キミドリ色から始まる
一生のうちで、忘れられない時間がある。
3年間。人生のうちの「たった」の3年間。
しかし、多くの人はその短い時間に特別な思いを馳せる。
ある時は、思い出話に。
またある時は、漫画に。
ある時は、小説に……
何歳になっても忘れないのはなぜだろう。あれだけの失敗をして、人目を憚らず恥ずかしい言葉を叫んだからだろうか。
小学校、中学校、高校、大学。
多くの人々は高校に無限の可能性を感じていた。
僕は、そんな無限の可能性に取り憑かれた一人でもある。
卒業してから何年の月日が経っただろうか。そんなに経ってはいない。
カビ臭い廊下、どうやってついたのかよく分からない天井のシミ。廊下をパタパタと走る上履きの音。新鮮のようにも聞こえるし、どこか懐かしい気もする。
「おはようございます」
僕は、感慨深い思いを胸にそっとしまい、震える手を誤魔化しながら職員室の扉を開けたのだった。
桜は、気が付いたら散っていて、茶色なった花びらたちが歩道の隅っこに集まっていた。
緑色の木々が、活き活きとしている。
新緑の候とはよく言ったものだ。
季節感に浸ってる俺の横を、パンをくわえて走っている女子校生が俺の横を通り過ぎていった。
定番のお約束事といえば、丁字路でぶつかって、女の子は尻餅をつく。落としたパンを残念そうに見つめると、それを拾う男の子。今にも泣きそうな顔で空を見上げると、そこには「王子様」のような顔の男の子が。
『ジャムが口についてるよ』と自分の顔の口もとを指差しながら彼は笑顔で女の子を見つめる。
意味不明な妄想をしてしまったのは、俺が悪いのだろうか。
それとも、パンをくわえて走るあの子が悪いのだろうか。
腕時計に目をやる。
8時30分。
ホームルームは8時45分から。それまでに着席すればセーフである。
ここから、歩いて、15分。走れば、10分。
こういう『ちょっと頑張れば』という選択を、今後の人生で何度も迫られるのだろうか。俺は、この『あとちょっと』とか『もう少し』とかいう言葉があんまり好きではない。特に、「あと少し」頑張っても良いことがなかったからだ。誰が、このすかしっぺみたいな言葉を考えたのだろう。無駄なあがきだというのに。
俺は、丁字路で尻餅をついてる女の子を尻目に、高校を目指した。
(結局、女の子は男の子ではなく、大きなゴールデンレトリバーとぶつかったらしい。口にくわえていたパンは、拾い上げられることもなく、無残にその犬が食していた)
しばらく歩き、右に曲がると、車通りの多い通りに出た。
警察官が、長い棒を持って何やら大きな機械の横にパイプ椅子を出して座っている。
少しスピードが早い車が通ったかと思うと、無線機を口元に当てて、何かをしゃべっていた。
俺は、その横をポケットに手を突っ込んで、そそっと通り過ぎた。
しばらくして、その警察官の行動がどういうものだったのか理解した。
さらに、3分くらい歩いた場所で、数人の警察官が車を取り囲んでいた。どうやら、スピード違反を取り締まっているようだ。朝の8時30分前後は、人によっては通勤時間だろう。急いでいる人にとっては迷惑な話かもしれないが、警察の方々もこれが、仕事だ。俺らは、こうして登校時の安全が守られているのだと実感した。ありがとうございます。
校門の前には、誰も先生は立っていなかった。
この高校は恐ろしく校則が緩い。
遅刻はもちろんダメではあるが、茶髪がダメとか、短いスカートがダメとか、特に何も言わない。
生徒の【自主性】というものを大切にしている学校らしい。
(入学式で言っていた)
だから、バイトはダメとは言われない。むしろ推奨している。働くことの大変さと、お金を稼ぐことの難しさを学ぶには働くしかないからだという。両親がいかに苦労して自分たちを育ててくれたのかを早い段階から実感することが、成長につながるのだという。
そういう校風に惹かれたわけじゃないけど、なんとなく受験した……というのは嘘になる。
少しは、受験した要因関係している。
高校選びには少し苦戦したけど(学力的な意味も含め)、自分にぴったりの学校を選べたと俺は思っている。
まだ、入学してから1ヶ月。なんだかよくわからないうちに、日々は過ぎ去り、周りは緑で溢れる季節になっていたのだ。
右手に持っていた焦げ茶色の革の学生カバンを肩にかけ直して、校門から昇降口に向かって歩いた。
下駄箱で、まだ綺麗な上履きを取り出し、下駄箱の下に引いてあるすのこ板に放り投げた。
脱いだ革のローファーを上履きの入っていた場所にしまい、下駄箱の戸を閉めた。
上履きを潰して履いているせいか、スリッパのようになり、ペチペチという音を校内に響かせながら、教室に向かって歩いた。
1年生の教室は、4階である。
上級生になるにつれて、3階、2階と、どんどん下っていくこの学校のシステムはよくわからないものだ。
世間のサラリーマンは高層マンションの最上階の部屋を買いたくてしかたがないのではないか。
大人っていうのはよくわからない。俺は、2階が良い。
教室の扉の前に立ち、戸のドアノブに手をかけると、ホームルームの始まりを告げるチャイムが鳴った。
俺は、頭を掻きながら心の中でつぶやいた。
『ほら、間に合った』




