第73話 結末
「まったく……何なんだ、あいつらは!」
丘の上へ続く道を進みながら、ミヤワキ教授の苛立ちは限界に達していた。
もともと神経質な顔つきがさらに強ばり、目はいつもより赤く血走っている。
イライラした気持ちを抑えようと何度も歯がみしながら、教授は目的のもの――バイオロイドを求めて城山公園の最奥を目指し、速足で坂道を登っていた。
教授はさきほどまでの光景――自分の前に次々と立ちふさがった者たちのことを、思い出さずにはいられなかった。
最初は、正体不明のメイド服姿の少女たちだった。
バイオロイドを匿っていた高校生を捉えようとしたところを、なぜかメイド服に身を包んでいる少女五人に阻まれた。
各々が長棒や扇子など、一見すると武器になるのかすらよくわからない獲物を手にしていたことから、少々薄気味悪さはあった。
とはいえ、所詮はか弱い小娘。捜索隊の男たちにかかれば簡単に蹴散らせるだろう。そう高をくくっていた。
実際、教授の命令でバイオロイドを捜していたのは、それなりに体力には自信のある者たちばかりだった。
教授がライネックから得た情報をもとに、バイオロイドを匿った家に探りを入れるというので、彼の研究の出資企業はそういう「荒事」が得意な者たちを二十名ほど教授のもとへ送り込んだのだった。
もしバイオロイド自身や、それを匿う高校生らが抵抗するようなら、力で彼らを抑え込めるくらいの力がある者たちを。
そのため正面から向かってケンカをするのであれば、よほどの相手でない限り自分の捜索隊が引けを取ることなどまずないと教授は思っていた。
だが、彼らが相手にしたメイドたちは、見た目からは想像もつかないほど戦闘に長けていた。
アン、チェリー、レイカ。後から加わったエリ。
そして彼女らをまとめる、ユラという小娘。
五人がそれぞれの獲物を眼にもとまらぬ速さでふり回し、素手で立ち向かう大男たちをあっという間になぎ倒していく。
あまりの手際のよさに、教授は引き際を考えるヒマすらなかった。
気がつけば、十人以上いた男たちは全員が雨に濡れたアスファルトの道路上に倒されていた。
「なんだ、この程度なの……。せっかく店から杖を持ち出したのに、まったく張り合いがないわ。大きな図体なのに、戦いに関してはてんで素人ね」
「エリなんか一人しか倒してませんよ~。エリの分も残しておいてくださいよー」
「ごめんねエリ。男たちを好きなだけなぎ倒せると思うと、つい力が入っちゃって。――さあ、最後はあなたですよ、ミヤワキ教授」
そう言いながら冷たくにらみつけてくるリーダー格のメイドに、ミヤワキ教授は総毛だった。
まだ年端もいかぬ小娘らに、これほどいいようにやられるとは……。
武器を構えたメイドたちが近づいてくる。教授は後ずさる。
――勝ち目はない。逃げるが勝ちだ。
そう考えて教授が背を向けると、タイミングよく別の捜索隊の乗った車が、目の前の道を通りがかった。
教授は停車する車に飛び乗ると、すぐに発進させ、なんとかその場から逃亡することができたのだった。
わけのわからないメイドたちの手から逃れることはできたものの、人手は半減してしまった。
仕方がない。この人数で捜索を続けるしかない。博士は車を一直線に城山公園へ向かわせた。
だがそこに待ち構えていたのは、第二の障害だった。
駐車場の近くで何やら集まって話をしている集団がいる。
この豪雨にもかかわらず、なぜか駐車場には多くの車。
何かのイベントでもあるのかと思いながらミヤワキ教授らが車を降りると、その集団の中からひとりの少女がこちらに気づき、近づいてきた。
「あの~。もしかして、ミヤワキ教授さんですか?」
黒髪でツインテールの女の子が、上目づかいで教授の顔を見上げてくる。
教授がそうだと答えると、彼女は得たように「やっぱり!」と言い、顔をぱっと明るくさせた。
「どうして私のことを知っている。お前は――」
そこで、ミヤワキ教授は思いあたった。
バイオロイドの居場所について、口を割った情報提供者。その人物の顔を写した画像を、教授はライネックの持つスマホで見たことがあった。
『ほらほら、かわいいでしょ? ボク、彼女の大ファンなんですよ』
人を喰った姿勢が板についているライネックが、珍しく夢中になって語っていたのが、バイオロイドのことを知っていたアイドル、ミナミナ。
大ファンだという相手を平気で陥れるあたり彼の神経が疑われたが、教授はひとまずバイオロイドの情報を漏らしたその人物の人相くらいは覚えておこうとした。今後、利用価値があるかもしれないと考えたからだった。
その画像の人物が、目の前にいる。
「ひょっとして、お前がミナミナか……?」
教授の反応に、ミナミナは感動したように笑顔をふりまいた。
「はーい、ミナミナで~す! 知っててくれてたんですかぁ? うれしいです~!」
「は~い」のところで右手を挙げ、「知っててくれてたんですかぁ?」のところで両手を胸の前でぎゅっとにぎりしめながら瞳をうるうるさせ、「うれしいです~!」のところで教授の手を両手で包んでぶんぶんと上下に振る。
ファンに対するミナミナの鉄板雛形リアクション。若い娘に手を握られることなど皆無な生活を送っている教授は、心ならずも若干顔を赤らめた。
「そ、そうか。喜んでもらえてなにより――ご、ゴホン! あー……それなら話は早い。バイオロイドの件は知っているな? いま、我々はそれがこの公園に逃げ込んだとの情報を得たのだ。後ろにいるやつらはお前のファンか? ならお前らもバイオロイドを捜すのに協力しろ。こっちは正体不明のメイド服姿の小娘たちに人手を削られたから、大変なのだ」
教授の上から目線の物言いにも、ミナミナは構わず笑顔で応じた。
「は~い。教授さんはこの公園でバイオロイドを捜索されるんですね~?」
「そうだ。あのメイドの奴らに止められたぶん、遅れを取り戻さねばならん。さあ、さっさと捜すんだ」
「そう。じゃあミナミナたちは――」
そこまで言ったところで、急にミナミナは笑顔を消し、教授をきつくにらみつけた。
「――絶対に、ここを通さない」
ミナミナの言葉に、後ろのファン――親衛隊も身構える。
全員が、憎き敵は目の前にいるとばかりに刺すような眼差しで教授の方を見つめてくる。
「な、なんだお前らは。通さないとは、どういう意味だ?」
「言葉通りの意味。ミナミナたちは、あなたたちをこの先に行かせるわけにはいかない」
「き、きさま……裏切る気か!?」
「裏切るんじゃない。目が覚めただけ。ミナミナ、どうかしてた。大切な友だちだったイオちゃんを裏切るなんて――。もう何をしたって、ミナミナの罪が消えるわけじゃない。でもいま教授さんたちを通すことはできないの。これは、ミナミナ自身の戦いだから――!」
「なにをのぼせたようなことを……! バイオロイドごときになぜそこまで熱を上げる? そもそも、あれはわしが心血を注いで開発した、わしの所有物なのだぞ! きさまのような小娘に邪魔する権利など元来ないのだ! 分かったらそこをどけ!!」
「イヤ、絶対どかない! いくら教授さんが開発したものだからって、いまあの体の中にいるのは、イオちゃんだもん。ちゃんとした人間が――六百年前の吸血鬼の人格が、あの体には乗り移ってるの。いまのイオちゃんは、教授さんが考えているようなロボットじゃないんだから!」
「何をわけのわからんことを……。どうせお前らが何か細工をして、あの人造人体を遠隔操作でもしているんだろう。それになんだと。六百年前の吸血鬼? 妄想もここまでくると狂気だな! 日本を代表するアイドルと聞いていたが、バイオロイドを吸血鬼に見立てるなどと……あきれてものもいえん。あれはまぎれもなくただの人工物だ。自力で動くことなど100%ない。つくった私が言うのだから間違いないだろう!」
「違う。あの会場で――秋葉原のイベントのときに、イオちゃんはバイオロイドの体に魂を乗り移らせたの。だからいまのイオちゃんは、教授さんが知ってるバイオロイドじゃない。れっきとした人間なの! 感情と理性をもった、一人の女の子なの!」
「くだらん。全部お前の妄想だ。そんなことが信じられるとでも思うのか。さあ、さっさとそこをどけ」
「どかない」
「どけ!」
「絶対どかない!」
「いい加減にしろ! 子どもの遊びに付き合っているヒマはないのだ!」
そう言ってミヤワキ教授は、立ちふさがるミナミナの肩を強く押し倒す。
「あっ!」
あえなく後ろへ倒され、しりもちをつくミナミナ。
その瞬間。
背後に控えていた親衛隊が、一斉にミヤワキ教授らに襲いかかった。
「うおおおおおお!!」
「ミナミナに手を出したなぁぁぁぁぁ!!」
「お前らの罪は一生かかってもつぐなえねえぞぉぉぉ!!」
「謝れ! いますぐ謝れ! まあ謝っても許さねえけどな!」
「当然だお! ミナミナに暴力をふるうとかマスコミも黙らないレベルだし!!」
「ちょ、ちょっとみんな落ち着いて! だめ、ケガするから……!」
止める女性が一人いたものの、ほかの者はみなもれなくミヤワキ教授とその後ろのスーツ男たちへ躍りかかった。
「な、なんだきさまらは!? こら、やめろ! 私の邪魔をするな! ええい、全員取り押さえろ!!」
激しくもみ合いになる両者。
目をギラつかせるミナミナのファンらの厚い壁を抜けて、ミヤワキ教授が何とか公園に入ったのは、それからしばらくしてからだった。
捜索隊のさらに半分を、また彼らの鎮圧にもっていかれた。
教授の周りにはもう三名の男しか残っていない。
この人数で広い公園を捜索するのには無理がある。時間が足りない。
どうすればいいか思案する教授の耳に、携帯電話の着信音が聞こえた。
開いた画面を見て、教授は辟易した。電話に出る。
『イオネラさんの捜索ははかどっていますか? さきほどまで電話が使えませんでしたから、気になって気になって仕方ありませんでした』
「また貴様か! いい加減にしろ!」
『Oops! いきなり乱暴な返事だなんて、傷つくなぁ。ようやく個室に戻ってこられたから、不安で疲れ果てたボクの心を教授になぐさめてもらおうと思ったのに』
「知らん! さっきから言っているだろう! こっちは忙しいのだ!」
『あれ、教授。ずいぶん息が荒いですね。まさかいままさにイオネラさんを追いかけているところとか』
「違う。我々を邪魔する者たちに手を取られて、捜索隊が大幅に減ったのだ。こちらはもう三人しか――それより貴様、ミナミナはいったいどういうことなのだ! やつはバイオロイドを裏切ってこちらの情報をもらしたのではなかったのか!?」
『あれ、ミナミナも教授の前に立ちふさがりましたか。それは大変だったでしょうね。お察しします。でもさすがミナミナですね。ますます好きになりました』
「他人事のように言うんじゃない! もう切るぞ!!」
『ああ、待ってください。教授にご迷惑をおかけしたようですので、ボクから情報提供というか、イオネラさんを見つけるためのヒントをお教えしますよ』
「ヒント?」
『はい。といっても必ず見つかるという保証はありませんが……まあ、当たる確率は六割くらいでしょうか』
「どんなことだ」
『イオネラさんが城山公園に逃げ込んだのは確かなのですね? ならたぶん、彼女は公園の一番奥、上り坂の先にある山裾の林にいる可能性が高いと思います』
「……どうして分かる」
『何となく、ですよ。あそこの林は都会の近郊では珍しく、樹齢の高い木がたくさん残っています。もともとは山の上に小さな神社があったらしく、その付近は昔から社寺林として守られてきたことから、切られずにすんだそうなのです。いまその神社は廃れてしまったようですけどね。ボクも一度、城山公園で開催されたミナミナのライブに参加したとき、見にいったことがあるんです。いい林ですよ、あそこは。ボクの国にある林と似ていて、心が安らぐんです』
「なんだそれは……。話にならん。貴様にとってはいい林かもしれんが、バイオロイドにとってはどうか分からんだろう」
『でも、何もあてがないのなら、そこから捜してみる価値はあると思いますよ。もう三人しか配下が残っていないのなら、なおさらです』
「きさまの好みで私は捜索をしているのではない! そんなくだらん理由に貴重な時間を使えるか!!」
『ひどいなあ教授。一応、ボクなりに自信はあるんですよ。だってボクはイオネラさんと同じき――』
ライネックの言葉を待たず、教授は電話を切った。
降りしきる雨の中で、だが途方に暮れていた教授には、彼の頼りない情報しか頼るものが無いのも事実だった。
――だまされたと思って付き合ってやる。
一度だけだ。金輪際、あんなやつのいうことは聞かないからな。
教授はそう自分に言い聞かせ、坂の上を目指したのだった。
小康状態になり始めた雨音の中からかすかに聞こえた声に、イオネラは洞の外をうかがった。
そこに見えたのは、傘を差した四人の人影。うち三人はスーツを着たガタイのいい大男。
そして一番前を、神経質そうな顔をした老人が歩いていた。
彼の顔に、イオネラは見覚えがあった。
テレビで何度か見たことがある。自分を――正確には、自分の体であるバイオロイドを追っている、亜斗蘭逓州大学のミヤワキ教授。
(なぜ、あやつがここに……?)
ミナミナが情報を漏らしたとしても、この洞のことまでは知らないはずだった。
この場所は、ユウトと自分だけの思い出の場所なのだから。
だが、イオネラには考える時間がなかった。
「――いた。いたぞ! あそこだ!」
イオネラの姿に気づいた教授は、こちらに駆け寄ってくる。
もう隠れていても仕方がない。イオネラはひとまず洞を出ることにした。
(じゃが、どうすればいい……)
(ユウトが動けぬ以上、わらわがここから逃げ出すわけにはいかぬ……)
(せめてユウトの血を吸ったことで、自分に魔力が戻ってくれば――)
そうイオネラが考えた瞬間。
彼女の二つある心臓が、同時に大きく脈打った。
「あっ……!?」
思わず声を漏らすイオネラ。
体を飛び出すのではと思うほど、心臓が強い鼓動を示す。視界が激しく揺れる。
少しずつ、体の中心から燃えるような熱が湧きあがってくる。
それは、吸血衝動とは全く別の感覚だった。
胸のあたりを押さえ、前にかがんだ状態になるイオネラ。
そこへ、ミヤワキ教授らがやってきた。
「ようやく見つけたぞ、バイオロイド……!」
坂を急いで登ってきたためか、かなり息切れしている教授。
だがその顔には、してやったりといった表情がにじみでていた。
「ここまで散々苦労かけさせおって……。だがもう鬼ごっこはおしまいだ。フン、バイオロイドには似ても似つかぬ顔をしておるが……私の研究室に連れ帰り調べれば、すぐにどうなっているのか分かるだろう。おい、やつを捕まえろ!」
教授の命令に、スーツ男二人が前に進み出る。
だがイオネラはその場から動かず、ただ苦しそうにうめくことしかできなかった。
体中が熱い。
心臓が大きくはね、血液を強く全身へ押し出していくのが分かる。
血が沸騰するような感覚に、イオネラは思わず目を見開いた。
そんなイオネラの異変に気づかないまま、スーツ男の一人が彼女の肩をつかみにかかる。
だが――
「あつっ!?」
反射的に、男はイオネラから手を離した。
そのとき、はじめて彼らの目に映るものがあった。
雨に濡れているはずのイオネラの衣服。
そこから、蒸気のような白い靄が上がり始めていた。
「何をしている! さっさとそいつを連れてこい!!」
教授の命令に、男は再度、今度はおそるおそるイオネラに触れようとする。
だが彼女から発する激しい熱気に男たちは戸惑い、それ以上近づくことができない。
イオネラの体が、とても触れられないほどの熱を帯びている。そう男たちは思っていた。
しかし実際には違う。
熱いのはイオネラの体そのものではなく、彼女の体から発せられた「火」だった。
「――――ククク…………ククククク…………クククククハハハ…………!!」
全身から立ち上る陽炎。
イオネラは自身の熱の高まりとともに、体中に力がみなぎっていくのを感じていた。
それは異変ではない。彼女にとってはむしろ懐かしい、久しく忘れていた感覚だった。
「これじゃ……この力じゃ……! 吸血貴族の魔力がわらわの手にようやく戻ってきたぞ……!」
薄ら笑いを浮かべるイオネラ。
彼女の紅い瞳がますます鮮やかな色に染まり、妖しい輝きを放つ。
さっき雄斗の血を吸ったことによって、自分の体の血液がいま完全に満ち足りたことを、イオネラははっきりと実感していた。
「ええい、何をわけのわからんことを……。早くそいつを捕えろ!!」
教授の再三の指示に、男たちは足踏みしながらも、徐々にイオネラとの距離をつめようとする。
そんな彼らに対し、イオネラは顔を上げると、まず左前方にいた男に対してすっと左腕を突き出した。
そして手をぱっと開いたとき、イオネラの瞳が一瞬輝きを増す。
その瞬間、男の体が後方へ一気に吹き飛んだ。
「なっ!?」
驚く教授の目の前で、大柄なスーツ男が軽々と宙を舞い、その先にある木の幹にぶつかる。
地面に落ちた男は、声を上げる間もなく気絶していた。
それだけでは終わらない。
イオネラは次に右前方から近づいていた男へ、同様に右手を突き出して開く。とたん放たれた衝撃に、その男も遠くへ吹き飛んでいく。
そしてやや後方にいて逃げ腰になった最後の一人に対しても、イオネラは右手の魔力を使い、簡単に吹き飛ばした。
男たちは全員近くの木にぶつけられ、地面に転がる。
ほんのわずかの間に、大の男三人が、イオネラの掌から発せられた衝撃波によってあっさりと倒された。
何が起きたのか分からず、驚がくする教授の前で、イオネラは不敵な笑みを浮かべた。
「愚かな人間どもめ……。完全な力を取り戻したわらわの手にかかれば、おぬしらなどただの虫ケラに過ぎぬ。わらわを捕えようとここまで追い詰めてきたお礼、させてもらおうぞ」
イオネラがミヤワキ教授の方を見る。
悪魔のようにねっとりとした視線でにらまれた教授は、気味の悪さと相まった比類のない恐怖を感じて思わず後ずさっていた。
「ど、どうやって……。貴様、一体何を……」
「わらわはトランシルヴァニア公国の吸血貴族・イオネラ=シェーンベルクなるぞ。お前たちのような下賤の極みには、わらわの崇高な魔力により、ただちに処罰を与えよう。心して受けとれ!」
イオネラは堂々とした態度で教授に告げると、いったん瞳を閉じ、右手を握りしめ神経を集中させる。
魔力を右手の先に集める。すると赤黒い炎が、彼女の拳に灯った。
それは瞬く間に大きくなり、やがて彼女の右手を中心にひとつの大きな火柱を形づくる。
「ひ、ひいっ!?」
顔を引きつらせる教授。
降り続ける雨の中で、目の前に突如現れた巨大な炎に、彼は腰が抜けたようにその場にしりもちをついた。
そこへ、イオネラは一気に紅蓮の炎をふり下ろす。
炎は教授の体をかすめ、地面をたたく。
するとすぐに、教授の白衣へ炎が燃え移った。
「あっ、熱っ!! ひっ、こ、このっ……!」
教授はとりついた炎を必死に消そうと白衣の裾を手ではたく。
だがなぜか炎は、降り注ぐ雨の中で消えるどころか、徐々に教授の着ていた白衣に燃え広がっていく。
「ぐわっ!? ど、どうなって……なぜ、なぜ消えん!? 熱い、熱い、熱いぃぃぃ!!」
苦悶の表情を浮かべつつ、教授はなんとかして火を消そうと地面をごろごろと転がる。
だが炎は消えない。
イオネラの瞳が紅い輝きを増すほどに、教授にまとわりついた炎が激しく燃えさかる。
吸血鬼としての残忍な感情を秘めたイオネラが、苦しむ教授の姿を見て口元を上げる。
「ぐああっっ!! 熱いぃぃ!! だれ、だれか……だれか助けてくれぇぇぇぇぇ!! 熱いぃぃぃぃぃ!!!」
狂ったように体をはねながら、断末魔の声を上げる教授。
赤黒い炎が彼の全身を包む。雨の中でなお明るく、炎は燃え上がっていた。
やがて、糸が切れたように教授の動きが止まる。
炎に焼き尽くされた教授は、あまりの熱さに精神が耐え切れず、完全に意識を途切れさせていた。
イオネラはそれを確かめてから、集中を解く。
とたん、教授を覆い尽くしていた紅蓮の炎が跡形もなく消えた。
後に残ったのは、少しも燃えたところのない泥だらけの白衣を着て横たわった教授の姿だけだった。
「――幻影の炎じゃ。安心せい。といってももう聞こえておらぬじゃろうが」
イオネラは気絶した教授を一瞥してから背を向けた。
そしてすぐさま、さきほどまでいたスギの洞へ駆け寄る。
「――ユウト!」
イオネラは洞の中をのぞきこむ。
そこには、真っ白な顔をして力なく木の内側にもたれている雄斗の姿があった。
「ユウト。起きよ、ユウト。わらわを追っていたあの大学教授とやらは、わらわが成敗してやったぞ。安心して目覚めるがいい。ユウト」
イオネラは雄斗の肩を揺らしてみる。
だが反応は無い。
洞に片方の足をかけ、激しく彼の体を揺さぶってみる。それでも雄斗は赤子のようにすわらない首を力なく前後させるだけで、一向に意識を取り戻す気配はない。
「ユウト。いつまで寝ておるのじゃ。いくらわらわを捜すのに疲れたとはいえ、眠りが深すぎるぞ。まるで死んでおるようではないか。さあ、わらわとともに家に帰るのじゃ。ユウト」
イオネラがいくら話しかけても、雄斗のまぶたが開くことはない。
心なしか、彼の体が冷えてきたような気がした。
イオネラはとっさに彼の胸に耳を押し付ける。
もちろん生きているなら、彼の心臓の音が聞こえるはず――
だが、生あるものの証明となる規則正しい鼓動は、いくら彼女が耳をすましても聞こえてこなかった。
「ユウト……冗談じゃろ、ユウト」
イオネラは雄斗の顔に自分の顔を寄せ、彼の間近で呼んだ。
「目を覚ませ、ユウト。わらわが血を吸っても大丈夫だと、あれほど自信たっぷりに言うておったではないか。どうして心臓が止まっておるのじゃ。きちんと主であるわらわに説明せよ、ユウト。……ユウト。……ユウト!!」
肩を強くゆする。
だがイオネラがどれだけ力を込めても、雄斗は痛がりもせず、反抗もしない。
信じたくなかった。
紅く輝いていたイオネラの瞳に、うっすらと涙がにじむ。
「ユウト……起きてくれ、ユウト……! わらわは、おぬしを殺して……殺してしまったのか……? あれだけ血を吸っても大丈夫だと言うておったではないか。ユウト、答えよ……ユウト……!」
イオネラのかすれた声が洞の中に漂う。
彼の胸を抱き、彼が生きている証拠を何とか探り当てようとするイオネラ。
そうでもしなければ、イオネラは心が砕けてしまいそうだった。
自分が生き残ったせいで、また大切な人が一人、命を落としたという現実に。
小康状態になっていた雨がようやく止み始めた。
空から降り注いでいた雨粒がもう洞の中の二人を濡らすことはなくなった。
その代わり、イオネラの瞳に描かれた未来という空から涙という雨粒がいくつも落ち、二人の間に横たわる深く重い沈黙を湿らせた。
すすり泣くイオネラ。
悲しむ彼女に何も言わず、ただまぶたを閉じている雄斗の顔は、イオネラへ最期に見せたほのかに優しい笑顔のままだった。




