【16】誰かを守ることなら
「柚子が『留』って呼ぶからじゃない?」
すると祖父が、クルリと庾月の方を向く。
「柚子は何て言われんだ?」
きょとんとした庾月は、首を傾げる。
「『う~』?」
庾月の返答に、留は思わず声を出して笑う。
「え、でも……私を呼んでいるか、留を呼んでいるかはわかります!」
『ね? 留?』と庾月が言った──そのとき。
「う~!」
夷吹の声が高々に上がった。
クスクス笑いながら、留は庾月に返す。
「あ、今のは俺を呼んだね」
「本当かぁ?」
祖父がからかうように疑いをかけてきたが、
「ええ、私も今のは留を呼んだと思います」
庾月がすぐに同意してくれた。
呼ばれたと公言した留は、夷吹をあやし始める。
キャッキャッとはしゃぐ夷吹は、留の指をつかんだ。
些細な仕草に留の心は大きく波打つ。
思わず抱き上げたとき、庾月の声が聞こえた。
「あの……また裏の部屋を使わせてもらっても……いいですか?」
「どうかした?」
祖父に了承を得ようとしていた庾月に、留が聞く。すると、想定外な言葉が返ってきた。
「歩かせないと」
そう言われて留は夷吹を見つめ──たが、名残惜しそうに庾月に夷吹を預けようとする。
「庾月と同じく十ヶ月くらいは、体感したかったのにな」
ポソリと本音がもれた。
「重さがまったく違うわ」
庾月が笑う。
夷吹を庾月がしっかり抱っこしたところで、留は手を離した。
「何かあったら呼んでね」
そうして庾月の背が見えなくなったころで、留はハッとした。
「そうだ!」
何かを手取り、後を追いかける。
食堂裏の簡易的な部屋に顔を出せば、庾月が座っていて。夷吹をハイハイさせようとしていた。
留は『すぐ来ちゃった』と笑いながら部屋に入り、庾月に持ってきた物を渡す。
「懐かしい」
庾月が喜んだのも束の間。
チンチンチンと、庾月が受け取った呼び出しベルを夷吹が何度も叩き──庾月も留も、思わず大笑いした。
午後になると、留は合間を見て食堂裏の部屋に顔を出す。
夷吹は自発的な行動が増えていて、そのせいもあってか顔立ちもハッキリして見えた。
瞳の色だけではなく、髪の毛もしっかりとクロッカスと認識できるようになったと改めて意識する。
「あら、留!」
庾月の声にハッとし、となりに座る。
「こうやって俺たちも見守られて育ったんだね……。じぃちゃんに感謝しなきゃ……」
「私も、よくお父様がいてくれたらしいの」
「そうなの?」
留の問いに庾月は首肯し、続ける。
「だから留がこうしてそばにいてくれるのを見ると、すごくうれしくなるのよね」
気恥ずかしくなり、思わず留は視線を逸らす。
ふと、夷吹がじぃっと見ていた。──と同時、呼び鈴を何度も鳴らす。
留の頬はゆるんでしまって、『おいで』と呼びかける。
すぐに夷吹の手は呼び鈴から離れ、その手は留の膝に乗った。
「イブってね、抱っこしてると俺のことジ~ッとよく見てるんだよ」
留はついつい夷吹を抱き上げる。
「柚子に似てるなってうれしくなるし、頑張れる」
ギュウッと留をつかむちいさな手からは、赤ん坊独特の体温が伝わってきた。
庾月と付き合う前には想像できなかったあたたかさを胸に感じ、意図せずしんみりとした言葉が出る。
「ありがとね」
──いつか、この手を……迷わずに離さないといけないんだ。
同時に浮かんだ想いに気を取られる。
そのときを生々しく想像できてしまった。留は慌てて夷吹を庾月に預ける。
「戻るね」
いてもたってもいられなくなってしまった。
涙がじんわりとにじんできてしまって。なぜか庾月に気付かれてはいけないと、咄嗟に背を向けた。
食堂に戻るとすぐ、
「大丈夫か?」
祖父が声をかけてくれて、『うん』と返す。
「イブが何度も呼び出しベル鳴らしちゃって、驚いたでしょ? ごめんね」
留自身はいつも通りに話せたと思ったのに、祖父は横目で奥の部屋に視線を送る。
「一緒にいたかったら、もっと行っててもいいんだぞ?」
ドキリとして、数秒視線が泳いでしまった。
「そんな顔……してた、かな?」
「お前は俺の孫だから、嘘つくのがヘタなんだよ」
あっはっはと祖父が豪快に笑う。
「じぃちゃんも嘘をつくときがあるの?」
「あ~? 生きてりゃそりゃ、『つかないといけない嘘』もあるってもんだ」
あんまりにもサラリと祖父が言うものだから、留の知らない過去の祖父に、そういうときが『あった』と思わざるを得なかった。
「そっか。……そう、だよね。ついていい嘘もある、よね……」
──きっと、誰かを……何かを、守ることなら。
「あ~……あれと似てるな。何だ……護身術、だっけか? いつだったか留は覚えただろ?」
「うん」
宿屋という職業柄、留は生まれたときから色んな客を見てきた。中には『客』とは言えないような人物もいて──でも、祖父は人柄なのか、体格がいいのもあるのか──細目の祖父が目を見開けば、大抵の者は大人しくなる。
ただ、そうでない者も少なからずいて──留は対策として、護身術を独学で身に付けた。
「肝は同じだ」
なるほど──と腑に落ちる。変に罪悪感を抱くものではないと。
留は、ふふっと笑う。
「じぃちゃんの言葉って、やっぱりわかりやすいや」
何でも子どもはおもちゃにしてしまうと知り、更に数ヶ月が過ぎた。
何だかんだ、留は仕事中でも夷吹をすっぱりと手放していない。
昼前までは夷吹を抱えながら仕事している。
その間は庾月も一緒に働いていて、夷吹を忙しさのピークを迎える前に、留から引き受ける。
そうして食堂の裏の部屋に行き、夷吹を自由に動けるよう見守っている。
変わらず庾月宛てに克主研究所から郵便物は届くのに、庾月は以前のようには行かなくなった。
夷吹が生まれてからも、数週間に一度は馨民か悠穂が検診にやってくる。
庾月と夷吹の検診だが──庾月が妊娠してから、これまで届けに行っていた書類の回収は、どちらかが来たときに渡しているらしい。
以前ふしぎに思った留が聞き、教えてくれた。
「もう行く必要がなくなったのよ」
当初、庾月はそう言ったから、留は目を丸くした。すると、
「実は、私の勉強の機会だったの。そうね……平たく言えば『社会勉強だった』ってところかしら」
と、わかりやすく教えてくれた。
「もったいないね」
ポロリと出た本音に、庾月が『え?』と言ったから、留は言い改める。
「もう、きれーなかっこの庾月が見られないんだなって思っただけ」
留は本当にちょっと残念だったのに、庾月は『もう!』と照れていて。
でも、近くにいてくれるのはうれしくて。
何とも留には自身の感情がつかめなかった。
結婚四年目が過ぎて数ヶ月後。
少し早めだが、夷吹の一歳半の検診に馨民が久しぶりに来てくれると聞いた。
ちょうど十二日。
留は馨民と悠穂と、その家族へ日頃の感謝を込めてケーキを作った。
──夷吹も少しなら食べられる時期だし、そろそろあげてみようかな。
庾月との約束で始まった毎月のケーキ作りなのに。我が子に食べてもらえると思うと、留はあっという間にいくつものケーキを作ってしまった。
留が仕事をしているうちに馨民が来て、昼過ぎには検診が母子ともに終わり。
馨民に礼とともに『家族と悠穂さんにも』とケーキを渡す。
そうして、ケーキを家族三人で食べようとしたとき──。
「留くん、ちょっとお話ししてもいい?」
ふいに、馨民に呼ばれた。




