを見て驚愕の声を上げた。

「瞭、これはいったい」

 大巌坊はチラリとハドソンを見ると、錫杖の石突をハドソンの胸に突きつけた。動くなという意味だ。

「ハドソン、危険だ。手を出すな!」

 瞭はそう叫ぶと、ジーンズのポケットに左手を突っ込んで、素早く硬貨を掴み出した。左掌の上に乗っているのは五百円玉一枚、百円玉三枚、十円玉二枚。

 瞭の額の内側がチリチリと音を立て始めたかと思うと、脳内全体が一瞬で沸騰し、脳内に仮想空間がユラユラと浮かび始めた。

 仮想空間の中で、三頭のドーベルマンは硬貨に頭部を撃ち抜かれている。

 瞭は念動力によって、目の前の現実空間と仮想空間を置き換えようとしている。

 瞭の網膜上で現実空間が輪郭を失って色を失い、代わりに仮想空間が輪郭を持ち始める。そして、仮想空間が現実空間を覆うように広がっていく。

 大巌坊もハドソンも三頭のドーベルマンも微動だにしない。瞭すら身体を動かすことができない。瞭の腕時計の秒針も動かない。時間が止まっているのだ。それは、瞭のサイコキネシスが発現される直前のモラトリアム状態である。

 瞭の身体から発せられた猛烈な念動波が次元を振動させた。仮想空間が現実空間を覆いつくし、現実空間が消えた。いや、仮想空間が現実空間に置き換わったのだ。

 時間が動き始めた。

 瞭の左掌の上の六枚の硬貨がフワリと浮き上がり、掌の上十センチでユラユラと揺れている。

 三頭のドーベルマンはゴッと大きな唸り声を上げながら、瞭に向かって一斉に飛び掛かった。

「瞭、危ない!」

 ハドソンの悲鳴のような声が上がる。

 瞭の左掌の上で浮かんでいた六枚の硬貨は、三方に分かれて流星のように宙を飛び、三頭のドーベルマンの頭部を銃弾のように撃ち抜いた。

 三頭のドーベルマンはもんどり打って床に倒れた。撃ち抜かれた頭部はザクロのように割れていて、血と脳漿が床に流れ出している。小さく痙攣していたドーベルマンは直ぐに動かなくなった。

 ドーベルマンの頭部を撃ち抜いた六枚の硬貨は、糸に引かれるように方向を変えて、再び瞭の左掌の上に集まると、力尽きたようにグチャリと掌の上に落ちた。瞭は血に染まった六枚の硬貨を左掌で握りしめた。

 フッと息を吐いた瞭の視界が歪んだ。途端に瞭は激しい頭痛に襲われて、思わず床に片膝を突いた。久しぶりに強力なサイコキネシスを使ったため、脳内のネオニューロンが悲鳴を上げているのだ。瞭は両手で頭を抱えて必死に痛みに耐えている。

 瞭のサイコキネシスの発現を見たハドソンは、落ち窪んだ眼窩の底の両目をこれでもかと見開き、声を失っていた。

 大巌坊は、血のように赤い両目をひたと瞭に向けたまま口を真一文字に結び、ズシリズシリと足元を踏み固めるように大股で瞭に向かって歩いた。そして、瞭の前に立つと左手の錫杖を振り上げた。動けない瞭に止めを刺すつもりだ。

 大巌坊の気は目の前の瞭に集中し、ハドソンに向けた背中が一瞬無防備になった。

 パン! パン! 乾いた銃声が二発響いた。

 一発目の銃弾は大巌坊の左肩を掠め、二発目の銃弾は大巌坊の右わき腹に命中した。大巌坊の身体がビクリと揺れ、纏っている篠懸に赤い血の染みがジワリと広がった。

 大巌坊の背後で、ハドソンが拳銃を構えていた。銃口から薄っすらと煙が上がっている。リュックサックの底に忍ばせていた拳銃で、大巌坊を撃ったのだ。

「ヌウッ!」

 大巌坊は振り向きざまに、左手の錫杖をハドソンに向かって投げつけた。

 矢のように宙を走った錫杖が、ハドソンの胸の真ん中を貫いた。ハドソンの背中から錫杖の石突部分が三十センチも突き出ている。

「ガッ・・・」ハドソンの口から声が漏れた。声と共に吐き出された血がハドソンの顎を濡らしている。

「ハドソン!」

「瞭、逃げろ! 逃げるんだ!」

 ハドソンは自分の胸に突き立っている錫杖を見た。これでは助からない。そう思ったハドソンは、最後の力を振り絞って思念波を発した。

 《カミラ、マイルズ、やられた。サイコキネシスを操る恐ろしい超能力者だ。鏡、鏡の世界に・・・》

 ハドソンの思念波はそこで途絶えた。

 ハドソンに走り寄った大巌坊は、ハドソンの首を掴んだ。ハドソンの身体が糸の切れた操り人形のようにダラリと力を失った。大巌坊はハドソンの首を掴んだまま、北の壁に立て掛けられている大きな鏡に向かって走った。

 大きな鏡の鏡面がヌタリと撓んだ。

 大巌坊はハドソンと共に大きな鏡の鏡面の中に消えた。

 静かになった居間の中に瞭だけが残された。瞭は割れんばかりに痛む頭を左手で押さえながら立ち上がると、大きな鏡の前に落ちているハドソンのリュックサックを拾い上げ、ヨロヨロとした足取りで居間から中庭に出た。左掌についたドーベルマンの血が、瞭の顔面の左半分を赤黒く染めている。

 中庭は、何ごともなかったかのように陽光が照り付け、薫風が木々の枝を揺らして吹き抜けていく。失った聴覚が戻ったかのように、蝉の鳴き声が聞こえてきた。

 いまの状態では、これ以上大巌坊とは戦えない。仕切り直しだ。そう思った瞭は、重たい足を引きずりながら御手洗邸を後にした。


 明日香早苗は、千葉県鴨川市清澄山中の特殊潜在能力研究所の所長室で、研修カリキュラムの検討をしていた。所長室は十畳の広さの洋室で、窓際に事務机と椅子、壁際に簡素な応接セットが置かれているだけの、殺風景な部屋だ。壁に取り付けられている年代物の空調機が、カタカタと音を立てながら生温い空気を吐き出している。

 特殊潜在能力研究所の研修生は現在男性ひとり、女性三人の計四名。いずれも十代で、名前は秋山悠太、斎藤加奈、春木美咲、近藤理沙。

 彼らはいずれも小さい頃からテレパスの能力を発芽させていて、自分を取り巻く友人や大人たちの心の奥が読めた。そのために、周囲から気味悪がられたり、いじめを受けたり、親から虐待を受けたりして、心に深く傷を負ってしまっていた。その結果、自分の殻に閉じこもってしまったり、自分の能力を呪って自暴自棄になったり、他人に対して暴力を振るったりしてしまい、いわゆる問題児として扱われていた。

 早苗はテレパスとして彼らに接触し、テレパシーにより相互に意思疎通を図ることで彼らの心を開き、自分がテレパスであることを自覚させた。そして、特殊潜在能力研究所の研修生として彼らを迎え入れ、テレパスとしての能力の向上とその力をコントロールする方法を教えていた。

 研修資料に目を通していた早苗は、突然、脳が揺さぶられるような強い思念波を感得した。

 《カミラ、マイルズ、やられた。サイコキネシスを操る恐ろしい超能力者だ。鏡、鏡の世界に・・・》

 早苗は思わず手に持っていた資料を落とし、両手で頭を抱えた。非常に荒々しい思念波で、ザラザラとした感覚が早苗の脳に残った。よほど緊急の場面で、咄嗟に発したのだろうと早苗は思った。

 ・・・カミラとマイルズに向けて発せられた思念波ね。発したのはどこから?・・・

 早苗は椅子に背中を預けると、胸の前で手を組み、両目を閉じた。スウッと息を吸って精神を集中する。早苗の額の内側がほんのりと温かくなった。

 早苗は、波のように広がった思念波の波動を遡るように、思念波の触手を伸ばした。いま早苗が操っているのは、水面に広がる波紋のような全方位的な思念波ではなく、一方向に触手のように伸びる極めて指向性の高い思念波である。

 微かに残る思念波の残響を、早苗の思念波の触手が遡っていく。思念波の触手の先に目が付いているかのように、思念波の伸びる先の風景が早苗の脳裏に映像として浮かび上がっている。それは早苗の持つ超能力のひとつ、クレアボヤンス(透視・千里眼)である。

 大空を飛翔する鷹の目から地上を見ているような風景が早苗の脳裏に広がっている。高度が徐々に下がって地上の風景が手に取るように見えてきた。

 ・・・緑の山々・・・文字が読める、千元谷・・・あれは・・・瞭! 瞭がなぜこんな所に?・・・大きな別荘・・・渦? いや暗い穴かな?・・・誰かがいる・・・

 思念波の触手が突然切れて、早苗の脳内に映し出されていた風景が消えた。

 早苗は椅子に背中を預けたまま目を開けた。早苗の意思に関わりなくクレアボヤンスが終わることなど、これまで一度もなかった。何かおかしい。早苗の無意識が異変を感知して身構えているようだ。落雷の前の帯電した空気の中に浸っているように、早苗の身体中の毛が逆立った。

 ・・・何かがくる!・・・

 早苗の防御本能が、咄嗟に早苗を思念波の繭で包んだ。

 早苗の視界がグニャリと歪んだ、いや、違う、早苗の存在している次元そのものが歪んだのだ。

 次元を歪めるほどのエネルギーの奔流が、凄まじい衝撃波となって未来から過去に向けて駆け抜けた。

 千々に割れたガラスの破片のような未来の光景が、早苗を掠めるようにして、過去に向かって飛び去った。思念波の繭に包まれた早苗の意識が激しく揺さぶられる。早苗の意識がスウッと遠退いた。

「キャアア!」

 早苗は自分が上げた悲鳴で目を開けた。早苗の額は脂汗でネットリと光っている。椅子から身体を起こそうとしたが、手足に力が入らない。早苗の脳には明確な映像が焼き付いていた。

 ・・・閃光と炎、瓦礫の中に倒れる人たち・・・大きな黒い渦が人々を吸い込んでいる・・・歪んでいる、空間が歪んでいる・・・あれは、魔人?・・・ああ、吸い込まれる、全てのものが吸い込まれる・・・これは、予知だ。魔人によって人類の厄災が引き起こされる!・・・

 早苗はブルリと身体を震わせると、両手を巻き付けるようにして自分の身体を抱いた。目を開けると、貧血でも起こしたかのように、天井がグルグルと回る。

 《瞭、人類の厄災を予知したの。お願い、できるだけ早く研究所にきて》

 早苗は瞭に向かって思念波を発した。

 廊下をバタバタと走る音がして、所長室のドアが乱暴に開かれた。

「明日香所長! 大変です! 研修生たちが、突然頭が痛いと言い出して・・・斎藤加奈は倒れて、意識がないんです」

 所長室に飛び込んできた事務員の天野は、真っ青な顔をして肩で息をしている。

 テレパスの能力を発芽している研修生たちは、先程の衝撃波を無防備に感得してしまったのだ。特に能力が強い斎藤加奈は大きなショックを受けたに違いないと早苗は思った。

「分かりました、すぐいきます」

 早苗はふらつく頭を二、三度振ってから、ゆっくりと椅子から立ち上った。


 アメリカ合衆国バージニア州ラングレーにあるアメリカ中央情報局(CIA)内に、これまでとは全く異なる手法で情報収集を行うことを目的とした特殊情報収集室が設置された。CIAでも限られた者しかこの組織の存在を知らない。設置されてからまだ二月しか経っておらず、現在は本格的な運用に向けた試験運用の状態である。

 極秘情報の収集は、一般的には、工作員による諜報活動やコンピュータへのハッキングなどさまざまな方法で行われている。

 特殊情報収集室では、人工的に造られたテレパスを使って、各種情報収集と情報操作を行う。具体的には、テレパスである工作員が極秘情報を知る対象者と直接又は間接的に接触し、対象者の脳内から、テレパシーにより直接重要情報を抜き取るのである。また、首脳会談や国際会議の場で、相手国の出席者の発言内容や発言の真意をテレパシーにより読み取り、あるいは、相手国の出席者の深層意識にテレパシーで働き掛けて、自国に有利な結論に導くのである。

 将来的には、テレパシーによる敵国首脳の洗脳や敵国兵士の戦意喪失・反逆感情の醸成、サイコキネシスによる敵国首脳の暗殺や軍事施設の破壊など、超能力兵器としての運用も視野に入れている。

 軍需産業の分野で世界有数の巨大企業であるマクラネル社では、秘かに人工的な超能力者の製造について研究が進められていた。戦後にGHQが接収した旧日本陸軍特殊兵器研究所の資料の中から発見された、特殊潜在能力開発室における超能力の研究資料を基に、超能力の発生源とされるネオニューロンとそれを増強させるネオニューロン増殖強化剤の開発に成功したのだ。

 マクラネル社の研究施設の中で、半ば人体実験的に人造超能力者の開発が進められていた。外科的施術により前頭葉にネオニューロンを移植し、ドーパミンの変種から造り出したネオニューロン増殖強化剤の投与により、人工的に超能力者を造り出すのだ。しかし、人類の脳がまだ進化の途上にあるためだろう、多くの被験者は脳に重篤な損傷を受けて廃人となった。テレパスとして能力を発芽させた被験者は、いまのところ、ハドソン・スミス、カミラ・ウィルソン、マイルズ・ミラーの三名しかいない。

 特殊情報収集室は上級情報分析官のリチャード・フォードを室長として、ハドソン、カミラ、マイルズの三名の人造超能力者により構成されている。

 急造の、しかも、存在が極秘の組織だからだろう、特殊情報収集室はCIAの建物の地下三階の、元留置施設だった部屋が充てられていた。天井も壁も床もコンクリートがむき出しで、当然に窓もない。三十平方メートルの広さの室内にはパソコンが置かれた机と椅子が三セット、休憩用のソファーと壁に掛けられた三十インチの液晶モニターしかない。室長のリチャードは情報分析官チームのトップを兼任していて、特殊情報収集室には机もなく、顔を出すのは週に二回程度である。

 人造超能力者による情報収集・情報操作という画期的な任務を負う組織にしてはお粗末な待遇だが、おそらく、CIAの幹部の間では、超能力という胡散臭い能力を使った情報収集など期待も信用もしていないのかも知れない。


 特殊情報収集室の工作員のひとりであるハドソン・スミスは二週間前に日本へ渡り、一月後に予定されている日米首脳会談に関する極秘情報の収集に当たっていた。

 カミラ・ウィルソンとマイルズ・ミラーは、ハドソンのバックアップという名目で、室内待機を命じられていた。今日は午前中に能力向上訓練を行い、午後は薄暗い執務室でハドソンから送られてきた中間報告書に目を通していた。

 カミラは身長百七十センチ、華奢な身体つきをした女性で、年齢は二十六歳。ブロンドの髪にブルーの目を持ち、ツンと上を向いた鼻が勝気な印象を与える。

 マイルズは身長百九十センチ、ホッキョクグマのようなずんぐりとした体形をした男性で、年齢は二十八歳。綺麗に剃り上げたスキンヘッドと赤ら顔、藪にらみの眼と団子鼻。鼻の頭が赤いのは酒の飲みすぎだ。

 カミラは、紙コップの珈琲を啜りながら、机の上のパソコンのモニターを指差した。インスタントの珈琲は香りも味もしない黒い液体だが、カミラは平気な顔をしている。

「ねえ、マイルズ。ハドソンからの中間報告書の三十八頁を見た?」

 椅子に身体を預け、両足を机の上に置いてコクリコクリと舟を漕いでいたマイルズは、グズリと鼻を鳴らしてから、片目を開けてカミラを見た。マイルズの机の上のパソコンのモニターは、とっくの昔にロック画面に切り替わっていた。中間報告書に興味がないのが一目瞭然だ。微かに酒臭いのは、二日酔いか、あるいは朝から隠れて酒を飲んだのかも知れない。

「えっと、まだそこまで進んでないんだ。何だい、面白いことでも見つけたのかい」

 カミラはフウと息を吐いて、こりゃダメだと首を振った。マイルズにやる気がないのは、いつものことだ。

「日米首脳会談に関する調査報告の最後に、東京都中野区と長野県軽井沢町で発生した死亡事件に関する調査報告が付け加えてあるのよ。二件の死因は焼死、但し、遺体の状況や現場の状況は不可解な点ばかりで、事件か事故かの結論も付いていないようなの。面白いことに、検視資料の中で人体自然発火現象の可能性が指摘されているのよ」

 マイルズは机の上から両足を下ろすと、興味深げに身を乗り出した。

「人体自然発火現象? そりゃあ何だい」

「メアリー・リーサー事例とかは知らないかしら。遺体の状況から、人間の身体が自然に発火したとしか思えないような事例をいうのよ。原因は解明されていないけど、仮説としては、体内のアルコールが燃料となって発火したとか、人体の脂肪分が燃料となってろうそくのように燃えたとか、プラズマの一種の球電によるものだとか、特異体質により造られた可燃物質が発火したとか・・・いろいろあるわね。

 そしてハドソンは、二件の焼死体の共通点から、これは人体自然発火現象ではなく、パイロキネシス(発火能力)による殺人ではないかと推察しているわ」

「パイロキネシス? 超能力者による殺人事件だとハドソンは考えているのかい」

「その可能性が高いと結論付けているわ。そしてハドソンは、焼死事件後に軽井沢町で発生している一連の行方不明事件も、その超能力者が関与していると考えているみたいね。これから調査に向かうと、ハドソンは報告書を締め括っているわ」

 カミラはパソコンのモニターに視線を戻すと、額に手を当てて考え込んだ。マイルズはムウと呻いたまま天を仰いだ。

 ふたりとも、超能力などは小説や漫画や映画の世界の絵空事と思っていた。しかし、自分が人造超能力者としてテレパシー能力を得てから、世界が変わった。超能力は確かに存在する。超能力者による殺人事件を一笑に付して否定することなど、もうできない。それが意味することは何か。密室における完全犯罪? 念動波で相手の心臓を止めることができれば、そもそも密室にする必要すらない。たとえそれが衆人環視の中で行われても、いまの刑法では殺人を犯した超能力者を裁くことはできない。何しろ手すら触れていないのだから。

 それだけではない、超能力兵器という全く新しい戦争兵器が誕生する可能性があるのだ。軍需産業企業であるマクラネル社が人造超能力者の開発を手掛けている究極の目的は、超能力兵器の開発である。マクラネル社は、超能力という未知の分野で世界の覇者になろうとしているのだ。

 突然、カミラとマイルズは鈍器で頭を殴られたような衝撃を感じた。カミラが思わずオウと声を上げた。ふたりはハドソンが発した荒々しい思念波を感得したのだ。危機的な状況下で必死に力を振り絞ったのだろう。思念波の棘が脳に突き刺さるようだ。

 ふたりの脳内に言葉が浮かんだ。

 《カミラ、マイルズ、やられた。サイコキネシスを操る恐ろしい超能力者だ。鏡、鏡の世界に・・・》 

 ふたりは思わず顔を見合わせた。マイルズの眉間に深いしわが刻まれている。

「ねえ、カミラ。いま、感じたかい? ハドソンからの思念波だったと思ったが」

 カミラは頭に浮かんだハドソンからのメッセージを卓上のメモ用紙に書いている。

「ええ、マイルズ。確かに、ハドソンからの思念波だわ。やられたって・・・まさか」

「分からない。但し、普通の状態でないのは確かだ、思念波がやけに荒かった。とにかく、こちらから思念波を送ってみよう」

 カミラとマイルズは向かい合って互いに両手を握ると、目を閉じた。

 《ハドソン、何があったんだ、答えてくれ。ハドソン、ハドソン・・・》

 ふたりは五分間ほど思念波を送り続けたが、ハドソンからの思念波は返ってこなかった。

 ハドソンのスマートフォンは、バッテリー切れか電波が届かない所にいるというアナウンスが繰り返されるだけで応答がない。

 ジリジリとした焦燥感に耐え切れず、室長のリチャードに一報を入れようと、カミラが内線電話の受話器を手にした。そのとき、特殊情報収集室の入口のドアが開いて、苦虫を嚙み潰したような顔のリチャードが部屋に入ってきた。機嫌が悪いのではない、リチャードはいつもこんな顔をしているのだ。

「ああ、室長。よかった、いま連絡を入れようとしていたところなんです」

「連絡? 私に? 何があったんだ」

 リチャードは空席のハドソンの席にドサリと座ると、足を組んでふたりの顔を交互に見渡した。銀縁眼鏡の奥のブルーの瞳は凍り付くように冷たい。カミラがそう感じるのは、リチャードの心の奥底に仕舞い込まれている超能力者に対する嫌悪感を、テレパスであるカミラが無意識のうちに感得しているからなのかも知れない。

 カミラがハドソンから受け取った思念波について説明すると、リチャードはしばらく目を閉じて頭の整理をしてから、おもむろに口を開いた。

「なるほど、ハドソンがサイコキネシスを操る超能力者に襲われた可能性があるということか。ハドソンとはその後連絡がつかないんだな? 襲われた場所は分かるか?」

 カミラは首を横に振った。

「ハドソンの思念波を感得しただけですから、場所までは特定できません。ただ、中間報告書では、長野県軽井沢町で発生している一連の行方不明事件に超能力者が関与している可能性を指摘していますから、ハドソンはその確認のために軽井沢町に向かったと思われます」

 リチャードはカミラが書いたメモに目を落とした。

「最後の部分の『鏡の世界』とはどういう意味だ?」

「分かりません。錯乱した状態で、脳に浮かんだ取りとめのない言葉が送られてきた可能性もあります」

 リチャードはチラリとカミラに視線を送ってから、腕を組んで眉間にしわを寄せた。

「とにかくハドソンの安否確認が急務だ。試験運用の期間中に工作員が行方不明になったとあっては、今後の組織の存亡にかかわる。それと、ハドソンが伝えてきたサイコキネシスを操る超能力者も気になる。マクラネル社の研究施設では、まだサイコキネシス能力の発現は確認されていないからな。これは深刻な問題だ。我が国の人造超能力者の能力を凌駕する超能力者の存在は、超能力兵器で世界の覇権を握るという我が国の目論見を根底から崩すもので看過できない。いまのうちに目を摘んでおく必要があるな」

 カミラは心の中で、我が国の目論見ではなくてマクラネル社の目論見でしょと思ったが、当然顔には出さない。室長のリチャードが、マクラネル社から多額の賄賂を受け取っていることなど、テレパスであるカミラはとっくに承知しているのだ。

 カミラの心の中など知る由もないリチャードは、椅子から立ち上ると厳格な顔をしてふたりに命令した。

「カミラ、マイルズ、至急日本に飛んでくれ。テレパシーを駆使してハドソンの安否を確認するんだ。その過程で超能力者の存在を確認した場合には、その能力を検証しろ。存在を確認した超能力者への対応は、君たちに同行する特殊工作部隊に指示するから、君たちは関与する必要はない。相手が超能力者だとすると、どんな反応があるか分からん。心してかかれ」

 リチャードは冷たく言い放つと、足早に部屋から出て行った。

 カミラとマイルズは小さくため息を吐いた。リチャードがあえて口にしなかった『確認後の対応』とやらが、『必要に応じて、確認した超能力者を殺害又は拉致』することだと分かっているのだ。

 カミラとマイルズがマクラネル社の人体実験に応募して人造超能力者になったのは、もちろん金のためだ。

 カミラはアメリカ中西部ネブラスカ州の片田舎にある貧しいトウモロコシ農家に生まれた。奨学金を受けて地元の大学を卒業し、地方銀行に就職してひとり暮らしを始めた矢先に、実家のトウモロコシ畑が干ばつと病害虫の発生で全滅した。多額の借金の返済のために実家も農地も競売に掛けられることになったが、実家は元よりカミラにも蓄えはなかった。カミラは競売を中止するための金が欲しかった。カミラは迷わずマクラネル社の人体実験に応募したのだ。

 マイルズはニューヨークの下町、ローワー・イースト・サイドにある小さな雑貨店のひとり息子だ。小さい頃から手癖が悪く、自動車泥棒で捕まってハイスクールを退学となり、その後は転々と職を変えながら、親のすねをかじっていた。酒場での喧嘩で相手に重傷を負わせ、目玉が飛び出るほど高額の損害賠償を請求されて、やむなくマクラネル社の人体実験に応募したのだ。

 今更綺麗ごとを言っても仕方がない。超能力者を巡る大きな渦の中に自ら飛び込んだのだ、後は流れに身を任せるしかない。

 カミラとマイルズは割り切ったような顔に戻ると、日本へ向かう準備に取り掛かった。


 東京都千代田区霞が関の内閣府に設置されている内閣危機管理室で、危機管理官の佐田伸介はファイルに綴じられた分厚い資料を読んでいた。彫りの深い映画俳優のように整った佐田の顔の眉間には深いしわが刻まれている。佐田の執務室は二十平方メートルの広さの個室で、窓際の大きな事務机のほかに、部屋の中央には打合せ用の応接セットが置かれている。窓の外には議員会館の建物の間から、国会議事堂の中央塔が重厚な姿を見せていて、すこし視線を上げると、その先には皇居の木々が夏の日差しを受けて黒々と輝いている。

 入口のドアをコツコツとノックしてから、危機管理対策班の羽賀隆一が顔を出した。

「羽賀です。お呼びですか?」

 佐田はオウと頷くと、読んでいたファイルを持って立ち上がり、羽賀に応接セットに座るよう促した。

 応接セットで羽賀と向かい合うように座った佐田は、いきなり話を切り出した。

「アメリカ中央情報局の工作員がひとり、長野県軽井沢の千元谷集落で行方不明になったそうだ」

「CIAの工作員? 千元谷集落といえば、ここのところ行方不明者が多発している地域ですよね、何でまたそんな所に・・・まさか、行方不明の工作員を捜索しろなんて話じゃないでしょうね。それなら陸上自衛隊にでも要請すればいいんじゃないですか。人海戦術でアッという間に片付けてくれますよ」

 羽賀はおどけた口調で返したが、佐田はムスリとした表情で羽賀の顔を見ている。ざっくばらんな性格で、いつもなら目尻にしわを寄せて冗談のひとつも返してくる佐田にしては様子がおかしい。羽賀はのっぺりとした顔についた糸のように細い目を心持ち開いて表情を改めた。

「何か裏があるんですか」

 佐田はソファーに背中を預けると、縁なし眼鏡の下からすくい上げるような目で羽賀を見た。こいつはただごとではないと、羽賀の背中に緊張が走った。

「CIAにいる私の知り合いから、極秘に情報提供があった。行方不明になった工作員ハドソン・スミスは、特殊情報収集室に所属する超能力者だそうだ」

「はあ? 超能力?・・・」

 羽賀の声が思わず裏返った。羽賀の脳裏にグニャリと曲がったスプーンの姿が浮かんだ。腹の底からムクリと笑いがこみ上げてきたが、佐田のただならぬ表情を見て、羽賀は口を真一文字に結んだ。

「ハドソンはテレパスで、テレパシーを使って要人の頭の中から極秘情報を盗み出すそうだ。そのハドソンを捜索するために、特殊情報収集室からふたりの工作員が来日する。そいつらもテレパスだ。名前は、カミラ・ウィルソンとマイルズ・ミラー」

 まったく予期せぬ展開に、羽賀は相槌を打つこともできない。羽賀の持つ常識の範疇を超えているのだ。

「行方不明になったハドソンは、二週間ほど前から日本に入り、一月後の日米首脳会談に関する情報収集に当たっていた。その後、一連の行方不明事件に興味を持ったのか、軽井沢に向かって行方不明になったらしい。ミイラ取りがミイラになったという訳だ。興味深いのは、行方不明になったハドソンは『超能力者に襲われた』と言い残したらしいんだ、テレパシーを使ってな」

「はあ・・・」

 羽賀は空気の抜けたような声を出した。もはや、何を言われても頷くだけだ。

 佐田はここからが本題だと言わんばかりに、ソファーから身体を起こし、羽賀に向かってグイッと身を乗り出した。

「今度来日するカミラとマイルズの真の任務は、一義的には行方不明になったハドソンの捜索だが、それだけではない。ハドソンを襲ったとされる超能力者の存在を確認してその能力を特定することだ。問題は、カミラとマイルズに特殊工作部隊が同行することだ。特殊工作部隊は軍需産業の大手マクラネル社の雇った傭兵らしい。人数は確認中だ」

「傭兵の特殊工作部隊を?」

「特殊工作部隊の任務は、カミラとマイルズが確認した日本人超能力者の殺害又は拉致だ」

「なぜ日本の超能力者を?」

「マクラネル社が手掛けているのは超能力を使った兵器開発、すなわち超能力兵器の開発だ。どこまで本気なのかは分からんがな。超能力に関するノウハウはもちろん超能力者も、アメリカいやマクラネル社が独占したいんだ。アメリカ以外で芽生えた超能力者の芽を、事前に摘むことが目的なんだろう。この日本国内で、しかも日本国民に対して、そんな暴挙を許す訳にはいかない。そこで我々内閣危機管理室の出番だ。羽賀、お前のチームは、入国するカミラとマイルズ並びに特殊工作部隊の行動を監視し、日本国民に危難が及びそうな場合には、やつらの暴挙を阻止しろ。必要に応じて火器の使用を認める。詳しい情報はこの資料にまとめてある」

 佐田は手に持っていたファイルをテーブルの上にドサリと置いた。

 突拍子もない話だが、要は外国から日本に潜入したテロリストを監視し、日本国民に対するテロ行為を阻止、テロリストをせん滅することと何ら変わりはない。超能力者などというから分かりにくいのだ。羽賀の目の前に座っている佐田自身も、超能力など信じていないに違いない。

 羽賀は任せてくれとばかりに、佐田の目を見て頷いた。

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