【15】誰が一番かなんて
庾月が妊娠中に医師から聞いた言葉だ。
言葉の意味が、追いかけてくる。多少息苦しい。体が強ばっていきている。
言うべきときがきてしまった。
留は大きく息を吸う。
「出産って、大きな事故に遭ったのと同じくらいダメージが体にあるって言うんだから。まだ絶対に安静」
産後、まだ三ヶ月半弱。しかも船の長旅から戻ったところ。
「いくら庾月が甘えてきたって、医師が許可を出したって。半年間はチューとハグ以上はしません」
断固として宣言し、留は頬を膨らませる。
それに対し、庾月は明らかにションボリとした。
「でも……」
「また焦ってるの?」
「だって……もし……」
『もし、このまま離れることになったら』
留がこの十日間で何度も浮かべてしまった未来。庾月が言わなくても、同じように思い浮かべていると想像できる。
だから留は、きちんと言うと腹を括った。
「この際だからハッキリ言うけど。俺、子どもを『自分の寂しさを埋める道具』にするつもりはないから」
いつにない強い口調に、庾月は驚いただろう。大好きなクロッカスの瞳が見開かれても、留は言うのをやめない。
「夷吹は大事。庾月も大事。これから先、また授かったなら、その子も大事。誰が一番かなんて、俺には選べないよ。……それでもね、大前提は庾月を失いたくないってこと」
強い言葉を含めても、庾月はジッと聞いてくれている。
その視線がうれしくて、でも見ていられなくなって、留は視線を外した。
『これまで言うつもりなかったけど……』と続ける。
「俺の母ちゃんは、だいぶ無理して俺を産んだんだよね。母ちゃんの母ちゃんもそう。だから、庾月のお腹に新しい命が宿ったって聞いたとき、すごくうれしかったけど……すごくすごく、怖かった」
じんわりと涙が浮かんできて、留はグッと右手で左手をつかんだ。
「庾月に万が一があったら、なんて思ったら……庾月を失うかもって思ったら、俺……正直『子どもなんていらない』って何度も何度も思った。でも! そういうわけにもいかないじゃん。だから俺、何とか耐えたんだよ」
「留……」
ボロボロと涙が落ちる。
庾月の妊娠を知って、うれしさと怖さの間で何度もさまよった。何でも庾月に言えていたのに。出産に挑む庾月本人に、口が裂けても言ってはいけないと口を閉じた。
留の恐怖は拭えない。だがその恐怖を、これから立ち向かう本人に共有してはいけないと抗った。
もしかしたら庾月は、また子を宿してくれるかもしれない。そんな幸せを想像して尚更、留はひとりもがいた。
それなのに──いっそのこと、結婚しなければよかったのではないか。そんな風に、プロポーズをされたときと同じような感情まで抱いて。尚且つ、離れた十日間でもう『元には戻れない』と真逆の感情を思い知ってしまった。
涙を拭っていると、ふわりと頭にやわらかい感覚が伝わってきた。
庾月の手だ。
「俺を、ひとりにさせたくないんでしょ?」
やさしさが痛くて、責めるような言葉が口をついた。
「庾月のやさしい気持ちは、わかってる。夷吹も無事に生まれてきてくれて、庾月も無事で、よかったって思うし……感謝しかないよ。でも、まずは体の回復に努めてほしいし、自然に任せてほしい」
ふわりふわり触れられていた感覚が、ピタリと止まった。
「そうね……」
頭上のあたたかさが、ズシリと重い。
「私たち……子どもたちをバラバラにしないといけないかもしれないって……子どもたちへの犠牲を、覚悟して……結婚したんですもんね」
「ごめん……強く言いすぎた」
庾月の方が想像力も、理解力も、いつも上だ。留は先日、夷吹と離れて初めて『子どもたちを離す未来』を想定した。
庾月が首を振る。
「留が私の体のこと、そんなに考えてくれているんだって……とってもうれしい」
にこりと微笑んだ──と矢先、
「甘えていっぱい抱きついちゃお!」
と、庾月が抱きついてきた。
「大好き」
庾月が頬に軽いキスをしてきた。
これは──『恋人の証』と付き合った日に庾月が言った愛情表現。まざまざと再現されては、留は過剰なまでにドキドキとする。
「俺も」
留も同じように庾月に返す。
まるで最初の日に戻ったようだったのに、
「『愛してる』だったら?」
と、庾月が鴻嫗城の仕来りに基づいて──キスを要求してきた。
その上目遣いが、初めてを促されたときを思い出させて、留は胸が苦しくなる。
──ヤバい……。かわいい……。
思わずあのときと同じように、勢いに感情を乗せてしまいそうになる。
ジッと留を見ていた庾月がスッと瞳を閉じて、唇が吸い込まれそうになって──留は意識的にずらした。
庾月の口元に触れた、自身の唇を秒が刻むかどうかくらいで素早く離す。
抱き締める距離から、個の距離になって。寂しげに開いた庾月の瞳は、すぐに留を捉えた。
「チューはいいんじゃないの?」
不満そうに言う庾月はかわいすぎて、留は見ていられずに視線を逸らす。
「夷吹が見てる」
『もう!』と庾月が胸に飛び込んできた。
留はしっかり受け止め、照れて笑う。
「両親が仲良しなのは、いいことだわ」
「そうなの?」
留は本当に知らないから聞いたのに、
「そうなの!」
庾月が照れながら全肯定してきたら、留はまた同じように笑った。
翌朝から留は、これまでのように夷吹を背負って仕事を始める。
ただ、二週間ぶりだからか意外に疲れ、
──夷吹って、少し離れただけでずい分大きくなってる……。
と、子どもの成長の早さを実感する。
うれしい一方、知らない間の成長に、疲れを感じていても離す気にはならず。むしろ──そんな矢先、
「う~、う~!」
夷吹が留の服の首回りをつかんだ。
くりくりとした大きなクロッカスの瞳が、じぃっと留を見つめている。
庾月と同じ色彩につい頬がゆるんで、留は首元にある夷吹の手を握る。
「ん~?」
トントンと上下にちいさく振れば、夷吹はキャッキャッと笑い声を上げた。
すると祖父が横から覗き込んできて、ボソリと言う。
「イブは留のこと、『とーちゃん』って言わねぇなぁ?」




