第二十五節 憧憬
「私がお母様の……マーテルアスの眷属だったら、褒状を出していたでしょう」
ヴィルジェーニアスはブレードもティアラも消し去って、静かに三人に歩み寄る。
「しかし、ヴァンくんの言葉を借りるなら……ストーリアの最中に演者自身の名を呼ぶなど、言語道断」
レグルスはぎょっとした。ヴィルジェーニアスの言葉は、前期期末試験のあとにマーネンに言われた言葉と一言一句同じだったからだ。
「誰かの危機に思わず声が出てしまうのは理解できなくもないですが」
女神はデネボラに向かって手をかざす。桜色のドレスは一瞬にして元の深緑の鎧に戻り、うなじで髪をまとめていたリボンも消えて、淡萌黄色の長髪がほどける。デネボラは安堵の息をついた。
「さて、試練に打ち克ったあなたたちには、月明の剣を手にする資格がありますが……そもそも、あなたたちは月明の剣を求めてはいませんでしたね。必要となるときには貸しますけれど」
「……もう、関わらないでほしい」
小声ではあったが、ユアンは明らかに怒りを滾らせていた。演じているときには抑えていたヴィルジェーニアスへの憎悪が声音ににじみ出ている。
「私を恨みなさい、私の力を分けし者。それであなたの心が楽になるのなら」
開き直りとしか思えない言い草だ。ユアンの表情はさらに険しくなったが、ヴィルジェーニアスはどこ吹く風だ。あまりに傲岸不遜で、神々しさすら感じる。これまでと雰囲気がまるで違う。ただの人間が神と言葉を交わしやすいようにと、ヴィルジェーニアスがわざと俗っぽく振る舞っていたことが知れた。
「私が止めた時間も、作り上げたこの空間も、そろそろ終いです。十七年ぶりに活動したら、さすがに疲れてしまいました」
闘技場の石壁が、サラサラと粒子に変わって消えていく。いつの間にか夜空には月も星もなく、観客席さえも消え失せていた。
「へっ!? ちょ、ちょっと! 父さんたちは!? あの辺にいたはずだろ!?」
レグルスが指差したところには、もう何もない。
「燃え盛る愛と血を受け継ぎし、無力で儚い人間よ」
ヴィルジェーニアスは質問に答えることなく、ただレグルスを見つめる。朧月の瞳に射竦められたレグルスは、声が出せなかった。
「仲間と共に、永い夜の扉を開く鍵となる物語を紡ぎなさい。真夜中に輝く星座となって、この世界に自由を取り戻すのです」
月姫神は、金と銀の粒子となって消えていく。その様は、アステラ・ブレードが消えるときと似ていた。
「レグルスーっ!」
背後からエミリオの声がした。振り返ると、帽子の男も一緒に走ってきている。
「父さん!」
一も二もなく、エミリオはレグルスを抱きしめた。
「無事でよかった……! ユアンくんも、デネボラくんも!」
エミリオは、ユアンとデネボラも順に抱きしめた。が、デネボラからはすぐに離れた。
「ご、ごめんよ! 嫌だったよね? 僕、嬉しくてつい」
デネボラは驚いたのか、呆然としつつも、緩く首を振った。
「デネボラ」
帽子の男が名前を呼ぶと、デネボラはビクッと肩を跳ねさせた。
「……パパ」
男はやはり、デネボラの父だった。だが、娘を前にして、帽子を脱ぐことも色つきレンズの眼鏡を外すこともしない。顔が見えないせいか、最高級のタキシードが浮いて見える。
「十分思い知っただろう。女の子がナイドルになろうなんて馬鹿げたことはやめなさい」
まるで子供の癇癪を宥めるような口ぶりだ。レグルスは思わずデネボラを見る。唇が、震えている。
「……ボクは約束通り、トップであり続けたよ。一年でも二年でも、カノープスに選ばれた。パパだって、一年の時はチャリティーに出られなかったんだろう?」
「そうだな。お前の才能は素晴らしい。僕以上だ。誇りに思う」
「じゃあ、どうして! どうしてやめろなんて言うの!? ボクはナイドルとしてパパの隣に立ちたい! フィオーレ・アステラを宿すナイドルとして!」
「僕と共演したいのなら、プリドルになればいい」
「ナイドルじゃなきゃ、隣には立てない……パパは言ったじゃないか! ボクにはナイドルの才能があるって! デネブみたいになれるって!」
デネブ――御三家と称される、当代のトップナイドルの一人。フィオーレ・アステラを宿す彼は、常にカノープスを演じていた。まさしく、今のデネボラのように。
「デネブみたいに、か」
底冷えがした。
なぜかその一言だけ、ひどく恐ろしいトーンで発された。
「……それは、子供の頃の話だろう?」
だが、父親はやさしい声音に戻って話を続ける。
「あのときはお前がまだ小さかったからそう言ったが、もう道理のわからない年齢じゃないだろう。まさか、子供の頃の戯れ言を今も本気にしているのか?」
「……戯れ言」
「なら、悪いことをしてしまったな……デネボラ、女の子はナイドルにはなれないんだ。世界の理に逆らうような危ないことなんだよ」
デネボラの顔色がみるみる悪くなっていく。
神にも立ち向かえるくらいに、アステラパシーすら撥ね除けるくらいに強いデネボラが、自分の父親の言葉に怯えて、震えている。
「ティターニア学園への入学を許すべきではなかった。現実を知るにはもってこいだと思ったんだが、お前の才能がここまでのものだとは。逆効果になってしまったな」
才能だけじゃない、デネボラは努力だってしている――そう言いたくても、声が出ない。ユアンも父親の言い分に唖然としていて、言葉を失っている。当のデネボラも口を閉ざしている。潤む銀色の瞳だけが、デネボラの思いを雄弁に語る。
「退学しなさい」
「……どう、して。約束は守ってる……成績だって、学生時代のパパよりいいんだよ。神の試練だって、乗り越えられた……」
「またこういうことが起こるかもしれない。心配なんだよ。デネボラ、お前は僕の大事な娘なんだ」
この人は、エミリオとはまるで違う。
子供の夢を真っ向から否定するデネボラの父は、レグルスには得体の知れない怪物に見えた。彼が口を開くたび、デネボラごと、レグルスの心も焼き払われる――その怪物の声を、レグルスはよく知っているからだ。
知っている、なんていう生やさしい表現では足りない。その声は、耳に染みついている。いかに顔を隠していようとも、誰なのかわかってしまうくらいに。最初に会ったときなぜ気がつかなかったのか、不思議なくらいに。
闘技場が消えていく。崩れゆく景色の向こうに、おぼろげながらクイーン・シアターが垣間見えた。
ヴィルジェーニアスが作り上げた空間が消滅していく。凄まじい量のアステラが、嵐となって吹き荒れる。
デネボラの父の帽子が、飛んだ。
強風に煽られる長い髪は、レグルスの想像通りの色をしていた。
男の名が、レグルスの口をついて出る。
「アルテイル……」
娘と同じく長く伸ばしたその髪は、赤色。
デネボラの父は――アルテイル・レゴラメントその人だった。
――暗転。
◇ ◇ ◇
ふと気がつくと、レグルスは観客席にいた。何もかもが元通りだ。優美なクイーン・シアターも、観客席に座る生徒とその家族も。まるで、すべてがなかったみたいに。取り落としたはずの双眼鏡もレグルスの手にあった。
上階の関係者席を覗くと、ちゃんとクラリッサはそこにいた。母の隣にはミアが座っている。どうやら今は幕間の休憩時間らしい。カノープスがヴィルジェーニアスに謁見する場面の直前だ。
隣席のエミリオはひどく苦み走った顔で眉間を押さえている。その横顔だけが、先ほどまでのできごとが真実だと告げていた。
「……レグルス。お前は、お前のやりたいことをやっていいからね」
「うん……ありがとう、父さん」
上演再開のブザーが響く。
舞台上に現れたヴィルジェーニアス役は、今度こそイレーナだった。ユアンもデネボラもチャリティーストーリアを演じきり、カーテンコール後の挨拶までつつがなく終えた。だがレグルスには、退場していく二人の顔がいつもよりもずっと疲れて見えた。
緞帳が下ろされ、桃色の巻き髪のプリドルが登壇した。彼女が観客退場曲を歌うのだろう。
剣を手に 騎士は戦う
覚悟の刃風が 唸りを上げて
神にも止められない激情
これは 世界を変える風
三つの星が 手を取り合って




