第13話 しおれた花
下田駅を降りて、しばらく歩いた。
どこからか潮の香りがして、
青い海の気配がゆっくり僕の中に広がるような気がした。
気がつくと、夕日があたりを茜色に染めていた。
想いは、海に浮かぶ漁船の灯りのように、揺れてまた消えていくようだった。
遠くを見渡すと、白い灯台の灯りが静かに海を照らしていた。
どこからか波の音が、ゆっくりと聞こえていた。
由香里さんがこの光景を見ているのだろうか。
そう思うと、胸の奥に温かな風が通り抜けていくようだった。
下田の町並みに入ると、僕は手がかりを探すために、通りすがりの人に声をかけてみた。
桐沢財閥の別荘なら、きっと誰かが知っているはずだと思った。
何人かに尋ねているうちに、その場所は思いのほか容易に知ることができた。
僕の中に灯りがそっとともった。
けれども同時に、ひんやりとした空気のようなものも入り込んできた。
その日は遅くなったので、宿屋へと向かった。
その夜、僕は眠れずに、宿から出て近くの浜辺を歩くことにした。
遠くにある白い灯台は月明りに照らされて灰色がかって見えた。
明日という日が間近に迫り、僕の胸に静かな波が押し寄せていた。
僕はなぜか、浜辺に咲いていた花を一輪手に取り、海へそっと浮かべた。
花は波に揺られながら、静かに漂っていた。
潮風がそっと頬を撫で、月影が海にそっと咲いていた。
残月を眺めているうちに、東の空がほのかに白みはじめた。
震える手をポケットに隠した。
そして、僕は教えてもらった別荘へと向かった。
別荘は浜辺に面して建っていた。
白い壁のさほど大きくない建物だったが、
やや古い面影が、かえって品のある姿をまとっていた。
バルコニーのある部屋から、柔らかな香りが漂ってきた。
白いカーテンが、潮風にゆっくり揺れていた。
僕は浜辺から、由香里さんが現れるのを待った。
窓には人影が揺れていた。
高ぶる気持ちを抑えられなかった。
しかし、柔らかな香りは次第に消えていった。
しばらく、僕は浜辺にたたずんでいたけれども、由香里さんは現れなかった。
そして、その日は宿へと引き返した。
翌日が何事もなかったかのように訪れた。
僕は再び別荘へ行き、浜辺で由香里さんが現れるのを待った。
柔らかな光が差した。
白いカーテンが揺れて、由香里さんがバルコニーに現れた。
僕は僅かな時間の中で声をかけることができなかった。
けれども、由香里さんが僕に気づいた。
そして、微かな声が浜辺まで届いた。
「どうして、拓真さん、ここに?」
門の隙間が空いていたので、そこから入り、
僕は必死に答えた。
「それは、僕の台詞だよ。どれだけ僕が由香里さんのことを想っているか、わからないの?」
「拓真さん、それは……それ以上言わないでください」
「大丈夫だよ」
そう言った瞬間だった。
風が、一瞬静まり返った。
波の音さえ消えたようだった。
そして由香里さんは、自室に返っていった。
しばらく、待ったけど現れることがなかったので、いったん宿へ引き返した。
しかし、柔らかな香りが僕の中から消えることがなかった。
僕は諦められなくて、その夜に再び浜辺へと向かった。
バルコニーから光が溢れていた。
浜辺で由香里さんが現れるのを待った。
けれども、現れることがなかった。
寄せては返す波の音だけが、静かに響いていた。
翌日になって、別荘へと向かった。
今度こそ風が届くような気がしたから。
バルコニーに近づくと由香里さんが現れた。
そして、僕に気づいた。
由香里さんの頬に一滴の雫が流れた。
僕は思わず声をかけようとした瞬間だった。
自室へ戻っていったけど、すぐにバルコニーへ戻ってきた。
手には白いものを持っていた。
そして、僕へと投げてきた。
風に乗って僕の元へ届いた。
よく見ると、紙飛行機だった。
僕は紙飛行機の意味がわからなかった。
それをそっと開いた。
拓真さん。
愛しています。
忘れることができません。
だから、そっとしていてください。
僕は由香里さんの方を見て、首を振った。
そして、投げてきた紙飛行機を由香里さんの方へ投げ返した。
けれども、風は悪戯で手紙はバルコニーの下へと落ちた。
由香里さんは再度、自室へ戻りもうひとつ紙飛行機を持ってきて、
僕に向かって投げてきた。
僕は紙を開いた。
そこには、何も書かれていなかった。
その後、幾度となくバルコニーを訪れるも由香里さんの姿はなかった。
バルコニーの下には、しおれた花が咲いていた。
僕はそれを見続けていた。
波の音だけが静かに響いていた。




