第41話 回想 中学三年の夏2
全国大会。
それは、日本中の射手の頂点を目指す、年に一度の決戦の場。
中学三年生の夏も、後半に差しかかるころ。
雄斗は、初めて足を踏み入れた他県の弓道場に、最後の射手として立っていた。
異様な雰囲気だった。
さきほどまでざわめきが勝っていた会場が、水を打ったように静まり返り、観客は雄斗の一挙手一投足を正視している。
全国大会団体戦第一回戦。
トーナメント形式で争われる大会で、くじ引きで決められた雄斗らの初戦の相手は、なんと昨年の優勝校だった。
全国でも有数の強豪校として知られているその中学は、昨年だけでなく、一昨年も、その前も、そのさらに前も全国優勝に輝いている。
いわば、絶対王者。
そんなところに、全国大会初出場の雄斗らの中学が、一回戦であたることとなったのだった。
部員はみんな尻込みした。
なんて運が悪いんだ。初戦敗退決定じゃん。そんな愚痴のような声も出た。
気の弱い小詩などは、
「みんな、全国まで行けてうれしかったよ。この思い出は一生忘れないから」
と、早々に負けた後のコメントを部員に伝えていたくらいだった。
だが、そんな気持ちとは全く正反対の人間が二人いた。
ひとりは部長の大翔。そしてもう一人は、雄斗。
「優勝を目指すんならどこかで当たるだろ。なら、いま当たっても問題ないし」
そう雄斗が言えば、
「強けりゃ強いほど、倒した時の達成感が違うんだって。俺たちには失うものなんてねえし、むしろプレッシャーのかかるのはあいつらのほうなんだからな」
大翔がみんなを勇気づける。
「で、でも、相手はずっと全国優勝し続けてるんだよ? そこに、まだ弓道部ができてから一度も全国に出たことのない、っていうか関東大会にも出たことがなかったうちが勝つなんて……」
あくまで弱気な小詩に、大翔は言いつけた。
「負けると思ったほうが負けんだよ。小詩も、団体戦だからって自分が外してもいいなんて思うなよ。ひとつ外したら一発ずつ殴り飛ばすからな」
「えっ、えええっ!?」
そんなことを話しながら、ついに迎えた初戦。
相手校の三人は、当然勝つものという態度で悠々と射場へ流れ込み、次々と的に矢を中てていく。
だが小詩、大翔、雄斗も、負けじと的に中て続ける。
意外に調子のよい三人。すると、相手校は油断したか、少しミスが目立ち始める。
十二射中、三射はずし、九射。
その一方、雄斗らは残り一射を終え、九射を中てていた。
勝負は水物。武道には特にその要素が強い。
百戦すれば勝ち目はないが、一戦だけなら、時の運が味方してくれることもある。
だからこそ、全国優勝を続けていた相手校は誰からも敬意をもたれていたのだが、今回はいくぶん旗色が悪い。
そして、その試合の最後の射位に立ったのが、雄斗だった。
関東大会の決勝と同じ状況。
会場はまるで違うが、どこか既視感のある景色に、雄斗は不思議なめぐり合わせ感じていた。
はるか先には、ぶぜんとすましている白黒の的。
そこに自分の矢を中てれば、俺たちの勝ちだ。
相手校は全ての選手が打ち終えた。もうこちらを眺めることしかできない。
大翔と小詩も、そしてその後ろにいる他の部員たちも、視線を集中させている。その中にはもちろん、小声の女子部員・鞠の姿もある。
それだけでない。会場の観客らの目も、そのほとんどが雄斗に向けられている。
常勝校が、一回戦で初出場校に敗れるか――。
彼らの注目は、雄斗の最後の一射に集まっていた。
雄斗はいつものように、前へ進み出る。
そして右手の矢をつがえ、弓を打ち起こす。
左手を押し、弦を引いた会の状態になったところで、彼は強く念じた。
――関東大会の決勝を再現してやる。
雄斗の中に、常勝校を恐れる気持ちは皆無だった。
むしろ、強大だと思われた相手に勝てる千載一遇のチャンスが訪れたことに、彼としては珍しく興奮していた。
ゆっくりと息をはきながら、はやる気持ちをおさえる。
彼は狙いを定め――
右手を、離した。
瞬間。
運命を乗せた細い矢は、浅い放物線を描き――
見事に、的の中心近くに突き刺さった。
やった――
勝った――
だれもがそう思った。
見守っていた大翔と小詩も、後ろで両手を組んで祈っていた鞠も、喜びに顔を上げた。
だが――
「反則。打ち直し」
審判の思わぬ声に、その場にいた全員が動きを止めた。
射場の隅にいた、そのやせぎすで目つきの悪い中年の男性は、低くうめくような声で雄斗に伝えた。
「前。足が進み過ぎてるから。打ち直し」
どうやら射る時に立っていた場所が、既定の場所からはみ出ていた、ということが言いたいようだった。
雄斗は信じられないといった顔で、その審判に抗議した。
自分はいつも通りの場所に立っていたし、もし百歩譲って前に出すぎていたのなら、射る前に伝えるのが普通じゃないか、と。
だが審判は、一切受け付けないといったふうに右手を振り、再度射位に入るよう促すだけだった。
部員らの落胆はひどかった。もちろん、雄斗もいくぶん気が落ち込んだ。
だが、彼は射位に戻りながら、再度気持ちを奮い立たせた。
もう一度――
もう一度、中てればいいだけだ。
彼は指示された場所に両足を置くと、右手に力を込めて矢をつがえ、弓を打ち起こした。
左手を前に押し出し、会の形に。
同じように。さっきと同じようにやるだけ。
大丈夫だ。俺は集中できている。
右手を、離す。
矢はさきほどと似た軌跡を残し――
的の中央からやや右下に、ストンと突き刺さった。
今度こそ――!
雄斗は右手で小さくガッツポーズを作る。
だが――
「反則。打ち直し」
また――
引きずり落とすかのような声が、雄斗の耳に伝わる。
射場の端にいた中年審判が、やはりにらみをきかせ、雄斗に近づいてきた。
「前。足が進み過ぎてるから。打ち直し」
まるで録音した音声テープを再生したかのような、同じ言葉。
到底理解できない審判の態度に、雄斗は怒りを覚えた。
「どこが進みすぎていたんですか。さっき言われたとおりにやったじゃないですか」
怒気を含んだ雄斗の言葉に、去ろうとしていた審判は首だけをめぐらせて、ぼそぼそと口にした。
「立った時はそうだったけど、射る直前に少し左足を前に出したでしょ。数センチ。だからダメ」
数センチ。
あまりに厳しい、というよりもはや屁理屈と言っていい理由に、絶句する雄斗。
だが審判は、去り際にさらに言い残した。
「――次やったら失格にするから」
その言葉が、雄斗を縛り付けた。
足を動かさないように。もう一度正確に。次は失格。
それらが彼の動きをぎこちなくさせ、体を固くした。
最後の一射を射る雄斗。
だが、さきほどまでとはうって変わり、集中力の減退した雄斗の矢は、あえなく的を外れた。
それから延長戦に入るも、審判の一件で作られた妙な雰囲気に飲まれた小詩が的を続けて外してしまい、彼らはあっさりと敗北した。
一時は初戦敗退の危機にあったところからの勝利に、相手校は心からほっとした表情で肩をたたきあう。
一方、雄斗らは、どこかやるせない気持ちのまま、だれもほとんど言葉を交わさずに射場を後にしようとしていた。
顧問の先生は、件の審判に抗議した。だが相手の中年男は「何も聞きたくない」といった様子で、すぐに背中を見せて射場を去ろうとしていた。
それを見た雄斗は、まだ胸の中であきらめきれない気持ちが渦巻いているのを感じた。
なんでこんなことになったんだ。
たった数センチ、足が出ていただけで。
いや、それもおかしい。そんなことでこれまで反則をとられたことはなかったし、他人がとられるのを見たこともなかった。
しかも、相手との勝負を決める最後の一射というタイミングで――
号泣する小詩に肩を貸した大翔が、何も言わず真横を通り過ぎる。
雄斗は両の拳を強く握りしめ、ただひたすら木張りの床をにらんでいた。
「あ、あの――」
そこへ。
後輩の女子部員・鞠が、心配そうな表情で雄斗の顔をのぞきこんできた。
「せんぱい……すごい顔、してる……だいじょうぶ、ですか……?」
ぎりぎり聞き取れるくらいの小声で話す鞠。
そんな彼女に、雄斗はうなずくでも首を振るでもなく、ただ無言のまま、弓矢を片付けようとゆっくり腰を下ろした。
そのとき。
彼の耳に、相手校の選手のうれしそうな話し声が入ってきた。
「やっべー。マジで負けるかと思った。一回戦なんかで負けたら、顧問に何言われるかわかんねーし。よかったー。あれでよく全国これたよな」
全国優勝の常連校にとって、一回戦突破は当然のこと。
それが分かっていても、雄斗はその生徒の軽い言葉に、心のかさぶたをかき立てられる思いがした。
「延長戦の最後のあの、女みたいなやつ? 完全に腰砕けてたもんな。全然的と違うところに矢が刺さってたし。思わず笑っちまった。助かったよ~」
さらに彼の耳に届いたその言葉を、雄斗は無視できなかった。
いつもの彼なら、心無い相手選手の言葉に怒りを覚えながらも、気持ちを抑えて黙っていただろう。
だが、いまの雄斗は、憤りという不吉な色の空気を限界までつめたゴム風船のように、きわめて危うい心境になっていた。
彼はすぐさま立ち上がると、鞠が小さな声で止めようとするのも聞かず、その相手選手に近づいていく。
そして、やや甘いマスクをした、背の高い相手のそばまでくると、その顔をにらみつけた。
「な、なんだよ」
「謝れよ。いまの言葉。小詩に失礼だろ」
雄斗の強い口調に、だが相手は雄斗を見下ろしながら、受け流すように言い放った。
「ハイハイ、すみませんでした。これでいいの? 反則君」
「んだと。もう一度言ってみろ」
「負けたくせに見苦しいって。ってか初出場のくせにいきがりすぎだろ。俺たちがどれだけ必死な思いでこれまでの地位を築いてきたと思ってんの?」
相手はそうとうに強気な性格らしく、あきらかに雄斗を下に見ていた。
「お前らの中学だったら、たまたま全国までこれただけで十分じゃん? 俺たちとはそもそものレベルが違うんだって。ちょっと惜しい試合したくらいでうちと対等に付き合えると思ってんの? 甘すぎ。だいたいお前ら――」
そこからの、相手をひどくさげすむ言葉を、雄斗は聞いた。
その瞬間――
雄斗の心にあった風船は、限界を超えて破裂した。
「ユウト!」
反射的に、雄斗は相手に殴りかかっていた。
相手は抵抗しようとするも、雄斗がすぐに組み伏せて、一発、二発と拳を見舞う。
異変に気づいた周りの人間がすぐに止めに入るが、雄斗は相手の胸ぐらを離さずに殴り続ける。
「ユウト!」
騒然とする射場。響く悲鳴。
大翔や小詩に止められても、間に入られてもなお、雄斗はたまった鬱積を全てぶつけるかのように、ただひたすら暴れ続けた。
三年間続けてきた中学生の最後の試合を、どうしてこんな形で終わらせなくちゃいけないんだ。
彼は誰に訴えるでもなく、ただひたすら何かに向かって叫び続けた。
そして――
「――ユウト!」
「――はっ!?」
雄斗が目を覚ますと、そこは自室のベッドの上だった。
いつのまにか掛け布団をはねのけ、彼は上体を起こしてうなだれていた。
全身から汗が流れ、疲労感がおびただしい。
「はぁっ……はぁ……はぁ……」
「ユウト」
そのとき。
彼のすぐ横から、聞き覚えのある声がした。
ゆっくりと振り向くと、そこには心配そうな顔をしたイオネラの姿があった。
「あ……イオネラ……。なんで……」
「なんで、とはなんじゃ。今日はわらわを学校に連れていくと約束したのは、おぬしじゃろうが」
「そう、か……そうだな。ごめん。やべ……いま何時……?」
「八時五十六分じゃ」
「わかった……。すぐ着替えるから、下で待っててくれ」
少し痛そうに、眉間のあたりをおさえる雄斗。
その目の下には、べっとりとクマができている。
「おぬし、ずいぶんとうなされておったぞ……。わらわが何度おぬしの名を呼んでも、一向に目を覚まさなかったものじゃから、どうなるかと……何か嫌な夢でも見ておったのか」
「まあ、そう、だな。――悪いけど、部屋の外に出てくれねえか」
「……うむ。分かった。下で待っておるからな」
いつものイオネラならここで「主であるわらわに命令するなどとは○○××!」などと反応するところだが、雄斗にただならない雰囲気を感じたのか、いまは何も言わずにすんなり部屋を出ていった。
扉が閉まる音がし、部屋が静かになる。
いまだぼんやりする頭のまま、雄斗はなんとなく視線を前方に移した。
そこには、黒く長い筒に入った、弓道で使う矢があった。
(久しぶりに見たな、あの夢……)
雄斗は右手で顔を覆い、こめかみのあたりを親指と人差し指で挟む。
そして、何かを吹っ切るように首を振ると、ベッドから勢いよく降りた。
窓のほうに向かって歩き、カーテンをさっと開く。
すると、明るい七月の日差しが部屋へ差し込んできた。
今日は日曜日。
イオネラを、雄斗の通っている高校へ――正確には、月森先生のところへ連れていく約束をした日だった。




