第一章三節 プロローグ
ついに不穏な仮想領域「ワイヤード」へと接続したうさぎ。コウサカに率いられ、危険な港湾の闇へと潜入します。
小さな船が、夜の港に滑り込んできた。
波を割る音は小さい。けれど、うさぎにはやけに大きく聞こえた。
港の明かりは少なかった。湿った霧の中で、ランプの光がぼやけている。木製の桟橋には黒ずんだ水が打ち寄せ、腐った魚と油の匂いが混じっていた。
少し離れた沖には、大きな船が停泊している。
リーダーの男――コウサカは、その船を指さした。
「本船はあっちだ。小舟で荷を分けて運んでる」
声は低かった。必要なことだけを伝える声だった。
うさぎは建物の影に身を沈めたまま、遠くの船を見た。輪郭は闇に溶けている。灯りはほとんどない。ただ、甲板の一部に人影が動くたび、薄い光が揺れた。
「あそこで誰かが取引している」
コウサカはそう言った。
取引。その言葉は、うさぎにはひどく遠いものに聞こえた。だが、目の前で行われていることは確かに現実だった。積まれた木箱。布で覆われた荷。桟橋に降り立つ男たち。それを受け取る側の人間。
世界はここでも、誰かの都合で動いている。
コウサカが目を細めた。
「積荷を降ろしてきた男たちは六名。受け取ったのは三名」
うさぎは彼を見た。
視界の先にいる人間は、霧と暗がりに紛れている。普通なら人数など分からない距離だった。
「見えているんですか」
「見えてはいない」
コウサカは視線を外さずに答えた。
「いるのが分かる」
それ以上は説明しなかった。
後で聞けば、それは生命探知という能力らしかった。生きているものの位置を把握する。見えていなくても、壁の向こうにいても、ある程度の距離なら気配を拾える。
便利な能力だと思った。同時に、うさぎは少しだけ怖くなった。
この世界では、人間の内側にある何かが、勝手に形になる。本人が望んだかどうかも分からないまま、命に関わる道具として使われる。
自分にも、何かがあるのだろうか。
そう考えた瞬間、ひよりの顔が浮かんだ。うさぎは考えるのをやめた。
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荷物は受け取られ、やがて一台のトラックに積まれた。
古い型だった。現実の道路で見るものとは違う。車体は無骨で、金属の継ぎ目が粗い。荷台には布がかけられ、その下に木箱の角が覗いている。
エンジンがかかると、低く濁った音が響いた。
コウサカは無線機に口を近づけた。
「動いた。各自、予定の位置で確認しろ」
返事はノイズに混じって届いた。
『……了解……』
『……見える……こっちへ……』
『……通過した……』
音声はひどく不安定だった。雑音が混ざり、言葉の半分は欠けている。それでも、どこから声が来たのかだけは不思議と分かった。
無線機の性能ではない。この世界の空気のせいなのか、誰かの能力なのか。うさぎには判断できなかった。
チームのメンバーは、トラックの進行方向に分かれて配置されていた。それぞれが通過した地点を伝える。細かな情報はない。ただ、どの道を進んだかだけが、断片的に繋がっていく。
うさぎは倉庫街の影で息を潜めていた。
膝が震えている。
寒さのせいではなかった。夜の港は湿っていたが、身体の芯は熱を持っていた。呼吸を深くすると、腐臭と薬品のような匂いが肺に入ってくる。
怖い。
その感覚だけは、はっきりしていた。
死ぬかもしれない。見つかれば殺されるかもしれない。自分はまだ何も知らない。この世界の歩き方も、戦い方も、逃げ方も知らない。
それでも、ここまで来てしまった。戻ることはできない。
無線に雑音が走った。
『……トラック、通過……』
しばらく間があった。
『……止まった……倉庫……三番……』
コウサカが顔を上げた。
「確認した。荷は一次保存場所に入る」
それからまた、待つ時間が続いた。
荷を降ろす音が遠くに聞こえた。木箱が床に置かれる鈍い音。男たちの短い会話。笑い声。車の扉が閉まる音。
うさぎは建物の壁に背を預けた。耳の奥で心臓が鳴っている。
長い時間に感じられた。実際には数分だったのかもしれない。けれど、待っている間、ひよりのことを考えてしまった。
あの日も、待つことしかできなかった。
救急車を待った。警察を待った。病院の廊下で、誰かが何かを告げに来るのを待った。その後もずっと、答えが来るのを待っていた。
けれど、何も戻らなかった。
今もまた、うさぎは待っている。
だが、今度は違う。
待つだけでは終わらせない。
無線が鳴った。
『……トラック、離れた……』
コウサカが短く息を吐いた。
「移動する。残りの人間は安全圏へ退避。予定通り、俺とうさぎで中を確認する」
うさぎは顔を上げた。自分の名前が呼ばれたことに、少し遅れて気づいた。
「私が、ですか」
「ああ。お前は記憶力がいいと聞いている。見たものを覚えろ。書けるだけ書け。持ち出せるものがあれば俺が判断する」
拒む理由はなかった。
他のメンバーは、人がいなくなった時点で離れていく手筈になっていた。戦うためではない。見つからないための任務だった。
コウサカには、どこに誰がいるのかが分かる。危険があれば撤退する。
それが唯一の命綱だった。
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倉庫の周辺に人の気配はなかった。
コウサカは壁沿いに進み、裏手に回った。事前に調べていた侵入口があると言っていた場所だった。
そこには古い扉があった。錆びた金具。剥げた塗装。足元には泥が溜まり、使われている気配は薄い。
コウサカはポケットから鍵を取り出した。
「複製だ。長くは使えない」
鍵穴に差し込む。
だが、彼の手が止まった。
うさぎは息を潜めた。
「どうしました」
コウサカは扉に指をかけ、わずかに押した。
扉は、音もなく開いた。
鍵は閉まっていなかった。
その瞬間、うさぎの背筋に冷たいものが走った。
偶然か。罠か。それとも、誰かの失敗か。
コウサカも同じことを考えたのだろう。しばらく扉の隙間から中を見ていた。
「戻りますか」
うさぎは小さな声で聞いた。
コウサカは首を振った。
「時間がない。人の気配はない。入る」
その判断が正しいのか、うさぎには分からなかった。
だが、ここで戻れば何も得られない。次がある保証もない。この業者が本当に情報を渡す保証もない。
今しかない。
二人は倉庫の中へ入った。
中は暗かった。わずかな灯りが高い窓から差し込んでいる。埃が空気の中に浮かんでいた。木箱と麻袋が積まれ、通路は狭い。古い荷物の間には蜘蛛の巣が張っている。
だが、奥の一角だけが違っていた。床に新しい車輪の跡がある。埃の薄い地面に、はっきりとした線が残っていた。
トラックの滞在時間と位置を考えれば、積み荷が降ろされた場所を見つけるのは容易だった。
古い荷物の手前に、新しい箱が積まれている。縄も新しい。布にはまだ湿り気が残っていた。
コウサカが膝をつき、ナイフで縄を切った。
「手早くやる」
うさぎは手帳を取り出した。指先が震えている。文字を書けるか不安だった。
コウサカが封を切る。中から、湿った匂いが漏れた。薬品のような、鼻を刺す臭い。それに混じって、甘く重い匂いがする。
箱の中には、粉状のものが詰められていた。布袋に分けられ、さらに油紙で包まれている。白に近いものもあれば、灰色がかったものもあった。
うさぎはそれを見つめた。
ただの粉には見えなかった。空気が淀む。触れてはいけないものが、そこにある。
コウサカが低く言った。
「麻薬だよ。匂いで分かる」
うさぎは手帳に書いた。麻薬。粉状。複数種。湿気。薬品臭。
他の箱も開けた。形は違っても、中身は似たようなものだった。瓶に入った液体。黒い塊。乾燥した草のようなもの。それぞれが布や木屑に紛れて詰められている。
コウサカは顔をしかめた。
「量が多いな。こいつはただの嗜好品じゃない。流通させるつもりだ」
うさぎは何も言わなかった。
この世界のことは知らない。だが、人を壊すものが、どこでも金になることだけは分かった。
次の箱を開けたとき、コウサカの手が止まった。
そこには銃が入っていた。三丁。布に包まれ、薬の袋の下に隠されていた。弾は入っていない。
うさぎは息を呑んだ。
銃は、ただそこにあるだけで意味を持っていた。誰かを殺すための形をしている。説明されなくても分かる。
「弾は」
うさぎが聞いた。
コウサカは箱の中を軽く探り、首を振った。
「見当たらない。ヤクの中に紛れているかもしれないが、そこまで確認することはできない」
彼は銃を一丁だけ持ち上げ、型と状態を確認した。それから元に戻す。
「書け。銃三丁。弾は未確認。薬物に偽装して搬入」
うさぎは急いで書いた。手帳の文字は乱れていた。それでも、情報として残ればいい。
箱の中をさらに確かめる。紙片。記号のような印。見慣れない文字。数字。荷受け先らしき符号。
分かるものは少なかった。それでも、コウサカは必要なものだけを選び、うさぎに書かせた。
倉庫の中は静かだった。
静かすぎた。
うさぎはふと顔を上げた。
何かが変わった気がした。
匂いではない。音でもない。肌に触れる空気が、わずかに重くなった。
「コウサカさん」
声を出した瞬間だった。
扉が開いた。金具の擦れる音が、倉庫の中に響いた。
うさぎの身体が固まる。
入口の方に、人影が立っていた。
男だった。
先ほど鍵を閉め忘れたことに気づき、戻ってきたのだろう。片手にはランプを持っている。もう片方の手は、腰のあたりに伸びていた。
倉庫の奥深くにいたせいで、コウサカも気づくのが遅れた。生命探知があっても、積まれた荷と距離、外の気配に紛れた相手を完全には拾えなかったのかもしれない。
男はすぐそこまで迫っていた。
ランプの光が揺れる。
男の目が、開かれた箱を見た。次に、コウサカを見た。最後に、うさぎを見た。
一瞬の沈黙。
その沈黙の中で、うさぎは理解した。
見つかった。
男の手が腰から何かを抜いた。
銃だった。
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ついに恐れていた「最悪の事態」がうさぎたちを襲います。法もルールも通用しないワイヤードの暗がりで、銃を突きつけられた二人の運命は――
更新をどうぞお待ちください。




