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最後の戦い3

 待避所の床に腰を下ろしていた羽賀は、脳内に映る瞭とギギアハウの戦闘の映像が、時折歪むことに気が付いた。羽賀は早苗に意識を向けた。早苗も床に腰を下ろしているが、ハンカチで両目を縛ったその下の顔は青白く、頬がこけて、唇が紫色に変わっていた。そして、痛みをこらえているかのように唇を固く結び、小さく頭を振っている。

 早苗は、周囲の状況をクレアボヤンスで映像として捉えて、それを羽賀たち全員の脳内に思念波で送り届けている。更に、羽賀たちの相互意思交換の役割も負っている。厖大な量の思念波を操っている早苗の、前頭葉のネオニューロンが活動限界に近づいて、悲鳴を上げているのだ。

『明日香さん・・・』

 羽賀はそれ以上の言葉を思い浮かべるのを止めた。大丈夫かとも、頑張れとも、無理をするなとも言えない。鏡面世界での活動は、全員が早苗の思念波に依存していて、早苗もそれを承知している。人類の厄災を阻止するために、早苗は全力を振り絞っているのだ。

 羽賀の背後から、ズズズズと何かが床の上を滑るような振動が伝わってきた。羽賀は、冷たく埃っぽい空気の流れを背中に感じた。

『何やねん、ありゃあ・・・人か?・・・羽賀さん、後ろに人が・・・そんなアホな』

 伊藤の困惑したような声が羽賀の脳内に響いた。振り向いた羽賀も、思わず絶句した。

 通路の奥に埋め込まれていた、一面にドクロの浮き彫りが施された一枚岩が、真ん中から左右に分かれて開いていた。そして、ピラミッドの内部に通じる暗闇から、ぞろぞろと人が出てきたのだ。いずれも無表情で、上体をユラユラと揺らしながら夢遊病者のように歩いている。両目はぽっかりと空いた穴のようで、しかも血塗られたように真っ赤だ。それぞれの手には、黒曜石の穂が付いた槍、黒曜石の石斧やナイフなどの武器が握られていた。それはマヤの戦士が手にする古代の武器だ。

 羽賀はゆっくりと立ち上がると、通路を塞ぐように真ん中に立った。羽賀の身体に押し寄せているのは、殺気というより禍々しい瘴気だ。羽賀の背中にゾクリと悪寒が走った

『伊藤、逃げる準備だ。明日香さんを頼むぞ』

 伊藤は床に腰を下ろしたままの早苗の肩を抱いて、優しく立ち上がらせた。

 人々の顔に意識を向けた羽賀は、見覚えのある顔に気が付いた。

 ・・・あれは、CIAのハドソン・スミスだ。その横は、特殊潜在能力研究所を襲った特殊工作部隊の中のひとりに間違いない。その後ろは・・・捜査中に行方不明になった警視庁の小野巡査部長と西中野警察署の山口巡査部長・・・御手洗達造・・・お手伝いの米山美代子・・・。ここにいるのは、すべてギギアハウによって鏡面世界に取り込まれた人々だ!・・・

 先頭を歩いていた白人の大男が羽賀に近づくと、右手に持った石斧を無造作に振り上げて、羽賀に叩きつけた。白人の大男は特殊工作部隊のジョナサンだ。

 羽賀は石斧を避けるようにジョナサンの懐に跳び込むと、瞬時に身体を捻り、ジョナサンの身体を腰に乗せて跳ね上げた。ジョナサンは羽賀の腰を支点としてクルリと回り、石畳の床に叩きつけられた。柔道五段の羽賀の得意技のひとつ大腰だ。

 顔を上げた羽賀の腹に向かって槍が突き出された。槍を振るっているのは、特殊工作部隊のデイビスだ。左手で柄を払って穂先をかわすと、羽賀は大きく踏み込んだ。ふたりの胸がぶつかると同時に、羽賀の左足は小さく円を描いてデイビスの右足を刈っていた。絵に描いたような大内刈りが決まり、デイビスは背中から床に倒れて後頭部を強打した。

 咄嗟の反応でふたりを倒した羽賀だが、激しく身体を捩ったために、羽賀の左わき腹の銃創から再び血が流れ始めた。羽賀が苦痛で顔を歪める。

『伊藤、明日香さんを連れて逃げろ!』

 羽賀は腰のホルスターから拳銃を引き抜いた。シリンダー内に残っている銃弾は三発。向かってくる全員を倒すことなど到底できないが、時間稼ぎにはなるだろう。

 羽賀の目の前に男が立った。男は右手に持った石斧を振り上げようとしている。羽賀は男に向かって拳銃の銃口を向けた。目の前に立っているのは山口巡査部長だった。山口は自分に向けられた拳銃を見ても無表情のままだ。羽賀の持つ拳銃の銃口がブルブルと震えた。日本国と日本国民を守るという使命が身体に叩き込まれている羽賀にとって、典型的な日本人の顔をした山口に対して引き金を引くことにためらいがあるのだ。

 ・・・ダメだ、撃てない・・・

 羽賀はどうしても引き金を引くことができなかった。羽賀は足払いを掛けて山口を床に転がすと、伊藤の後を追って走り出した。

 床に転がっている三人に目もくれず、残りの人々は夢遊病者のようにゾロゾロと羽賀の後を追った。

 早苗の肩を抱いて避難所を出た伊藤は、キョロキョロと周囲に意識を向けた。

 ・・・逃げろいうても、どこに逃げたらええんや?・・・

『伊藤さん、階段を上りましょう。ピラミッドの頂上へ・・・そこに何かがある』

『階段を? 明日香さん、階段を上ればええんやね』

 早苗は小さく頷いた。

 伊藤は上空に意識を向けた。瞭とギギアハウが空中で戦っていた。次の瞬間、炎の鞭に捕まった瞭が、恐ろしい勢いで地面に叩きつけられた。伊藤は思わず息を呑んだ。

 そこへ羽賀が姿を見せた。そのすぐ後ろには、手に手に武器を持った人々が迫っている。

『伊藤、何やっているんだ。逃げるぞ』

『ああ、羽賀さん。瞭さんが・・・』

 伊藤の泣きそうな声が羽賀の脳内に響いたとき、瞭が再び地面に叩きつけられた。振り返って瞭の姿を見た羽賀は、一度固く目を瞑り、瞭のことだ、何とか切り抜けるに違いないと心の中で踏ん切りをつけてから目を開けた。

『いまの俺たちにはどうすることもできん。伊藤、とにかく逃げるぞ。明日香さんを何としても守るんだ。階段を・・・上るんだな』

 羽賀はピラミッドの頂上に向かって延びる九十一段の石の階段の最下段に足を掛けた。大きく口を開けたククルカンの頭部の彫刻は、蛇というより龍のようだ。羽賀は左手でククルカンの頭部を撫でた。

 ・・・お前さんが偉い神様なら、俺たちを守ってくれよ・・・

 無神論者の羽賀が柄にもなく神に祈った。ククルカンの頭部の彫刻は何も答えてくれなかった。

 羽賀は骨折した右肩をギプスで固定していて、右手は肘から先しか動かない。千切れかけている左人差し指は、動かないようにテーピングテープで中指に固定されていて、羽賀の左掌は四本指のように見える。左わき腹の貫通銃創からはダラダラと出血が続いている。

 伊藤は左足ふくらはぎの貫通銃創のため、左脚を引きずっている。

 早苗は思念波の過度の使い過ぎで、激しい頭痛に襲われ、更に体力を消耗していていまにも倒れそうだ。

 満身創痍の三人は、急勾配の石の階段に両手を突いて四つん這いの姿勢になり、這うようにして階段を上った。

 三人のいる場所から十段ほど下には、槍や石斧を持ったハドソンたちがフラフラと階段を上っていた。羽賀たちに追いつこうと殊更に足を速めることもなく、ピラミッド内部の暗闇から出てきたときと同じ一定の速度で上っている。

 『心臓が欲しい』『心臓はどこだ』『心臓をくれ』・・・ハドソンたちが発する心の声を、早苗が感得しているのだろう、早苗の思念波を通じて、ハドソンたちの声が羽賀と伊藤の脳内にも響いている。ハドソンたちはギギアハウに操られているというより、心臓を欲する自分の心の声に突き動かされていた。それは血を欲して徘徊する吸血鬼のようだ。

 ピラミッドの頂上部まで残り二十段という場所で、とうとう早苗が動けなくなった。早苗は石の階段に突っ伏して肩で大きく息をしている。

『明日香さん!』

『身体が動かない・・・少し・・・少し休ませて・・・』

 伊藤が早苗の背中を優しく擦った。

 羽賀が足元に意識を向けると、ゾロリゾロリとハドソンたちが階段を上っていた。先頭を上っているハドソンが手を伸ばせば、羽賀の軍靴に触れられそうだ。

 ・・・仕方がない。腹を括ったぜ・・・

 羽賀はホルスターから拳銃を抜くと、銃口をハドソンの胸の真ん中に向け、引き金を引いた。

 パン 銃身から発砲炎と共に硝煙の煙が上がった。

 至近距離から発射された銃弾はハドソンの胸部を貫通し、更にその後方にいた小野巡査部長の頭部に命中した。ハドソンは突き飛ばされたように後方に倒れ込み、小野と一緒に階段を転がり落ちた。しかし、銃弾を受けたにもかかわらず、ハドソンの胸部からも小野の頭部からも出血はしていない。

 開襟シャツを着た中年の男とTシャツにジーンズ姿の二十台の男が、ハドソンと入れ替わるように前に出た。

 パン パン 再び銃身から発砲炎と共に硝煙の煙が上がった。

 銃弾を受けてふたりの男が階段から転がり落ちた。数人が巻き添えを食って落ちたため、羽賀たちと襲撃者たちの間に若干の距離が空いた。

『伊藤、サブマシンガンを貸せ。こいつらは俺がここで食い止める。お前は明日香さんを連れて階段を上れ』

『羽賀さん・・・』

『グズグズするな。やつら、銃弾を受けても血もでなけりゃ、この階段を転がり落ちても平気な顔をしてやがる。すぐに追いついてくるぞ。いまのうちに明日香さんを連れて逃げるんだ』

 伊藤は肩から下げていたサブマシンガンと、腰の後ろの弾納マガジンポーチから予備のマガジン一個を取り出して羽賀に渡した。

『銃弾はこれだけしか残ってまへん』

『分かった。いけ!』

 伊藤は羽賀の手を借りて早苗を背負うと、四つん這いの姿勢になり、膝でいざるようにして一段一段階段を上った。たちまち迷彩服のズボンの膝に穴が空いて、膝から血が流れ始めた。伊藤は漏れ出そうになる呻き声をグッと呑み込むと、奥歯をギリリと噛みしめた。伊藤は石の階段の上に血の跡を残しながら、最上部を目指して上った。

 羽賀は階段に腰を下ろすと、両膝の間から銃身を突き出すようにしてサブマシンガンを構えた。左の脇腹が焼けるように熱いが、麻痺しているのか不思議と痛みは感じない。時々頭がふらつくのは大量の出血のせいだ。照準の先に延びる急こう配の階段は、垂直に切り立った壁のように見える。

 その壁をワラワラと人が上ってくる。

 ・・・全弾撃ち尽くしたら・・・そのときはそのときだ。さあ、きやがれ・・・

 羽賀は、近づいてくる襲撃者たちを、ひとり、またひとりと撃ち落とした。身体を貫通した高性能炸薬弾が、貫通後に遅れて上げる爆炎に巻き込まれて、何人かが巻き添えを食らって階段から落ちている。襲撃者たちは何度階段を転がり落ちても、ムクムクと起き上がり、また階段を上り始めた。

 ・・・これじゃあ、きりがないぜ・・・

 さすがの羽賀も、チラリと弱音を吐いた。左わき腹の銃創からダラダラと続いている出血が、思っている以上に羽賀の体力を奪っている証拠だ。


 錫杖の上に二本足で立った大巌坊と錫杖にぶら下がった祥吾が、上空に舞い上がった。

 ギギアハウの炎の鞭に捕まった瞭が地面から持ち上げられて、また地面に叩きつけられようとしていた。瞭の身体は芯が抜けたようにグラグラと揺れている。意識を失っているのだ。

 大巌坊は錫杖の上で九字を切った。

『臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・前・行!・・・キェェーイ!』

 瞭に向けて左手の人差し指と中指を突き出し、大巌坊は丹田から最後の気を振り絞った。

 鉄砲水のような念動波の奔流が瞭を包み込み、地面に向かって落下していた瞭の身体が、見えない手ですくい上げられたかのようにフワリと浮き上がった。その念動波は、瞭に危害を及ぼすような荒々しい波動ではなく、瞭を癒す柔らかな波動で、砂漠のように乾いた瞭の身体に降り注ぐ慈雨のように瞭の中に染み込んだ。

 ・・・温かい・・・ああ、力が湧いてくる・・・早苗ちゃん? 違う・・・誰だ?・・・

『瞭、祥吾を頼む』

 ・・・大巌坊? 大巌坊なのか?・・・

 瞭の意識が戻った。瞭の脳内に、錫杖の上に二本足で立った大巌坊と錫杖にぶら下がった祥吾の姿が映った。

 大巌坊は『ノウマクサンマンダ バサラダン センダンマカロンシャダソハタヤ ウンタラタカンマン』と呪文を唱えると、左手の人差し指と中指を突き出して、額の前で二本の指を天に向け、何かを断ち切るように上から下に一直線に振り下ろした。

 瞭の右足首に絡み付いていた炎の鞭がブツリと切れた。

 炎の鞭の縛めが解かれた瞭は背中を下にして、地面に向かって落下を始めた。見る見るうちに落下速度は速くなり、空気を切り裂くヒュウヒュウという音が瞭の耳元で響いている。

 ・・・飛ばなきゃいけない・・・五百円玉はどこだ?・・・なくなっちまったのか、クソッ、何とかしなきゃ、このままじゃ激突死だ・・・

 瞭は羽ばたきでもするかのように両腕を振り回した。その瞭の左手首を、大巌坊の右手がガッシリと掴んだ。咄嗟に見上げた瞭の視線と、悠然と見下ろした大巌坊の視線が絡み合った。

『大巌坊・・・なぜ僕を助けたんだ?・・・正気に戻ったのか?』

 ザクリザクリと鑿で削り出したような彫りの深い大巌坊の顔は、何かを悟ったかのように穏やかだ。

『正気になど戻らぬわ、儂は狂うたままよ、それでよい。瞭、ギギアハウ様の僕である大巌坊は死んだ。ここにおるのは、死にかけの修験者、祥吾の父親の九鬼巌だ。瞭、儂の最後の頼みだ。祥吾をこの鏡面世界から連れ出してくれ、よいな、頼んだぞ』

 大巌坊は片手一本で瞭の身体を錫杖の上に引き上げ、二本足で立たせた。

『飛翔術はお手のものじゃろう。後は任せたぞ』

 大巌坊は足元の祥吾にチラリと目をやってから、ザアッと空中に跳び上がった。大巌坊の目の前で、先端部分が切り放たれた炎の鞭が、紅の帯のようにたなびいている。

 大巌坊は、ギギアハウが手元に手繰り寄せようとしている炎の鞭の上に立つと、ギギアハウに向かって炎の鞭の上を疾風のように走った。

『ノウマクサンマンダ バサラダン センダンマカロンシャダソハタヤ ウンタラタカンマン』

 大巌坊の身体からボッと炎が上がった。大巌坊は火焔の術で自らの身体を焼きながら、炎の鞭の上を走っている。

 ギギアハウは炎の鞭の上を走る大巌坊を見て、胸まで垂れた髭に覆われた口を歪めて黄色い歯をむき出すと、ケエエと唸った。

 大巌坊は両手を広げると、ギギアハウに向かって跳んだ。両手を広げて宙を飛ぶ姿は炎の烏だ。

『祥吾、独鈷杵を儂の背中に向かって投げろ』

 大巌坊の声が祥吾の脳内に響いた。祥吾は瞭と共に錫杖の上に立っている。

『親父、どうするつもり・・・そうか、分かった』

 ・・・親父は死ぬ気だ・・・

 祥吾は大巌坊の考えを理解すると、ジャージのポケットから独鈷杵を掴み出した。

『行けぇぇ!』

 祥吾が投げた独鈷杵は、両端からそれぞれ一メートルほどの直刃が伸びて、双翼剣に変わると、糸を引くように大巌坊の背中に向かって飛んだ。

 大巌坊は上方から覆いかぶさるようにしてギギアハウに迫った。ギギアハウは右手を上げて大巌坊の首を掴み、掴みかかろうとした大巌坊の動きを制止した。大巌坊は絞首刑にされた罪人のように、ダラリとぶら下がった。ギギアハウが右手に力を込めると、大巌坊の首がゴクリと音を立てて、あらぬ方向に曲がった。頸骨が折れたのだ。大巌坊が纏っていた炎が消えた。

 ギギアハウは自分の鼻先に大巌坊の顔を近づけると、黄色い歯をむき出して、ハアアと笑った。身の程知らずめと嘲笑っているのだ。

 そのとき、矢のように飛来した双翼剣が大巌坊の背中を貫き、さらにギギアハウの胸を貫いた。双翼剣の片側の直刃が、ギギアハウの背中から飛び出している。祥吾の放った独鈷杵、いや、双翼剣が、大巌坊とギギアハウを串刺しにしたのだ。

 独鈷杵は魔を打ち砕く力を秘めている。

 ギギアハウは、落ち込んだ眼窩の底の赤い目をこれでもかと見開いて、ガアアと唸り声を上げた。真っ赤に焼けた鉄杭に刺し貫かれているかのように、傷口がジュウジュウと焼けて薄い煙が上がっている。破魔の力に焼かれているのだ。

 頭部が不自然な方向に曲がったままの大巌坊の身体がノソリと動いた。大巌坊は自分の背中とギギアハウの背中に手を回し、ふたりを貫いている双翼剣の両端を掴むと、渾身の力を込めた。

 ギギギギ・・・双翼剣がゆっくりと曲がり、最後には両端の直刀の切っ先が重なり合って、ひとつの輪になった。これでもう、抜けることはない。

 ギギアハウは憤怒の表情で大巌坊の背中に両手を回すと、抱きしめるように互いの胸と胸を併せた。大巌坊の胸が、ゆっくりとギギアハウの胸の中に沈み込んでいく。大巌坊の身体がギギアハウに取り込まれているのだ。大巌坊はもはや抵抗することもなく、為されるがままだ。大巌坊の頭部がギギアハウの胸の中に埋まり、やがて腕も背中もギギアハウの中に消えた。

 大巌坊の姿が消えた。

 ギギアハウは胸まで垂れた髭に覆われた口の口角を上げると、どうだとばかりにハハアと笑った。ギギアハウの胸には穴が空き、その穴を貫いて、独鈷杵で造られた金属の輪が出来損ないの耳飾りのようにぶら下がっている。

『ギギアハウ、これで最後だ、いくぞ!』

 錫杖の上に並んで立っている瞭と祥吾が、ギギアハウに向かって飛翔している。

『ノウマクサンマンダ バサラダン センダンマカロンシャダソハタヤ ウンタラタカンマン』祥吾が親父譲りの呪文を唱えた。

 宙に浮かんでいたギギアハウの身体が、浮力を失ったようにガクンと降下した。ギギアハウの身体を貫いてぶら下がっている輪が、突然重みを増して、ギギアハウの身体を地面に向けて引っ張っている。

 ギギアハウはガアアアと唸り声を上げながら、溺れているかのように空中で手足をバタつかせているが、輪の重みに耐えきれず、ギギアハウは速度を増しながら落ちている。 

 ギギアハウはピラミッドの最上部にある四角い神殿の屋根の上に落ち、石の屋根を突き破って神殿の中に転がり落ちた。


 早苗を背負った伊藤が、最後の石段に両手を突いて、伸び上がるようにして身体を持ち上げると、ピラミッドの最上部の床にドサリと身体を横たえた。伊藤の両手も両膝も、皮膚が破れて血だらけになっている。伊藤は下を向いて、しばらく肩を揺らしながらゼイゼイと荒い息をしてから、ゴクリと唾を呑み込み、ゆっくりと頭を上げた。早苗は伊藤の首に手を回し、おぶさったままの姿勢で、伊藤の背中にぐったりと身体を預けている。

 ピラミッドの最上部は一辺が十メートル四方の正方形をした平面で、床には石畳が敷かれている。その中心に一辺が六メートルの立方体をした石造りの神殿が建っていた。

 北面に設けられた階段が通じる神殿の正面入口は、左右に二本の石柱が並んでいるだけで扉はない。神殿の東、南、西の壁には採光用の四角い穴が空いている。

『明日香さん、到着しました・・・ピラミッドの最上部に到着しましたでぇ。明日香さん、しっかりしなはれ・・・明日香さん・・・』

 背負っていた早苗の身体を石畳の上にそっと横たえると、伊藤は早苗の肩を優しく揺すった。早苗は小さく呻いてから頭を左右に振り、ゆっくりと上体を起こした。早苗の意識が神殿の奥に吸い寄せられた。

『伊藤さん、神殿の中に入りましょう。そこに、何かがある、いや、何かがいる・・・私を呼ぶ声が聞こえるんです。助けを・・・助けを求めているわ』

 伊藤はブルリと身体を震わせた。立派なガタイをしている割に、伊藤は幽霊とか心霊現象といった類の話は苦手なのだ。

『まさか、化け物とちゃうやろね・・・うん? よう考えたら、周りは化け物だらけやないけ。今更、ひとつやふたつ増えたいうても、どうってことないわい、ハハハ』

 吹っ切れたように明るく笑った伊藤は、早苗の手を取ると、神殿の入口に向かって歩いた。

 神殿の入口の手前で、早苗がふと足を止めた。小首を傾げて右手をスッと前に伸ばした。

『明日香さん? どないしました』

『思念波を感じる・・・神殿の周囲に結界が張られているようです』

 早苗が強く思念波を発すると、結界にポカリと穴が空いた。

『さあ、中へ入りましょう』

 神殿の中は五メートル四方の空間で、床一面に、翡翠を薄く板状に加工したタイルが敷き詰められていた。 

 神殿の中に一歩足を踏み入れると、空気は淀んだように生暖かく、身体にまとわりつくように微かな腐臭が漂っていた。本来清浄であるはずの神域は、禍々しい邪気の底に沈んでいる。

 神殿の中央には、高さが一メートル、長さが二メートルの石像が横たわっていた。上半身を起こして肘を突き膝を立て、顔を九十度横に曲げ、腹部に両手をあてて皿のような容器を抱えている。天井部分にも採光用の穴が空いているのだろう、石像はスポットライトを浴びているかのように、光の輪の中に浮かび上がっている。

『明日香さん、これは・・・』

『この石像は、生贄の心臓を太陽に捧げる台《チャクモール像》ですよ』

 早苗と伊藤はチャクモール像の前に進んだ。伊藤は早苗を背中に庇い、床に何か落とし穴のような仕掛けでもあるのではないかと、足元を気にしながら恐る恐る足を運んでいる。伊藤の姿は、ソフト帽を被り腰に鞭をぶら下げたハリウッド映画の主役のようだ。

 チャクモール像の腹部の上に置かれている容器は、翡翠で造られた大きな鉢だった。鉢には、溢れんばかりに何かが盛られていた。

『これは・・・キャッ!』

『ウゲエエ!』

 翡翠の鉢に山のように盛られていたのは幾つもの人の心臓だった。たったいま胸の中から取り出したかのように、どの心臓も鮮血にまみれていて、しかも、まるで生きているかのようにドクリドクリと脈打っている。心臓の数は十九個、それは、ギギアハウによって鏡の世界に取り込まれ、心臓を求めて徘徊するハドソンたちの人数と符合する。そう、これはハドソンたちの心臓だった・・・いや、一個多い。それは大巌坊の心臓だ。

 マヤ文明における聖なる数字は二十。ギギアハウは瞭の心臓をここに加えて、二十個の心臓を神に捧げることで、神の力を得てこの世の支配者になろうとしているのだ。

 早苗は口元に手を当てて、いまにも貧血を起こしそうな青白い顔をしながらも、意識はしっかりと翡翠の鉢に盛られた心臓に向けている。早苗が神殿の外で感得したのは、十九個の心臓が発する無言の情念だ。それは、助け、いや、安息を求めている。

『これは私たちを襲った、あの人たちの心臓だわ。あの人たちはギギアハウに奪われた心臓を求めて徘徊しているのね』

『明日香さん、まさか、この心臓をあいつらに返そうやなんて考えてはるんとちゃうやろね・・・ハハハ・・・え? そうや?・・・ムウウ・・・』

 伊藤の顔色が、早苗よりも青白く変わった。もはや青どころか土気色をしている。身体から取り出されてもドクリドクリと動き続ける心臓に比べれば、化け物など可愛いもんだと思っているのかも知れない。

『伊藤さん、ふたりで抱えれば、あの鉢ごと持ち上げることができるんじゃないかしら』

 早苗の提案に伊藤はブルブルと首を横に振った。

『そうや、ええ考えがありますわ。あいつらは私たちを追って階段を上っているんでしょ。私たちがここで待っとったら、あいつらここに入ってきて、勝手に自分の心臓を見つけて、ああよかったいうて喜んで帰っていかはるんとちゃいますか。それやったら、こっちの手間も省ける。うん、そのとおりや。明日香さん、そうしましょ』

 今度は早苗がイヤイヤと首を横に振った。

『この神殿にはギギアハウの思念波が張り巡らされています。結界が張られているんです。あの人たちは、この神殿の中には入ってこられない、いや、それどころか神殿の存在自体を認識できないでしょう。この心臓をあの人たちに返すには、ここから持ち出すしか方法がないんです。さあ、伊藤さん!』

 早苗は伊藤の返事を待たずにチャクモール像にスタスタと歩み寄ると、翡翠の鉢に手を掛けた。こうなれば、もはや伊藤に拒否はできない。伊藤もしぶしぶと翡翠の鉢に手を掛けた。

 鉢の中で果物のように山盛りになっている心臓の、ひとつひとつがドクリドクリと動いている。伊藤は喉の奥にこみあげてきた苦い胃液をグウッと呑み込んだ。男、伊藤としては、早苗の前で恥ずかしい姿を見せる訳にはいかない。やせ我慢は男の美学だ。

『せーの!』

 ふたりが両手に力を込めると、翡翠の鉢がユラリと持ち上がった。成人の心臓の重さは約三百グラムで、十九個の心臓の重さは六キログラム弱となる。大きな翡翠の鉢の重さを加えると、総重量は十キログラムほどだろう。

 早苗と伊藤は慎重に足を運んだ。床に落としでもしたら目も当てられない。神殿の入口に立っている二本の柱は目の前だ。  

 神殿を揺るがすような衝撃と共に、上空から落下したギギアハウが屋根を突き破って、神殿の中に転がり落ちた。崩れ落ちた屋根の石材がガラガラと音を立ててギギアハウの身体の上に降り注いだ。

 早苗と伊藤が振り返ると、崩れた石材が小山のように積み上がっていた。何ごとが起きたのかと早苗が考える間もなく、身体の上の石材をガラリと押しのけて、ギギアハウが幽鬼のようにユラリと立ち上がった。

『明日香さん、ギギアハウや!』

『伊藤さん、急いで外へ!』

 生贄の心臓が盛られた翡翠の鉢を抱えて神殿から出ようとしている早苗と伊藤を見て、ギギアハウは胸まで垂れた髭に覆われた口の口角を上げ、黄色い歯を剥きだしてカアアと威嚇するような表情をした。そして、獲物を追って走るジャガーのようにしなやかに身体を翻すと、早苗と伊藤の背中に迫った。


 ピラミッドの北面に設けられた階段の、最上部から二十段下の石段に腰を下ろして、階段を上ってくるハドソンたち襲撃者を次々に撃ち落としていた羽賀は、手にしているサブマシンガンに違和感を覚えていた。連射により銃身は素手で触れないほど熱を持ち、更に、カンヘル攻撃用に試作された高性能炸薬弾を使用するために、動作機構やマガジンに加えた改造が変調をきたしていた。命中精度の低下や発射タイミングのずれや薬莢詰まりなどの作動不良が発生し始めたのだ。

 階段を上ってきた三十代と思われる男に向かって、羽賀はサブマシンガンの引き金を引いた。

 ボンッという強い衝撃でサブマシンガンは羽賀の手からもぎ取られた。サブマシンガンが暴発して、弾け飛んだのだ。くの字に曲がったサブマシンガンが、カラカラと回転しながら階段を滑り落ちた。

 羽賀は咄嗟に爆炎から顔を背けた。そのおかげで、羽賀の顔面に向かって飛んだ金属片は、羽賀の左頬の肉を三センチほど切り裂いただけで、羽賀の後方に飛び去った。

 暴発の衝撃で羽賀の意識が一瞬薄れ、貧血を起こしたかのように目の前がスウッと暗くなった。その一瞬の隙に、石斧を持った男が階段を上り、羽賀の前に立った。意識の戻った羽賀が目の前の男に気付き、アッと思って頭を上げた。羽賀に向かって、男が石斧を振り下ろした。

 バシュッ! ボン! 男の身体を高性能炸薬弾が貫通し、体外で拳ほどの大きさの爆炎が広がった。男の身体が衝撃で弓のように仰け反る。その男の腹を羽賀は右足で思い切り蹴った。男は仰向けに倒れると、階段をゴロゴロと転がり落ちた。

『羽賀さん、大丈夫ですか! いま助けにいきます』

 羽賀の頭の中で響いたのは成田の声だった。炎の海を逃れた成田は、羽賀たちの所へ戻ってきたのだ。

 成田はピラミッドの北面の階段を駆け上りながら、行く手に立ち塞がる襲撃者たちに向かってサブマシンガンの引き金を引いた。

 幾度目か引き金を引いたとき、カチンと撃針だけが作動して、サブマシンガンが沈黙した。とうとう銃弾を撃ち尽くしたのだ。

『ここまできて、弾切れかよ・・・ええい、邪魔くせぇ、どけ!』

 成田はサブマシンガンを振り回して、成田に向けられた石斧や槍の穂先を弾き飛ばすと、目の前の男の襟を掴んで足払いを掛け、もうひとりの男の腕を取って背負い投げを放った。成田の目の前に立ち塞がっているのは、御手洗達造と米山美代子のふたりだけとなった。

 ・・・太った年寄りと痩せた中年女性なら、相手にならんな・・・

 成田は御手洗達造と米山美代子を突き飛ばすようにして、ふたりの間を走り抜けようとした。その先の石段には、羽賀が腰を下ろしていて、成田に向かって何かを伝えようとしている。

『成田! あぶない!』

 ・・・あぶない?・・・

 成田の身体が宙に浮いた。

 米山美代子が成田の腰に手を回し、投身自殺をするかのように、階段から身を投げた。バランスを崩した成田は、受け身を取ることもできずに、背中から石の階段に叩きつけられた。成田はゴキリと背骨の折れる鈍い感触を感じた。

 ・・・マッタク、最後の最後で油断するとは、しょうがねぇなぁ・・・

 階段を転がり落ちながら、成田は不思議と冷静だった。

 ・・・ああ、暗くなってきた・・・

 成田は意識を失った。

『成田!』

 階段を転がり落ちた成田の元へ駆け寄ろうと腰を上げかけた羽賀は、立ち上がることができずに階段の上に尻もちをついた。大量の出血のために、脚に力が入らなかった。羽賀は力尽きたかのようにガクリと項垂れた。


 大きな翡翠の鉢を抱えて神殿を出た早苗と伊藤は、北面の階段の最上段まであと数歩という所で、ギギアハウの気配を感じて振り返った。

 低い姿勢で床の上を滑るように走ったギギアハウが、ザッと床を蹴ると、早苗の背中に向かって跳躍した。心持ち背中を丸めて両腕両足を折り曲げた姿は、獲物に跳びかかるジャガーそのものだ。ギギアハウの両手の十本の指の先から、猫科の動物のように、鋭いカギ爪が飛び出している。

 ギギアハウのカギ爪が早苗の背中に迫る。

 早苗がつまずいた。釣られるように伊藤がよろめき、ふたりが抱えていた大きな翡翠の鉢は、放り出されるようにして階段の下に消えた。

『早苗ちゃん!』

 瞭の声が早苗の脳内に響くと同時に、早苗の背中に迫っていたギギアハウの身体が、見えない巨人の手で叩かれたかのように後方に吹き飛んだ。ギギアハウは上空に浮かび上がろうともがいたが、身体を貫いてぶら下がっている輪の重みのために身体が浮き上がらない。ギギアハウは頭から神殿の壁に激突すると、ドサリと床に落ちた。

 錫杖に乗った瞭と祥吾が上空からヒラリと舞い下りた。

 祥吾が錫杖を左手で持ち、床の上に石突を突くと、ジャラリと錫杖の音が響いた。その姿は大巌坊に生き写しだ。

 早苗を背中に庇うようにして、瞭がギギアハウと向き合った。瞭の右手がスウッと上がる。ギギアハウは胸まで垂れた髭に覆われた口の口角を上げ、瞭に向かって黄色い歯を剥きだしてカアアと威嚇してから、くるりと背を向けて神殿の中に走り込んだ。

 まるでそれを待っていたかのように、神殿の屋根が、底が抜けたようにガラガラと崩れた。力の均衡が崩れたのだろう、東の壁、西の壁、南の壁が折り重なるように内側に倒れ込み、最後に北の壁が入口の二本の石柱だけ残して倒れた。ギギアハウは神殿の瓦礫の下に埋もれた。

『瞭・・・』

『いや、僕じゃない。僕が念動波を発する前に、神殿が勝手に崩れたんだ』

 瞭と祥吾は神殿の瓦礫の山の前で、あっけに取られたような顔をしている。

 大きな翡翠の鉢は、千々に割れながら階段を転がり落ちた。十九個の心臓もコロコロと階段を転がり落ちている。翡翠の鉢の底に溜まっていた血は、階段の縁にある石の斜面の上をザアッと流れている。その石の斜面は階段の最下段のククルカンの頭部の彫刻に繋がっている。まさしく、血はククルカンの背中を伝って流れ落ちている。

 階段の下に横たわってピクリとも動かない成田に意識を向けて、ボンヤリと放心している羽賀の横を、坂道を転がる林檎のように、心臓が転がっている。

 ・・・成田の馬鹿野郎、死んじまったのかよ・・・

 羽賀の頭の中は成田のことでいっぱいになっていて、羽賀は自分の横を転がっていく心臓に気付いていない。

 羽賀の前まで迫っていた襲撃者たちは、目の前に現れた心臓を見て、口々にオオオウと叫びながら、這いずるようにして自分の心臓を探した。そして、自分の心臓を見つけると、一度両手で頭上に掲げてから、胸の真ん中に押し当てた。心臓がスウッと胸の中に融け入ると、襲撃者たちの身体は陽炎のようにユラリと消えた。消える直前の襲撃者たちの顔は、それまでの無表情から笑みを浮かべた穏やかな表情に変わっていた。ギギアハウに囚われた魂が昇華したのだ。

 ひとり、またひとりと襲撃者は姿を消し、そして誰もいなくなった。階段の上に、大巌坊の心臓だけが転がっている。

 早苗は床に両膝を突いた姿勢で、ソロソロと階段を覗き込んだ。早苗は不思議な波動を感じていた。それは大地震の前兆の地鳴りのようでもあり、積乱雲に溜め込まれた雷のエネルギーの発する圧力のようでもあり、噴火する直前の火山の地下で蠢くマグマの胎動ようでもあった。ひどく濃密な何かが実体を得ようと蠢いているようだ。

 ・・・血が・・・血が、ククルカンの背中を赤く染めている・・・

 翡翠の鉢の底に溜まっていただけの少量の血のはずが、階段の縁にある石の斜面の上を真っ赤に染めながら、階段の最下段のククルカンの頭部の彫刻に向かって、意思を持った原生生物のようにウネウネと伸びている。

 春分と秋分の日の太陽が沈むときに真西から照らされて、北面の階段の縁にある石の斜面にククルカンの胴体が現れる。ククルカンの背中を赤く染めて伸びる血は、その陽光の代わりだ。

『瞭、血が・・・ククルカンの頭部の彫刻に向かって血が伸びている・・・あの頭部の彫刻に血が到達したときに、ククルカンが降臨されるんだわ』

 神威を感得した早苗は床の上にペタリと座ると、胸の前で手を組み、首を垂れた。

 瞭のジーンズのポケットの中の、直径二センチほどの円形をしたブローチのような鏡が、突然ビリビリと振動を始めた。それに合わせて、鏡はほんのりと温かくなったかと思うと、あっという間に熱くなった。

 瞭は思わずポケットから鏡を掴み出した。

 ・・・どうしたんだ、これは・・・何かを知らせているのか?・・・危険・・・危険が迫っている・・・逃げろと伝えているんだ・・・

 瞭の脳裏にククルカンという文字が浮かんだ。ククルカンの降臨が何をもたらすのかは分からないが、このままここにいてはまずい。それを鏡が知らせているのだと瞭は悟った。

『早苗ちゃん、祥吾、伊藤さん。ここから逃げよう!』

『瞭、急にどうしたんだい』

『祥吾、触らぬ神に祟りなしっていうだろう。血によって降臨される神というのは尋常じゃない気がするんだ。ククルカンにはかかわらない方がよさそうだ。とにかく、ククルカンが降臨される前に、ピラミッドから離れよう。そういえば、羽賀さんと成田さんはどうした』

 瞭は二十段下の石段に腰を下ろして項垂れている羽賀の背中に気付いた。そして、そのはるか下、階段の尽きた先の地面には成田が横たわっていた。

 ・・・ふたりに何があったんだ・・・いや、そんなことを詮索している場合じゃない・・・

 瞭は脳裏に浮かんだ疑問を強引に振り払った。瞭の肩越しに羽賀と成田の姿を認めた伊藤がムウウと絶句した。

『祥吾、錫杖を使って飛ぶぞ。早苗ちゃんは僕が背負う。伊藤さんは、錫杖に掴まって、絶対に手を離さないように』

 床に置いた錫杖の上に、早苗を背負った瞭が二本足で立った。その後ろに祥吾が立ち、更にその後ろで伊藤が錫杖を両手で握りしめている。

『こんなに重とうて、あんじょう宙に浮くんでっか』

 伊藤は半信半疑だ。

『サイコキネシスで物を浮かせる場合に、重さは関係ないんです。浮かんでいる仮想空間を脳内に描いて、それを目の前の現実空間に置き換えればいい。問題は、それが重いということを脳が経験として認識していて、その経験が仮想空間の構築を邪魔することなんです。・・・ハハハ、これは、昔、僕にサイコキネシスを手ほどきしてくれた人の受け売りですけどね』

 瞭の脳内に仮想空間が浮ぶと同時に、瞭の脳内が沸騰した。目の前の現実空間がグニャリと歪む。

 瞭たちはフワリと浮き上がった。

『まず羽賀さんを助ける、成田さんはその後だ。祥吾、できるな』

『瞭、任せてよ』

 錫杖に乗った瞭たちは、北の階段の二メートル上空を、階段の傾斜に沿って滑るように降下した。

 祥吾は錫杖に跨ると、身体をクルリと回した。両足を組んで錫杖に絡めて、頭を下にしてぶら下がっている。祥吾は両手を広げると、目の前の羽賀の大きな背中にしがみついた。

『瞭、羽賀さんを掴んだ!』

『祥吾、そのまま頑張れ。放すなよ』

 瞭たちは羽賀の身体ごと上空に舞い上がった。


 ピラミッドの北側五百メートルの場所に聖なるセノーテ・サグラドがある。そのセノーテのすぐ横の小さな空き地に瞭たちの姿があった。黒く焼け焦げた木々が亡霊のように空き地を取り囲んでいる。この前の戦いのときにギギアハウが放った炎によって、一帯は火の海に沈んだためだ。

 早苗たちをここに運んだ後、瞭と祥吾は階段下で横たわっていた成田を救出した。成田は腰椎を折る重傷で、いまのところ意識はないものの、伊藤によれば心肺機能には問題がないそうだ。

 羽賀と成田が並んで地面に横たわり、その傍に伊藤が地面に腰を下ろして座っている。瞭と早苗と祥吾は立ったまま、ピラミッドの階段の縁にある石の斜面の上を流れる血を見ていた。血は間もなく階段の最下段のククルカンの頭部の彫刻に到達しようとしている。

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