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鏡面世界の消滅

 ピラミッドの最上部に、瞭はずぶ濡れで立っていた。瞭の横には、一滴も水に濡れていないトカゥン・ナパウが、穏やかな表情をして床の上の鏡面に立っていた。

『ありがとう、戦士よ。私とギギ・アィツィロ・ハウツァとの永い戦いはようやく終わった。そして、ククルカン様も神々の世界へ戻られた。これで私も安心して眠ることができる』

 トカゥン・ナパウは瞭に向かって深々と頭を下げた。瞭も慌てて頭を下げた。

『申し遅れました、僕は矢沢瞭といいます。僕の方こそ、お礼を申し上げなければなりません。命を助けて頂いたのですから。それに、ギギアハウの死により、すべてを吸い込む次元の特異点が消えました。特異点にエネルギー集約が進んで次元に穴を空け、その穴から次元自体が虚無空間に吸い込まれる恐れはなくなった。人類の厄災を阻止することができました』

 無事に役目を果たすことができた。そう思った瞭の顔は晴れやかで、どことなく満足げだ。

 そのとき、瞭の心中を嘲笑うかのようにピラミッドがグラリと揺れた。

 いや、ピラミッドだけではない、球形の鏡面世界全体が波を打つように歪んでいるのだ。球形の鏡面世界は、中心となる特異点の消滅により均衡を失い、これ以上球形を保つことが困難になっていた。

 再び、ピラミッドがグラリと揺れた。まるで巨人に肩を掴まれて乱暴に揺さぶられているかのような強烈な振動が続いている。その振動は収まるどころか、更に大きくなっている。

 瞭は早苗の脳内に呼びかけた。

『早苗ちゃん、鏡面世界が崩壊する。みんなを連れていますぐ現実空間へ逃げろ! 内側に閉じた鏡面世界と現実空間の唯一の接点はセノーテだ。セノーテの水面を潜り抜けて現実空間に通じる道を探すんだ。急げ! 僕は、後から追いかける!』

『瞭! 人類の厄災が・・・』

 早苗の切羽詰まったような思念波が返ってきた。

『早苗ちゃん、ギギアハウは死に、すべてを吸い込む次元の特異点は消滅した。人類の厄災は阻止できたんだ。安心して・・・』

『瞭、人類の厄災はまだ阻止されていないのよ! 空を見て!』

 瞭は上空に目をやって、思わず息を呑んだ。

 ピラミッドの上空に太陽のような火球がポカリと浮かんでいた。

 次元の特異点に向かって落ち込んでいた厖大なエネルギーが、消失した特異点の近似点から外に向かって噴き出しているのだ。

 真夏の陽光に焼かれているかのように、瞭の顔や手がヒリヒリと痛んだ。瞭は右手で庇を作りながら火球を見上げた。

『何だ、あれは。いつの間に・・・まるで太陽じゃないか。それに・・・膨張している? こりゃあ、まずいぞ!』

 瞭が見ている間にも、火球は目に見えて大きくなり、それに合わせて放出されるエネルギーは加速度的に増大している。球形の鏡面世界は宙に浮かぶシャボン玉のように頼りなく歪みながら、火球が放出するエネルギーを受けて不気味に膨張している。

『早苗ちゃん、あれはいったい何だ? あれが人類の厄災に関係しているのかい?』

『瞭、そのとおりよ。特異点が次元に穴を空け、その穴から次元自体が虚無空間に吸い込まれる事象は阻止できたけど、特異点が消えたことで、それまで特異点に向かって落ち込んでいた厖大なエネルギーが反対に噴き出し始めたの。それがあの火球よ。噴き出したエネルギーによって球状の鏡面世界は膨張し、やがて耐え切れずに破裂するわ。

 それは超新星爆発のように周囲に厖大なエネルギーをまき散らし、鏡面世界と相似関係にある現実空間をも巻き込むの。この球形の鏡面世界と相似関係にある御手洗邸上空の歪んだ空間、そこからエネルギーが爆発的に放出され、現実空間を焼き尽くすのよ。

 それは私が予知した人類の厄災の姿とは結果的に異なるけど・・・次元自体の消滅という宇宙規模の影響に比べて、地球全体の焼失・・・あるいは日本の焼失だけで済むかも知れないけど・・・とにかく、規模の違いはあるけど人類の厄災に違いないわ』

 瞭はムウウと唸った。瞭が見上げると、上空の火球はまた一段と大きくなっている。

『そうだ、もう一度特異点を造って、火球のエネルギーを吸収させるってのは・・・だめだ、それじゃあ元の木阿弥だ。クソッ、どうすりゃいいんだ』

 瞭は焦燥感に苛まれて、頭を抱えた。いくら考えても、瞭の頭では解決策が浮かばない。

『瞭、ひとつだけ方法があるわ。球形の鏡面世界が破裂する前に、この鏡面世界を消滅させるのよ』

『消滅させるだって?』

『そう、物質と反物質が触れて互いに消滅するように、反対の性質の鏡面世界を構築して、この鏡面世界に重ね合わせるのよ。消滅の合わせ鏡・・・この方法しかないわ。瞭、できる?』

『消滅の合わせ鏡か。内側に閉じた球形の鏡面世界と外側に開いた球形の鏡面世界を合わせる。できるかだって?・・・やるしかないじゃないか! 問題は、外側に開いた球形の鏡面世界をどうやって構築するかだ・・・』

 瞭が考えに沈んだ。

 ・・・鏡面世界をサイコキネシスで撓めて丸める・・・外側に開いた球形の鏡面世界・・・イメージだ、イメージを掴まなくてはならない・・・

 瞭と早苗の思念波のやり取りを感得していたトカゥン・ナパウが、ふたりに向かって思念波を発した。

『戦士よ、私が力を貸してやろう。私が立つこの鏡面世界を、私の術で外側に開いた球形の鏡面世界に変えてやる。その鏡面世界を使えばいい』

『ありがとうございます、トカゥン・ナパウ。それなら何とかなりそうだ、いや、絶対に何とかしてみせる。それじゃあ、早苗ちゃんたちは先に逃げてくれ。いいね』

『瞭・・・消滅の合わせ鏡は、ふたつの鏡面世界が触れた瞬間消滅するのよ。そこから逃げ出す時間がないかもしれないわ・・・危険よ』

 早苗はそう思念波を送ったものの、瞭が危険を承知なのも、いざとなれば命を懸けることを厭わないことも知っている。いずれにしても、瞭に託すしかないのだ。

 瞭は既に腹を括っている。人類の厄災を阻止する方法がそれしかないなら、やるしかない。

『時間がない。祥吾、念動波の防御バリアでみんなを取り囲んで繭を造るんだ。その繭を方舟にしてセノーテを渡れ。現実空間に通じる道は、早苗ちゃんと協力して探すんだ。きっと見つかる、頼んだぞ!』

『わかったよ、瞭』

 祥吾にも瞭の決意が伝わったのだろう、祥吾の思念波が心なしか震えている。

『祥吾、親父さんの形見の独鈷杵だ、受け取れ!』

 瞭は左手に持っていた独鈷杵を、祥吾たちのいるセノーテの方角に向かって投げた。独鈷杵は空中で三本足の八咫烏に姿を変えると、バサリバサリと羽ばたきながらセノーテに向かって飛び去った。

 瞭は八咫烏の姿が見えなくなると、ゆっくりと振り返った。頭上を見上げると、火球は先程の倍近くにまで大きくなっていて、放射されるエネルギーによって瞭の髪の毛がチリチリと焼けた。

 トカゥン・ナパウが瞭に向かって、顔をクシャクシャにして白い歯を見せた。笑っているのだ。その笑いは目の前の戦士に対する、親しみと敬意を表したものだ。瞭の覚悟はトカゥン・ナパウにも伝わっている。

『戦士よ、お前は内側に閉じた球形の鏡面世界に立ち、私が構築する外側に開いた球形の鏡面世界を、その手に持って支えるのだ。合わせ鏡にするためには、ふたつの鏡面世界が完全に同じ大きさになる必要がある。外側に開いた球形の鏡面世界が膨張して、ふたつが同じ大きさになるまで、お前は支え続けなければならない。同じ大きさになる前に、ふたつの鏡面世界が少しでも接触すれば、非対称の合わせ鏡となり、大きさの差に相当するエネルギーが現実空間に放出される。現実空間が炎で焼かれるのだ。ふたつの鏡面世界が隙間なく重なるまで支え続けるということは、お前は・・・』

 瞭は右手を上げて、トカゥン・ナパウがその先を説明することを遮った。それは瞭に分かっていることだ。瞭はトカゥン・ナパウに向かってニコリと笑い返した。

『さあ、そろそろ始めましょうか』


 祥吾は瞭からの指示を受け取ると、羽賀たちの元へ走り寄った。瞭の指示は早苗の思念波を介して全員に伝わっている。

 地面の上に横になっていた羽賀は、脇腹の銃創の痛みに顔をしかめながら、ゆっくりと上体を起こした。大量の出血のために、羽賀の顔は、顔色は青というよりどす黒いが、目には力がある。

『祥吾、大丈夫なのか。全員を連れていくのが無理なら、俺と成田はこのざまだ、ここに残ってもいいんだぜ』

 羽賀は、隣で地面の上に横たわっている成田の肩に手を置いた。意識が戻った成田が、同意するように小さく頷いた。腰椎が折れて下半身が動かないのだ、足手まといになることを恐れているのだろう。

『僕に任せて下さい。全員を連れていきますよ。瞭が教えてくれたじゃないですか、サイコキネシスで物を浮かせる場合に、重さは関係ないって。浮かんでいる仮想空間を脳内に描いて、それを目の前の現実空間に置き換えればいい。さあ、みんなかたまって、手を繋いでください。いきますよ!』

 ・・・親父、力を貸してくれ。ノウマクサンマンダ バサラダン センダンマカロンシャダソハタヤ ウンタラタカンマン・・・

 祥吾は心の中で呪文を唱えた。祥吾の額の内側がポッと温かくなり、前頭葉がジンジンと痺れると、祥吾の脳全体がボッと炎に包まれたように活性化した。

 動けない成田を中心にして、羽賀、伊藤、早苗が地面に膝を突いて成田を取り囲み、互いに手を繋いでいる。祥吾は羽賀と早苗が繋いでいる手の上に、左手を置いた。

 祥吾の脳内には、光の繭に包まれた祥吾たちが宙に浮かんでいる仮想空間が構築されている。

 祥吾の視界がグニャリと歪んだ。

 祥吾たちは光の繭に包まれて、フワリと浮き上がった。

 ・・・浮き上がったはいいが、セノーテに向かうにはどうすれば・・・動け、動け、動け!・・・

 祥吾がいくら焦っても、光の繭は空き地の上にプカリと浮かんだまま動かない。

 ・・・動け、コノヤロウ!・・・

 黒い影がスウッと滑空してくると、バサリバサリと羽ばたいて祥吾の頭上を舞った。

『祥吾、頭の上に何かいる・・・あれは、烏だわ』

 早苗の声が祥吾の脳内に響いた。

 祥吾が目を上げた。独鈷杵が化体した三本足の八咫烏が祥吾の頭上をクルクルと舞っていた。

 ・・・八咫烏だ・・・おい、お前。僕たちをセノーテへ連れていってくれよ・・・

 祥吾の心の声が伝わったのか、八咫烏は首を傾げてゲエエと鳴いた。

 祥吾は右手を上げて八咫烏の足を掴んだ。

 八咫烏は大きくバサリと羽ばたいてから、セノーテに向かって飛翔を始めた。光の繭は八咫烏に導かれるように、セノーテに向かって進んだ。

 直径三十メートルのいびつな円形をした穴が、地表にポカリと空いている。その穴は石灰石が雨や地下水に侵食されてできた鍾乳洞の入口で、その地下には翡翠色の水を湛えた水中鍾乳洞が広がっていた。聖なる泉セノーテである。波紋ひとつない水面は翡翠の板を磨き上げた鏡面のようで、その下の深淵は冥界に繋がるかのように深い。

 八咫烏に導かれた光の繭は、地表の穴から地下空間に下りた。地下空間の周囲は十メートルほどの高さの切り立った壁となっていて、その壁がぐるりとセノーテを取り囲んでいる。

 八咫烏は垂直落下するようにセノーテに向かって飛翔した。

『早苗さん、現実空間に通じる道は水の中にあるのかな? そのう・・・水中トンネルみたいなものを探すということなの?』

『水中トンネルではなくて、セノーテの水面が現実空間の鏡面と繋がっているはずよ。それは表と裏のように貼り合わされていて、物質的な隙間はないけど、ふたつの面の間には虚無空間が存在している。次元と次元の間に広がる虚無空間と同じね。問題は、その虚無空間をどうやって抜けるかなの。この前は、現実空間にいる私と鏡面世界にいる祥吾が思念波の糸で繋がっていたから、その糸を頼りに戻ってこられたけど、今回はその道しるべがない』

『それじゃあ、早苗さん・・・』

『私が必ず出口を探して見せるわ。さあ、祥吾、水面は目の前よ!』

 今更迷っていても始まらないと、早苗は腹を括った。早苗が不安な顔をすれば、祥吾が心配するだけだ。

 垂直に降下した八咫烏と光の繭は、何の衝撃もなくセノーテの水面を潜り抜けた。水柱が上がった訳でも、水面が揺れた訳でもなく、ましてや水中に八咫烏と光の繭の姿もない。水面を潜り抜けて虚無空間に入ったのだ。

 そこは眩いばかりの光に満ちていて、かつ、漆黒の暗黒が満ちている。そこは無限に広がる空間であり、かつ、初元の宇宙のような点である。時間の概念がなく、永遠と一瞬は等価である。過去も未来もなく、現在だけがモラトリアムのように続いている。物質は存在し、かつ、存在していない。いや、物質の存在・不存在は、虚無空間においては意味がない。

 混沌とした虚無空間の中で、唯一明確に周囲の空間と隔絶されているのが、八咫烏と光の繭だった。ともすれば拡散してバラバラになりそうな光の繭を、祥吾は念動波を発して必死になって維持していた。祥吾の脳内のネオニューロンが疲労のためにビリビリと震えている。

『早苗さん、どっちに進めばいいんですか?』

『ちょっと待って。全方位に思念波を発しているけど、どこからも反応がないの。クレアボヤンスも発現しないし・・・。もう少し続けてみるわ』

『とりあえず前に向かって進んでみようか? 犬も歩けば棒に当たるって言うじゃない』

『虚無空間では、前という概念も、進むという概念もないのよ。目的の空間を認識しているかどうか、それだけだわ。目的の空間さえ認識できれば、私たちが移動しなくても、それは目の前に現れるはずよ』

『ムウウ・・・ダメだ、僕の頭じゃ理解できない。とにかく待つしかないことだけは分りました。でも、あまり長くは持たないかも知れない、僕の脳内のネオニューロンが悲鳴を上げ始めたみたいだから・・・』

 両目の奥がズウンと痛み始めたかと思うと、たちまち万力で頭蓋骨を締め上げられるような痛みが祥吾を襲った。祥吾は頭を小刻みに震わしながら痛みに耐えている。

『祥吾!』

『まだまだ、これしきのことじゃ音を上げないよ』

 ギリギリと歯噛みしている祥吾を見て、羽賀が小さく身じろぎした。

『祥吾、俺たちの生体エネルギーとやらを使え。俺と伊藤と成田、くたばりかかった三人だが、絞り出しゃあ幾らかにはなるだろう。俺たちのことは気にするな、使いたいだけ使えばいい』

 羽賀の脳裏には、東京タワーで瞭のバックアップをした情景が浮かんでいた。サイコキネシスは使えないが、燃料電池の代わりにはなれると羽賀は思った。

『羽賀さん、伊藤さん、成田さん・・・』

『羽賀さんと成田はこの有様や、幾らにもならへんわ。それに比べて、この伊藤さまは、まだまだピンピンしてまっせ。祥吾、私の生体エネルギーから先に使うてくれ』

 伊藤のおどけたような声が祥吾の脳内に響いた。

 ・・・みんなが力を合わせれば、まだ頑張れる。負けてたまるか!・・・

 羽賀たちの生体エネルギーを共有すると、祥吾の頭痛がスウッと収まった。それでも、満身創痍の羽賀たちを見ると、この状態が長く続くとは思えない。すぐに生体エネルギーが枯渇するのは分り切っている。鏡面世界に入ってから思念波を発し続けている早苗も、限界が近づいているはずだ。

 祥吾は頭上の八咫烏を見上げた。

 ・・・おい、お前、八咫烏だろ。だったら、神武天皇を導いたときみたいに、僕たちを導いてくれよ・・・そういや、瞭は繭を方舟にしてセノーテを渡れと言ったな。方舟なら鳩の方がいいのかな?・・・

 祥吾の心の中が伝わったのか、八咫烏がバサリと羽ばたいた。八咫烏は何かに気付いたかのように、首を傾げてゲエエと鳴いた。

 両目を閉じて全方位に思念波を送っていた早苗が、ふと目を開けた。聞こえる・・・いや、早苗の脳内に微かに声が響いている。誰かが早苗を呼んでいるのだ。その声を認識した途端、早苗の目の前に思念波で紡がれた光の糸が現れた。早苗は指を伸ばしてその糸に触れた。

『早苗・・・早苗さん・・・どこにいるの、早苗・・・どこなんだよぅ・・・早苗、返事をして・・・私たちはここよ、早苗!・・・早苗! 早苗!・・・』

 刺々しいまでに感情をむき出しにした思念波が、早苗の脳内に流れ込んだ。

 ・・・加奈、悠太、美咲、理沙、あの子たちが私を呼んでいる! 未熟な思念波を使って必死に私を呼んでいる。みんな私のことを心配してくれているんだわ・・・みんな、ありがとう、みんなの思念波の糸をしっかりと掴んだから、もう大丈夫よ。・・・ああ、出口が見える、出口が目の前に・・・

 八咫烏がバサリと羽ばたいた。八咫烏の足を掴んでいる祥吾の手が引っ張られ、それに合わせて光の繭が動いた。

 御手洗邸の居間の北の壁に立て掛けられている、高さが二メートルはあろうかという大きな鏡の前に、祥吾が立っていた。頭上に上げた左手には独鈷杵が握られている。祥吾の後ろの床の上に早苗、羽賀、伊藤がペタリと座り、三人に取り囲まれるようにして成田が床の上に横になっていた。

 早苗は居間の中を見回した。居間の壁一面に掛けられていた無数の鏡も、テーブルやカウンターや床の上に所狭しと並べられていた無数の鏡も、すべてが枠や額縁や台だけを残して、鏡面そのものは消えていた。床の上には鏡の破片のひとつも落ちていない。

 ズウンという身体の芯を揺らすような衝撃波が走り抜けた。それは次元の振動が生み出したものだ。

 早苗は振り返って、北の壁に立て掛けられている大きな鏡を見た。鏡面が消えて大きな枠だけが残されていた。セノーテと現実空間を繋ぐ唯一の接点が消滅したのだ。それは、内側に閉じた球形の鏡面世界と外側に開いた球形の鏡面世界を同時に消滅させる、消滅の合わせ鏡が成功したことを意味する。

「・・・瞭は・・・瞭は・・・きっと戻ってくるわ」

 鏡面世界で思念波を使い過ぎたのだろう、早苗はスウッと意識を失った。


 翡翠のタイルの敷かれた床の上に広がる、直径二メートルの円形の鏡面の上に立っているトカゥン・ナパウの姿がグシャリと崩れると、水面にトプンと小石を投げ込んだように、同心円状の波紋を残して鏡面に吸い込まれた。

 波紋の消えた鏡面にはトカゥン・ナパウの姿が映っている。そこは、トカゥン・ナパウが構築した鏡面世界だ。トカゥン・ナパウの口がせわしなく動いているのは、呪文を唱えているのだ。身体を前後に激しく揺らす度に、冠に飾られた鷲の羽根がザワリと揺れ、空中に文字を書いているかのように振り回す杖が、本物の蛇のように身をくねらせて、トカゥン・ナパウの腕に絡み付いている。

 鏡面が床から剥がれると、ゆっくりと浮かび上がった。三メートルの高さで止まった鏡面は、風に流されるように瞭の頭上に移動した。

 真上から俯瞰すれば、直径二メートルの鏡面が宙に浮いているように見える。真横に視点を移せば、厚みのない鏡面世界は見えなくなる。そして、真下から見上げる瞭の目には、直径二メートルの空虚な穴が空いているように見えている。穴の中は虚無空間である。

 鏡面の外周部分が虚無空間を包み込むように曲がり始めた。外側に開いた球形の鏡面世界は、その球の内側に虚無空間を内包しているのだ。鏡面は見えない巨人の手によって撓められ、丸められて球形に形を変えていく。球形を形作るにつれて、ひとつの鏡面世界の無限の長さの外周が、一点に向かって収斂していく。

 ギギアハウが構築した内側に閉じた球形の鏡面世界も、鏡面を撓める方向が逆なだけで、やり方は同じだ。そして、鏡面世界の無限の外周が収斂した点こそが、現実空間との接点であるセノーテなのだ。

 消滅の合わせ鏡は、ふたつの鏡面世界が完全に同じ大きさになった瞬間に、ふたつの鏡面世界に存在する外周の収斂点が重なり合う必要がある。

 瞭の頭上に、外側に開いた球形の鏡面世界が浮かんでいる。瞭はそれを支えるように両手を上げた。瞭の額の内側がチリチリと音を立て始めたかと思うと、瞭の脳内が一瞬で沸騰した。

 外側に開いた球形の鏡面世界が瞭の思念波に包まれた。

 薄い光の膜を纏った、外側に開いた球形の鏡面世界は、見る見るうちに膨張を始めた。シャボン玉の中にストローを差し込んで、もうひとつのシャボン玉を膨らましているかのように、内側に閉じた球形の鏡面世界の内部に外側に開いた球形の鏡面世界が広がっていく。

 瞭は内側に閉じた球形の鏡面世界の上に立って、頭上に覆い被さるように膨張する外側に開いた球形の鏡面世界を両手で支えていた。瞭の姿は、ギリシャ神話の世界で、ゼウス率いるオリュンポスの神々とクロノス率いる巨神族ティタンの戦い《テイタノマキア》で敗れて、罰として西の果てで天空を背負う巨神族のアトラスのようだ。

 瞭の顔は苦痛に歪んでいる。アトラスのように天空の重みに耐えかねて苦しんでいるのではない。サイコキネシスの発現に重さは関係ない。ひとつの鏡面世界を覆い尽くす思念波を維持するには、ネオニューロンを限界まで酷使しなければならない。瞭の脳内のネオニューロンが悲鳴を上げていた。瞭は頭蓋骨が破裂しそうな痛みに耐えていた。

 ネオニューロンのネットワークが限界を超えて焼き切れるビシリビシリという衝撃が、瞭の脳内の至る所から伝わってくる。だが、瞭は念動波を弱めるつもりなど、さらさらない。消滅の合わせ鏡まで念動波が維持できれば、その先はどうなっても構わないと瞭は思っていた。

 外側に開いた球形の鏡面世界は増々膨張して、ふたつの鏡面世界の大きさはほぼ同じになった。瞭は肩の上に外側に開いた球形の鏡面世界を載せて、それを頭と両手で支え、床に片膝を突いた姿勢で背中を丸めている。

 ふたつの鏡面世界の間隔は一メートルしかない。その間隔が更に狭まり、瞭の身体はふたつの鏡面世界に圧し潰されていく。骨が折れる訳でも、肉が潰れる訳でもなく、瞭の身体はふたつの鏡面世界の隙間に沿って薄く引き伸ばされた。だが、瞭の意識は確固として存在している。その瞭の意識は、限りなく近づいていくふたつの鏡面世界を見ていた。

 瞭は右手に内側に閉じた球形の鏡面世界の外周の収斂点セノーテを、左手に外側に開いた球形の鏡面世界の外周の収斂点をそれぞれ意識した。ふたつの鏡面世界がズズズと互いに回転して、瞭は左右の手にふたつの収斂点を掴んだ。

 とうとう、ふたつの鏡面世界を隔てるのは瞭の念動波だけとなった。

 ・・・これで終わりだ・・・・早苗ちゃん、後は頼む・・・

 瞭は右手と左手を合わせると、念動波を止めた。


 すべてが消えた。光も音も衝撃もない。


 内側に閉じた球形の鏡面世界と外側に開いた球形の鏡面世界が接触して、完全に一致したふたつの鏡面世界は一瞬にして対消滅した。消滅の合わせ鏡だ。

 対消滅の瞬間、瞭の意識は次元の揺らぎの中にあった。そこは次元と虚無空間の接点で、次元の揺らぎに応じて、次元に引き戻されたり虚無空間に投げ出されたりしている。時間の概念はない。

 次元から伸びた手が瞭の意識を掴んでいた。そのおかげで、瞭は虚無空間に漂い出ることを免れていた。瞭の意識はそのことに気付いていない。

 瞭の意識は波のように近づいては離れる次元をボンヤリと感得していた。

 ・・・あの次元を引き寄せることはできないかな。うん? 次元の揺らぎは次元の振動エネルギーを生む。次元の振動エネルギーは生体エネルギーと同質で、それは念動波に置き換えが可能だ。サイコキネシス発現の原理じゃないか!・・・

 そう思った瞬間、瞭の意識は次元の揺らぎの中で実体を得た。瞭の身体が次元の揺らぎの中でフワフワと漂っている。瞭は、自分の右手を掴んでいる手に気付いた。その手には一面に幾何学模様のような刺青が施されている。トカゥン・ナパウが瞭の意識を繋ぎ止めていたのだ。

『戦士よ、現実空間へ戻れ。私が手を貸してやる』

 トカゥン・ナパウの腕にグウッと力がこもり、瞭の身体をカーテンのように揺らめく次元に押し付けた。だがそれだけでは次元の中には戻れない。次元と虚無空間を隔てる境界に穴を空け、その穴を潜り抜けなければならない。

 瞭の脳内に仮想空間が浮かんだ。カーテンのように揺れる次元に切り裂かれたような小さな傷が生じて、そこから現実空間が覗いている。

 瞭の額の内側がチリチリと音を立て始めた。前頭葉のネオニューロンが活性化して前頭葉がポッと温かくなり、それが前頭葉全体に広がり、更に側頭葉、頭頂葉、後頭葉へと広がっていく。ボッと音を立てたかのように瞭の脳内が一瞬で沸騰し、瞭の身体が思念波の炎に包まれた。

 瞭の視界がグニャリと歪んだ。

 しかし、瞭の目の前のカーテンのように揺れる次元の境界には変化がない。

 ・・・なぜだ!・・・クソッもう一度だ・・・

 再び瞭の視界がグニャリと歪んだ。

 しかし、瞭の目の前のカーテンのように揺れる次元の境界には変化がない。

 ・・・そんな、虚無空間ではサイコキネシスが使えないのか?・・・

 瞭の脳内が炎を上げたように活性化した。

 ・・・まだまだ! もう一度!・・・開けえぇ!・・・

 瞭の視界がグニャリと歪んだ。

 しかし、瞭の目の前のカーテンのように揺れる次元の境界には変化がない。

 ・・・ダメだ。念動波が足りないのか?・・・うん? あれは何だ・・・

 カーテンのように揺れる次元の境界の向こう側にボンヤリとした黒い影が映るや否や、境界を突き破って槍の穂先のようなものが現れた。

『戦士よ、いまだ!』トカゥン・ナパウの声が瞭の脳内に響いた。

 瞭は槍の穂先が突き破った次元の境界の穴に指を捻じ込むと、両手で押し広げ、その裂け目の中に頭から転がり込んだ。

 転がり込む瞬間に、瞭の横目にチラリと映ったのは、カーテンのような次元の境界に突き刺さった大巌坊の錫杖だった。そして錫杖を手にしたトカゥン・ナパウが、顔をクシャクシャにして白い歯を見せて笑っていた。瞭は「さらば」というトカゥン・ナパウの声を聞いたような気がした。


 ドサリと石畳の上に倒れ込んだ瞭は、ウウムと小さく唸ってから顔を上げた。抜けるような青空に申し訳程度に白い雲が浮かび、中天にある太陽から降り注ぐ陽光が、容赦なく瞭に照り付けている。身体の下の石畳は焼けたフライパンのようだ。

「あちち・・・」

 瞭は上体を起こして胡坐をかくと、周囲を見回した。瞭は石畳の敷かれた広間に座っていた。そこは古代の競技場のようだ。天井はなく、壁の代わりに見上げるような石の円柱が、広場を囲むように整然と並んで立っている。

 広場の先に見えるのは、石のブロックを積み上げた巨大な階段状ピラミッドだ。

 ・・・まさか、そんな! 鏡面世界に戻ってしまったのか?・・・

 ふと横を見ると、Tシャツに汚れたバミューダパンツ姿の男が立っていた。男の後ろには、小さな台の上にブレスレットやネックレスや指輪などが所狭しと並べられている。露店の土産物商のようだ。男の顔はギギアハウに似ているが、顔に締まりがない。Tシャツの胸のプリントは大呪術師トカゥン・ナパウだ。どうにも一貫性のない男だ。

「あんた、いったいどこから現れたんだ・・・」

 男は震える声で瞭に尋ねた。たどたどしいが英語だ。空間を切り裂いて、いきなり目の前に現れた瞭を、化け物か、悪魔か、あるいは神かとでも思っているのだろう。

 瞭は立ち上がって、ジーンズの尻の砂埃をパンパンと叩きながら、逆に男に尋ねた。

「ここは、いったいどこなんだい。それと、美味い珈琲を飲ませる店を知らないかい?」

 ギギアハウに似た男はヒイイと叫び声を上げると、瞭に背を向けて走り去った。


 ズウウン 身体の芯を揺らすような衝撃波が走り抜けた。

 千元谷集落の封鎖ラインの外に駐機している軽装甲機動車内の作戦指揮所に、監視班からの伝令が飛び込んだ。指揮官の陸上自衛隊特殊作戦群長の飯森一佐は、鋭い目で伝令を見た。伝令は慌ただしく敬礼すると、機関銃のような早口で報告した。

「監視班より連絡。御手洗邸の上空の穴のような暗い点が消滅。特定地域上空の空間の歪みも解消された模様。先程の衝撃波はそれによるものと推察されます。なお、目視できる範囲内での損害の発生は確認できません。以上」

 飯森一佐は思わず眼を閉じた。作戦成功だ。

 作戦指揮所内にオウという歓喜の声が上がり、そこここで隊員たちが握手をしたり、肩を叩き合って笑っている。

 飯森一佐は眼を開けると、よく響く声で命令を下した。

「第一小隊は直ちに御手洗邸に向かい、決死隊の捜索・救護・撤収に当たれ。第二、第三小隊は千元谷集落内に散開し、被害状況の確認に当たれ。その他の隊は万一に備えて、戦闘態勢のまま待機。総理官邸には本官から連絡を入れる。通信班、準備せよ。以上」

 命令を受けた小隊長が、飯森一佐に敬礼をしてから、作戦指揮所を飛び出していった。


 身体の芯を揺らすような衝撃波が走り抜けてから三十分が経過した。

 UH―60JA多用途ヘリコプターが、千元谷集落の御手洗邸から飛び立ち、東京都世田谷区の自衛隊中央病院に向かって全速力で飛行していた。

 乗員室の三列目と四列目の椅子が取り払われていて、そのスペースに羽賀と伊藤と成田が横になっている。二名の衛生兵が満身創痍の羽賀たちに応急処置を施している。

 一列目の椅子には佐田が、二列目には早苗と祥吾が座っている。

 羽賀たちの応急処置がひと段落つくと、佐田は居住まいを正した。

「明日香さん、祥吾君、羽賀、伊藤、成田。君たち決死隊の尽力のおかげで、人類の厄災を阻止することができた。ありがとう」

 佐田は目の前の早苗と祥吾に向かって、深々と頭を下げた。

「佐田さん、どうか頭を上げてください。私たちは自分に与えられた使命を果たしただけですから」

 早苗の声に、佐田は頭を上げた。佐田の顔には沈痛な色が浮かんでいる。

「できれば、全員一緒に戻ってきてほしかった・・・矢沢君は・・・人類のために犠牲になってくれたんだね。残念だ・・・」

「佐田さん、瞭は本望だと思います。ギギアハウとの戦いで命を落とすかも知れないということは、瞭には分かっていましたよ。それを承知の上で決死隊に参加したんですから」

 ムウウと呻くような声が早苗の後ろから聞こえた。衛生兵が止めるのも聞かずに、羽賀が上体を起こした。

「佐田危機管理官、申し訳ありません。民間人の犠牲者を出してしまって、その上、俺たちはこの有様です。チームのリーダーとして責任を・・・」

 羽賀の声を佐田が遮った。

「お前に責任はない、責任を負うのは私だ。みんなを死地に向かわせたんだからな」

「人類の厄災を防ぐための作戦に、責任なんて話は不要ですよ。決死隊の全員が、人類の厄災を防ぐために命を捨てる覚悟だったんですから。ねえ、祥吾」

 早苗の声に、祥吾は力強く頷いた。

 そのとき、佐田のスマートフォンに着信が入った。

「はい、佐田です。・・・ああ、どうも。・・・ええ! それは本当ですか!・・・間違いないんですね!・・・了解しました・・・しかし、なぜそんな所に・・・ええ、ええ、・・・いやいや、私が迎えにいきますよ・・・はい、手配方よろしく」

 スマートフォンを切った佐田の顔には、安堵と困惑と興奮の色が浮かんでいる。

「みんな、驚かずに聞いてほしい。矢沢君が見つかった。衰弱していて病院に運ばれたが、命に別状はないそうだ」

 早苗と祥吾の顔がパアッと明るくなった。羽賀と伊藤がオウッと歓声を上げた。成田は鎮静剤のために昏々と眠っている。

 佐田が続けた。

「矢沢君が見つかった場所は、メキシコのユカタン州にあるマヤ文明の遺跡チチェン・イッツァだそうだ。何でも、ククルカン神殿の傍の競技場跡に突然現れたらしい」

 ククルカン神殿と聞いて、早苗と祥吾は顔を見合わせ、羽賀と伊藤はグウウと奇妙な唸り声を上げた。羽賀と伊藤は、しばらくの間、階段ピラミッドの悪夢にうなされるに違いない。

「きっと、テレポーテーション(瞬間移動)ね。瞭は消滅の合わせ鏡から脱出して、テレポーテーションでククルカン神殿に現れたんだわ」

「凄いぜ、瞭!」祥吾の顔が輝いている。

 テレポーテーションと聞いて、一瞬ポカンとした顔をした佐田は、目の前にいるふたりが超能力者だと思い出して、さもありなんと頷いた。

「メキシコへは私が迎えにいきます。そうだな、この際だ、政府専用機でも出してもらうとするか」

「それよりも、いっそのこと、テレポーテーションで日本まで帰ってくればいいんじゃない」

 祥吾が茶化すと、早苗がブウッと吹き出した。


 一月後

 自衛隊中央病院から百メートルほど離れた場所にある世田谷公園の中を、成田を乗せた車椅子を押しながら羽賀が歩いていた。ふたりともパジャマのような病衣を着て、羽賀は肩にジャンパーを羽織っている。まだ自衛隊中央病院に入院中なのだ。

 羽賀の左肩のギプスは昨日外れたばかりだ。右わき腹貫通銃創はほぼ塞がり、千切れかけていた右手人差し指は、何とか動くところまで回復している。右頬の三センチほどの切り傷の痕は、よく目を凝らさなければ分からない。

 成田はまだ腰をギプスで固定している。骨折した腰椎はくっついたようだが、神経が切断されたらしく、下半身は麻痺したままだ。主治医の三田村医師によると、下半身の麻痺は治る見込みがないらしい。

 遊歩道の脇に垣根のように植えられている金木犀が、粉を葺いたように小さな黄色い花をつけて甘い香りを周囲に漂わせている。

「成田、寒くないか」

「丁度いいですよ。金木犀か、何だかこの香りを嗅ぐとホッとしますね」

 小さな噴水の横で羽賀は車いすを止めた。

「うん? 変だな。何だか無性に珈琲が飲みたくなってきた。コンビニで買ってくるから、ちょっと待っててくれ。成田はホットでいいよな」

「それじゃあ、私はカフェオレでお願いします」

「了解」

 羽賀の姿が消えると、成田は眼を閉じた。時折フワリと吹き抜ける風が心地いい。成田はコトリと眠りに落ちた。

 成田は夢を見ていた。瞭と早苗が笑いながら近づいてきて、成田の肩に手を置いて何かを語りかけている。ふたりの手から温かな電流のようなものが成田の身体の中に流れ込んでいる。腰が熱い。ビリビリとした振動が背中から腰を抜けて両脚の先まで走った。動かなかった両足の親指がグイグイとスリッパを押している。こんな感じは久しぶりだ。ああ、気持ちがいい・・・。

 ポンと肩を叩かれて、成田はハッと目覚めた。

「何だよ、寝てたのか。こんな所で寝てたら風邪ひくぜ。ほれ、カフェオレだ。まだ熱いから気をつけろよ」

 羽賀が紙コップを差し出しながら笑っている。羽賀は珈琲をズルリと一口啜った。

「コンビニから出たところで、瞭と明日香さんの姿を見たような気がしたんだが、どうやら見間違いだったようだ。ハハハ、あのふたり元気でやっているのかな」

「瞭と明日香さんを?」

 夢じゃなかったのか? 成田は両足の親指に力を入れた。グイッと動いた。

 ・・・動いた、足の指が動いた・・・歩けるのか?・・・瞭と明日香さんがきてくれたんだ、そして、超能力で・・・

 成田は両足に力を込めると、思い切って車椅子から立ち上った。足の筋肉が衰えていてふらついているが、歩ける!

「な、成田・・・お前・・・そんな・・・」

 羽賀の手から紙コップが滑り落ちた。

「羽賀さん、歩ける、歩けるよ!」

 成田はフラフラと三メートルほど歩いてから、羽賀を振り返った。

 奇跡だと羽賀は思った。そう、奇跡だ。超能力があるんだから奇跡があっても不思議ではない。羽賀はグズリと鼻を啜った。

「成田、車椅子に乗れ、病院に戻るぞ。それで、主治医の三田村先生の前でいきなり立ってやれ。ウヒヒ、三田村先生、腰を抜かして驚くぞ」

「了解。あ、羽賀さん、伊藤がこっちにくる。よし、先ずは伊藤から驚かしてやるか」

 鼻歌交じりで羽賀と成田の方に歩いている伊藤を見て、羽賀と成田は顔を見合わせてニヤリと笑った。

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