第一章二節 プロローグ
謎の案内人に連れられ、うさぎは「死ねば現実の身体も戻らない」というワイヤードのルールを知ることになります。
指定された場所は、雑居ビルの地下にあった。
看板は出ていない。階段の入口には、剥がれかけたテナント案内が残っているだけだった。電灯の半分が切れ、壁には湿気の染みが浮いている。
うさぎは手すりに指を添えながら、ゆっくりと階段を下りた。
身体はまだ重い。食事を戻したと言っても、数日で元に戻るものではない。足元がふらつくたびに、壁に肩を預ける。
それでも、引き返そうとは思わなかった。
地下の扉の前には、すでに人が集まっていた。うさぎを含めて五人。
年齢も服装もばらばらだった。作業着に近い格好の男。フードを深く被った若い女。髪を短く刈った痩せた男。顔に苛立ちを浮かべた中年の男。
誰も、まともに目を合わせようとはしなかった。うさぎも同じだった。他人の顔を見る余裕はない。ここに来ている時点で、全員が何かを失っているか、何かから逃げているのだろう。
扉が開いた。
中にいたのは、一人の男だった。三十代半ばほど。擦り切れたジャケット。表情に大きな乱れはない。ただ、目だけが妙に疲れていた。
その男が、今回のリーダーだと説明された。
「揃ったな」
男はそれだけ言って、部屋の奥へ歩いた。古い長机が一つ。折り畳み椅子。黒ずんで使われていないホワイトボード。
男は立ったまま、五人を見渡した。
「先に言っておく。ここで聞いた話を外に漏らしても、たぶん誰も信じない。だが、信じられる相手に話した場合は、俺たちより先に別の連中が来る」
誰も返事をしなかった。
「今回お前たちにやってもらうのは、ワイヤード内の港湾調査だ。積み荷の中身を確認し、記録し、持ち帰る。それだけだ」
それだけ――その言い方に、うさぎは引っかかった。本当にそれだけなら、こんな場所に人を集める必要はない。
男は淡々と続けた。
ワイヤードは仮想世界と呼ばれている。だが単なる映像や夢ではない。接続した者は、向こうで身体を持つ。痛みも感じる。疲労もある。怪我をすれば動けなくなる。
そして、死ねば戻れない。
「死亡した場合、現実の身体も戻らないと思え。仕組みは知らん。説明できる奴もいない。少なくとも俺は、戻ってこなかった奴を見ている」
フードの女が顔を上げた。
「それを先に言うのか」
「先に言わなければ詐欺だろう」
男は平然と返した。
「ただし、ここまで来た時点で全員、承諾済みという扱いになる。嫌なら今すぐ帰れ。止めはしない」
誰も立たなかった。うさぎも動かなかった。
怖くないわけではない。だが、それよりも先に、別のものがあった。死んだはずの男が、向こうにいるかもしれない。その可能性だけで、彼女の足は縫い止められていた。
男は机の上に数枚の紙を置いた。地図の写し。海岸線。倉庫。道。待ち合わせ地点。手書きの印がいくつも付けられている。
「業者の名前は知らない。俺も会社の上の人間には会っていない。俺が知っているのは、こっちで集めた情報を会社が行政に売っているということだけだ。高く売れる。だから人を送る。お前たちは、そのための目だ」
中年の男が舌打ちした。
「使い捨てか」
「そうだ」
リーダーの男は否定しなかった。
「ただし、役に立てば次がある。報酬も出る。情報も買える」
その言葉に、うさぎは顔を上げた。
情報。それがなければ、ここへ来た意味はない。
男はうさぎの視線に気づいたようだった。しかし、何も言わなかった。
「向こうにはスキルがある」
空気が変わった。誰かが小さく息を呑む。作業着の男が眉をひそめた。
「スキルってのは、何だ」
「才能みたいなものだ。武器になる奴もいれば、役に立たない奴もいる。治療、索敵、身体強化、幻覚、毒、火、電気。色々ある。ただし、今ここで調べることはできない」
「どうやって分かる」
「現地で確認しろ」
あまりに雑な答えだった。
中年の男が声を荒げた。
「ふざけるな。命がかかってるんだろ」
「だから言っている。条件が揃わなければ発動しない。本人の意思で出せるものとも限らない。追い詰められて初めて出る奴もいる。怪我をして分かる奴もいる。相手に触れて初めて分かる奴もいる」
うさぎは黙って聞いていた。
自分に何かがあるとは思えなかった。あったとしても、それがひよりを取り戻すことはない。だが、ワイヤードに届くための手段になるなら、何でもよかった。
「今回の目的は戦闘じゃない。積み荷を見る。中身を記録する。戻る。それだけだ。余計なことをするな。現地人と関わるな。見つかるな。誰かが足を引っ張ったら置いていく」
最後の言葉だけ、部屋の温度を下げた。
うさぎは、置いていかれる側になるかもしれないと思った。今の身体では、走れるかどうかも怪しい。
それでも、帰る気にはなれなかった。
説明の最後に、日時と集合場所が告げられた。後日、指定された場所へ来ること。遅れた者は連れていかない。荷物は最小限。スマートフォンや身分証は持ち込まない。武器はこちらで用意しない。ただし、リーダーの男だけは銃を持つ。
「俺は一度、渡航している。だから最低限の案内はできる」
その言葉が、安心になるとは限らなかった。むしろ、彼の目の疲れは、一度行った者だけが知るものに見えた。
説明が終わると、五人はばらばらに部屋を出た。挨拶はなかった。名前を名乗る者もいなかった。
うさぎは最後に立ち上がった。
リーダーの男が、扉の近くで彼女を見た。
「歩けるのか」
うさぎは少しだけ目を伏せた。
「当日までには」
男は何か言いかけたが、やめた。
「そうか」
それだけだった。
---
地上に出ると、街の空気が妙に薄く感じた。車の音。人の声。店先の明かり。どれも、自分とは関係のないものに見えた。
帰宅し、その日から身体を戻すことだけを考えた。食べられるものを少しずつ口に入れた。水を飲んだ。吐きそうになれば、時間を置いた。夜は眠れなかったが、横にはなった。
何度も悪夢を見た。ひよりが倒れる。男が笑う。血が広がる。自分は動けない。
目を覚ますたびに、うさぎは天井を見つめた。
身体は弱っている。心は壊れかけている。それでも、行かなければならない。
あの男が本当に死んだのか。それとも、別の場所で生きているのか。知らないままでは、息をすることさえ苦しかった。
---
指定の日、うさぎは集合場所へ向かった。
服は動きやすいものを選んだ。靴も歩けるものに。髪は邪魔にならないようにまとめた。鏡の中の自分は、ひどく痩せていた。
それでも、目だけは沈んでいなかった。
集合場所には、前と同じ五人がいた。やはり、誰も話さない。リーダーの男だけが全員を確認し、短く言った。
「行くぞ」
接続の手順は、思っていたより簡素だった。白い部屋。古い医療機器に似た装置。顔の見えない業者の男。無機質な説明。横になるよう促され、腕と首に器具を取りつけられる。
「向こうで目を覚ましたら、俺の指示に従え」
うさぎは頷いた。
次の瞬間、視界が落ちた。
眠りに落ちる感覚とは違った。意識が暗い水の中へ沈んでいく。身体の重さが消え、音が遠くなる。
そして、唐突に目が開いた。
最初に感じたのは、匂いだった。
腐臭。
鼻の奥に絡みつく、甘く濁った臭い。腐った魚。湿った木材。油。潮。そして、人の生活の汚れ。
うさぎは思わず口元を押さえた。
仮想世界。その言葉は、ここではひどく不自然だった。
足元には硬い地面がある。空気は湿っている。遠くで波の音。倉庫の壁は黒ずみ、木箱には塩が吹いている。錆びた金具の臭いまで分かる。
感覚が、現実よりも鋭い。見えるものが増えている。音の距離が分かる。風の流れが皮膚を撫でる。誰かが近くで息をしている気配まで、妙に生々しい。
だが、それ以上に異様だったのは、人の感情だった。
悪意。憎悪。警戒。
そういうものが、空気の中に混じっているように感じられた。港の奥、暗い路地、倉庫の影。そこにいる誰かの苛立ちや敵意が、肌に針のように触れる。
うさぎは胸を押さえた。
自分の神経がおかしくなったのかと思った。けれど、周囲の景色があまりにはっきりしていて、夢だとは思えなかった。
「立てるか」
リーダーの男の声がした。
うさぎは顔を上げた。男はすでに銃を持っていた。現実で見たときよりも、少しだけ顔つきが硬い。
他の三人も周囲を見回していた。作業着の男は吐き気を堪えている。フードの女は顔色が悪い。中年の男は苛立ちを隠していない。
誰も、この世界を歓迎していなかった。
「ここがワイヤードだ」
リーダーの男が言った。
「今から港へ向かう。目的は積み荷の確認。中身を見る。数を覚える。特徴を覚える。持ち出せそうな小物があれば持ち帰る。ただし、無理はするな」
「何の積み荷なんだ」
痩せた男が聞いた。
「それを確認しに行く」
リーダーは歩き出しながら答えた。
「この世界の情報は足りない。文化レベルがどこまで進んでいるか。産業が何を必要としているか。人が何を欲しがっているか。武器か、薬か、燃料か、食料か。外から入ってくる物資を見れば、だいたい分かる」
うさぎは黙って聞いた。
港へ続く道は、舗装されているとは言いがたかった。石畳の隙間には泥が溜まり、荷車の轍が深く残っている。建物は古く、窓の多くは煤で汚れていた。
遠くに煙突が見えた。黒い煙が細く空へ上っている。
文化レベルという言葉の意味が、少しだけ分かった。ここは未開ではない。だが、現実の街とも違う。古く、荒く、そして危険だった。
リーダーの男は声を落とした。
「積み荷は公式に明かされない。まともな商取引じゃないということだ。港の治安もよくない。見つかった場合、警察に突き出されるとは思うな」
「殺されるってことか」
中年の男が言った。
「口封じされる可能性は高い」
誰も話さなくなった。
港に近づくほど、臭いは濃くなった。海の臭いだけではない。腐敗したもの。焼けた油。安い酒。血に似た鉄の臭い。
うさぎは足を止めそうになった。だが、止まれなかった。
ひよりの顔が浮かんだ。あの日、地面に倒れていた妹。声にならなかった声。手の温かさ。
この世界のどこかに、あの男へ繋がるものがあるかもしれない。それだけで、恐怖は後ろへ押しやられた。
倉庫街が見えてきた。
大きな建物がいくつも並び、外壁には番号のような印が塗られている。荷運びの男たちが行き交い、見張りらしき人間が煙草を吸っていた。遠くで怒鳴り声がする。
リーダーの男は建物の影に身を寄せ、五人を止めた。
「取引が終わるまで待つ。人が離れたら入る。時間は短い。中で揉めるな。余計なものに触るな」
うさぎは小さく頷いた。
心臓が速い。
ここで失敗すれば死ぬ。それはもう説明されている。けれど、死ぬかもしれないという実感は、今になって急に喉元まで上がってきた。
現実ではないはずなのに、死が近い。
いや、現実ではないからこそ、誰も守ってくれない。ここには法がない。少なくとも、うさぎたちを守る法はない。
積み荷は、秘密にされている。業者は正体を明かさない。会社は行政に情報を売る。渡航者は使い捨てにされる。
すべてが、まともな場所から外れている。
うさぎは、自分がその外側へ足を踏み入れたのだと理解した。
それでも、引き返せない。
リーダーの男が倉庫の方を見つめたまま、低く言った。
「行くぞ」
人の気配が遠ざかっていく。港の喧騒の奥で、倉庫の扉がゆっくりと閉じられた。
うさぎは唇を結んだ。
足は震えている。息は浅い。身体はまだ完全には戻っていない。
だが、彼女は歩き出した。
---
お読みいただき、ありがとうございました。
現実よりも鋭い五感、そして他人の悪意が肌を刺す世界「ワイヤード」。
異質で危険なこの場所で、うさぎたちの潜入調査がいよいよ始まります。




