第九話 花知らずはきっと
「犬っ!」
私が大声を出すと、廊下の影がびくりと肩を震わせた。
彼は私に気付いたのか、こちらを見た。
「お前っ……んなとこで何してんだよ!? もう授業始まんぞ!?」
「だから助けて欲しいの!」
「てか、敬語使ってただろ!」
「誰が自分の飼い犬に敬語なんか使うのよ! いいから、あんたの花詞銘で引き上げて頂戴っ、ジェイド!」
ジェイドはワインレッドの髪を掻くと、面倒臭そうにしながらも花詞銘を使用した。
彼の髪がふわっと浮き、私の身体が窓へと引き寄せられる。
私は窓枠に着地すると、ジェイドの首根っこを猫でも掴むようにして持つ。
「おい、何しやが——」
「授業に遅れちゃうでしょ!」
幸い、教室はすぐそこだった。
私は教室の戸を開くと、入り口からジェイドを、彼の座席へと力一杯投げ飛ばす。私自身は、大きくジャンプをして、一番前の列である、私の席に無事着席。
ジェイドはというと、私のコントロールが完璧だったのか、彼も席に着いていた。背中を痛そうにさすっているため、着席より激突という言葉の方がしっくりくるのかもしれない。
彼の前に座るトリーが、その様子を嘲っている。ロイヤルパープルの髪の奥にある金色の瞳が、妖しく光る。
ゴーン……ゴーン……。
始業の鐘に間に合った。その安堵で、私は思わず、天空の使者らしさなど欠片も無い情けないため息を吐いた。文字にするなら——。
「へぅぁ」
これが一番近い。
何だろう、ジェイドの方から視線を感じるのに、振り向いたら負けな気がする。
「……ちゃん、ラシーナちゃん」
声のした方を向く。アオイがこっちを向いていた。
私は急いで、天女の仮面をつける。
「どうされましたか? アオイさん」
「いや、先生にガン見されてるって!」
「うん……?」
私はゆったりとした動きで、正面を向く。焦りが見透かされないよう、落ち着いた表情で。
今日はいつも以上に暑い。そんな気がした。
「アリサさんから、連絡は来ています。が、途中退席は今後一切しないように」
私の意思じゃない——そう言いたかったけれど、3校時目の欠席は私が原因なので、素直に謝罪した。こういうこともあるよね、と天女の仮面をあっさりと放り投げ、できる限り自然体で授業を受けることにした。自然体といっても、姿勢だけはきちんとして、後は別のことを考える。それだけなのだけど。
正直、まだ整理がついていない。それに、やっぱり暑いからか、考えがまとめ辛い。
トリーが嫌な顔を浮かべて話しかけてきたのは、その授業が終わってからだった。
「アンタ、やっぱバカだな。そんなになるまで、自分の身体を放っておくなんて」
意味が分からなかった。一体何の事を話しているんだろうか。
頭が、痛い。さっき、イリス副会長が脳に負荷をかけたから?
「それは……どういう……?」
「どんな花も、水分を取らなきゃくたばる。ずっと見てた。アンタはいつになったら水を飲むんだろうって」
トリーが、「別に興味はない」と、すまし顔で付け足す。彼の黒パーカーが、チカチカして見える。
水分? そうだ。昨日から——ううん、学園に来た時から、私は一度も水を飲んでいない。
さっき出された粗茶だって、熱いからって口にしなかった。
「全員の視線が、殆どの時間アンタに集まってたってのに。今朝、アンタの顔を見てすぐに分かった」
「あ。コイツ——」
私の意識は、ここで途切れた。
☆★☆
ボクが最初に彼女を見たのは、入学式の時だった。
光をよく弾きそうな、白の制服。
それなのに、見る者全ての目線を吸い込んでしまう、真緑の髪。
ここまで、他人に興味を持ったのは初めてだ。
けれど、彼女はどこかおかしい。
一般的に、花詞銘を使用するのには水分が不可欠。もちろん、普段の生命活動にだって同じことが言える。
その日、気が付いた。
その様子は、少し前の自分にそっくりだ、と。
自分の中身にしか興味のないはずのボクが、彼女を気にかけたワケは、それしかない。
学園に入学するからと、銘も持たぬのに、無理に《ボクはボクでしかない》なんてフザケた解釈を生み出した自分。
逸った、そう思った。
けれど、それはすぐに効果をもたらしてくれた。
どんな花詞銘の効果も受け付けない、完全無欠の、己が状態を保持し続けるだけの銘。
髪の色が変わったのを見て、これは紫のパンジーだと確信した。
「しっくりこない」
他の人が居なければ使えない——そんな、お伽話の英雄のような銘が欲しかった。
こんなのまるで、皆から嫌われるために存在する、悪役じゃないか。
ボクはきっと一人じゃ心細くて、とても生きていけないのに。
彼女に話しかけると、彼女は笑ったフリをして言葉を返す。見え隠れする、嫉妬やその他、負の感情が、ボクの心を突き動かした。
咲きかけの蕾を、ボクは初めて見た。
「起きなよ」
療養室のベッドに横たわる彼女の表情は、ものすごく安らかだ。水垢だらけの窓から差し込む夕日が、彼女の顔を優しく照らす。
その近くの鏡に映る、ボクの姿は、これまた不自然だ。髪と瞳の色が逆転して、制服だって。
まだ、変異した銘が何なのかは分からない。どうして変異したのかも分からない。
でもこれじゃ、まるで彼女みたいじゃないか。こんな——白制服なんて。
☆★☆
目が覚めると、そこには知らない男の子が立っていた。
トリーと同じ程の背丈で、私より背が高いのが見て取れる。けれど、髪は金髪だ。着ている制服だって、茶色ベースの制服と黒パーカー、金の装飾の付いている黒ローブじゃない。
白ベースの制服、黒い直線の入った白パーカー、そして白銀の装飾があしらわれた白ローブ。
けれど、彼のかけている黒縁眼鏡や顔はトリーそのものだった。
「起きたんだ」
目の前の彼は、そっけない声をかけながら、心配そうな目をして私に向き直った。
銘臭は——する。柑橘系に近い、フルーティーな香りだ。
どうにも、嫌な感じはしない。きっと、彼はトリーではないんだろう。
「あなたが運んでくれたのね……ありがとう」
「……水分はちゃんと摂りなよ。咲きかけの時期は、一番水が必要だから」
「それってどういう……」
彼は「それじゃ」と告げ、さっさと出ていってしまった。それと入れ替わるように、アオイが入ってくる。
「ラシーナちゃん!」
「アオイ……」
彼女は鮮烈な、暴力的なまでの赤い髪を揺らしながら、私に抱きついてきた。
きっと、心配をかけただろう。
「さっき凄いことが起こったんだよ。もう、みーんなびっくりしちゃって!」
落ち着いたのか、アオイはすぐ横の椅子に腰掛け、口を開いた。
「私はジェイドとお昼ご飯を食べてたんだけど、その時、ラシーナちゃんはトリーと喋っていたでしょ?」
「……ええ。まだ、記憶が曖昧なのだけど」
「それでね、ラシーナちゃんが意識を失った、って感じの事をトリーが大声で言ったの。ここまでは良かったんだけど……」
私は深く頷く。当時の様子を想像しながら。
「そしたらトリーが私を指差して、水筒を貸してくれって、そう言ったらだよ? いきなり、トリーの制服が白くなって、髪の毛もまっ金金になっちゃって!」
「え……?」
「水筒を渡したら、ラシーナちゃんに飲ませ始めて……」
「その後、ここ……療養室まで運び込んでってね。結局トリーってば、午後の授業サボって、私と一緒にラシーナちゃんに付きっきりで看病してた」
トリーが、私を?
そんな馬鹿な話があるワケない。彼の目は、明らかに敵意を持っていた。
今日は鋭い目線で私を見つめてきてたし。
髪が、金? それってさっきの——。
もう一度出入り口のドアを見たけど、そこに彼の背中は無かった。
◇◆◇
あれから二日間の休日と、一週間の欠席を挟んで、私は学業に復帰することを許される。
一つ、変わったことがある。
アオイと、部屋を分けられた。




