第71話 みんな吸血貴族のことがお好き
ひととおりミナミナが話し終えると、車の中に沈黙が落ちた。
雄斗はミナミナからもらった白いタオルを頭にかけたまま、ミナミナの話を黙って聞いている。
横からは彼の表情をうかがえない。ミナミナはきっと彼が静かに腹を立てているのだと思った。
「ごめん、雄斗君。こうなったのは全部私のせいだから……。ゆるしてもらおうなんて思ってない。ただ事実だけは、雄斗君に伝えなくちゃいけないと思ったの……」
ミナミナが謝るのに、雄斗はようやく言葉を返した。
「――ミナミナのせいじゃねえよ。イオネラがああなったのは、俺の責任だし。俺が悪いんだ」
「そんなこと……そんなことないよ。ミヤワキ教授が押しかけてくるかもって私が伝えたから、イオちゃんは気を遣って家を出ていったんだし」
「いや、そのことに俺が早く気づいていればよかったんだ。昨日、イオネラの様子が変だとは思っていたから……。なんであのときイオネラの気持ちを察して、声かけてやれなかったんだって思うと、俺、自分が恥ずかしくって……」
「私の方こそ、あのときイオちゃんを裏切らずに、交渉人の誘いを断っていたら、そもそもこんなことにはならなかったから……やっぱり私が悪いと思う」
「いや、俺が悪いんだ。イオネラと暮らしていたのは俺だし、俺がイオネラの変化に気づいてやるべきだったんだ」
「悪いのは私だよ。もとはといえば、私がイオちゃんをワイワイ生放送に誘ったのが原因だから」
「俺がイオネラとケンカばかりしてたから悪いんだ」
「私がイオちゃんの情報を売ったのが悪いんだよ」
「俺の方が悪いって」
「私の方が悪いから」
「いや、俺だって」
「だから私の方が――」
いつの間にか言い合いのようになっていることに気づき、二人は顔を見合わせた。
口を止め、思わず苦笑する雄斗とミナミナ。
「――雄斗君は、優しいね」
ミナミナの言葉に、雄斗はそっと首を振った。
「ミナミナだって、いろいろ深い事情があったんだろ。俺、自分の中の小さなことでウジウジしてただけだから。イオネラが助けてくれなかったら、俺はいまも無気力生活だったと思う」
「ううん、私も同じ。イオちゃん、ほんとにあこがれてるんだ……」
ミナミナのしみじみとした言葉に、雄斗は彼女の潤む瞳を眺めながら、新たに決意を固めた。
イオネラを捜しだし、救い出す。その決意を。
車が緑地公園に到着する。
駐車場に入ると、そこには数台の車がすでに停まっていた。
どれも二人乗りのスポーツタイプや派手な色合いのセダンなどで、中にはCSOのキャラクターが車のボンネットと側面にアニメ調で描かれた「痛車」もあった。
その周りでは、十数名の男女が雄斗らの乗るバンに向かって手を振っている。
彼らの姿にミナミナは気づくと、すぐに車の窓を開けて手をふり返した。
「親衛隊のみんな! すご~い! さっき呼んだばかりなのに、もう集まってる!!」
親衛隊、と聞いて雄斗には何のことか分からないまま、ミナミナは彼をふり返った。
「あの人たちもイオちゃんの捜索に協力してくれるの! ミナミナはここで降りてみんなに指示しようと思うけど、どの辺を捜せばいいかな」
「あー、そうだな……。俺は丘の一番上までいってみるから、ミナミナはそれ以外のところを手分けして捜してくれると助かる」
「うん、分かった。じゃあ、行ってくるね! もしこっちで見つけたらすぐ連絡するから!」
言いつつミナミナはスライドドアを勢いよく開けると、傘もささずにすぐさま外へ出ていった。
「私も降りるわ」
と、愛奈もドアを開けて車を降りる。「プロデューサー、あとはよろしくね。――雄斗君、頑張ってね。無理しちゃだめよ」
「分かってます」と、雄斗は彼女の励ましに笑顔を見せた。
ドアが閉められると、車は再び走り出した。
駐車場の脇にある車止めを管理人にどけてもらい、ふだんは一般車両が入れない管理道を進む。
雨脚は再び強まっている。
うんざりしそうな天候の中、車を走らせるプロデューサーが、急に口を開いた。
「なあ。雄斗君、やっけか。自己紹介が遅れたけど、わいがミナミナの働いとる事務所のプロデューサーや。以後よろしゅう」
「あ、はい。よろしく、お願いします」
「イオちゃんのことは聞いたで。血い吸うの我慢して家から出ていったんやってな。雄斗君の見立てやと、この先におるんか」
「たぶん……。根拠はないですけど、なんとなくそんな気がするんです」
根拠は、なかった。
だが、思いあたることはあった。
以前、雄斗がイオネラと一緒に城山公園へやってきたとき、丘の上にあるスギの大樹の洞を見て、雄斗は彼女とこんな会話を交わしていたのを覚えていた。
「ふーむ……中は意外ときれいじゃな。底の土は踏み固められておるし、周りの木肌はすべすべしておる」
「たぶん、昔からよく人が入ってるんだろうな。公園の人が手入れしてるのかもしれない」
「ほう……いい場所じゃ。木の香りに包まれたような気分じゃな。ここなら雨風もしのげるし、わらわとしては落ち着くのう。死ぬまで中に入っていたい気分じゃ」
「死ぬまでって、どれだけ好きなんだよ」
心から和らいだ表情で、木の洞を眺めていたイオネラの様子が、雄斗の印象に残っていた。
イオネラが城山公園に来たというのなら、きっとあそこに向かうはずだ。
たぶんその場所が、イオネラの一番のお気に入りだから。
「勘、いうやつか。たしかにイオちゃんのこと一番よう知っとるのは雄斗君やろうし、イオちゃんの行動も予測できる、ちゅうことか」
「そんなにたいしたことじゃありませんけど……」
「まあ、うちのスタッフも捜すし、親衛隊も来てくれとるから、公園のどっかにいたら見つかるやろ。――そんなことより雄斗君」
とたん、プロデューサーの声色が真剣みを帯びた。
「いまのうちに、ちょっと聞いときたいことがあんねん。わいと雄斗君、男どうし一対一の話や」
「はい……?」
とつぜんなんだろうと、雄斗は表情を強ばらせた。
バックミラー越しに見えるプロデューサー。このときはじめて、雄斗は彼の顔をしっかりと認識した。
まだ二十代と思われる若い顔立ちの彼は、運転用に青い遮光性のサングラスをかけているため表情が読みづらい。
だが彼の動きや声から感じとれる雰囲気は、どことなく力に満ちていた。
それは、常に目の前のことに真剣な姿勢で取り組まなければ気の済まない種類の人間から放たれる、緊張感を備えた空気。
まだ初対面なのに、いきなり「男どうしの」という枕詞からマジメな話をふっかけてくる彼に、雄斗は背筋が伸びる思いがした。
「雄斗君。イオちゃんのことなんやけど」
「はい」
イオネラのこと。
そういえば、この人はイオネラに一度会っていたはずだ。
イオネラが以前、ミナミナの血を吸った際にそう話していた。
詳しいことは聞いていないが、イオネラに会ったのならば、彼女の素性も知っているのだろう。
イオネラは、六百年前に生きていたトランシルヴァニア公国の吸血貴族だということを。
そしていまの体は、元は人造人体――バイオロイドなのだということを。
そんな彼女について、いったい何を訊こうとしているか――
「雄斗君は、イオちゃんと一緒に三か月くらい前から暮らしとるんやな」
「はい」
「それ、親は認めてんの? イオちゃん、いきなり家に泊まり込んでんやろ?」
「じつは、まだ……イオネラのことは、親には話していないんです」
痛いところをついてきた。
イオネラがうちで生活していることを、両親はまだ知らない。
正直に言ってしまっていいものか、雄斗は一瞬迷った。
だがよく考えれば、この人がうちの暮らしに直接的なかかわりがあるわけではないと思い、雄斗はありのままに答えた。
「ほなら、イオちゃんの保護者は雄斗君、っちゅうことになるんかな」
「保護者、と言われれば、まあ、現時点では……」
「ほな、相談があんねんけど。雄斗君。ここだけの話や」
「――はい」
何を言い出すのだろうという不安とともに、ごくりと唾を飲む雄斗。
そんな彼へ、プロデューサーはゆっくりと告げた。
「――イオちゃんを、アイドルデビューさせてみいひん?」
「……………………は?」
あいどるでびゅう。
あまりに予想外の発言に、雄斗は言葉の意味を理解するのが少し遅れた。
「イオちゃん、このまえミナミナの楽屋で直にお目にかかってんけど、あの吸血鬼キャラ、絶対アイドル向きやと思うんや。うちの事務所、どっちかっちゅうとマニアというか、オタク受けするアイドルが多いから、イオちゃんみたいな強烈なキャラもったコが入るとすごい助かるんやわ~。
それにイオちゃんて結構性格強気やろ? うち、おとなしめのコが多いから、そういう意味でも貴重なんやわ。だからどや? うちにイオちゃん任せてみいひん? なんなら雄斗君にイオちゃんをプロデュースしてもろうてもええし。イオちゃんのこと一番よう知っとんのは、なんやいうても雄斗君やからなあ」
「いや、その……俺は別にそんなつもりは……」
「あ、もちろんタダでとは言わんで? ちゃんとうちのプロデューサーとして雄斗君にも給料は払うさかい。それでイオちゃんが活躍してくれたら、出来高払いでプラスアルファなんて契約でどや?」
「いや、そういうことじゃなくて……」
「そうか、気が進まんか。でもイオちゃんをこのまま一般市民で埋もれさすのはもったいないと思うんや。あんな人材、そうそうおらへんからなあ。アイドルがダメやったら、とりあえずモデルあたりからタレント活動始めてみるとか? うちもそろそろアイドルだけやのうて他の分野にも事業を広げていこ思うて――」
プロデューサーのマシンガン営業トークに、雄斗はさきほどまで彼に抱いていた真剣なイメージをかき消した。
――やっぱりこの人、ただ気安いだけなのかもしれない。
「いや、あの……俺がどうこう、っていうより、そういうことはまずイオネラに訊いてみないと……そ、そんなことより、いまはイオネラを助けないといけないし」
「えっ? イオちゃん、助けるんやろ? その先の話やで」
「あ、いや、まあ、その……そうなんですけど」
「ほら、着いたで」
唐突に車が停まる。
プロデューサーとの会話に気をとられていた雄斗は、あわてて外を確認する。
見覚えのある風景。車の前には、一筋の歩道が見えた。
雨に濡れ、やや色を濃くした道は、スラロームを描きながら丘の上へのびている。
車を降り、雄斗は道の先を見上げた。
――間違いない。以前イオネラと来た場所。
この道をまっすぐ行けば、スギの木の洞までたどり着く。
雄斗がたたずんでいると、同じく車を降りたプロデューサーが近くに来て肩をたたいた。
「助けることだけ考えとると、それしか見えんようなるからしんどいで。助けた後、彼女とどうしたいか考えた方が気が楽や。――気いつけていきや」
サングラスを上げ、好奇心の塊のような光る目をみせるプロデューサー。
車内での話は彼なりの励ましであることに、雄斗はこのとき気がついた。
「あ、ありがとうございます。――行ってきます」
雄斗の言葉に、プロデューサーはうなずいた。
雄斗は歩き出した。丘の上にいるはずの、イオネラのもとへ。
ここまで来る間に、いったい何人の人に助けてもらっただろう。
その全員が、イオネラのことが好きで、イオネラのことを心配し、イオネラを救いたいという想いで、ひとつにまとまっている。
その意思に、自分は生かされている。
もしたった一人でイオネラを捜索していたなら、きっと雄斗がここにたどり着くことはなかっただろう。
イオネラの行方が分からず、街中をさまよい、途中で力尽きていたに違いない。
雄斗はこれまで自分を導いてくれた人全員に、心の中で感謝した。
そして、彼らの想い全てを自分が背負っていることの重さを、改めて実感した。
この先に、イオネラがいる。
直感に似た確信が、雄斗の中にはっきりと形作られる。
道は上り坂。打ち付ける冷たい雨。極度の貧血状態にあるいまの体には酷だろう。
だけど、ここで倒れるわけにはいかない。絶対に。
雄斗はゆっくりと、一歩一歩、最後の道程を登りはじめた。
暗闇の中で、小さな息づかいが聞こえる。
誰の息づかいだろう。
混濁する意識の中で、それが自分のものだと気づいたのは、しばらく後だった。
周りは一面の闇。
目に見える闇は深くない。まぶたを持ち上げさえすれば、右にある入り口の穴から光が差し込むはずだった。
だがもう決して目は開かないと決めた。
もうろうとする意識がしだいに形を失くし、あとかたもなく消え去るまで。
まぶたの裏に見える黒がつくられた闇であるとするなら、本当の闇は彼女自身の心の中に巣食っていた。
もう幾度となく胸に湧きあがってきた情動。
それを抑え込もうと必死になる理性。
自分の体の、心の中で戦いが繰り広げられるたび、彼女の精神は少しずつすり減っていった。
二つの思いがせめぎ合う中で、どちらが本当の自分なのか、彼女自身、次第に分からなくなっていた。
戦いの果てに彼女が見たのは、生きることに対する諦めの気持ちだった。
健全な心を疲労がむしばみ、生きたいという希望がかすんでいく。
生への執着が、死への渇望に染まっていく。
この苦しみから逃れられるなら――
もう救いなど望めないのなら――
一時でも早く、自分の愛する父や母のもとに行きたい――。
スギの樹皮から漂う香りが充満した湿り気のある洞の中で、イオネラは三角座りのままうずくまっていた。
雨は強く、一向にやむ気配を見せない。
イオネラは冷たい雨滴を全身に浴びたまま、おぼつかない足取りでこの場所にたどり着いていた。
憑りつかれたように穴の中へ足を踏み入れたイオネラはすぐにまぶたを閉じ、壊れた吸血鬼となった自分を闇の世界へ封じ込めたのだった。
ユウトの家を出てからというもの、何度となく襲いかかる吸血衝動に耐えたイオネラ。
ときに人気の無い路地裏で、ときに川沿いの堤防の下でせり上がる自分の欲望をしのいだが、結局良い逃げ場が思いつけずにいた。
あてもなく町をさまようイオネラ。
そんな彼女の脳裏に、とつぜんある場所の光景が映し出された。
なぜその場所だったのか、イオネラ自身にも分からない。
ただその場所は、アスファルトとコンクリートに囲まれたこの時代にやってきてから、初めてといっていいほど心落ち着ける場所だった。
彼女の生理的な部分、記憶の根幹的な部分が見せた映像だったのか。
とにかく「それ」が見えてから、イオネラはユウトと歩いた記憶をたどり、衝動の合間を縫って電車に乗った。
必要な電車賃は、見知らぬ人からもらった。
切符売り場で立ち往生していると、心配した若い男女が話しかけてきた。
お金を持っていない、だがどうしても城山道駅まで行きたいと告げると、二人は親切に色々と教えてくれたあげく、笑顔で往復分の切符をくれた。
どうやら相手は、イオネラがまだ日本にきたばかりで困っている外国人観光客だとでも思ったようだった。
イオネラは電車に乗り、城山道駅で降りた。幸い、車内で吸血衝動が起こることはなかった。
だが駅を出た直後、彼女をやはり衝動が襲った。
気が狂いそうなのを最後の理性で抑えつつ、なんとか歩みを止めずにイオネラは歩き続けた。
途中、すれ違った女の子に話しかけられたような気がしたが、衝動を抑え込むのに必死で、どうやり過ごしたのかあまり覚えていない。
それからイオネラは公園にたどり着き、この場所までやってきたのだった。
疲れ果てた心で、イオネラは狭く暗い空間に座り込んでいる。
ようやく安らげる場所にやってきて、イオネラはこの日初めて心の緊張を解いた。
解きながら、ここが私の死に場所なのだと、何となく思った。
イオネラは子どもの頃に見た、血を吸えずに死んだ吸血鬼の姿を思い出した。
母親に手を引かれ、外へ遊びに出たある日。
とある裏路地に一人で走っていったときのことを。
なぜ走っていたのかは覚えていない。ただ記憶にあるのは、その先にあった、無残な吸血鬼の死体だけ。
その亡骸は、全身がしぼんだように痩せ、骨と皮だけのような状態で路地裏の冷たい道上に横たわっていた。
気づいた母親はすぐに目を逸らさせたが、イオネラはその光景が忘れられず、暖炉のある暖かい家に帰ってから純粋な好奇心で尋ねた。
どうしてあの人は、目も、頬も、唇も、しわしわになっていたの。
すると吸血貴族である母親は、悲しい顔で答えた。
――血が腐ったからよ。血が吸いたくなっても吸えないでいると、私たちの中にある魔力がいまある血から栄養分を奪って、腐らせてしまうの。
いま思えば、それは子どもに理解しやすくさせるために、多少の言い換えがなされていた。
実際には、血が腐るわけではなかった。そして血を吸うのは、魔力ではなかった。
だが幼かったイオネラはそれを真実と思い込み、その夜、目に焼きついてしまった死体の姿と、自分もそうなるかもしれないという恐怖とで、なかなか寝つけなかった。
その死体と同じ姿に、自分もなるだろう。イオネラは思った。
不思議と恐怖はなかった。
もう私は十分生きた。六百年という時を越えて、想像だにしなかったはるか先の世によみがえることができただけでも、私は幸運だった。
未来を垣間見ることができ、私は満足している。
もうこの地球上には、おそらく私と同じ吸血鬼は存在しない。
トランシルヴァニア公国はすでになく、彼の地の吸血鬼はとうの昔に滅んでしまった。
今の世界に、吸血鬼は必要とされていない。それは、私がこの時代の人間の血を吸えないことからも示されている。
私が生きる意味は無い。吸血衝動が原因で、いずれ疎まれる存在になる。
ならいっそのこと、ここで死んでしまったほうがいい。
吸血衝動に苦しむくらいなら――そのために、自分でない誰かを命の危険にさらすくらいなら。
ユウト――
声にならない声で、イオネラはつぶやいていた。
もし――
もし、やり残したことがあるとするならば――
ユウトと一緒に、もう少しだけこの時代で、時を過ごしたかった。
六百年前、貴族として生まれた自分は物心ついた時から立派な城で生活していた。
イオネラの父親は、トランシルヴァニアでも有力な貴族のひとつ。
ゆえに家族にはそれなりの体面が求められ、ときに息苦しさを強いられる場面もあった。
そのことを、イオネラは決して嫌だとは思わなかった。むしろ誇りだとすら思った。
だがこの時代にきて――西暦2013年の日本という、時も場所も遠く離れたここにやってきて、イオネラは本来の自分という人間を存分に出していた。
ここでは貴族のような体面を気にしなくても良かった。少なくとも、ユウトの周りでは。
さらに全く自分の命令を聞こうとせず、正直に文句をぶちまけてくるユウト。
トランシルヴァニアにいたとき、彼のように明け透けな態度で接してきた者は一人としていなかった。
だから命令を聞かない、自分の思うとおりにならないユウトに対し、イオネラは常に腹を立てていた。
うれしかった。
心の底では、言いたいことをありのままに言ってくれるユウトという存在が、うれしいと感じていた。
そんな甘い気持ちを自分の中で認めたくなかったから、イオネラは、いつも無礼なユウトに対し腹を立てている貴族という「設定」をいつの間にか創りだしていたのだった。
ユウトと暮らした日々を思い出し、この世から消えると決めたはずのイオネラの心はわずかに揺れた。
行くあてのなかった私に、初めて血を吸わせてくれたユウト。
いつも私に対し、反抗的だったユウト。
ケンカが絶えず、お互いそっぽを向くことも多かったユウト。
でも血だけは忘れず吸わせてくれたユウト。
本当は心の優しいユウト。
ミナミナがナビゲーターを務めた吸血鬼のクイズ番組を見終えた後。
涙を見せた私の肩に両手をおいて励ましてくれたユウトの、優しい瞳。
あのときの胸の高鳴りが、まるでさきほどのことのようによみがえる。
――だめ。
思い出すと、死ぬのが辛くなる。
だが押し寄せる記憶の波は、イオネラを捉えて離さなかった。
「イオネラ」
心に残るユウトの呼び声が、耳元で再生される。
私のことを思いやるユウトが――暗がりのソファの上で見せた彼の表情が、はっきりと思い出される。
「イオネラ」
本当は自分も辛いはずなのに、それを面に出さずに血を吸わせてくれた。
そんな彼の声がまた耳に届き、イオネラは自分の記憶力の良さを恨んだ。
このままでは死ぬのが辛くなるばかりだ。もうやめてほしい。
「イオネラ」
何度も聞こえる、はっきりした声。
イオネラは断ち切るように首をふる。
ここに来て、私はどうしたのだろう。後はここで安らかな死を迎えるだけだったのに。
どれだけ願っても、どれだけ望んでも、もう元の生活は戻ってこないのに。
どうしてユウトの声が――。
「イオネラ!」
イオネラは顔を上げた。
深い闇の底に沈んでいた意識が引き戻され、もう二度と開くまいと決めていたまぶたが反射的に上がる。
白い世界が彼女の視界を埋め尽くす。
急な光をまぶしそうに見上げたイオネラは、声がした方――自分の右側に空いた穴の方に顔を向けた。
しだいに目が慣れてくると、降りしきる雨の中、入り口の前に立つ一人の人物が見えた。
信じられなかった。
いま心の中で――闇の中で思い描いていた人が、かけがえのない大事な人が、彼女の紅い瞳に映っていた。
イオネラは、ふるえる声で彼の名を呼んだ。
「ユウ、ト……」




