プロローグ
ごめんね、シスター。
空の上は、今日もきれい。足元に広がるわたあめみたいな雲は、触ってみたらすごく冷たいの。お水みたいな匂いもする。
「あなたも、真っ白なままでもいいのよ」ってシスターは言うけど、孤児院に居た他の子はみいんな、髪がカラフルで、いいなあって、ずっと思ってた。私だけ、緑と黒色は、いやなの。
後ろから、シスターが追いかけてくる音がする。それに気づいて、私の上がりきった息まで聞こえてくる。
ドアまで、あと少しなのに。
「待ってラシーナ、そっちはダメ!」
窓の外の月明かりに照らされて、シスターの真っ白な髪が、少しピンクに染まる。
そっか。
シスターも、花を持っているのね。夜にしか咲かない花を。だから、私に「早く寝なさい」って、言ってたんだ。
朝は静かな、わがままな花。
「シスターの嘘つき、大嫌いっ!」
バニラアイスみたいな匂いがして、少しためらったけど、私は大きなドアから飛び出した。
「ラシーナ!」
自分と同じように真っ白でいい、真っ白がいいなんて言いながら、自分はそんなきれいな色を隠してたの?
私は、胸の中で写真を強く抱きしめた。おかしいよね。
半分しかなくて、シスターしか映ってないのに。
さようなら、シスター。
いつの間にか、私は雲を突き抜けて、暗い暗い下界へ真っ直ぐ落ちていた。どうしてか、雲は少しピンク色に見えた。『サガリバナ』のせいかな。
木の枝が、私に引っ掻くように傷をつける。なんとなく、初めて嗅ぐ自分の血と泥の匂いに、気分が悪くなった。夜空に広がる灰色の雲は、泣いているみたいで可哀想。
泥に背中から落ちて、お腹の少し上らへんが弾んで、シスターの方へ帰りたそうに痛む。帰りたいのかな?
お腹のなかが、目の前の景色が、ずっとぐにゃぐにゃしてて、シスターのところに帰りたがってる。
……だめ。だめなのに。シスターは嘘つきなのに。
暗い森で、たった一人。
グルルルルッ……。
嫌な音がした。私のお腹の音かとも思ったけど、違う。だって、もう晩ごはんは食べたんだもん。——じゃあ、何の音?
怖い。怖い。嫌だ。私はどうなっちゃうの?
木の間から、幹を踏みながら出てきたのは、大きなクマさんだった。けど、その顔は絵本にあったように柔らかくなくて、私とお揃いの白くて鋭い歯も、よだれでびちゃびちゃ。多分、これが獣臭っていうのかな。
うわぁっ。
ヌメヌメしていて生ぬるいよだれが顔に落ちてきて、すごく気持ち悪い。それに、怖いの。助けて。誰か。お願い。
「——どけ」
聞いたこともない、低い声。ううん、すぐにはそれが声だなんて思えなかった。
次の瞬間、クマさんの頭が、私の目の前でぐにゃりと歪んだ。
ドォォォン。
空から落っこちた私よりもずっと重たい音がして、大きなクマさんが、入道雲みたいに横倒しになった。赤い液体が、私の着ている白いシャツに飛び散った。
目の前に立っているのは、大きな木みたいな人。シスターみたいにいい匂いもしない。泥と、汗と、獣の血の匂い。
おじいさんの拳は、お餅みたいに白くなくて、木の根っこみたいに固そうで、ボロボロで、私とは全然違って太い。
おじいさんは、カバンから白いタオルを取り出して、私の顔に放り投げた。
「……生きてるか、小娘」
おじいさんに投げられたタオルは、土の匂いがしたけれど、シスターのバニラアイスよりもずっと安心できる匂いがした。
私は顔を拭いて、泥だらけのまま立ち上がった。足はまだガクガクしているけど、倒れたクマさんの横で、岩みたいに立っているおじいさんを見上げた。
「……おめえ、名前は」
おじいさんが、短く聞いた。
私は一瞬、迷った。本当のことを言ったら、あの空の上の何もない場所に返されちゃうかもしれない。それは嫌だ。あそこが、シスターが嫌で抜け出してきたんだから。
私は、さっきまでの「帰りたがっていたお腹」を、自分の拳でギュッと押さえつけた。
「ラシーナ。……神様の、お庭の番をしていたの。強くなりたくて、修行にきたんだよ。まだ8つだけど」
シスター以外に初めてついた嘘。
おじいさんは、私のボロボロの白い服と、その奥にある真っ赤な目をじっと見つめた。それからふんと鼻を鳴らした。
「……そうか。嘘つきの目はしとるな」
おじいさんは、大きな手で私の頭を、ぐしゃぐしゃに撫でた。
痛いくらい強かったけれど、お腹のなかのぐにゃぐにゃは、いつの間にか消えていた。




