第36話 貝殻
シベニクでの生活は、僕らに束の間の安らぎを与えた。
幸せだった。
僕たちの住む家は丘の上にあった。
窓の向こうには海が広がり、波音が静かに響いていた。
朝は光で目を覚まし、簡素な食事をとり、昼には石畳の坂道を下りて町へ出た。
町は賑わいに溢れ、人々とのささやかな交流もあった。
そんな毎日が、僕らの傷を少しずつ癒していった。
夕暮れになると、僕と由香里さんは決まって海辺を散策した。
海に沈む夕日は美しく、その光に映る由香里さんの横顔が、僕には眩しくて仕方がなかった。
倉沢の影が、その時ばかりは遠のくように思えた。
いつものように海辺を歩いている時だった。
由香里さんがぽつりと呟いた。
「拓真さん、このまま幸せが続くのか、時々不安になります……」
それは僕の胸にも沈んでいた思いだった。
それをかき消すように僕は彼女に告げた。
「大丈夫だよ。ここまで来れば、さすがに倉沢の手は及ばないよ」
「そうだといいのですけど……」
僕は由香里さんをそっと抱きしめた。
彼女の鼓動が、僕に伝わった。
「由香里さん、大丈夫だよ」
「はい……」
由香里さんは、僕の胸に顔をうずめていた。
「あそこに座ろう」
僕たちは流木に腰をかけた。
近くには色とりどりの貝殻が落ちていた。
「わあ、きれい。ピンクの貝殻が落ちています」
「本当だね。ほら、取ってきたよ」
由香里さんは拾い上げた貝殻を、しばらく黙って見つめていた。
そして、ふいに表情を曇らせた。
「どうしたの?」
「私たちはこの貝殻のようなのでしょうか……?」
「どういう意味かな?」
「だって、貝殻は開いたままでくっついていないでしょ。いつかは……」
「僕は由香里さんを離さないよ」
それ以上、僕は何も言えなかった。
気づくと由香里さんの頬には涙が流れていた。
僕はハンカチでその涙を拭い、彼女の手を強く握りしめた。
「拓真さん、私は恐いです。もう、あの頃に戻りたくありません」
「大丈夫だよ」
僕はその言葉を繰り返すしかなかった。
夕日の明かりが、僕には輝きを失っているようにも見えた。
里岡は定期的に、日本での出来事を手紙で送ってくれた。
時には新聞の切り抜きもあり、日本での情勢もそれにより知ることができた。
ある日のことだった。
新聞の切り抜きが目に入った。
倉沢、突如総裁選不出馬 里岡、政友党総裁に就任、次期総理へ
僕らにとっては明るい知らせのようにも思えた。
何かが動き出しているような気がした。




