第一章一節 プロローグ
現実で最愛の妹を無差別通り魔事件で失った少女・御堂うさぎ。
絶望の底にいた彼女の元に届いたのは、死んだはずの犯人が生きているという、不穏な仮想世界「ワイヤード」からの招待状だった――。
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熱い日だった。
空は白く濁り、アスファルトが陽炎を立てていた。肌に張りつく空気は重く、息を吸うだけで肺の奥まで熱が入り込んでくる。
その日、御堂うさぎの目の前に、知らない男が現れた。
顔は、最初よく見ていなかった。汗ばんだ首筋。乱れた呼吸。右手に握られたものが光を弾いた瞬間――覚えているのは、それだけだ。
妹のひよりは十五歳だった。
うさぎより少し背が低く、よく笑う子だった。家ではうさぎに遠慮なく甘えるくせに、外を歩くときは姉の隣を歩くことを少し恥ずかしがる。買い物の帰り、二人はつまらない話をしていた。
学校の友人のこと。好きな菓子のこと。冷蔵庫の麦茶、夕飯の希望。そのくらいの話だった。
だから、その男が自分たちに向かって歩いてくることに、うさぎは意味を感じなかった。通行人の一人。すれ違うだけの誰か。世界に無数にいる、名前も知らない人間――そのはずだった。
男が突然、走った。
悲鳴。倒れる音。何かがぶつかる鈍い響き。それでも、うさぎはしばらく理解できなかった。
隣に、ひよりがいない。
そう気づいたとき、妹は地面に倒れていた。
「ひより」
声を出したつもりだった。喉から漏れた音はひどく掠れていた。
白い服が赤く染まっていく。赤は広がる。止めなければ。押さえなければ。手を伸ばす。けれど、何をどうすればいいのか分からない。
ひよりは目を開けていた。うさぎを見ているようにも、もう何も見ていないようにも見えた。
「お姉ちゃん」
そう言った気がした。
本当に言ったのか、うさぎには今も分からない。何度思い返しても、その声だけが曖昧になる。記憶の中で、ひよりの口元は小さく動く。けれど、音はいつも熱に溶けた。
周囲では誰かが叫んでいた。救急車を呼べ。警察を呼べ。逃げろ。犯人を押さえろ。
うさぎはそこに座り込んだまま、動けなかった。
ひよりの手を握った。まだ温かかった。
その温かさが、かえって信じられなかった。
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ニュースでは、町で起きた無差別通り魔事件として報じられた。
複数名が受傷。一名が死亡。
それだけだった。
画面の中のアナウンサーは、整った声で事実を読み上げる。現場には花が供えられ、近隣住民は不安を訴え、専門家は社会の孤立について語った。加害者の名前が出た。年齢が出た。職歴が出た。動機は不明とされた。
ひよりについて語られたのは、ほんの短い時間だった。
十五歳の女子生徒。搬送先の病院で死亡確認。
それだけで、妹は世界から片づけられた。
うさぎの中では、何一つ終わっていなかった。
事件から数ヶ月、彼女はまともに食事を取れなくなった。水を飲んでも吐き気がした。口に入れたものは砂のようで、飲み込むことすら苦痛だった。
眠れば悪夢を見た。
ひよりが倒れる。血が広がる。男の手が光る。うさぎは何度も手を伸ばす。だが、夢の中の身体はいつも遅い。
間に合わない。何度繰り返しても、間に合わない。
目を覚ますと、部屋は暗かった。カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいることもあれば、夕方の赤い光が壁に沈んでいることもあった。時間の感覚は薄れていった。
スマートフォンには、心配する連絡がいくつも残っていた。学校から。知人から。親戚から。
返す言葉はなかった。
なぜ、と何度も思った。なぜひよりだったのか。なぜあの道だったのか。なぜ自分は隣にいたのに何もできなかったのか。なぜ男は生きているのか。
問いは尽きない。だが、どれだけ問うても返ってくるのは、ただの事実だけだった。
男が刃物を持っていた。複数人を襲った。ひよりが死亡した。男は逮捕された。
事実はあまりに固く、冷たく、残酷だった。
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それから二ヶ月後、異例の速さで男の死が判明した。
最初に見たのは、ネットニュースだった。
加害者は拘置中に自殺を試み、意識不明となった。搬送された病院で治療が行われたが、容体は回復せず、死亡した。
その後、別の報道では違う言い方がされていた。治療方針の判断。延命措置の不実施。本人の状態。家族の意向。法的手続きの整理。
言葉はいくつも並んでいた。
けれど、うさぎには分かっていた。
男は死んだ。法的な手続きは省略された。裁判も、判決も、死刑台もなかった。だが、実質的には同じだった。誰かが、あの男を死なせた。
その事実を知ったとき、うさぎは何も感じなかった。
喜びはなかった。安堵もなかった。怒りが鎮まることもなかった。
ただ、空っぽだった。
ひよりは戻らない。男が死んでも、ひよりは帰ってこない。
そんな当たり前のことを、うさぎはその日、改めて突きつけられた。
部屋の隅に座り込んだまま、何時間も動けなかった。膝を抱え、壁を見ていた。壁紙の小さな染みだけが、やけにはっきり見えた。
眠ることもできず、食べることもできず、泣くこともできなくなっていた。
苦しむだけの日々が続いた。
妹を殺した男が死んだという事実でさえ、何の慰めにもならなかった。
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その一報が届いたのは、そんな頃だった。
差出人不明の封書。
郵便受けに入っていたのか、玄関先に置かれていたのか、うさぎは覚えていない。気づいたときには部屋の中にそれがあった。
白い封筒。宛名は印字。差出人の名前はない。
うさぎはしばらく、それを開けずに眺めていた。悪戯かもしれない。事件に便乗した嫌がらせかもしれない。それでも、捨てることはできなかった。
指先に力が入らず、封を切るだけで時間がかかった。中には一枚の紙が入っていた。
文章は短い。事件の日付。ひよりが殺された日。男が逮捕された日。男が死んだと報じられた日。
そして、その下にこう記されていた。
> ――〇月〇日の事件の加害者は、ワイヤードにて新たな生を得た。
息を止めた。
文字の意味が、すぐには理解できない。
ワイヤード。名前は知っていた。現実とは異なる場所。一部の医療機関や研究機関、企業が関わっていると噂される仮想領域。意識を接続し、別の世界へ渡る技術。
ニュースの中の言葉。噂話。自分とは関係のない場所――そのはずだった。
紙には続きがあった。
> ――確証を得たいのであれば、連絡をしていただきたい。
> ――渡航者の資格があれば、招き入れる。
> ――こちらの仕事に応じた分、報酬と情報の支払いを約束する。
うさぎは紙を握りしめた。
視界が揺れる。心臓がひどく速く打っていた。
死んだはずの男が、生きている。
そんなことがあるはずがない。理性はそう言った。
だが、もし本当なら――。ひよりを殺した男が、何食わぬ顔で呼吸をしているのなら。
長く沈んでいたものが、音を立てて起き上がった。
怒りではなかった。憎しみでもなかった。それらは、もうとっくに彼女の中にあった。
そのとき生まれたのは、もっと単純な衝動だった。
確かめなければならない。知らないままでいることはできない。
立ち上がろうとして、足に力が入らず床に手をついた。何日もまともに食べていない身体は、自分のものではないように重い。それでも、もう一度腕に力を込めた。
膝が震えた。視界の端が暗くなる。呼吸が乱れる。
それでも立った。
机の上の紙を見下ろす。書かれた連絡先はひどく簡素だった。会社名も住所もない。ただ、接触の方法だけが記されている。
罠かもしれない。利用されるだけかもしれない。本当に男がいる保証など、どこにもない。
それでもよかった。何もせずに腐っていくよりは、ましだった。
紙を畳み、胸元に押し込む。
ひよりの顔が浮かんだ。あの日の熱。血の匂い。握った手の温かさ。
全部、消えない。消えるはずがない。
うさぎは小さく息を吸った。
「行くしか、ない」
その声は弱かった。けれど、確かに自分の声だった。
御堂うさぎは、進むことを決めた。
お読みいただき、本当にありがとうございました。
全てを失ったうさぎの復讐劇、そして謎に満ちた仮想世界「ワイヤード」を巡る物語『境界接続』がいよいよ幕を開けました。
本作は、平日18時に更新を予定しています。
これからどうぞ、よろしくお願いいたします。




