第27話 吸血貴族と放浪者ツグミの小さな闇2
いまから一年と少し前。中学二年生の春のことだった。
進級しクラス替えが行われ、新しく入った教室。まだ黒い髪でカラーコンタクトもはめていない、ごく普通のおとなしい女子中学生だったツグミの隣に、ひとりの男子が座った。
短髪でやや背の高い、ハンドボール部に所属していた彼は、部活に熱中するあまり勉強の方には気が回らないらしく、ほぼ毎日といっていいほど何らかの科目の教科書を忘れてきていた。
そんな彼に、ツグミはいつも自分の教科書を見せてあげていた。
最初は渋々だった。大多数の女子がそうであるように、男子と話す機会の薄いツグミは、異性に教科書を見せるのは気が進まなかった。
だが彼があまりに何度も教科書を忘れるから見ていられず、しかたなく、
「……よかったら、見る?」
と、左の席にいる彼に見えるよう、教科書をそっと自分の机の左端に差し出したのだった。
彼は素直に喜んだ。申し訳なさそうにしながら、いつもツグミの教科書をながめていた。
だが、彼が反省し、自分で教科書を持ってくるようになることは、ついぞなかった。
転機が訪れたのは、それから一ヶ月ほど経ってからだった。
あまりにいつも教科書を忘れるため、ツグミがそろそろひとこと言おうと思い、放課後に彼の席へ行こうとしたとき。
彼の方が先に、ツグミの席へ近寄ってきた。
「あの――次の土曜日に試合があるんだけど、よかったら、見にこない?」
彼の話によると、対戦する相手校が応援団を連れてくるほどの強豪なのに対し、こちらも実力では負けていないが、部員はそれほど多くないため応援が寂しい。そのため顧問の先生が、友人知人家族親族だれでもいいから一人三名ノルマで連れてこい、と意気込んでいるから、ということだった。
なら自分の友だちを連れていけばいいのに、とツグミは思ったが、特に趣味もなく、休日にやることもなかったので、仲のよい友人と二人で行くということで一応承諾した。
ただし、次からは必ず教科書を持ってくるようにと約束して。
彼は恥ずかしそうに頭をかきながら、小さくうなずいた。
土曜日になり、試合会場を訪れると、相手校は確かに応援団や補欠の部員達がベンチに並んで大きな声援を送っていた。
対してこちらの中学は、顧問の意気込みとは裏腹にほとんど応援の人間は集まっておらず、ツグミは完全にベンチで孤立していた。
ツグミは仲のよい友だちと来るつもりだったが、その友だちが風邪をひいてしまったため、結局一人で応援に来ていた。
それでも、他に自分と同じように部員からせがまれた人が大勢いれば、自分は目立たなくてすむと思った。
だが結局、顧問の言葉を真面目に受け取っていたのは彼だけだったということに会場に着いてから気づき、ツグミはひどく後悔した。
かといって帰るわけにもいかず、ツグミはルールも知らない謎のスポーツ、ハンドボールを不承不承観戦せざるを得なかった。
試合は一進一退の攻防。彼は先発で積極的に動き回り、いくつも点を決めていた。
ツグミはそのときに初めて、彼がハンドボール部のエースであることを知った。
彼の活躍が光った試合だったが、相手校も負けずに次々とゴールを決め、結果は一点差で敗北。
相手側の応援団は大盛り上がり。対してこちらは散発的に拍手があるのみ。
ツグミも形だけの拍手を送ろうとしたが、彼が肩をふるわせ、涙をぬぐいながらコートからくやしそうに立ち去っていく姿をみて、考えを改めた。
両手を口の前にかざしてから、ツグミは彼に、その日初めての声をかけた。
「がんばったね。カッコよかったよ」
その声に一瞬、彼は動きを止めたようにみえた。だが涙顔をみられるのが恥ずかしかったのか、そのまま彼は振り返らずにコートから消えていった。
次の日、彼はツグミが応援に来てくれたことに笑顔で感謝した。
ツグミは手の平をひらひらさせながら、ちゃんと教科書を持ってきたかと尋ねると、彼は得意げにカバンから今日の全教科分の教科書を出して見せた。
「ツグミが応援に来てくれたんだから、俺も約束守らねえとだろ?」
そのとき初めて、彼がさりげなく下の名前で呼んだことに、ツグミは胸が少しだけ高鳴った。
その日は約束を守ったものの、彼は結局また数日に一度のペースで、教科書を忘れてきた。
ツグミはため息をつきながらも、以前のように自分の教科書をみせてあげた。
だが前と違い、ツグミの中で当初感じていたわずらわしさは不思議と消えていた。その代わり、彼に対するやわらかな親近感が芽生えていた。
会話も増えた。毎朝あいさつを交わすようになり、授業中も彼はツグミの教科書を見ながら疑問点を尋ねるようになった。
休み時間や放課後はそれぞれの友人と話していたが、教室で隣の席にいると、自然と二人の間には会話が生まれた。
いつのまにか、ツグミは彼と他愛のない話をし、彼の声を聞くことに、楽しさを覚え始めていた。
そんな折。梅雨時が迫るある日のことだった。
ツグミが学校に来ると、すでに机に座っていた彼にいつものように声をかける。
だが、なぜか彼はツグミの方をふり向きもせずそのあいさつを無視した。
ツグミが「どうしたの。機嫌でも悪いの……?」と尋ねても、何も答えない。明らかに様子がおかしい。
その答えを、ツグミは授業の合間の時間に友人から訊くことができた。
朝、彼が教室に入ると、教室の黒板に大きく、ツグミと彼の名前が入ったあいあい傘が桃色のチョークで描かれていたのだった。
彼が教室に入ったころにはすでに半分ほどのクラスメートが来ていて、だれも消すに消せず、ただながめるだけの状態になっていた。
彼は慌てて黒板消しで何者かが書いた悪意のある絵を消し、周囲を懐疑の目で見回した。
だが、彼の無言の問いに答えるものは誰一人としていなかった。
それどころか、調子のいい彼の友人らはあいあい傘をネタにして「やっぱお前と柊って、デキてたんだな!」「柊とかよウケる!」「あいつのどこがいいんだよ」と半分小バカにしたように彼の肩をたたいてくる。
彼は「そんなんじゃないって」とうるさそうに友人らの手を払いのけ机に座ったとき、ツグミがようやく登校してきたのだった。
ツグミはそれを訊き、ひどく気分を悪くした。
一体だれがこんなことをしたのだろう。彼の友人のうちの一人か、あるいは全員で、か。
まだ同級生がだれもこないうちに冗談半分で書いたのかもしれない。ずいぶんなイヤガラセだ。
困ったのは、ツグミの友人も彼らと同様の態度で接してきたことだった。
「ツグミとあいつ、本当にデキてるの?」
「でも、ツグミも最近よくしゃべってるもんね」
「試合の応援にも行ったんでしょ? で、どうだったの?」
こうした恋愛話に目が無い年頃の彼女らは、不用意に次々と残酷な質問を投げかけた。
ツグミは耳を塞ぎ、落ち込んだ気分で自分の席に戻った。
隣には彼が座っているが、もう視線も合わせなかった。
そうして二人が気まずい関係のまま、数日が流れた。
以前は弾んでいた会話も、あの一件からはひとことも交わしていない。
その間に彼が一度、教科書を忘れた授業があったが、彼は終業のベルが鳴るまで、ツグミに教科書を見せてほしいとはついに言わなかった。
そしてある日の昼休み。
授業が終わった直後、まだあいあい傘のことが話のネタになっているのか、二人のことを面白がることしか考えていない彼の友人らは、ツグミが席から離れないうちに早速彼の机を取り囲んだ。
「よう、ほんとに柊とデキてんの? いい加減、正直に言えよ」
「そうだぜ。勘違いすんなよ。俺たちお前を応援してんだからな」
「ってかもう告った?」
三人の男子がはやし立てる。
だが彼はうるさそうに首を振った。
「別に、柊とはそういうんじゃないし。何にもないから」
「そういうんって、どういうん?」
「好きなんだろ? なら堂々と言えよ」
「『柊のことを心から愛しています。一生誓います』って!」
「あ、俺、牧師の役やるわ」
冗談半分のノリで爆笑する友人たち。
だが真面目な彼はそれを必死に否定した。
「だから、俺は柊のことなんか何とも思ってないって! つーかウザいって思ってるくらいだし――」
友人の前で強がるあまり行き過ぎた言葉。
目に余る彼らの様子から遠ざかろうと席を立ったツグミの耳に、否応なく入ってきたそれは、彼女の胸を強く揺さぶった。
「ほんとかよ? じゃあ柊の前で言えよ。お前のことがキライだって」
「言えるよな。ウザいんだから」
「言わないとあいあい傘のままだぞ?」
悪友に押され、彼は席を立った。
そして少し先でこわばった表情をしているツグミへ、彼は言った。
「俺は――柊のこと、最初からウザいって思ってたし」
「それだけか?」
後ろからさらに友人らが追い立てる。
彼はそれに負け、青ざめた顔で言い放った。
「ひ、柊なんか、俺の視界にも入れたくねえよ! この世からいなくなればいいんだっ!」
ツグミは、その鋭く無残な言葉の刃を、正面からまともに浴びた。
ふだんは部活のことしか考えていない彼が、彼なりに必死につむぎだした、他人を非難する言葉。
それは思いのほか、ツグミの心を深くえぐった。
彼の目は揺れていた。ただの強がりであるのはみえみえだった。
だがそれを推し量って彼の言葉を飲み込み、自分の中でうまく消化できるほど、ツグミは器用な性格ではなかった。
クラス中の生徒の視線を感じる。
彼の大きな声は同級生の間で共有化され、それがなお一層、ツグミのかよわい心の傷を広げた。
その傷口から、淡く冷たい血がにじみ、しだいに流れ出る。
その瞬間、ツグミは胸が強く圧されたような感覚に襲われ、急に手足がふるえ始めた。
「ツグミ……」
ただならぬ様子のツグミに呼びかけたのは、彼女の一番の友人――彼の試合を風邪で見にいけなかった、メガネをかけた穏やかそうな友人だった。
「大丈夫? 様子がおかし――」
だがその友人の言葉を待たず、ツグミは右手で胸のあたりを押さえるようにしながら、教室の外へ走り出した。
「つ、ツグミちゃん――!」
友人が驚く。彼は狼狽した表情。同級生らは何事かとただ傍観しているだけ。
だがそんな光景は、ツグミの視界から完全に消え去っていた。
二つ教室を挟んだ先にある女子トイレにかけこみ、洗面台に顔を向けると、ツグミは強烈な吐き気をもよおした。
それをなんとか唾を飲み込んで耐えると、今度はだんだんと呼吸が速くなり、胸が再び強い圧迫感に襲われた。
心臓のペースが一気に上がり、ドクンドクンという音がエコーを含んで耳に響く。
目がかすみ力が抜け、ツグミはひざが折れるのをなんとか洗面台にすがりつくことで耐えた。
それは明らかに異常だった。
ツグミは体に――心に、変調をきたしていた。
彼女自身も自覚していなかった、壊れやすくナイーブな自分の心に、彼の言葉がつけた傷痕はことのほか大きなものだった。
初恋だったかも、しれなかった。
そこまで至っていなかったかもしれない。だがツグミにとって、不器用で生真面目な彼からの言葉は、だれよりも心揺さぶられる大切な言葉だった。
そのことに、ツグミは今になって気がついた。
いつのまにか、ツグミの頬には涙が伝っていた。
私は――
私は、どうしてしまったんだろう――。
私は、どうしてこんなにショックを受けているんだろう――。
彼はたぶん、友だちにむりやり言わされただけだ。本気でそうは思っていない。
なのに、なんで――。
湧き上がる疑問をなんとか胸に収め、ツグミは服のそでで涙をぬぐう。
少しすると、呼吸は元通りになり、胸の痛みも消えた。
ツグミは深呼吸をし、鏡を見て表情を整える。
――教室には、戻りたくない。
だが、かといってほかに行くあてもないまま、ツグミはとぼとぼと女子トイレの出入り口に向かっていった。
そして廊下にでた途端。
「おわっ」
思わずだれかとぶつかりそうになる。
相手が何とかそれをよけると、ツグミも遅れて顔を上げた。
「あれっ、ツグミ?」
「あっ――お兄ちゃん」
ツグミは驚いた顔で見上げる。
すぐ隣の高校に通っているはずの兄が、なぜかこの校舎の廊下に来ていた。
「どうしたんだよ、それ……目が赤くなってるぞ」
兄に指摘され、ツグミは首を振りながら必死にごまかそうとした。
「う、ううん。さっき砂ぼこりが目に入っちゃって、水で洗ってたの……」
「……そうか。ならいいけど」
少し疑問を呈しながらも、一応納得した様子の兄は、いきなり右手にあった弁当箱を差し出してきた。
「えっ、なに?」
「俺、飯とおかずを間違えて入れててさ。たぶんツグミの弁当はどっちもおかずになってると思う。だから届けにきたんだ」
「そ、そうなん、だ。……ありがとう。じゃあ、弁当とってくるね」
「ああ。あ、そういえば、この間の話」
「この間の?」
「ツグミ、趣味をみつけたいって言ってただろ。帰宅部で、いつも家でやることがないからって」
「うん。ミンテンドーDSならやってるけど、もっと打ち込めるものがあったらなって」
「MMOって知ってるか? パソコンでやる、他のプレイヤーと協力しながらやるRPGゲーム」
「あ、知ってる。ちょっと興味ある」
「そっか。新しく出た『クライシスソード・オンライン』っていうゲームが結構人気らしくて、面白そうだからやってみたらって小詩が――俺の友だちが言ってたんだけど」
「クライシスソード……うん、わかった。やってみようかな。ありがとう、お兄ちゃん」
そう口にして気丈な笑顔を見せるツグミ。
兄に心配をかけさせないように、すぐ弁当箱を教室に取りに行く。
本当は二度と戻りたくなかった、彼のいる教室に。
「――それからすぐに席替えがあって、その人とは離ればなれになったの。その間に私は家でやるCSOが面白くなってのめりこんで――。
最初は明け方までプレイしていたら寝坊しちゃったから、学校を休んだの。で、一回休むともういいかなと思っちゃって……それからは学校に行ってない」
ツグミは話し終えると、疲れたように大きくため息をついた。
しばらく落ちる沈黙。
ツグミの部屋の閉じられたカーテンは徐々に夕日の明るさを失い、夜に役目をゆずる準備を始めている。
ゆるやかに暗くなりつつある室内で、イオネラはツグミの話をじっくり心に染み渡らせるかのようにまぶたを下げたまま、神妙な顔つきになっていた。
「……なるほど、な。おぬしのいまの状況、よくわかった。なかなかに、つらい思いをしたのじゃな」
「気休めはいいよ。どうせ私の気持ちなんて、分からないと思うし」
ツグミがこの日はじめて笑顔を見せた。
だがそれは陰りの差した、虚ろな笑みだった。
イオネラはそんなツグミに向かって、ぴくりとも笑わずに告げた。
「ツグミの気持ちを分かろうとは思わぬ。人は他人の気持ちを推し量ることはできても、決して理解はできぬからのう。ただ、わらわはツグミの話を聞いて、つい昔のことを思い出したのじゃ」
「昔のこと……?」
訊き返すツグミに、イオネラはそっとうなずいた。
「今度はわらわが勝手にひとりごとを話してもよいか?」
「……いいけど」
ツグミが答えると、イオネラはゆっくりと話し始めた。
「わらわが十四のときじゃ。町の大商人の息子と毎月会う機会があってな。そやつはわらわと同い年で、よくお互いの暮らしのことや身の周りのことなどを話しておった。
気前がよく、包容力があり、見た目も……まあ、わらわには吊りあわぬが、そこそこの美形じゃった。正直者で、悪事にはおよそ向かぬような男じゃ。しかし何より、そやつと話しておるとわらわは自然と胸が高鳴って、いつも楽しい気持ちで過ごせたのじゃ。
じゃがあるとき、とつぜんそやつが『お前とは二度と話したくない。顔も見たくない』と言ってきおってな。会うことがなくなってしまった。そしてすぐ、そやつは親とともに遠く離れた島国へ移住してしまったのじゃ」
「どうして……その人はそんなことを?」
つぶやくように語られるイオネラの話に、ツグミはなぜか引かれていた。
「わからぬ。わらわが何かそやつを傷つけるようなことを言ってしまったのか、何か気づかぬうちに悪いことをしていたのかとずいぶん悩んだのう。じゃが心当たりはひとつとして思い当たらなかった」
「……ひどい話」
「だからわらわはこう思うことにした。自分が島に移住してもう会えなくなるとわらわが知ったら、きっとひどく悲しむと思って、そやつは先にわざと嫌われるようなことを言ったのだと」
イオネラの言い分に、ツグミは思わず苦笑した。
「……なにそれ。ほんとに?」
「本当かどうかはわからぬ。わらわが勝手にそういうことにしただけじゃ。嫌われれば、別れたところでせいせいするだけじゃし、胸が痛むこともないからのう。
じゃが、わらわもガマンできなかった。そこまで考えると、どうしても真実を知りたくなった。そこでわらわは、そやつに宛てて手紙を書いたのじゃ。本当におぬしは、わらわのことを嫌いになったのか、もしそうなら正直に教えてほしいとつづってな。
期待して返事を待って半月、一ヶ月、二ヵ月……そしてあきらめかけていた三ヵ月後に、ようやく手紙がきた」
「返事は、どうだったの?」
ツグミが珍しく興味を示す。
イオネラはなぜか、薄く乾いた笑みを浮かべた。
「手紙の主はそやつの父親からじゃった。手紙には、息子が二ヶ月前に病気で亡くなったと書かれておった」
「えっ」
ツグミが息を止める。イオネラは、なぜか笑顔のまま淡々と続けた。
「父親の話によると、そやつは一年ほど前から不治の病を抱えておったらしい。病気は徐々に悪化しておったが治療法は無く、医者もさじを投げ、悩んだ末にそやつの一家は、静かな離島で息子をゆっくり看取ることに決めたのだそうじゃ。
わらわの手紙が、父親には寝耳に水だったらしい。そやつはわらわのことを嫌いになどなっておらず、むこうではわらわと遊んだ話をよくしていたらしい。父親のその手紙が、わらわに対する気休めでなければ、な」
イオネラの話に、ツグミは反論した。
「でも……それなら余計に、その人は本当のことを言った方がよかったんじゃないの。隠すにしたって、わざわざそんな傷つくような言葉を投げかけて去っていくなんて……理不尽だよ」
「じゃが、あやつがもし正直に病気のことを話しておれば、わらわはおそらく無理やりにでもあやつの首元にかみついておったじゃろうな」
「あっ……」
ツグミは思わず自分の首元にふれた。そこには、イオネラに血を吸われた痕がまだはっきりと残っていた。
不健康な自分の「毒素」を吸われた、二つの赤い点状の痕が。
「不治の病に侵された者の血を吸えば、吸血鬼とて無事ではいられぬ。そうやって体調を崩し、亡くなった者も少なくない。他人の血を吸うという行為はそれだけのリスクを伴うのじゃ。
といって、おそらく出発のときまでわらわにウソをつき続ける自信もなかったのじゃろうな。なにしろそやつは正直者で、悪事には向かぬ男じゃ。だから早くからわらわに嫌われておこうと考えたのじゃろう。つくづく不器用なやつじゃった」
ため息に似た吐息をつき、イオネラは遠い記憶にやや思いをはせた。




