第72話 雄斗は吸血貴族のことがお好き
樹は天空から降り注ぐ雨を、無数に広げた葉で受け止める。
葉から枝へと雨粒を伝わらせ、幹から地面に流すことで、樹はその下にいる者を守る傘となるはずだった。
だが夜半から降り続ける大量の雨を受け止めきれず、葉は逆に小さな滴を集め、大きな水の粒を地面へ次々と落としていた。
スギの大樹。
大粒の雨がシャワーのように落ちる下で、滝のように雨が流れ伝う幹に手をかけたまま、雄斗は洞の中に見つけたイオネラの顔を優しく見つめていた。
いてくれてよかった。この場所に。
喜びの感情よりも、彼女が目の前にいることの安心が、雄斗の胸中に温かく広がっていた。
イオネラは全身雨ざらしのまま、赤い前髪の先からポタポタと顔じゅうに水をしたたらせ、暗く狭い穴の中で子猫のようにうずくまっていた。
どこか焦点の合わないイオネラの瞳が、徐々に驚きという確かな感情に満ちていく。
その変化が、雄斗にははっきりと分かった。
「どう……して……」
イオネラがかすかな声を発する。
雄斗は坂道を登ってくる途中からまた激しい頭痛に襲われていたが、それを面には出さずに彼女を安心させるよう笑顔をつくった。
「イオネラがいきなり家を飛び出したりするからだろ。だから追いかけてきたんだ」
「でも……どうしてここが……」
「話すと長くなるけどな。みんなに助けてもらったんだ。ツグミも、ミナミナも、ユラさんも、みんなイオネラのことを心配して捜してる」
雄斗の言葉に、イオネラは何か感じ入ったように少し間をおいてから、声にならない声を紡いだ。
みんな。
雄斗にはそう彼女がつぶやいたように見えた。
「イオネラ。俺の血を吸ってほしいんだ。吸血衝動はまだ収まってないんだろ。だから、ほら」
雄斗が手を差し出す。イオネラを洞の暗闇から連れだそうとして。
わずかに光の差した表情を見せるイオネラ。
だが何かに後ろ指を指されたようにまぶたを下げると、イオネラは彼の救いに顔をそむけた。
「――ダメじゃ。すぐにわらわの前から立ち去ってくれ」
「イオネラ……?」
「おぬしにも分かっておるのじゃろう。もう一度血を吸われれば、自分の体がもたないことを。なのにどうしてここに来た」
「なぜって……イオネラを助けたいからに決まってるだろ。イオネラは俺の血しか吸えないから、俺が来るのは当然――」
「その血を吸えばおぬしが死んでしまうかもしれぬのに、吸えるわけがないではないか! わらわは自分の衝動に任せて他人の命を奪うのを是とするほど落ちぶれてはおらぬ! だからわらわはおぬしらの目に触れぬところで果てようと思っておったのに、どうして来てしまったの――」
そのときだった。
イオネラの眼が見開き、澄んだ紅い瞳に欲望の濁りが混じる。
体の変調。イオネラは小刻みに唇をふるわせると、トロンとした目つきで雄斗の首筋のあたりを見つめ始める。
彼女を何度も襲っていた吸血衝動がまた起きたのだと、雄斗は理解した。
「……ダメじゃ。このままではユウトを襲ってしまう。早く……早くわらわの前からいなくなってくれ。頼む……」
「ダメじゃない。イオネラ、俺の血を吸うんだ。吸っていいんだ」
「吸えないと……いっておろうに……。おぬしはバカか……。死んでしまうのかもしれぬのじゃぞ……」
「死なない。血を吸われても、俺は死なない。絶対に」
「どうして……どうしてそんなことが分かるのじゃ……。きっと今も、おぬしの体は限界なのじゃろう……。そんな者の血など、とても吸えぬ……」
「限界だからなんだよ。このままじゃイオネラが死ぬだけだ。でも俺の血を吸えば、イオネラは確実に助かる。なら俺の血を吸うべきだろ」
雄斗の言葉を待たず、イオネラは衝動を振り払おうとするかのように首を一度振ると、再びひざに顔をうずめ、自らが作り出す暗闇の世界へと逃げ込んだ。
「……もうわらわのことは放っておいてくれ。おぬしに何と言われようと、戻る気はない。わらわはここで死ぬつもりなのじゃ」
「イオネラ――」
「わらわは死んだ方が、この世のためになるのじゃ。吸血貴族はこの現代では異分子なのじゃから」
「…………」
「わらわはもう十分生きた。本来なら六百年前に死んでいた存在じゃ。この時代によみがえることができただけでも運がよかった。じゃがわらわはこの時代には必要とされていない――いるべきではない種族なのじゃ。吸血貴族などというものは。
わらわの吸血衝動のせいで多くの者に迷惑をかけた。わらわは死んだ父や母の元に早く帰るべきなのじゃ。だからおぬしの血は吸えぬ。わらわがここで果てれば、全て――」
「わけわかんねーこと言ってんじゃねえよ!」
我慢できず声を荒げた雄斗に、イオネラは驚いて顔を上げた。
「ユウト……?」
戸惑いの色を浮かべるイオネラへ、雄斗は真剣なまなざしを向けながら、声を奮わせた。
「迷惑をかけたとか、必要とされてないとか……そんなこと言うなよ! イオネラのおかげでツグミは学校に戻れたし、ミナミナは大切な友達が増えたし、俺だって――俺だって、ずっと縛られたままだった過去から抜け出せたんだ!
全部イオネラがいたから――イオネラがこの時代に来てくれたから、俺たちはいままでよりずっと楽しく毎日を過ごせるようになったんだ。救ってくれたんだ、俺たちを。それを自分は必要とされていないとか……そんなわけねえだろ! 世の中がお前のことを嫌ったって、俺たちはずっとお前のことを好きでい続けるよ! じゃなきゃ、みんな自分のことを二の次にしてまでお前のことを捜しにくるかよ!!」
雄斗はいったん閉ざしたイオネラの心の闇をこじ開けようと、必死に訴えた。
死ぬ覚悟をしていたイオネラの胸に届くように。
イオネラの大きな瞳がしだいに潤いを増す。
それは肌を滴る水が目に入ったのではなく、彼女の心から少しずつにじみ出たものだった。
望んでいた雄斗との生活が、一瞬だけイオネラの脳内に描かれる。
だがそれでも、彼女は雄斗の言葉を振り切るように目をつむった。
「ダメじゃ……。わらわは、おぬしの血を吸えぬ……。これ以上、わらわの心を惑わせるのはやめてくれ……」
「惑わせてるのはイオネラ自身だ。俺はイオネラに助けられた。だから今度は俺がイオネラを助ける番なんだ。俺の血を吸うんだ、イオネラ!」
「ダメじゃ! もうやめてくれ! これ以上言われたら、わらわはもう我慢できぬ! 吸血鬼の本能に負けてしまう! おぬしを――おぬしを、殺してしまう……!」
「俺は死なない! 信じてくれ、イオネラ!」
「強がるでない! おぬしがウソをついていることくらい、わらわにはお見通しなのじゃぞ!」
「イオネラ……!」
すると雄斗は突然、洞の入り口に右足をかけた。
そしてそのまま、狭い洞の中へ自分の体を滑り込ませると、イオネラの肩につかみかかる。
予期せぬ雄斗の行動に、イオネラは目を開いて彼の両手に抵抗した。
「なにを……何をするつもりじゃ、ユウトっ!?」
「どうしても俺を血を吸わねえってんなら、無理やりにでも吸わせるしかねえだろ!」
「やめよユウト! こんな狭いところで……二人も入れぬぞ!」
「最初この洞にイオネラが入ったとき、俺にも入れって無茶な命令したのはイオネラだろ!」
「だからといって――ゆ、ユウト……っ!?」
イオネラは無理に体をねじ込んでくる雄斗を穴の外へ押し出そうと必死になる。
イオネラに魔力を――マイトの力を使ってこられればなすすべはないと雄斗は思っていたが、血が欠乏しているためか、それとも魔力が一時的に弱まっているためか、イオネラにはいつもの半分の力も無かった。
簡単にねじふせられたイオネラは、以前この洞へ入ったときと同様、三角座りのまま互い違いに足を入れ、彼と向かい合わせになる。
だが雄斗はそこからさらにイオネラへ近寄ると、濡れそぼったジャケットに身を包んだ彼女の胴を躊躇なく抱いた。
「ちょっ……ユウト……?」
座った状態のまま両手を背中に回され、大きく戸惑うイオネラ。
彼女の眼前に、雄斗の首筋が見える。
ドクン、とイオネラの胸が強く打たれる。
抑えていた吸血衝動が一気に湧きあがる。
「やめよ……やめよ、ユウト! 主であるわらわの命令が聞けぬのか……! このままではわらわは、おぬしの肩にかみついてしまう……!」
雄斗の体を離そうと、イオネラは彼の体を両手で懸命に押す。
それでも離れないと分かると、イオネラは彼の背中を拳で何度もたたいた。
「ユウト……バカユウト……!」
たたくたび、自分と同じくずぶ濡れになった彼の衣服から水が弾ける。
だが雄斗はたたかれればたたかれるほど、決して離すまいとますますイオネラのことを強く抱きしめた。
「ユウト……おぬしは本当に役に立たぬ下僕じゃ……! 主の命令を聞かぬ。ことあるごとに反抗的な態度をとる。下僕としてあるまじき行為じゃ……! 主が死にたいと言っておるのに、どうしてそれを黙って見送ることもできぬのじゃ……!」
イオネラは無駄な抵抗と知って、拳を作ったままの手を彼の背中に力なく回す。
彼の肩越しにひたすら非難の声を上げていたイオネラは、いつの間にか引きつった息で嗚咽していた。
「おぬしのような者を下僕にしたのが間違いじゃった……。わらわが自らの意志で家を出たのにも関わらず……自分の命も顧みず危険を冒して追ってくるなど、お節介にもほどがあるではないか……」
雄斗の体とイオネラの体が触れ合い、雨で冷え切った肌がお互いの体温を感じ合う。
狭く暗い洞の中で抱き合う二人の間に、かすかな温もりが生まれた。
「わらわは尊厳ある吸血貴族なのじゃ……なのにおぬしはただの下民の分際で、なぜわらわの心に土足で入り込んでくるのじゃ……」
イオネラの頬に、一筋の涙が伝う。
彼女の心からしみだした雫。それが瞳に集まり、まぶたに押し出され、張りのある頬をゆっくりと流れ落ちた。
雨粒が大樹の葉から枝、枝から幹へと流れ伝うように、涙は彼女の双眸から次々と落ちていく。
悲喜を重ねた複雑な感情が、吸血衝動と相まってイオネラの胸に大きな渦をつくり、激しいうねりとなる。
情緒を乱したイオネラは、吸血鬼でも貴族でもなく、「イオネラ」という一人の女の子として、雄斗にすがりついた。
「ユウト……わらわは、おぬしに死んでほしくないのじゃ……。わらわが血を吸ったせいで、もしもおぬしが命を落とすことになったら――」
「死なない。この一回、俺は絶対に耐えてやる。そうすれば、イオネラはまた生き続けることができるから」
「ユウト……。わらわは……わらわはもう、わらわが生きることで大切な人の命を犠牲にしたくないのじゃ……」
イオネラの涙声に、雄斗は彼女の耳元でつぶやいた。
「……両親のことか」
イオネラは、雄斗の左肩の上でコクリとうなずいた。
「わらわを生かすために、父も母もその身を捧げてくれた。あのときの光景が、いまでもはっきりと思い出せる――。もしおぬしの血を吸ってわらわが生き延び、おぬしが……おぬしが息絶えるようなことになれば、わらわは生きるより辛い自責の念にかられるじゃろう。それならいっそのこと、わらわが死ぬ方が楽――」
イオネラが言葉を続けようとしたところで――
雄斗はもう一度強く、不安を押しつぶすように、彼女の体を抱きしめた。
「ユウ、ト――」
うわずった声をあげるイオネラ。
雄斗は改めて、彼女の耳元ではっきりと言った。
「死なないから。俺は、絶対に。――イオネラ。俺、イオネラのことが好きだ」
唐突に――
自然と大事な告白を口にした彼に、イオネラは一瞬間をおいた。
「ユウト……?」
「前に言いかけたけど、いまはっきり言うよ。俺、イオネラのことが好きだ。たぶん――いや、間違いない。俺、なんだかんだで、イオネラと暮らしていて楽しいし、これからも一緒に暮らしたいと思ってる。だから、イオネラ。俺の血を吸って、また俺の家にいてくれないか。今後はその、俺の……大切な彼女として」
最後の方は恥ずかしさのためか尻すぼみになった雄斗の言葉に、イオネラは胸が熱くなった。
自分も同じことを想っていた。さきほどまでいた、死を覚悟した暗闇の中で。
ユウトともう少し長く時を過ごしたかった。そう願っていた。
それが叶うのだろうか。本当に、実現するのだろうか。
本当に、ユウトは自分が血を吸っても、生きながらえてくれるのだろうか。
夢の延長を描き続けてくれるのだろうか。
私のために。
「……おぬしのような下民が、わらわのように高貴な吸血貴族に告白などとは、聞いてあきれるわ。身分違いも甚だしいぞ……」
「そのほうがドラマチックだろ。身分違いの恋っていう」
「……バカ」
鳴りやまない胸の鼓動を感じ、イオネラは頬を紅潮させながら、雄斗の肩に改めてしがみついた。
彼女の目の前には、雄斗の首筋がある。
少し口を前にやれば、容易に牙を突き刺し、彼の清らかな血を吸うことができる。
無防備な雄斗。
イオネラの吸血衝動が、彼を想う淡い心の中から思い出したようにせり上がってきた。
無意識のうちに、イオネラの口は半開きになっていた。
貴族としてではなく、吸血鬼としてではなく、ただ一人の十七歳の女の子として。
雄斗の想いに身をゆだね、雄斗の言葉を信じる。
イオネラはいま、そう決めた。
そこに根拠はない。合理的な理屈は存在しない。
雄斗はただ強がっているだけだった。イオネラはただ衝動に突き動かされているだけだった。
状況は何も変わっていない。
だが雄斗は自分の想いをイオネラに伝え、イオネラはそれを受け止めて心を染め変えようとしている。
同じ未来を、二人で思い描きながら。
一人の人間が頭の中に打ち立てる未来は、きわめて勝手で、きわめてか弱い。
それがどれだけ合理的な根拠に裏打ちされていても、複数の他人から疑問を挟まれれば、普通はいともたやすく崩れてしまう。
だが同じ未来を想像する者が二人になるだけで、想いの強さは二倍にも三倍にもなる。
多少の横やりでは崩れない、確かな未来になる。
自分以外にも同じ想いを抱いている人がいると思える、そのことだけで、人は何倍にも強くなれる。
雄斗とイオネラは、お互いを想い合い、お互いのことを信じ合った。
スギの木の洞で、冷え切った体を温め合いながら。
雄斗は、血を吸われても生きると言った。
イオネラは、この時代でも自分が生きられる光景を願った。
二人は同じ未来を共有できると信じた。
イオネラに、もう躊躇はなかった。
「――いただきます」
いつものとおり、食事前の言葉を唱えてから雄斗の首筋に向かうイオネラ。
そんな彼女の律義さが、雄斗には少しだけ可笑しかった。
雄斗の肌に、イオネラの鋭い犬歯が突き刺さる。
そのわずかな痛みさえ、いまの雄斗には愛しかった。
にじむ血を、イオネラは待ち望んでいたように激しくすする。
雄斗は身動き一つせず、ただイオネラの肢体を抱きながら、沈黙の時間を過ごす。
ふと、雄斗は口を開いた。
「――イオネラ。もしかしてお前って、心臓二つあるのか」
イオネラは血を吸うのに夢中で、彼の質問が聞こえなかった。
「正面から血を吸われたから分かったけど――初めて知ったよ。そうだよな。俺、まだまだイオネラのこと、知らないんだよな」
衝動がおさまる気配はない。イオネラは頭を真っ白にしたまま、いつも以上に雄斗から血を吸い取っていた。
「これからもっと、イオネラのことが知りたい。俺、イオネラのこと、ずっと大切にするから」
何か心地良い言葉が聞こえたような気がしたが、吸血を始めたイオネラは血のことで頭がいっぱいで、その言葉が彼女の記憶に残ることは無かった。
しばらく、無言の時間が流れる。
いつもと同じくらいか、それよりも長かっただろうか。
イオネラは吸血衝動の収まりを感じると、ようやく雄斗の肩から唇を離した。
肌ににじむ赤い血。イオネラはそれをいつもより優しく、桃色の舌でなめとる。
雄斗の傷が早く癒えるように。
慈しむような目でイオネラは彼の肩を見つめると、最後にそっと口にした。
「――ごちそうさま」
イオネラは感謝の意を込めて頭をわずかに下げると、すぐ横にある雄斗の表情を優しい目で眺めた。
「ユウト。吸い終わったぞ。体は大丈夫か……?」
絶対に耐えてみせると公言した雄斗。
あれだけの大口をたたいたのだから、きっと大丈夫だろう。そう信じてイオネラは雄斗の顔色をうかがった。
だが――
雄斗から返事はなく、その両目はいつの間にか眠るように閉じられていた。
「……ユウト?」
思わず彼の肩をゆするイオネラ。
そのときはじめて、イオネラは自分の体を強く抱きしめていたはずの雄斗の両腕が、力なく垂れ下がっていることに気づいた。
「ユウト……どうしたのじゃ。あまりに疲れて眠っておるのか。血は吸い終わったぞ。早く目を覚ませ――」
そのときだった。
洞の外から、しわがれた男の声が聞こえてきたのは。




