神の悪戯か、新たな試練か
「澄香 お兄ちゃんは帰らないといけないの」
花埜は八ヶ月になった妹を大から抱き上げる。しかし、その手は彼の服を掴んだままで離そうとしない。
「澄香」
引き離そうと試みると、赤ちゃんはウエーンと大声で泣き始めた。
「……いいよ。しばらくまだいるから」
高校三年生になり、夏の大会が終わり大は部活で時間をつぶされなくなった。しかしその時間を埋めるのは今や受験勉強。大学なんて進学する気はなかったのだが、あの時からちょくちょく花埜の家に寄るようになった少年は、一緒に勉強することも多くなり成績がかなり上がった。そこで教師が大のために奨学金制度まで見つけてしまい、彼は大学、しかも国立を目指すことになってしまった。最初はやる気がなかった大だが、教師が進めた大学に花埜も行く予定だというから、頑張ることにした。
大は花埜の妹をあやしながら横目で彼女を見つめる。
あの時から、花埜は変わり始め、今や友達と呼べる存在ができていた。その友達のせいか、花埜はどんどん垢抜けていき、自分だけのアイドルであった少女はいつの間にかクラスでも人気の女の子になっていた。明るくなったことはうれしい、しかし敵が増えるのは問題だった。
「だっ、だっ」
悩ましくそんなことを考えている大の腕の中で、澄香が小さな手で一生懸命、彼の顔を捉えようとしていた。八ヶ月なので言葉を話すことはできないが、大の名を呼ぼうとしているのがわかり、彼は思わず微笑む。
大達が生き返り、日常が戻ってきたあの日から数日後、花埜の母親が妊娠しているのがわかった。高齢出産なので迷ったが、産むことを決めた。
八ヶ月前に元気に生まれた赤子は澄香と名づけられた。
ちょくちょく遊びにきていた大は当然、赤子の成長を目の当たりにするのだが、おかしなことに気がついた。この赤子、大を見ると、どんなに泣いていても泣き止むのだ。そして大が帰宅する時間になると泣き出して花埜の母親を困らせていた。
それは成長すれば、するほど顕著になっていった。
「きっと、澄香は茜さんの生まれ変わりね」
「……やっぱりそう思う?」
「うん」
澄香が昼寝をし、静かになった居間で二人はお茶を飲んでいた。
今日は大も来るから、お留守番頼めるわねと母親は出かけてしまった。大がいれば赤子の機嫌がいい。だから最近彼女の母親は、大が来る日は花埜に澄香の子守を頼んで、友達と息抜きがてらお茶などをしているようだった。
「田倉くんは茜さんが好きだったんでしょ?」
花埜の考えていることはわからない。話すようになったが、相変わらず顔の表情はとぼしかった。だから、大はどういう意味で聞かれたのか、わからなかった。
自分が彼女に好意を持っていることは何度も伝えている。それなのに、こう聞かれやはり、花埜は自分のことはただの友達としか思っていないのかと、凹む。
「……だったら、私が身を引くしかないわね」
何も答えない大の回答を肯定だととったのか、花埜がかすかに聞こえる声でそうつぶやく。
(身を引く?ってことは、八島も)
「八島!俺は君が好きだ。茜のことは好意をもっていたけど、そういう好きじゃないんだ」
大はこの機会を逃すと、もう何も言えなくなると口に出す。
「……でも茜さんは」
「茜は関係ない。俺は君が好きなんだ」
花埜は大の真剣な告白にたじろぐ。確かめるように聞いてしまったことを後悔する。清吉のことが好きだった。でもあれから一年半が過ぎ、毎日のように大に会っているうちに、気持ちはいつの間にか変わっていた。
「八島……」
静寂が家に広がっていた。大の向かいに座る花埜に手が伸ばされる。彼は触れたかった愛しい存在に今日こそ触れられると、前のめりになった。が、
「うぎゃ、うぎゃあああ!」
大音響の泣き声が澄香の寝ている部屋から聞こえた。
大は思わず溜息をつく。花埜は苦笑すると慌てて部屋に走った。澄香は彼女だけでは泣き止まない。大は赤子の前世の顔を浮かべ、悪態をつきつつ、花埜の後を追う。
この転生、神の悪戯か、はたまた新たな試練なのか……。
大は今日も赤子に邪魔をされながら花埜と共に、平和な日常を過ごしていた。
完
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