ククルカン神
ククルカンの背中を赤く染めて伸びる血が、ククルカンの頭部の彫刻に到達した。頭部の彫刻がブルリと揺れた。
グオオオゥゥゥ・・・ 遠雷のような咆哮が天から降ってきた。
ククルカンの頭部が血の身体を得て、羽毛をもつ蛇の姿をしたククルカンが現れた。裂けたように大きな口と分厚い唇、身体の正面を向いた鼻の孔とその後方の盛り上がったふたつの目。頭頂部の羽毛は王冠のように逆立ち、首の周囲にはライオンのようなたてがみが生えている。太く長い身体は光沢のある濃緑色の羽毛で覆われているが、背中の羽毛だけは血に染まったように赤い。尾は裂かれたように先が何本にも分かれている。そのように見えるのは、尾の先に付いている長い飾り羽のせいだ。
ズウウン・・・
腹の底に響くような振動が鏡面世界を揺らした。地震の震源地から大地の振動が周囲に広がっていくように、ククルカンの頭部から鏡面世界を歪めるような波動が同心円状に広がった。その波動は内側に閉じた球形の鏡面世界の、ちょうど反対に当たる場所で収斂交差して、再び同心円状に広がった。そして、その波動はククルカンの頭部の真下で再び収斂した。
収斂した波動の力を利用したかのように、ククルカンがグウウッと鎌首を持ち上げた。分厚い唇の丸い穴から、先端がふたつに割れた炎のように赤い舌がチロリと覗いた。そしてククルカンは、ピラミッドに巻き付くようにして、渦を描きながら頂上部目掛けて上り始めた。
ククルカンの身体中に生えている羽毛が空気を捉えて風を起こした。ククルカンの身体の動きに合わせて、風は渦を巻き始めた。ククルカンは風の神でもあるのだ。
セノーテの横の空き地では、瞭たちが驚愕の表情でククルカンの降臨を見ていた。
『瞭、ククルカンが降臨されたわ』
『早苗ちゃん、そのう・・・ククルカンというのは、良い神様なのか、悪い神様なのか、どっちなんだい? 顔つきは・・・怖そうだ』
『ククルカンは、アステカやマヤの神話では創造神で、農耕や文化の神、そして風の神とされているわ。死や疫病や戦争を司る鬼神のイメージはないはずだけど。でも、血の身体を得て降臨されたことは尋常じゃないし、この鏡面世界に降臨された理由も分からない・・・ねえ、瞭、ひょっとして、私はとんでもないことをしたのかも知れない』
不可抗力とはいえ、心臓が盛られた翡翠の鉢を落としたことがククルカンの降臨を招いたことは間違いない。底知れぬ不安感に襲われた早苗の顔は曇っている。
瞭はムウウと唸った。人間の心ですらよく分からないのに、ましてや、神の御心など分かるはずがない。神の前で人間にできることは祈ることだけだ。
ククルカンがピラミッドに巻き付くようにして、渦を描きながらピラミッドを上るにつれて、ピラミッドを中心とした風の渦は強くなり、ビョウビョウと唸りを上げ始めた。
ククルカンはピラミッドの頂上部に到達した。
一辺が十メートルの正方形をした頂上部にあった神殿は跡形もなく崩れていて、神殿の瓦礫が小山のように積み上がっている。
ピラミッドの頂上部に到達したククルカンは、何かを待っているかのように、その場所でグルグルと回り続けていた。頭部が尻尾を追い越し、再び頭部が尻尾を追い越した。二重の輪となったククルカンは更に回転する速度を上げた。
ピラミッドは凄まじい空気の渦に呑み込まれていた。空気の渦の先端は、龍のようにクネクネと身を捩りながら上空に伸び、球形の鏡面世界の中心にある黒い特異点に繋がっている。
ピラミッドの頂上部に小山のように積み上がっている瓦礫が、ひとつ、ふたつと空中に舞い上がり、やがて巨大な空気の渦に吸い上げられるように、無数の瓦礫がバラバラと空中に舞い上がった。舞い上がった瓦礫は上空に運ばれると、黒い特異点の中に落ち込んだ。
大きな瓦礫がガラリと舞い上がると、翡翠のタイルを敷いた神殿の床にチャクモール像が姿を現した。チャクモール像の傍らには、ギギアハウが何ごともなかったかのように立っていた。ギギアハウは胸まで垂れた髭に覆われた口の口角を上げると、ハハアと笑った。そして、片膝を突くと、両手の拳を地面に当て、ククルカンに向かって頭を下げた。
ククルカンは回転を止めると、グウッと鎌首を持ち上げ、チャクモール像の傍らで頭を下げているギギアハウを見下ろした。盛り上がったふたつの目が瞬きをすると、瞼が下から上へと閉じられた。分厚い唇の丸い穴から、先端がふたつに割れた炎のように赤い舌がチロリと覗いた。ククルカンの背後のピラミッドの周囲の空気の渦は、惰性で回り続けている。
『血が・・・血が欲しい・・・生贄の心臓はどこだ・・・ああ、喉が渇く・・・血を・・・心臓を捧げよ・・・』
ククルカンの発した波動は、雷鳴のように周囲に響き渡った。
『私の名前は、ギギ・アィツィロ・ハウツァ。貴方様に仕える神官でございます。私はこの世を統べる力が欲しい。生贄の二十個の心臓を捧げることはかないませんが、その代わり、千年以上のときを経た私の心臓を捧げましょう。どうか私の願いをお聞き届け願います』
ギギアハウはククルカンにそう伝えると、右手を上げた。ギギアハウの右手は蔓のようにスルスルと伸びて、球形の鏡面世界の中心にある黒い特異点に向かった。ゴウゴウと渦を巻く空気の隧道の中を、ギギアハウの右手が伸びて、右掌が黒い特異点に吸い込まれた。
球形の鏡面世界がグニャリと歪んだ。
ギギアハウの右手がスルスルと収斂した。右掌には心臓が握られていた。ギギアハウは、自らの心臓を依り代にして空間を歪め、内側に閉じた球形の鏡面世界を構築していたのだ。
内側に閉じた球形の鏡面世界の中心点にあった次元の特異点が消えた。
球形の鏡面世界は、中心となる次元の特異点の消滅により均衡を失い、いびつに歪み始めた。更に、ピラミッドの上空の先程まで次元の特異点があった場所に、目に見えないほどの小さな光球が出現した。それまで特異点に向かって落ち込んでいた厖大なエネルギーが、消失した特異点の近似点から外に向かって噴き出し始めたのだ。消滅した次元の特異点に代わって、この光球が人類に厄災をもたらす要因になることなど、いまの瞭たちには知る由もない。
早苗の思念波はギギアハウの動きを感得していた。そしてギギアハウが何をしようとしているのかを理解した。それは、その場にいる全員に瞬時に共有された。
『瞭!』
『早苗ちゃん、分かってる! 祥吾、錫杖を借りるぞ、空を飛ぶにはコインよりこっちの方が使いやすいからな。祥吾はここに残って、みんなを守ってくれ、いいな』
瞭は有無を言わさずに、祥吾の手から錫杖を取り上げると、錫杖を宙に投げ、その上にひらりと跳び乗った。祥吾はチラリと振り返って、今にも倒れそうな早苗や満身創痍で動けない羽賀たちを見ると、瞭と一緒に行くことを諦めた。ここを守れるのは祥吾しかいないのだ。
『祥吾、頼んだぞ』
瞭はピラミッドの頂上に向かって、弦から放たれた矢のように宙を飛翔した。ピラミッドはビョウビョウと流れる激しい空気の渦に取り巻かれたままだ。瞭の身体は、あっという間に空気の渦に呑み込まれた。
ギギアハウは、チャクモール像の窪んだ腹の上に自分の心臓を置いた。ギギアハウのどす黒い心臓はドクリドクリと脈打っている。
『ククルカン様、私の心臓でございます。どうか、私にこの世界を統べる力をお与えください』
ギギアハウは片膝を突くと、両手の拳を地面に当て、ククルカンに向かって頭を下げた。
ククルカンの頭部がチャクモール像に向かってノソリと動いた。心臓の臭いを嗅ぐかのように、分厚い唇の丸い穴から、先端がふたつに割れた炎のように赤い舌がチロリと覗いた。頭部が上下に割れたかのように大きく口が開き、ズラリと並んだ鋭い牙が現れた。
ククルカンの前で神妙に頭を下げていたギギアハウが、突然ブルブルと痙攣を始めると、身体を弓のように大きく反らせた。
ズブリ・・・
ギギアハウの胸の真ん中から人の手が飛び出した。更に手首、肘、肩が姿を現し、最後に大巌坊の顔がギギアハウの胸の真ん中に浮かび上がった。
大巌坊の手は、ククルカンの鼻先から奪うように、チャクモール像の上に置かれているギギアハウの心臓を掴んだ。
『ケエエ! おのれ大巌坊、何をする!』
ギギアハウは驚愕した顔で、大巌坊に掴まれた自分の心臓を見た。
『こうするのだ・・・瞭!』
大巌坊がギギアハウの心臓を高々と掲げた。
『大巌坊!』
ピラミッドを取り巻く空気の渦の中から、錫杖に乗った瞭が飛び出した。
瞭が身体の前に突き出した右掌から、念動波が目に見えない雷光のようにほとばしった。瞭の念動波は硬質の光の槍に変わり、大巌坊が掲げたギギアハウの心臓を貫いた。
光の槍に貫かれたギギアハウの心臓は、ボッと炎を上げると、大巌坊の掌の中でグズグズと融け落ちた。大巌坊の指の間から、真っ黒な粘液がボタリボタリと床に滴り落ちた。
『グハアアアァ!』
怒号とも絶叫とも悲鳴ともつかない波動が広がった。ギギアハウは自分の胸から浮き出ている大巌坊の顔を両手で掴むとギリリとねじ切り、大巌坊の腕をへし折った。
大巌坊の頭部がゴロリと床に転がった。両目を見開いたままの大巌坊の顔には、満足気な笑みが浮かんでいた。もう何も映さない両目には黒々とした瞳が戻っている。北の階段の上にひとつだけ残されていた大巌坊の心臓がグシャリと潰れた。
錫杖の上に立って宙に浮いている瞭を、ギギアハウは憤怒の表情で見上げた。ギギアハウは胸まで垂れた髭に覆われた口の口角を上げ、黄色い歯をこれでもかと剥き出している。
そのギギアハウに向かって、大きく口を開けたククルカンの頭部が近づいた。なくなった心臓の代わりにギギアハウを食おうとしているのだ。
『血が欲しい・・・喉が渇く・・・血が欲しい・・・』
ククルカンの発した波動は狂気を纏っていた。血で召喚されたククルカンは、血に飢えた邪神と化していた。
ククルカンの動きに気付いたギギアハウは、俊敏なジャガーのように身を躍らせて、ククルカンから逃れようとした。
ガチャリという振動を感じたギギアハウは、強い力でチャクモール像の方に引き戻された。チャクモール像に身体を掴まれているかのように、身動きができない。
ギギアハウの胸を貫いて耳飾りのようにぶら下がっている独鈷杵で造られた輪が、チャクモール像の首の部分にスッポリと引っ掛かっていた。
大巌坊の最後の情念が独鈷杵で造られた輪に宿り、ギギアハウを捕らえていた。
ククルカンの大きな口がギギアハウの頭上に迫った。ズラリと並んだ鋭い牙の間からネットリとした唾液が溢れ出て、ボタボタと床の上に滴り落ちた。
恐怖に両目を見開いたギギアハウが、身体とチャクモール像を繋ぐ独鈷杵の輪を掴んでガチャガチャと揺さぶった。輪はチャクモール像の首に食い込んだように離れない。
ギギアハウは命乞いをするかのように両腕を上げた。
『ああ、ククルカン様ァ・・・ギャアァァ!』
チャクモール像の首に繋がれたギギアハウの上半身が、ククルカンの牙で引き千切られた。上半身を失くしたギギアハウの下半身は、チャクモール像の傍らに立ったままだ。ククルカンは顎を上げてギギアハウの上半身を呑み込むと、残った下半身を口に咥えた。そして、再び顎を上げてギギアハウの下半身を呑み込んだ。口の周りに付いた血を舐めるかのように、分厚い唇の丸い穴から、先端がふたつに割れた炎のように赤い舌がチロリと覗いた。
チャクモール像の首には、血に染まった輪が引っ掛かったまま残されていた。輪の一部にピシリと小さな亀裂が走った。見る見るうちに亀裂は大きくなり、撓めていた力から解放されたように、パカリと割れた。チャクモール像の首から離れて床の上に落ちたときには、それは元の独鈷杵の姿に戻っていた。
ククルカンの盛り上がったふたつの目が、宙に浮かんでいる瞭に向けられた。その目に見据えられると、瞭は金縛りにあったように動けなくなった。蛇に睨まれた蛙だ。瞭の臭いを嗅いでいるのだろう、分厚い唇の丸い穴から、先端がふたつに割れた炎のように赤い舌がチロリと覗いた。
『瞭、逃げて! ククルカンは血を求めて狂っているわ』
早苗の金切り声のような切迫した思念波が瞭の脳内に響いた。
・・・ギギアハウだけじゃ食い足りないってことか? 冗談じゃない・・・だが、身体が動かない。・・・力が抜けていく。クソッ、どうすればいいんだ・・・
瞭がそう思っている間にも、瞭が乗っている錫杖はゆるゆると高度を下げ、とうとう床の上に横たわった。瞭の前頭葉のネオニューロンは痺れたように硬直している。
ククルカンの頭部が瞭に向かってスルスルと動いた。ククルカンの大きな口が開くと、ズラリと並んだ鋭い牙がギギアハウの血で濡れているのが見えた。
瞭の背中がゾワリと総毛立った。脳内に快楽物質が分泌されているためなのか、恐怖を感じない。それは天敵の捕食者を前にした動物の反応だ。
・・・食われてたまるか!・・・だが、サイコキネシスが使えない・・・
そのとき、ククルカンが瞬きをした。瞼が下から上へと閉じられ、ククルカンの視線が一瞬遮断されると、瞭の身体を縛っていた見えない磁場が消えた。瞭の脳内が一瞬で沸騰した。
・・・飛べ!・・・
床の上の錫杖がフワリと浮き上がり、クルクルと回転しながら左方向に飛んだ。
ククルカンの視線が動く錫杖に吸い付けられ、ククルカンの頭部が錫杖に向かって動いた。それを見た瞭は、錫杖とは反対の右方向に身体を投げ出し、チャクモール像の陰に跳び込んだ。
瞭の目の前に独鈷杵が落ちている。独鈷杵は魔を打ち砕く力を秘めている。瞭は独鈷杵を拾い上げると、お守りを握りしめるように胸の前に抱き、床の上に身体を伏せた。
瞭が床の上に身体を伏せると、瞭のジーンズのポケットに入っていたブローチのような鏡が、まるで意思があるかのようにジーンズのポケットから転がり落ちた。瞭はそのことに気付いていない。
床の上に落ちたブローチのような鏡はコロコロと転がり、ククルカンの目の前で止まった。
瞭の姿を探していたククルカンの視線が、床の上に現れた鏡に吸い寄せられた。
直径二センチほどの円形の鏡面にさざ波のような波紋が広がると、泉から水が湧き出るように、水銀のような液体がゴボゴボと溢れ出した。それは床の上にドロリと広がって、直径二メートルの楕円形の鏡面に変わった。まるで、床の上に現れた逃げ水のようだ。
床の上の鏡面がゆっくりと渦を巻き始めた。渦を巻く速度が速くなると、鏡面の渦の中心部分が吸い上げられるように盛り上がり始めた。そして、床から百三十センチの高さにまで達すると、円錐状の盛り上がりはユラユラと動き、最後に人の形に変わった。
逃げ水のような鏡面の上に、マヤの大呪術師トカゥン・ナパウが立っていた。
身長は百三十センチほどで固太り、腹がポコリと出ている。ぽったりとした一重瞼の細い目、鷲の嘴のような鼻、分厚く突き出した唇にがっしりと張った顎。髭はない。腰まである銀色の髪を後ろで束ねて、頭部には鷲の羽根を飾った冠を被っている。上半身裸で腰布を巻き、翡翠や貝殻を縫い込んだ肩掛けを羽織っている。身体中に幾何学模様のような刺青が施されている。手には蛇を模したクネクネと曲がった杖を持っている。
ククルカンが鎌首をグウッと持ち上げて、トカゥン・ナパウを見た。
トカゥン・ナパウは片膝を突くと、両手の拳を足元の鏡面に当て、ククルカンに向かって頭を下げた。そして、すっくと立ちあがると両手を頭上で広げた。
『偉大なる創造神ククルカン様、どうかお静まり下さいますよう、お願い申し上げます。私はトカゥン・ナパウ、呪術を操る者でございます。ククルカン様がご降臨されたこの場所は、狂気に侵された神官ギギ・アィツィロ・ハウツァにより構築された鏡面世界でございます。ククルカン様がおられるべき場所ではございません。どうか、神々の世界へお戻りくださいますよう、お願い申し上げます』
瞭はチャクモール像の脇から顔を出すと、両目を縛っていたハンカチを解き、トカゥン・ナパウを見た。早苗の思念波がもたらす映像と、両目の視神経から得られる映像が、瞭の脳内で重なった。
・・・トカゥン・ナパウ? そうだ、早苗ちゃんが言っていた。ギギアハウを合わせ鏡に封じ込めて、神像に隠して海に流した、マヤの大呪術師だ・・・
瞭は慌ててジーンズのポケットに手をやった。ポケットの中の鏡は、いつの間にかなくなっていた。
『血が欲しい・・・喉が渇く・・・ああ、身体が焼けるようだ・・・血を、血を捧げよ・・・』
ククルカンの発した波動は、雷鳴のように周囲に響き渡った。
ククルカンの狂気の波動を受けて、トカゥン・ナパウは顔を曇らせた。
『ククルカン様、どうなされたのです。血?・・・生贄を捧げよとおっしゃられるのですか。たったいま、ギギ・アィツィロ・ハウツァの血を口にされたばかりではありませんか』
『足りぬ・・・私の喉の渇きは収まらない・・・血が、血が飲みたい・・・ああ、身体が焼ける・・・血だ・・・お前の血が飲みたい!』
ククルカンは大きな口を開けて、トカゥン・ナパウに襲い掛かった。ククルカンの後を追うようにゴオッと唸りを上げて風が舞った。
ククルカンの牙が捕らえる寸前に、トカゥン・ナパウの身体はグシャリと崩れて、逃げ水のような鏡面の中に吸い込まれるように消えた。
目標を失ったククルカンの頭部は惰性でグウッと前に進み、ピラミッドの頂上部からはみ出るようにして止まった。ピラミッドの頂上部を取り囲むようにとぐろを巻いていたククルカンの胴体が真っ直ぐに伸びきると、ピラミッドを取り巻いていた凄まじい空気の渦が弱まった。
瞭は弾けるように身体を起こすと、チャクモール像の上に飛び乗り、チャクモール像を踏み台にして宙に飛び上がった。瞭の左手には独鈷杵が握られている。瞭の動きに呼応するように、床の上に転がっていた錫杖がジャラリと音を立てて宙に浮かぶと、瞭に向かって矢のように飛んだ。瞭の両足が空中で錫杖を捉えた。瞭は錫杖の上に二本の足でスックと立つと、燕のように上空に舞い上がった。
ククルカンはグウッと鎌首を持ち上げた。分厚い唇の丸い穴から、先端がふたつに割れた炎のように赤い舌がチロリと覗いた。瞭の臭いを感じ取ったのだろう。盛り上がったふたつの目が、上空に舞い上がる瞭の姿を捉えた。
ククルカンの太く長い身体を覆っている光沢のある濃緑色の羽毛がザワリと逆立ち、尾の先に付いている長い飾り羽がバサリと床を叩いた。ククルカンは身体をくねらせると、身体を覆っている羽毛の起こす風を纏って宙に飛び上がった。
上空に向かって飛翔する瞭は、球形の鏡面世界が大きく歪み始めたことに気が付いた。ギギアハウの心臓が依り代となっていた球形の中心の次元の特異点が消滅したことで、鏡面世界は力の均衡を失って、風に揺れるシャボン玉のようにフニャフニャと歪んでいる。そして、次元の特異点の消滅によって新たに出現した小さな光球は加速度的に大きくなっているが、瞭はまだその光球には気付いていない。
『瞭、後ろに気をつけて! ククルカンが追っているわ!』
早苗の思念波が瞭の脳内に響いた。
瞭が足元に目をやると、長い身体をくねらせてククルカンが瞭に向かって飛翔していた。翼のないククルカンは羽毛の起こす風を身体に纏って浮遊し、尾の長い飾り羽を左右に動かして推進力を得て飛翔している。いや、ククルカンは風の神だ。自ら風と化して宙を飛翔しているのだろう。
蛇に睨まれた蛙のように身体が竦んで、身動きどころか念動波も発することのできなかった先程までの瞭とは打って変わったように、瞭の身体は自由に動いている。天敵である捕食者を前にして身体が竦むのは、脳が自らに掛けた暗示だ。死を前にして苦痛を和らげるために、脳は感覚を遮断し、脳内に快楽物質を分泌し、恍惚に浸るのだ。それは絶対的強者に対する抵抗の放棄に他ならない。
瞭の闘争本能がククルカンと対決しろと叫んでいる。瞭のククルカンを見る目には、怯えも恐怖も畏れもない。瞭の脳は自らに掛けた暗示から解き放たれていた。
・・・こうなりゃあ、逃げてばかりいても仕方がない。攻撃は最大の防御なりだ。いくぞ!・・・
瞭は上空でUターンすると、瞭に向かって上昇しているククルカンと向かい合った。
瞭の額の内側がチリチリと音を立て始めた。前頭葉のネオニューロンが活性化して前頭葉がポッと温かくなり、それが前頭葉全体に広がり、更に側頭葉、頭頂葉、後頭葉へと広がっていく。瞭の身体から陽炎のように念動波の炎が立ち昇った。
瞭は右手を身体の前に突き出すと、右掌を開いた。王冠のような形をした傷痕がドクリと疼いた。掌の表面にパリパリと音を立てて無数の電光が走ると、電光はテニスボールほどの光球に変わり、それは瞬く間にスウッと細長く伸びると硬質の光の槍に変わった。
身体をくねらせながら風に乗って上昇するククルカンの姿が瞭の目の前に迫った。ククルカンの大きな口がゆっくりと開くと、ズラリと並んだ鋭い牙が瞭の血を求めて鈍く光った。首の周囲に生えているライオンのようなたてがみが、嵐の海の波頭のように逆立っている。ビョウビョウと鳴る風の音は、ククルカンの咆哮のようだ。
正面衝突の直前に、瞭は身体を捩って飛行進路を変えながら、ククルカンに向かって硬質の光の槍を投げつけた。
彗星のように長い光の尾を引きながら真っ直ぐククルカンに向かった光の槍は、何の抵抗もなくククルカンの身体を突き抜けた。光の槍に貫かれたククルカンの身体には傷ひとつ付いていない。ククルカンは痛みどころか、身体を何かが貫いたという違和感すら覚えていない。
ククルカンの身体を貫いた光の槍は、そのまま空中を飛翔すると、夜空で流星が燃え尽きて消えるかのようにスッと姿を消した。
空中で交差するようにククルカンとすれ違いながら、首を回して光の槍を見ていた瞭は、光の槍がククルカンに対して全く無力だと知ってがく然とした。
瞭の目の前にククルカンの尻尾の先の飾り羽が迫った。鋭利な刃物と化した長い飾り羽が扇のように広がり、瞭の腹に叩きつけられた。
瞭は咄嗟に錫杖から跳び上がると、空中で前転をするように身体を回して飾り羽をかわした。飾り羽の上方を瞭の身体が、下方を錫杖がすり抜けると、瞭の両足は再び錫杖を捉えた。
錫杖に乗った瞭は、地面すれすれまで急降下してから、再び上昇に転じた。はるか上空では、ククルカンが長い身体をヘアピンのようにグニャリと折り曲げて、上昇から下降に方向転換しようとしていた。
・・・光の槍がダメなら、こいつはどうだ!・・・
瞭の右手が頭上に上がる。瞭の右掌からテニスボールほどの大きさの光球が放たれると、光球はたちまち直径五メートルの巨大な火球に変わり、空中を転がるように回転しながらククルカンに向かって飛んだ。
ククルカンが身体をくねらせながら瞭に向かって降下を始めた。ククルカンによって起こされた風が上空で渦を巻いている。ククルカンは目の前に迫る火球を避ける素振りも見せず、真っ直ぐに降下を続けた。
火球がククルカンの頭部を直撃した。
・・・やった!・・・
瞭がそう思った瞬間、火球はククルカンの頭部から胴体を貫通して、尻尾の飾り羽の先から空中に抜けた。ククルカンの身体には傷ひとつ付いていない。まるで、この世界に存在していない虚像を相手にしているようだ。ククルカンは何ごともなかったかのように下降を続けている。
ククルカンの身体を貫通した火球は、そのまま上空に舞い上がり、夜空で花火が花開くように四散して消えた。
念動波による攻撃がククルカンには全く効果のないことに、瞭は驚愕していた。
・・・神に対して、人間の力は無力だということなんだろうか・・・神? いまのククルカンは血に狂った邪神だ。それでも神は神なのか・・・
瞭の左掌の中で独鈷杵がブルリと震えた。独鈷杵の両端からそれぞれ一メートルほどの直刃が伸びて、双翼剣に変わった。
・・・独鈷杵が魔を感じて変形した。独鈷杵に秘められた魔を打ち砕く力なら、邪神となったククルカンと戦えるかも知れない・・・
瞭は左掌で双翼剣を握りしめると、ククルカンを迎え撃つべく上昇の速度を上げた。
ククルカンは下降しながら、長い身体を錐のようにクルクルと回転させている。ククルカンの身体に生えている羽毛が風を起こし、ククルカンの回転に合わせて風が渦を巻き始めた。空気の渦は速さを増して竜巻となり、ククルカンの身体を取り巻いている。
上昇する瞭と降下するククルカンとの距離があっという間に縮まった。
瞭の目の前に迫ったククルカンの頭部が、突然ふたつに割れたかのように大きな口が開くと同時に、ククルカンの首がゴムのように伸びた。それは獲物に跳びかかる俊敏な蛇の動きだ。
高速で上昇していた瞭はククルカンの攻撃を避けることができなかった。
・・・しまった!・・・
そう思ったときには、瞭の身体はククルカンの大きな口に咥えられていた。瞭の両足首だけがククルカンの口から外に出ている。鋭い牙が並んだ上顎と下顎が閉じられれば、瞭の身体は真っ二つに引き裂かれるだろう。
『瞭!』
早苗の絶叫のような思念波が広がった。
ヴオオウッ! 悲鳴とも怒号ともつかない声がククルカンの喉から漏れた。その瞬間、ククルカンは大きく口を開き、頭を激しく振って瞭を吐き出した。
瞭の左手の双翼剣がククルカンの口の中で上顎と下顎を貫いたのだ。
瞭はククルカンの口から吐き出されて、宙をクルクルと舞った。アッと思う間もなく、瞭はククルカンの身体を取り巻く竜巻に呑み込まれた。ビョウビョウと唸りを上げて渦を巻く風に翻弄されて、瞭は為す術もなく、はるか上空へと吹き上げられた。その瞭の後を追うように、錫杖が上空に向かって舞い上がった。
ドオオン 地響きを立ててククルカンが地面に激突した。
地面の上でウネウネと長い身体をくねらせていたククルカンは、とぐろを巻いて鎌首をグウッと持ち上げた。
地上はククルカンの身体を取り巻いていた竜巻によりもたらされた強風が吹き荒れていた。セノーテの横の空き地に身を潜めていた早苗たちは、身体を地面に伏せて強風に耐えている。強風に運ばれた砂塵や小石や木の枝が、早苗たちの頭や背中に容赦なく降り注ぎ、バラバラと鈍い音を立てている。
ククルカンの分厚い唇の丸い穴から、先端がふたつに割れた炎のように赤い舌がチロリと覗いた。早苗たちの臭いを感知したのだろう、ククルカンの鎌首がセノーテの方角に向いた。
『血が欲しい・・・ああ、喉が渇く・・・血が欲しい・・・』
ククルカンの身体中に生えている羽毛が風を起こした。ククルカンは風を身体に纏うとザアッと空中に舞い上がった。そして空中で長い身体をクネクネとくねらせながら、血を求めてセノーテに向かって進み始めた。
早苗の思念波は、セノーテに向かって進んでいるククルカンの姿を感得していた。そして、先程の瞭とククルカンの空中戦の様子もクレアボヤンスで認識していた。その映像は祥吾や羽賀たちも共有している。
『ククルカンがこちらに向かっている。ククルカンは血に狂った邪神、私たちの血を求めて襲ってくるわ。早くここから逃げなきゃ』
『でも、早苗さん、逃げるといってもどこへ? 隠れる所なんてどこにも・・・』
地面の上に横になっていた羽賀が、呻き声を上げながら上体を起こした。
『祥吾、伊藤。明日香さんを連れてセノーテに飛び込め。邪神から隠れるにはそこしかないだろう。俺と成田はこのざまだ、ここでお前たちが逃げる時間稼ぎをする。といっても、食われるだけだが、その前に少しでもジタバタしてやるぜ』
『羽賀さん、逃げるんやったら全員一緒や。成田は私が背負うていきます』
必死な表情の伊藤に向かって、羽賀は首を横に振った。
『むりだ、それじゃあ逃げきれん。全員やられちまう。伊藤、命令だ。祥吾と明日香さんを連れて逃げろ』
『僕がサイコキネシスで防護シールドを張るよ。それならみんなを助けられるだろ』
祥吾に対しても、羽賀は首を横に振るだけだった。
『さっきの空中戦では、瞭のサイコキネシスによる攻撃は全く無力だった。それであれば、サイコキネスの防護シールドもククルカンには無力だと考えなきゃならん。だから、逃げるしかないんだ。祥吾、逃げろ! 伊藤、グズグズするな、時間がない。明日香さん、さあ!』
羽賀の思いを無駄にしてはいけない。伊藤はグッと奥歯を噛みしめてから、祥吾と早苗の肩に手を置いた。
『こうなったらしゃあないわい。祥吾、明日香さん、逃げまっせ!』
伊藤は羽賀に向かって小さく頷くと、祥吾と早苗の手を引いて走り出そうとした。
『動くな!』
脳が揺さぶられるような強い思念波を受けて、伊藤と祥吾と早苗は思わず足を止めた。羽賀が驚いたような顔をして固まっている。
真夏の地表に現れる逃げ水のように、早苗たちがいる空き地の先の地面がユラユラと銀色に光っている。それは音もなく空き地の中に流れ込むと、直径二メートルの楕円形をした銀色の池が現れた。その池は水銀で満たされているかのようにネットリとした質感で、池の表面はさざ波ひとつ立っていない。それは地面の上に現れた鏡面だった。
地面の上の鏡面がゆっくりと渦を巻き始めた。渦を巻く速度が速くなると、鏡面の渦の中心部分が吸い上げられるように盛り上がり始めた。そして、床から百三十センチの高さにまで達すると、円錐状の盛り上がりはユラユラと動き、マヤの大呪術師トカゥン・ナパウが現れた。
『私はトカゥン・ナパウ、呪術を操る者だ。間もなく血に狂ったククルカンがここにくる。いまからでは逃げきれない。ククルカンは私が鎮める。お前たちはここから動いてはいけない。よいな、石像のように身体を固めて息を潜めるのだ。声を発することも音を立てることも思念を発することも禁ずる』
トカゥン・ナパウの名前を聞いて、思わず声を上げようとした早苗を、トカゥン・ナパウが目で制した。
ビョウビョウと風が舞い始めた。そして、ひときわ大きくゴオウッと風が唸りを上げると、身体をくねらせ、風に乗ったククルカンが姿を現した。ククルカンは地面に下りると、ズルズルとうねるようにとぐろを巻き、鎌首を持ち上げた。分厚い唇の丸い穴から、先端がふたつに割れた炎のように赤い舌がチロリと覗いた。盛り上がったふたつの目が、空き地の中で固まっている早苗たちの姿を捉えた。獲物を目の前にして、ククルカンの両目が炎を上げたかのように光った。
ククルカンと早苗たちの間にトカゥン・ナパウが立っている。
ククルカンの鎌首がグウッと前に伸びようとしたとき、トカゥン・ナパウは持っていた杖を頭上に掲げて、空中に呪文を書くようにユラユラと動かした。蛇を模したクネクネと曲がった杖が空中で踊り、無数の蛇が蠢いているような残像を残した。
蛇使いの笛の動きにコブラの目が吸い寄せられるように、ククルカンの両目がトカゥン・ナパウの操る杖の動きに吸い寄せられた。杖の動きに合わせてククルカンの頭部が上下左右に小さく揺れている。
トカゥン・ナパウが立っている鏡面がゆっくりと広がり始めた。銀色の池の両端はククルカンを取り囲むようにスルスルと伸びている。それに合わせて、鏡面から屏風のような板がせり上がり、銀色の壁となってククルカンの周囲に聳え立った。ククルカンは円筒状の鏡の中に閉じ込められようとしていた。鏡面に映った自身の姿を見て、血に狂った醜い姿を自ら恥じることでククルカンは鎮まるだろうとトカゥン・ナパウは考えていた。
腰椎を骨折して、意識を失ったまま地面の上に横たわっていた成田が身じろぎをすると、ムウウと唸り声を上げた。成田が目を開けた。
「は・・が、さ・・・ん・・・」
鏡面世界で声にならない唸り声のような響きが成田の喉から漏れた。
その瞬間、トカゥン・ナパウの術が破れた。
『ウムゥゥ・・・』トカゥン・ナパウの口から唸り声が漏れ、蛇を模した杖がポタリと足元に落ちた。
ククルカンは夢から覚めたかのようにブルリと頭を振ると、目の前に立っているトカゥン・ナパウに咬みついた。トカゥン・ナパウは一瞬早く足元の鏡面に沈んだ。円筒状の鏡面がグシャリと歪む。ククルカンは風を巻き上げると、円筒状の鏡面から逃れるために、風に乗ってはるか上空へ駆け昇った。
ウネウネと身体をくねらせて、空中で緩やかにとぐろを巻きながら地上の早苗たちを見下ろしているククルカンに向かって、一条の光が迫った。
錫杖の上に立ち、左手で双翼剣を構えた瞭だ。
瞭の姿に気付いたククルカンが鎌首を持ち上げた。分厚い唇の丸い穴から、先端がふたつに割れた炎のように赤い舌がチロリと覗いた。尾の先に付いた飾り羽根が扇子のように広がりバサリと動くと、風が渦を巻いてククルカンを取り囲んだ。
瞭は右手を前に突き出すと、右掌を開いた。瞭の右掌から念動波が目に見えない雷光のようにほとばしった。
渦を巻いて吹き荒れる風の壁にポカリと穴が空き、瞭の前に風の壁を貫く無風状態の隧道が現れた。瞭はためらいなくその隧道の中に飛び込んだ。隧道の出口にはククルカンの頭部がある。
ククルカンの目にも無風の隧道を飛翔する瞭の姿が見えている。ククルカンの大きな口がゆっくりと開くと、ズラリと並んだ鋭い牙が瞭を待ち構えるかのように鈍く光った。ククルカンの鎌首が一瞬で伸びて、上下にふたつに割れたように口を開いたククルカンの頭部が瞭に迫った。
瞭はトンネルの出口で俊敏に方向を変えてククルカンの牙をかわした。ククルカンの頭部に身体を擦りつけるようにして、その横をすり抜けざまに、瞭は双翼剣を振るった。双翼剣の鋭い切っ先が銀色の鞭のようにしなってククルカンの頭部を捉えた。ククルカンの上顎の横から右目の上を抜けるように双翼剣の切っ先が切り裂いた・・・はずだった。
ガキリ! 双翼剣の切っ先は鋼鉄の板に叩きつけたナイフのように跳ね返された。双翼剣を持つ瞭の手が痺れた。
ククルカンの身体を鱗のように覆う羽毛は鋼のように硬く、ククルカンの頭部には傷ひとつ付いていない。
・・・そんな、魔を打ち砕く力を秘めた独鈷杵をもってしても、傷ひとつつけられないのか・・・
瞭は大きく飛行方向を変えると、再攻撃に備えてククルカンから一旦離れた。
ククルカンは空中でとぐろを巻いたまま、再び鎌首を持ち上げて瞭を見ている。
瞭の脳裏には、ククルカンの口の中から吐き出されたときの情景が浮かんでいる。少なくとも、ククルカンの口の中を傷つけることはできたのだ。体表が硬くて手も足も出ないなら、体内から攻撃するしかない。
・・・仕方ない、イチかバチかだ。口の中に飛び込んで、腹の中を切り刻んでやる・・・
瞭は腹を括った。神と戦うには己の身を捨てる覚悟が必要なのだ。
『瞭、待って! 神であるククルカンと人間が戦っても、人間に勝ち目はないわ。ククルカンと戦うんじゃなくて、ククルカンを鎮めなきゃだめなのよ』
早苗の声が瞭の脳内に響いた。
『早苗ちゃん・・・ククルカンを鎮める? どうやって?』
『セノーテの力を借りる。聖なる泉の水を使うのよ。泉の水を天空に吸い上げて、ピラミッドの上に雨を降らせるの。ククルカンは血で召喚されたために血に狂ってしまった。その血を聖なる水で洗い流すのよ。そうすれば、ククルカンはきっと鎮まってくれるはずよ』
『そうか! よし、やってみる』
瞭は錫杖の上に立ったまま、王冠のような形をした傷痕がある右掌を頭上に掲げた。
瞭の額の内側がチリチリと音を立て始めた。前頭葉のネオニューロンが活性化して前頭葉がポッと温かくなり、それが前頭葉全体に広がり、更に側頭葉、頭頂葉、後頭葉へと広がっていく。瞭の脳内の仮想空間には、セノーテから龍のように立ち昇る水柱が浮かんでいる。
瞭の視界がグニャリと歪んだ。
地表にポカリと空いた穴の底にあるセノーテの翡翠色の水面にゴオッと渦が巻くと、水面から天に向かって水が吹き上がった。翡翠色をした水柱は瞬く間に龍に姿を変えると、長い胴体を空中でウネウネとくねらせながら、グオオウッと一声吠えた。その咆哮に召喚されて真っ黒な雷雲がムクムクと沸き起こり、龍の身体を包んだ。龍は雷雲を身体に纏うとピラミッドの上空に向けて飛翔した。
ピラミッドの上空が真っ黒な雷雲に埋め尽くされた。雷雲の所々から龍の顔や胴体が見え隠れしている。
ピラミッドが一瞬眩い閃光に包まれた。ギザギザと枝分かれした木の枝のような形をした一本の雷電が、雷雲からピラミッドの天頂部分に向けて走った。それは天空からピラミッドに下りるために架けられた光の階段のようだ。
ドオンという衝撃がピラミッドを揺らし、落雷の直撃を受けたチャクモール像がふたつに割れた。
それが合図であったかのように、無数の雨粒がピラミッドに降り注いだ。
滝のように降り注ぐ雨はピラミッドの石段をドオドオと叩き、石段に染み込むことのない大量の水は溢れて、石段の上を川となってザアザアと流れた。砂や小石や小さな瓦礫が次々と水に押し流されている。
北面の階段の縁にある石の斜面の上を真っ赤に染めている血が、聖なる水によってゆっくりと洗い流されている。階段の最下段まで流れ落ちた水が、ククルカンの頭部の彫刻の周囲で水が渦を巻いている。ククルカンが喉の渇きを癒すためにセノーテの水を飲んでいるようだ。ククルカンの身体を形作っていた血が洗い清められようとしていた。
ビョオウと一陣の風が吹き抜けたかと思うと、ギエエという声が響いた。それと同時に、水道の蛇口を閉めたかのように雨がピタリと止んだ。
龍の喉元にククルカンが食らいついていた。
ククルカンは首を激しく振って龍の喉を食い破ろうとしている。龍の喉から、血の代わりにセノーテの水がザブリと噴き出した。ククルカンと龍の身体が空中で絡み合い、お互いに相手を絞め殺そうと捻じり合っている。
ククルカンと龍を取り巻いている真っ黒な雷雲のあちこちでピカリピカリと発光が始まった。ゴロゴロと太鼓をたたくような音が、腹の底を震わせる空気の振動を伴って響いている。
ドオオン! 閃光と共に一本の雷電がククルカンの頭部を直撃した。
ドオオン ドオオン! 続けざまに二本の雷電がククルカンの胴体を直撃した。
ククルカンの首のまわりに生えているライオンのようなたてがみが、帯電のために逆立っている。しかし、それ以外にはククルカンの姿や動きに何の変化も生じていない。ククルカンは雷電の衝撃などいかほどにも感じていないのだ。
雷電による攻撃が失敗すると、龍は力を失ったかのようにダラリと頭を下げた。ククルカンの身体に巻き付いていた龍の身体がゆるゆると解けていく。
頭部が上下ふたつに割れたかと思われるほど、ククルカンは大きく口を開けた。そして、龍の頭を咥えるとズブリと呑み込んだ。
ズブリ ズブリ ズブリ・・・ 龍の身体がゆっくりとククルカンに呑み込まれていく。
念動波で龍を操っていた瞭はガクリと項垂れた。
・・・負けた、何てことだ。僕の力ではククルカンを鎮めることはできなかった・・・
『戦士よ、まだ終わってはいない。私が力を貸してやろう』
瞭の脳内にトカゥン・ナパウの声が響いた。
ピラミッドの頂上部の割れたチャクモール像の脇の床の上に直径二メートルの楕円形をした鏡面が広がり、その上にトカゥン・ナパウが立っていた。トカゥン・ナパウは蛇を模したクネクネと曲がった杖を頭上に掲げて、空中に呪文を書くようにユラユラと動かしながら、ブツブツと口の中で呪文を唱え始めた。
ククルカンは一心不乱に龍の身体を呑み込んでいる。既に、龍の身体は三分の一ほどがククルカンに呑み込まれていた。残された胴体の先で力なく揺れていた龍の尻尾が、突然グウッと持ち上がった。尻尾の先が木の芽のように膨らみ始めると、その膨らみは見る見るうちに大きくなり、やがて石榴の実がはじけるかのようにバカリと割れた。
膨らみの亀裂の中から龍の頭部が現れた。
龍はグオオウッと一声吠えると、大きく円を描くように身体を曲げた。そして龍は大きな口を開けると、ククルカンの尻尾に食いついた。龍はククルカンの尻尾を呑み込むと、更にククルカンの身体も呑み込み始めた。
ピラミッドの上空でククルカンと龍がひとつの輪になって浮かんでいる。ククルカンは龍を呑み込もうとしていて、龍はククルカンを呑み込もうとしている。それは二匹の蛇が輪になって相食むウロボロスである。
・・・これは、尾を呑み込む蛇、ウロボロスじゃないか。これでククルカンを鎮めることができるのだろうか?・・・
ウロボロスはその姿から《終わりも始まりもない完全なるもの》という象徴的な意味を持っていて、その他にも、永却回帰、死と再生、不老不死、全知全能などの意味を持っている。しかし、瞭の目の前のウロボロスから伝わってくるのは、貪欲な食欲に衝き動かされた狂気でしかない。あからさまな狂気を目の当たりにして、瞭は思わず目を背けたくなった。
瞭の脳裏にトカゥン・ナパウの声が響いた。
『戦士よ、ククルカンは血に狂ってしまった。貪欲に血を欲するその狂気は、自らの身体を貪ることでしか鎮めることができないのだ。ククルカンは自らの身体を食らい尽くしたときに、その狂気を悟るのだ』
ククルカンは自らの身体が龍に呑み込まれていることに気付いていないかのように、ただひたすら龍の身体を呑み込んでいる。狂気をはらんだ食欲が満たされていることに恍惚となっているのだ。
龍の身体の三分の二がククルカンに呑み込まれた。そして、ククルカンの身体も三分の二が龍に呑み込まれている。ククルカンと龍が形作る輪は、互いの身体が呑み込まれるにつれて徐々に小さくなっている。ピラミッドの上空に浮かんでいるその輪は、小さくなるにつれてゆっくりと高度を下げ、互いの身体の五分の四が呑み込まれた頃には、宙に浮かぶことができずにピラミッドの頂上部の床の上に下りていた。
瞭はピラミッドの頂上部に下り立つと、トカゥン・ナパウの横に立ち、頭部だけになってもまだ相手を呑み込もうとしているククルカンと龍を見ていた。
ククルカンと龍は互いの後頭部に咬みついた状態で、とうとう動かなくなった。
『トカゥン・ナパウ、教えて下さい。ククルカンはこんな状態になっても、まだ己の狂気を悟っていないのでしょうか』
『戦士よ、そのとおりだ。神ともあろうものが、何というあさましい姿だ。いや、それも私の術の力が至らぬためか・・・』
トカゥン・ナパウは鏡面ごと床の上をスルスルと滑ると、ククルカンの頭部の前に立った。そして、鏡面を掬い上げて小さな鏡を造ると、その鏡にククルカンの姿を映した。
『偉大なる創造神ククルカン様、この鏡に映ったご自身のお姿をご覧ください。血に狂われ、狂気に駆られて自ら身体を食らい尽くした浅ましいそのお姿を。どうか、自ら狂気をお悟りになり、お静まり下さいますよう、お願い申し上げます。そして、神々の世界へお戻りくださいますよう、お願い申し上げます』
鏡に映った自分の姿を見たククルカンの両目が大きく見開かれた。
ズウウン・・・
腹の底に響くような振動が鏡面世界を揺らした。ククルカンの頭部から鏡面世界を歪めるような波動が同心円状に広がり、その波動は球形の鏡面世界の、ちょうど反対に当たる場所で収斂交差して、再び同心円状に広がった。そして、その波動はククルカンの頭部の真下で再び収斂した。
収斂した波動の力を受けて、ククルカンの後頭部に咬みついている龍の頭部がグシャリと崩れ、頭部から流れ出た水が床一面に広がった。そして、ククルカンの口から、ククルカンの胴体が吐き出され始めた。それと共に、轟々と音を立てて大量の水がククルカンの口からほとばしり出た。
ククルカンから吐き出された大量の水は、ピラミッドの頂上部から溢れて四方に流れ落ちた。東西南北の壁面を滝のようにザアザアと水が流れ落ちた。全ての面が水に覆われた姿は、まさに水のピラミッドだ。
北面の階段の縁にある石の斜面の上を真っ赤に染めていた血が、流れ落ちる水に削られるようにゆっくりと薄れていった。水は血と共にククルカンの狂気も洗い流している。やがて血と狂気が全て洗い流された。
ククルカンの身体が聖なる水によって洗い清められた。
己の身体をすべて吐き出したククルカンは、床の上にとぐろを巻いていた。ククルカンは鎌首をグウッと持ち上げると、盛り上がったふたつの目で瞭とトカゥン・ナパウを見た。その目は神々しいばかりに澄み渡っている。
ククルカンの身体は次第に透明になり、やがてククルカンの姿は消えた。一陣の風がゴオッと吹き抜けた。ウハハハハという遠雷のような笑い声がどこからか響いてきた。
ククルカンは風に乗って神々の世界に戻られた。




