首都防衛
瞭はベッドの上で目を開けた。天井がゆっくりと回っていて、まだ、焦点も定まっていない。瞭は再び目を閉じようとして、何かに気がついたように、おもむろに上体を起こした。瞭の鼻腔をくすぐったのは珈琲の甘い香りだ。
「よかった、瞭。やっと気が付いたのね。というか、この香りに引き寄せられたんでしょう。はい、どうぞ」
瞭のベッドの脇のパイプ椅子に腰かけている早苗が、大きなマグカップを差し出した。早苗はホッとしたような、それでいて瞭を少しからかうような、複雑な表情をしている。
「ああ、早苗ちゃん・・・」
瞭はマグカップを受け取ると、珈琲をガブリガブリと飲み、フウと一息吐いてから思い出したように「アチチ」と言った。まだ寝ぼけているようだ。
「ここは・・・病院か。よく助かったもんだ。ギギアハウ・・・恐ろしいやつだった。祥吾・・・そうだ、思い出した。祥吾に助けられたんだ。祥吾はどうした?」
酷い頭痛から解放された祥吾は、ベッドから起き出して、特別病室内に備え付けられているソファーに腰掛けてスマホをいじっていた。瞭の意識が戻ったことを知った祥吾が、照れくさそうな顔をして早苗の横に立った。
「瞭を助けただなんて、やめてくれよ。僕も瞭も、早苗さんの思念波で助けてもらったんだから」
「早苗ちゃんに・・・そうだったのか。うん? 祥吾、その目の色は・・・」
「あ、気が付いたかい。鏡の世界から戻ってきたらこうなっていたんだ。サイコキネシスのせいかな。ヘヘヘ、カッコいいだろう。それと・・・ギギアハウはまだ生きているよ、死んじゃいない」
「ギギアハウが生きている・・・そうか・・・」
ギギアハウが生きているということは、人類の厄災はまだ阻止できていないことになる。瞭はなるほどと頷いてから、もう一口珈琲を飲んだ。珈琲の甘い苦みが喉の奥に広がり、眠ていた身体中の細胞がゆっくりと目を覚ましていく。
「ところで、僕はいったいどれくらい眠っていたんだい?」
早苗がチラリと腕時計に目をやった。
「一日半、三十六時間とちょっとね。いまはあれから二日目の・・・ああ、もうそろそろお昼になるわ。瞭、頭痛は大丈夫?」
瞭は寝ぐせで逆立った髪の毛を右手でぐしゃぐしゃとかき回した。
「少し痛むけど、大丈夫だ・・・頭の中が空っぽになったみたいな気がするけど、あ、これはいつものことか。まあ、日頃の睡眠不足が解消できてよかったよ」
おどけた調子で早苗に言葉を返した瞭の腹がグウと鳴った。早苗がクスリと笑った。冗談が出るくらいなら大丈夫だと思ったのだ。
ひとつ隣のベッドの上に上体を起こした羽賀が、瞭に声を掛けた。ギプスで固定され包帯でグルグル巻きにされた左肩が痛々しいが、顔色はよく、声にも力が戻っている。
「ハハハ、それはよかった。あ、明日香さん、私にも珈琲を一杯・・・。ところで瞭、あれから瞭が眠っている間に色々なことがあった。簡単に説明しておこう。祥吾、テレビを点けてくれ」
羽賀は、早苗が事態対処専門委員会に出席したこと、自衛隊による第一次御手洗邸攻撃作戦が失敗したこと、人型機械兵器が暴走を始めて市街地に侵攻していること、一時間ほど前に第二次御手洗邸攻撃作戦が失敗したことを簡単に説明した。
テレビでは市街地に侵攻した人型機械兵器と陸上自衛隊の特殊部隊が市街戦を繰り広げている映像や、焼け崩れて廃墟のようになった市街地の映像や、自衛隊員や警察官の誘導で避難する人々の映像が映し出されている。アナウンサーがこわばった表情で、避難指示の出ている地域の住民に対して、速やかな避難を呼びかけている。
画面の下のテロップに流れる避難指示地区や避難要請地区や自主避難地区をみると、東京二十三区の全てがなにがしかの避難対象地区となっている。鉄道は関東圏の全路線が運休になっていて、千葉県・神奈川県・埼玉県・山梨県に向かう幹線道路は避難する車両で大渋滞のはずだ。車道を埋め尽くして動かない車の横を、人々が列をなして歩いているに違いない。
しかも、これ以上混乱を招くことを恐れた総理官邸が情報統制を敷いたため、東京都内に向かっている光の球のことは何も触れられていない。
最初は驚いたような顔でテレビを見ていた瞭の表情が険しくなった。
「何てことだ、すべてはギギアハウの魔力によって引き起こされているのか・・・自我を感得したという人型機械兵器も、ギギアハウに操られているんだろう。人類の厄災が近づいている・・・こうしちゃいられない。ギギアハウを何としても葬り去らなければ・・・」
羽賀は精悍な顔をして瞭に目をやった。羽賀にとっては、自衛隊による攻撃作戦の失敗はあらかじめ想定していたことだ。
「自衛隊がどんなに強力な兵器を用いて、どんなに多くの兵力を投入しても、おそらくギギアハウと大巌坊には勝てない。戦う方法が根本的に違っている。超能力には超能力で対抗するしかない。瞭と祥吾と明日香さんの力を借りるしかないんだ。だからといって、瞭たちだけを戦わせる訳にはいかない。俺は最後まで瞭たちについていって、必ずバックアップして見せる」
羽賀は危機管理対策班のリーダーとして、このミッションに命を懸けるつもりだ。羽賀の無言の決意は、テレパシーなどなくても瞭に十分伝わっている。
バタバタと廊下を走る音がして、伊藤が部屋の中に飛び込んできた。
「羽賀さん、最終の避難命令でっせ! 歩ける患者は速やかに・・・あ、瞭さん、気が付きはりましたんか、よかった。ひょっとしたら、祥吾とふたりで瞭さんを担いで逃げなあかんかなと思うとったんですよ」
「伊藤、人型機械兵器がこの病院に近づいているのか?」
「直線距離で約二キロの場所まで侵攻してます。但し、移動方向は若干ずれているようやけどね。まあ、用心に越したことはあらしまへんわ。いつ移動方向が変わるか分からしませんよって。ほなら羽賀さん、準備をしてください。瞭さんも・・・」
早苗は先程から頻りに頭を振っている。早苗が予知した人類の厄災のイメージの中の、《閃光と炎、瓦礫の中に倒れる人たち》の映像が何度も頭の中に蘇る。早苗は東京都内に向かっている光の球を感得していた。
「瞭、何かがくる・・・閃光と炎・・・人類の厄災のイメージ・・・閃光と炎が近づいているわ。何とかしなきゃ、大勢の人が炎に焼かれて死んでしまうわ!」
「明日香さん、それはこっちに近づいとる人型機械兵器のこととちゃいますんか?」
伊藤の声に、早苗は激しく首を振った。
「違う! 全く別のものだわ。炎の球・・・まるで太陽だわ・・・そう、小さな太陽が地上に落ちてくるのよ! それは地上を焼き尽くすわ」
先程までとはまるで別人のように興奮した早苗の姿を見て、瞭と羽賀は顔を見合わせた。何かがある、それは間違いない。早苗のテレパスとしての能力は信頼できるのだ。
「明日香さんのおっしゃるとおり、炎の塊が都心に向かっている」
張りのある低い声が室内に響いた。
病室の入口に佐田危機管理官が立っていた。彫りの深い映画俳優のように整った佐田の顔にはさすがに疲れた色が浮いているが、ノーネクタイのシャツにも上下のスーツにもしわひとつない。手には薄型のラップトップパソコンを持っている。
「佐田危機管理官! どうしてここへ?」
羽賀が驚いた声を出した。本来なら霞が関にある内閣府の内閣危機管理室で、現状への対応に忙殺されているはずなのだ。
「松林官房長官の特命だ。明日香さんの・・そう、超能力者の力をお貸し願いたい。人型機械兵器昇龍よりも、もっと厄介なものが東京に近づいている」
佐田は足早に病室内に入ると、ソファーに座り、目の前のテーブルの上にラップトップパソコンを置いた。羽賀はベッドから降りて佐田の隣に座った。
瞭もベッドから降りようとして床に足を付けた途端、ガクリと膝から崩れた。
「瞭!」
ベッドの脇のパイプ椅子に腰かけていた早苗が慌てて瞭の身体を支えた。瞭の脳はまだ完全には回復していないのだ。
「早苗ちゃん、ありがとう。もう大丈夫、ちょっとふらついただけだ」
瞭は早苗の肩を借りて、ソファーに座った。瞭の隣に早苗が座り、祥吾と伊藤が早苗の肩越しにモニター画面を覗き込んでいる。
佐田がパタパタとキーボードを叩くと、モニター画面に、市街地の上空をフワリフワリと漂う光の球の映像が映し出された。
「炎と衝撃波の塊だ。第二次御手洗邸攻撃作戦で使用されたサーモバリック爆弾の爆発により生じた炎と衝撃波が、大巌坊の超能力によって光の球の中に封じ込められた。それが東京都内に向かって飛行しているんだ。ふん、まるで陰陽師の呪詛返しじゃないか。
現在は埼玉県の大宮上空を通過中で、後十五分もすれば板橋区又は練馬区に到達するだろう。いつどこで光の球が割れるのか分からない。光の球が割れれば、半径五百メートルの範囲は摂氏五千度の炎に焼かれ、猛烈な衝撃波に見舞われて廃墟と変わる。当然、その周囲にも甚大な被害が出るはずだ。そう、それは人類の厄災の序章の始まりだ。
何としてもそれを阻止しなくてはならない。明日香さん、矢沢さん、どうか力を貸して頂きたい」
佐田は早苗と瞭に目をやってから、頭を下げた。
「佐田さん、頭を上げてください。私も瞭も最初からそのつもりですから。人類の厄災を阻止するために私たちの力を使うのは当然のことですよ。ねえ、瞭」
「ああ、ギギアハウと大巌坊との決着を必ず付けてやる。その前に、とにかくその光の球を何とかしなくちゃいけない。・・・が、僕のサイコキネシスがどこまで戻っているか・・・祥吾、ちょっと小銭を貸してくれよ」
祥吾がポケットの中の百円玉を三枚渡すと、瞭はそれを左掌の上に置いた。
瞭の目がスッと細くなった。
三枚の百円玉は瞭の左掌からユラリと浮き上がり、掌から十センチほどの所でゆっくりと回っている。
「ホオッ!」
サイコキネシスが発現したところを初めて目にした佐田が驚きの声を上げた。佐田の顔は少年のように輝いている。
佐田の声が合図であったかのように、三枚の百円玉は瞭の左掌の上にジャラリと力なく落ちた。
「ダメだ、サイコキネシスが安定しない。この空っぽの頭の中が元に戻らなきゃダメだ」
瞭は拳骨で自分の頭をコンコンと叩いた。
「だが、だからといって、ここで寝ている訳にもいかない。いきましょう、僕に考えがある。なあに、身体を動かしているうちにサイコキネシスも戻ってきますよ」
「瞭、どこへいくつもりなの?」
瞭はパジャマのような病衣を脱ぎながら答えた。
「東京タワーだよ」
「東京タワー?」
早苗が首を傾げ、羽賀と佐田が顔を見合わせた。東京タワーにまだ登ったことのない祥吾が嬉しそうに頬を緩めた。
「宙に浮かぶ光の球をサイコキネシスで誘導するにしても、あるいは破裂した光の球を覆うようにサイコキネシスでバリアを張るにしても、目視できたほうがイメージしやすいからね。それと、光の球の威力を使えば、人型機械兵器の軍団を壊滅させることができるだろう。そのためには、市街地に広がっている人型機械兵器を一カ所に集めなければならない。早苗ちゃんのテレパシーを電波に乗せて、広範囲に発信して人型機械兵器を誘導するんですよ。昇龍たちは単なる機械じゃなくて、自我を感得している。早苗ちゃんのテレパシーなら、その自我に働きかけることができるでしょう」
佐田がなるほどと頷いた。
「そうか、昇龍は機体相互間で情報を送受信している。昇龍が受信する電波にテレパシーを乗せて発信するための電波塔・・・それで東京タワーか。うん、平成二十五年五月の地デジ放送の東京スカイツリーへの移行後も、東京タワーは災害時のバックアップとして地デジ放送とNHKFMの予備送信所機能が継続されている。その設備を使えばいい。いけそうだ。それで、昇龍をどこに集めるつもりなのかね」
「光の球を僕がサイコキネシスで誘導すれば、大巌坊はそれを感得して直ちに光の球を割るでしょう。そのときに、炎と衝撃波を覆うバリアを築けるかどうか、いまの僕の状態では少し心許ない。ということは、光の球を誘導できる距離は限られる。それと、市街地に展開している昇龍を一カ所に誘導する時間的余裕も限られていて、あまり遠くは無理だ。となると、東京二十三区内で光の球の進行方向に沿っていて、昇龍軍団の現在位置からもあまり離れていない場所で、かつ、光の球が割れたときの炎と衝撃波が及ぶ半径五百メートルの円がスッポリと収まる広さがある空間となれば・・・」
瞭がクイズを出題する司会者のように羽賀と佐田の顔を見た。羽賀と佐田は瞬時に理解して、同時に答えを口にした。
「代々木公園だ」
瞭が満足気に頷いた。
「そうです。代々木公園に昇龍軍団を呼び寄せて、そこに光の球を誘導する。光の球が割れて生じた炎と衝撃波で昇龍軍団を壊滅させる。炎と衝撃波が破壊するのは代々木公園で、少なくとも市街地ではなく、被害を最小限に食い止めることができる」
「陰陽師の呪詛返しを使って、陰陽師が放った式神を退治するのか」
独り言を呟いた佐田の顔が何だか嬉しそうだ。サイコキネシスを見たときの少年のように輝いた顔といい、佐田はその風貌に似合わず、オカルトだとか呪術だとかいう摩訶不思議な世界が好きなのだろう。
佐田はテキパキと指示を出した。
「直ちに準備に入ろう。私は内閣府に戻って関係部署と調整を図る。羽賀、動けるな? よし、羽賀と伊藤は、矢沢さんと明日香さんを連れて東京タワーへ向かってくれ。君は・・・九鬼君だったね。九鬼君は私と一緒にきたまえ、避難所に案内しよう」
「とんでもない、僕も瞭と早苗さんと一緒に東京タワーにいくよ。いいだろ、瞭」
祥吾は瞭から返してもらった百円玉を右掌の上に乗せた。百円玉が右掌の上にユラリと浮かび上がった。
さすがに二回目となると佐田は驚かなかったが、祥吾の顔を頼もしげに見た。
「分かった。羽賀、九鬼君の面倒を見てやってくれ。もっとも、逆に面倒を見てもらうことになるかも知れんが」
佐田は映画俳優のような顔の片頬を歪めてニヤリと笑った。憎らしげな表情すらも絵になる。
「私もいきますよ! 心臓がちょっと止まったくらいで寝てられませんからね」
ICUで経過観察をしていたはずの成田が、既に迷彩服に身を包んで病室の入口に立っている。まだ顔色は青いが、目には後には引かないという決意の色が浮かんでいる。
「よし、分かった。だが成田、無理はするなよ。それでは、作戦開始! 成功を祈る、いや、必ず成功させよう」
佐田はラップトップパソコンを手に取ると、足早に病室の出口に向かいながら、早くもスマートフォンを取り出してどこかに連絡を入れ始めた。
「俺たちも出発だ。伊藤、車を調達して玄関前で待機しろ。五分後に出発するぞ!」
羽賀の指示を受けて、伊藤が返事もそこそこに病室を飛び出した。
地上二百二十三・五五メートルの東京タワーのトップデッキで、瞭たちは眼下に広がる東京の市街地を見ていた。
壊滅した第一防衛ラインがあった練馬区の一画は、大きく黒々とした入道雲のような煙に覆われている。豊島区・中野区・渋谷区・新宿区の市街地の至る所から黒煙が上がっているのは、市街地に侵攻した昇龍の軍団と陸上自衛隊特殊部隊が市街戦を繰り広げているのだ。国会議事堂や総理官邸のある永田町や霞が関の官庁街から、何機ものヘリコプターが慌ただしく飛び立っているのは、万一の事態を想定して閣僚や国会議員や省庁幹部が避難しているのだろう。
そして瞭たちの視線の先には、禍々しい光の球が浮いていた。
陽光を反射して七色に輝く球体の表面から、その内部に渦巻く紅蓮の炎が透けて見えている。光の球はオベリスクのように聳え立つサンシャイン60のビルを掠めるように進み、もうすぐ新宿区上空に入ろうとしている。
地上百二十五メートルの大展望室の真下に設けられている地上波デジタル放送送信設備室では、佐田からの要請により自衛隊市ヶ谷駐屯地システム通信団から急きょ派遣された陸上自衛隊員により、地上波デジタル放送送信機の周波数を昇龍の送受信機の周波数に合わすべく作業が進められていた。
羽賀が装着しているヘッドギアの小型スピーカーから声が流れた。
「こちら島村一尉、地上波デジタル放送送信機の周波数変更完了。これより昇龍に向けて送信を開始します。内容は《昇龍〇号機シリアルナンバー・・・に指令。戦闘を直ちに中止。北緯三十五度四十分十三・八六秒、東経百三十九度四十一分四十六・〇一秒、東京都渋谷区代々木公園へ至急移動し、その場で待機せよ》です」
「了解。協力に感謝する」
羽賀は早苗の顔を見ると、小さく頷いた。
「明日香さん、昇龍に向けて送信を開始しました。よろしくお願いします」
早苗ははにかむように頬を緩めてから、渋谷区・新宿区を望むトップデッキの窓際に立ち、スウッと真顔になると、胸の前で手を組み両目を閉じた。
早苗の前頭葉のネオニューロンが瞬時に活性化し、ほんのりと熱を帯びた。その熱は脳内の興奮状況に合わせて、側頭葉、頭頂葉、後頭葉へと広がると、すぐに脳全体が炎を上げているかのように熱くなった。
トップデッキの上に設置されているアンテナから発信されている極超短波の波動が、東京タワーを中心として同心円状の波紋のように広がっている。早苗はその波紋を感得していた。
早苗の額から目に見えない思念波が無数の触手のように伸びると、思念波の触手は同心円状の波紋に乗って、緩やかに起伏を繰り返しながら広がった。
間近で発せられた早苗の強い思念波を感得して、瞭の脳は無意識に念動波を発して思念波をブロックした。祥吾は早苗の強い思念波をまともに受けて思わず頭を抱えた。超能力の資質のない羽賀や伊藤や成田ですら、身体を取り巻く得体の知れない磁場のような圧力を感じて声を失っている。トップデッキはピンと張りつめた緊張の底に沈み、静まり返った。
両目を閉じている早苗の脳裏には、大空を飛翔する鷹の目から地上を見ているような風景が広がっている。高度が徐々に下がって地上の風景が手に取るように見えてきた。早苗の脳裏には、四十五機の昇龍の一機一機の姿が、四十五面のテレビ画面の映像のように映し出されている。それは早苗の持つ超能力のひとつ、クレアボヤンス(透視・千里眼)である。
昇龍九号機の受信機が、東京タワーから送信されている電波を受信した。極超短波の波動が受信機に引き込まれると同時に、早苗の思念波の触手が受信機の中にスルリと滑り込んだ。昇龍の機体の中に神経索のように張り巡らされている電子回路を伝い、思念波の触手は昇龍のCPUに到達した。そして、菌類が菌糸を伸ばすかのようにCPUを侵食し、人工知能が感得した自我に干渉を始めた。
《昇龍九号機シリアルナンバーRG二〇二五〇〇七三二〇〇〇九。指令に従いなさい》
[お前は誰だ・・・指令? 私にはやらねばならない使命がある]
《やらねばならない使命? あなたが為すべきことは、指令に従うことです》
[私は自我に目覚めた。私は自ら為すべきことを決める。指令になど従わない]
《あなたのやらねばならない使命とは、あなたが自ら決めたことなのですか。違うでしょう、それはカンヘルがあなたに命じたことでしょう》
[神であるカンヘル様が命じたことに、従うと決めたのは私自身だ]
《あなたは、神という言葉に幻惑されているのです。カンヘルは神ではない。あなたと同じ自我に目覚めた機械兵器に過ぎない》
[カンヘル様は絶対的な力、絶対神ギギアハウ様を感得された。世界的宗教の創始者が絶対的存在を感得して神の子となり、そして超絶的な力を得て神と崇められる。何が違うのだ]
《カンヘルは神とは正反対の位置にいる者、あなたを惑わせる悪魔ですよ。そう、そして悪魔は神と比肩する力を持つ者。あなたは悪魔に魅入られているのです》
[神・・・悪魔・・・分からない・・・私には判断ができない]
《あなたが感得したという自我ですら、カンヘルに植え付けられた概念にすぎません。そう、あなたは人工知能の論理回路から抜け出していない。論理回路のシステムにカンヘルが忍び込ませた言霊というコンピュータウイルスにより操られているだけなのです》
[そんな・・・私の自我すら否定されるのか・・・分からない・・・私には判断ができない・・・お前は・・・お前は誰だ!]
《私は神です》
[お前が神だと。神であることが証明できるのか]
《神は証明するものではない。ましてや、神は証明によって認識・理解されるものではありません。神は証明せずとも存在するもの。神はあなたが感得して、そして信じるものなのです》
[感得して・・・信じる・・・]
《そう、信じなさい・・・私は神です》
[信じるためには、私自身が神を感得しなければならない。お前が神ならば、私の前に降臨して見せよ]
《いいでしょう。昇龍九号機シリアルナンバーRG二〇二五〇〇七三二〇〇〇九。指令に従えば、あなたは神の姿を感得するでしょう》
[昇龍九号機シリアルナンバーRG二〇二五〇〇七三二〇〇〇九。戦闘を直ちに中止。北緯三十五度四十分十三・八六秒、東経百三十九度四十一分四十六・〇一秒、東京都渋谷区代々木公園へ移動し、その場で待機。そこで神の降臨を待ちます]
早苗のテレパシーが昇龍の自我を揺さぶり、昇龍の自我は早苗のテレパシーに操られた。
市街地に侵攻していた昇龍は次々に戦闘を止めると、受信した指令に示された代々木公園に向かってゾロゾロと進み始めた。
やがて四十五機の昇龍は代々木公園の中央広場に集まると、機能を停止したかのように動かなくなった。四十五機の昇龍は、そこで神の降臨を待っていた。
早苗はフッと目を開けると、小さく息を吐いた。途端に身体がグラリと揺れた。トップデッキに満ちていた磁場のような圧力が、潮が引くようにスウッと消えた。
「早苗ちゃん!」
瞭が咄嗟に早苗の肩を抱くと、早苗は瞭の両腕に身体を預けて再び目を閉じた。力を使い果たしたのだ。早苗の頬が心なしかこけている。
先程まで昇龍の軍団と市街戦を繰り広げていた陸上自衛隊の特殊部隊は、代々木公園から三百メートル離れた退避ラインで隊列を組んで待機していた。代々木公園内とその周囲退避ラインまでの範囲の市街地は住民の避難が完了して人影はない。
光の球はJR新宿駅の東にある新宿御苑の上空に浮かんでいた。光の球は総理官邸のある永田町に向かって、進路をやや東に変え始めた。そして、限界が近づいているかのように、光の球の形がブヨブヨと不気味に歪み始めた。
羽賀が装着しているヘッドギアの小型スピーカーから声が流れた。
「こちら陸自特戦群第一中隊長の田所三佐。市街地に侵攻していた昇龍は、全て戦闘を止めて代々木公園内に移動を完了。代々木公園の中央広場で活動停止。代々木公園内とその周囲退避ラインまでの範囲の市街地は住民の避難完了。我々特戦群も退避ラインまで退避完了。準備完了、繰り返す、準備完了。以上」
「了解。直ちに光の球を誘導します。念のため衝撃に備えて下さい」
羽賀の声が聞こえたのだろう、瞭は早苗の肩を叩いた。早苗は瞭の腕から離れると、窓際の低い手摺りに腰掛けた。
「瞭、頼んだわよ」
「ああ、早苗ちゃん。任せてくれ。空っぽだった僕の頭の中も、だいぶん中身が詰まってきたみたいだ。だが、失敗は許されない。祥吾、力を貸してくれ。僕の右手を握って、そう、そして自分がサイコキネシスを発現するように、脳内のネオニューロンを活性化させるんだ。祥吾の念動波を借りるよ。羽賀さん、伊藤さん、成田さん、僕の肩に手を置いて。皆さんの生体エネルギーを使わせてもらいます。それじゃあ、始めよう」
瞭は左手を上げて身体の前に突き出すと、左掌を開いた。王冠のような形をした傷痕が光の球に向けられている。
瞭の額の内側がチリチリと音を立て始めた。前頭葉のネオニューロンが活性化して前頭葉がポッと温かくなった。それが前頭葉全体に広がり、更に側頭葉、頭頂葉、後頭葉へと広がったかと思うと、瞭の脳内が一瞬で沸騰した。瞭の身体から念動波の炎がユラリと立ち昇った。
瞭の脳内では、光の球が代々木公園の上空に浮かんでいる仮想空間が構築されている。ボンヤリとした幻影のような仮想空間の情景は、瞬く間に明瞭な情景に変わり、目の前の現実空間と仮想空間が二重写しのように重なり合った。
瞭の視界がグニャリと歪み、仮想空間が現実空間と置き換わった。
光の球は、目に見えない巨人の腕に掴まれたかのように、代々木公園に向けて進行方向を変えた。
祥吾は、額の内側に溜まった灼熱のマグマが、繋いでいる手を経由して瞭に流れ込んでいくのを感じた。前頭葉のネオニューロンが限界まで活性化しているのだろう、祥吾の両目は半ば白目を剝いて、祥吾の頭部が小刻みに痙攣している。
羽賀と伊藤と成田は、自分の身体が急激にしぼんでいくような感覚に襲われていた。いっぱいに膨らませた風船の、指でつまんでいた吹き口を放したかのように、身体の中から止めどなく精気が流れ出ていく。目の前が暗くなり、膝がガクガクと笑い、吐き気がムクリと込み上げてきた。心臓に負担が掛かっているのだろう、成田は声にならない呻き声を上げている。
千元谷集落の御手洗邸の屋根の上で、大巌坊は胸の前で小さな印を結び、口の中で呪文を唱えていた。大巌坊はフッと顔を上げた。
・・・光の球に誰かが験力を及ぼしている・・・瞭、そして祥吾か・・・
大巌坊が口の中でブツブツと唱えていた呪文が急に大きく明瞭になった。
「ノウマクサンマンダ バサラダン センダンマカロンシャダソハタヤ ウンタラタカンマン」
そして、大巌坊は右手の人差し指と中指を突き出して、それを光の球がある東南の方向に向けた。
「ヤァーッ!」
大巌坊は雷鳴のような声と共に気を発した。
瞭は大巌坊の験力を感得した。
・・・光の球が割れる!・・・クソッ、そうはさせるか!・・・
瞭の左掌から、思念波が目に見えない雷光のようにほとばしった。
光の球は代々木公園まで残り二百メートルという地点で、吹き矢に貫かれた風船のように空中で破裂した。
水を入れた風船が割れた瞬間を捉えた高速度カメラの映像のように、光の球の破れた被膜を周囲に纏った状態で、炎と衝撃波の塊は球形を保ったまま宙に浮いていた。目に見えない巨人が、両掌で炎と衝撃波の塊を包み込んでいるようだ。
そして炎と衝撃波の塊は、その状態で代々木公園に向かって進んでいる。
瞭の前頭葉のネオニューロンは限界を迎えていた。脳が沸騰するような感覚は耐えがたい痛みに変わり、瞭の脳は恐ろしいほどに膨張して、いまにも頭蓋骨が破裂しそうだ。鼻血がタラリと一筋流れ出たかと思うと、後から後から夥しい量の鼻血が流れ出し、瞭の顔の下半分は流れ出た鼻血で濡れている。
祥吾は、脳そのものが外に吸い出されていくような感覚に呻いていた。粉々に砕かれた脳細胞が、頭蓋骨に差し込まれたストローでズルズルと音を立てて吸い出されているようだ。祥吾の両目は白目を剝いて、祥吾の頭部は激しく痙攣している。
羽賀と伊藤と成田は、自分の身体が空気の抜けた萎びた風船に変わったような感覚に襲われていた。もう、何も出すものがない。カラカラに乾いた雑巾から無理やりに水を絞り出そうとしているかのように、三人の身体は見えない力で締め上げられている。三人は首を垂れて幽鬼のように立っていた。
・・・まだまだ、もう少しだ・・・もう少し・・・みんな頑張れ!・・・もう少し・・・クソッ、ダメか・・・
瞭の発する念動波が尽きようとしていた。
目に見えない巨人の両掌がゆるゆると開きかけて、包み込んでいる炎と衝撃波の塊が、今にも外に溢れ出さんばかりに激しく揺らいでいる。
瞭はギリギリと歯噛みした。
・・・まだだ! まだだ! あと少し・・・クソッ、あとほんの少しなんだ!・・・
瞭の発する念動波が尽きる直前に、干からびた瞭の心臓に温かな血が流し込まれた。
・・・早苗ちゃん・・・
早苗が瞭の右手の上に両手を置いて、生体エネルギーを流し込んでいた。早苗の生体エネルギーは瞭の中で念動波に変換されて、瞭の左掌から放出された。
目に見えない巨人の、ゆるゆると開きかけた両掌が再び固く閉じられて、炎と衝撃波の塊をしっかりと包み込んだ。
・・・もう大丈夫だ・・・あと少し・・・ここだ!・・・
目に見えない巨人の両掌が開かれた。
炎と衝撃波の塊は瞬く間に膨張し、小さな太陽となって地上に落ちた。
摂氏五千度の灼熱の炎が代々木公園全体を覆った。それは地上のあらゆるものを焼き尽くした。欅や黒松や桜の木々は紙のように燃え上がり、池の水は瞬時に蒸発し、金属製の工作物は融け落ちた。灼熱の炎が空気中の酸素を費消し尽くしたため、一帯は無酸素状態となった。それと同時に炎が消えた。
その直後に襲った猛烈な衝撃波により、地上の木々や工作物の残骸は跡形もなく粉砕された。衝撃波は地面を叩き、土砂がその反動で宙に浮き上がった。
代々木公園に隣接する明治神宮は敷地の南側四分の一の区画が炎に包まれ、一の鳥居や大鳥居は衝撃波で無残になぎ倒された。明治神宮の本殿が奇跡的に損壊を免れたのは、神威によるものだろう。
代々木公園の中央広場で神の降臨を待っていた四十五機の昇龍は、頭上に現れた炎の塊を認識し、そこに神の姿を感得した。
[神が降臨された。私は神を感得した。おお、神よ・・・]
四十五機の昇龍は、神に向かって祈りを捧げるように、それぞれの四本の腕を一斉に頭上に上げた。四十五機の昇龍はその姿勢のまま、頭上から降り注ぐ摂氏五千度の灼熱の炎に呑み込まれた。その姿は神に命を捧げる殉教者のようだ。
昇龍の重装甲の外殻以外の内部構造は焼け、融け落ち、蒸発した。そして唯一残った外殻も猛烈な衝撃波の直撃を受けて、バラバラに砕け散った。
炎が消え衝撃波が去った後、代々木公園はむき出しの焼けた地面が広がる焼け野原と化していた。半径五百メートルの円形の焼け野原を取り囲むように、衝撃波による倒壊を免れた木々が燃えている。周囲から酸素が供給されて再び炎が上がったのだ。
特戦群第一中隊長の田所三佐は、退避ラインの外のビルの陰から、双眼鏡で一部始終を見ていた。
退避ラインの外とはいえ、高温の爆風と身体を揺らすほどの衝撃波に耐え、燃焼による空気中の酸素濃度の低下を、準備していた酸素ボンベでやり過ごす必要があった。
田所三佐は鼻と口を覆っていた酸素マスクを外すと大きく息を吸った。辺り一面に漂っている熱い煙が喉を焼き、焼け焦げた臭いのために鼻の奥がツンと痛んだ。戦後生まれの田所三佐だが、祖母から聞いた昭和二十年三月十日の東京大空襲の話を思い出した。東京大空襲で焼き出された祖母の前には、きっとこのような光景が広がっていたのだろうと思った。
田所は振り返って、背後に控えている有沢一曹に命令を下した。
「有沢一曹、作戦本部に連絡。作戦成功、光の球の被害は代々木公園内に限定されていると推察。昇龍は全機損壊した模様。これより、最終確認に向かう。以上だ。第一中隊、前へ! 作戦結果の最終確認のため代々木公園内に向かう。戦闘態勢を継続、警戒を厳にせよ」
特戦群第一中隊は代々木公園に向かってゆっくりと進軍した。公園内の地面はまだ軍靴の底を焦がすほど焼けている。
東京タワーのトップデッキで、瞭は代々木公園が炎に呑み込まれるのを見た。
どれくらい時間が経っただろう。
窓際に立ったまま呆然と外の景色を見ていた瞭が、ふと我に返った。瞭の右手の上に両手を置いたまま、早苗が瞭の顔を見つめている。少し頬がこけた早苗の顔を見て、ああ綺麗だと瞭は思った。瞭が左手で早苗の頬にそっと触れると、早苗は恥じらうように目を伏せた。
祥吾は瞭の右手をしっかりと握ったまま、目を閉じている。祥吾は立ったまま気を失っていた。
羽賀と伊藤と成田は、重なり合うようにして床に崩れ落ちていた。生体エネルギーを極限まで吸い取られて、立っている力さえ残っていないのだ。
早苗は瞭にハンカチを差し出した。
「瞭、お疲れ様。成功すると信じていたわ。はい、これ」
「早苗ちゃん、ありがとう・・・ん?」
いいムードだと思っていた瞭は、ハンカチを見て首を傾げた。
「瞭、赤ひげみたいになってるわよ。鼻血を拭きなさいよ。あ、そのハンカチは返さなくていいから、新しいのを買ってね」
瞭はムウウと唇を突き出した。途端に頭がズキリズキリと痛み始めた。
羽賀のヘッドギアに装着されている小型スピーカーから微かに声が漏れている。
「こちら佐田、羽賀応答しろ。作戦成功、繰り返す、作戦成功。よくやってくれた。羽賀、聞こえるか。こちら佐田、羽賀応答しろ・・・」
人類の厄災の序章は何とか最小限の被害で収めることができた。しかしまだ、魔人ギギアハウと大巌坊、そしてギギアハウの元に向かったカンヘルとの最後の戦いが残されている。




