裏返り
ショウジの集落へ駆け込む彦たち。
すぐに弓を手にして、来た方へ矢を番える。
「なるべく引きつけてからだ!」
山辺ノ彦が叫ぶ。
皆からの返事は、無言。まもなく大熊がやってくる方から誰も目を離せないんだ。
「男弟どの!」
周防ノ彦ですら、僕に怒鳴りつけるのが精一杯。
しかしその怒声も、いまの僕には遠いところの出来事で……。
立っているのか腰を抜かしているのかさえアヤフヤ。ただ細かい手足の震えだけが、まだ身体があるのだと、まだ喰われてないのだとわからせてくれる。
思い出すたびに大きくなっていく影。
いつまで経っても僕と大熊との差は変わらず。それどころか見下ろす影は膨らむ一方で、僕は自分の身体が縮んでいく錯覚に陥った。
「御坂山地を使わなかった理由は、熊……」
「いいかヌシら。射かけたあとは、ワシが引きつける。このなかで一番の翁に近いのはワシだで」
「——それどういうこと⁉︎」
「巫女さま。どうか童らを、集落の皆をよろしくお願いします」
「だから勝手に決めないで!」
巫女さまは本当になにも知らないんだな。
こういうときは、長く生きてきた者が残るもの。そうやって追い払えない獣から、多くを逃す。
こんなの兎でもやってることだ。一匹が食われているあいだにって……。
そうだ、僕がその役を買うのはどうだろう?
などと、心にもない思いつきが頭をよぎり、
「ダメ! 全員で逃げるの!」
巫女さまの声にホッとする。
こんな情けなさを恥じる余裕さえ、いまの僕には残っていない。
「しかし巫女さまになにかあっては!」
「——同胞を見捨てるなんて絶対やっちゃいけないことなの‼︎ そんなことしたヤツらは近い将来必ず滅びる。そう歴史が証明してる! だから、全員で助かることだけを考えて」
「「「…………」」」
「火を。そうだよ熊に火を向ければいいんだよ! きっと怖がるはずだから!」
皆、巫女さまの言葉に覚悟を決めてしまった。
本当なら僕が諌めて、連れて逃さなければならないところなのに。
それすら僕ができないでいるから、皆は……。でも怖くて……。
——ガサガサッ。
茂みを掻き分ける音に僕の肝は凍てつく。
「来たぞ!」
つづいて丸太みたいな熊の前足が見え、それが僕に考えることをやめさせた。
「まだだ! のそのそ近寄って一気にくる。その出鼻を挫くんだ」
のっそりと現した姿が、僕に刻まれた恐怖を——
「……あれが? 嘘だろ」
裏返らせる。
大きな影を見ては大熊を思い出した。
いつも心のどこかでずっと怯えていた。
だというのに、だというのになんなのだあれは!
背丈なんかたったの彦二人分ほど。たしかに肉厚だが、それだけだ。僕はこんなのを怖がっていたのか。
絶望的な隔たりだって? ハハッ。
「——ふざけるなッ‼︎」
体温を失っていた身体がガッと熱を帯びる。
それを自覚したときには、もう僕は駆け出していた。
ほらやっぱり。これだけ近寄っても大したことないぞ。大熊? どこがだ。僕が恐れた影の半分もないくせに。
巫女さまの叫び声が追ってくる。
だが、それを置き去りにする速さで僕の足は前へと行きたがる。
そういえば『速さ』も強さだったか。
「グァガァアアァアーッ‼︎」
どうりで大熊が立ち上がるわけだ。
迫ってくる僕がイヤなんだろ? だから体を大きく見せようとする。そんなもの、僕にはなんの威嚇にもならないぞ。
全身を駆け巡る熱とは逆に、冷えた頭は剛腕による振り下ろしを予想し、それを誘う位置に僕を踏み込ませた。
すると——かかった。
「グアァアアッ‼︎」
腹の底まで響く唸りをあげ、僕がいた場所を大熊の爪は切り裂く。
そこに僕の想う像は残っていない。もう二つ先、腹をヒヒイロカネの剣で斬ったあとにいる。
だが実際はその手前で、獣臭を感じるほど際々の頭上を掠め——いままさに剣を振るったところ!
手応えは、
「固い」
僕の期待を裏切った。
ズシリとした重たさに刃は止まり、手が痺れる。
皮の下までは届いたようで切り口から血が滲んではいるが、決着とは程遠い。
だが、
「届くぞ」
僕の剣は届く!
これを知り、さっきまでは開けていた視界が一気に狭まった。キンキンに冷えきった頭が、いまは冷たすぎてカッカと熱いくらいだ。
ここには自分と大熊だけ。他になにもない。
だからよく見える。先の先までぜんぶ見通せる。
誘い、躱し、斬る。これを淡々と繰り返した。
せめて大熊が事切れるまで誰も邪魔しないでくれ。なんならずっと終わらなくてもいい。でないと昂りが抑えられない!
しかし僕の火照りとは裏腹に、いつまでもつづくと思えた時は、
「——ッ」
ちっぽけな躓きで景色を変えた。
地面から覗く木の根に踵を取られ、転んでしまったんだ。
「グルルゥゥ……」
勝ちを確信したようにのっそりと前足をつき、迫りくる大熊。滴る涎。
次第に僕を覆う影が、乗り越えたはず恐怖を蘇られせる。いや、新たに刻んでいく。
だ、大丈夫だ。まだ剣は手にしている。足は? 挫いていない。ならここさえ凌げば!
こんなふうに心を立て直そうするも、影だった恐怖はハッキリとした姿と獣臭さまで持ち、いままさに僕を終わらそうと——
「オヒトくん! 伏せててッ‼︎」
巫女さまの叫び声。
その直後、
「グガッ、グアアァアアッ‼︎」
僕の真上を通りすぎた矢が大熊を射抜いた。それも一本二本ではなく、何本も。
狙いが逸れている矢もあったけど、僕には当たらなかった。そうならないよう彦たちが射てくれたんだろう。
矢は当たった、けど浅い。これでは仕留められない。
ものともせず大熊は勢いよく立ちあがった。
これは矢に対しての威嚇じゃなく、射かけた者らを探すためだ。
それが済むと巫女さまの方を向く。狙いが僕から逸れたということ。
進みが緩やかになった時のなか、再びグルグルと頭は巡りはじめた。
しかし考えるより先に身体が動く。僕は、屈んで前足をつこうした大熊の顔へ——
「行かせるかぁあああーッ‼︎」
ヒヒイロカネの剣を突き出していた。
切先は深く刺さり、大熊の片目から光を奪う。
「ッ、グガァアアァアーッッ、ガッ‼︎」
仰け反りかえる大熊。
その際、暴れる後ろ足に蹴り飛ばされ、僕は宙を舞った。
「——ぐはっ」
息ができたときには、木の幹にしたたか身体を打ちつけられていた。




