0021 - 煙草
潮の匂いは、目黒の倉庫よりも遥かに鋭く、冷たかった。
夜の臨海地区、埋立地にそびえ立つコンテナの群れは、闇の中に切り出された巨大な墓標のようだった。海風が鉄の壁にぶつかり、低く唸るような音を立てて吹き抜けていく。
スティンは黒い外套の襟を立て、音もなく混凝土の地面を踏み締めた。
耳には、マースから提供された臨海地区の監視ネットワークへアクセスするための、極小のイヤホンが嵌まっている。
『――対象の座標周辺、カメラの首振り周期に一、二秒のズレがある。意図的に作られた死角だ』
ノイズ混じりの電子音声が、脳内に直接冷徹な事実を告げる。
スティンは手元の端末で、ループ処理された数分間の映像を確認した。データそのものを消去するのではなく、ごく自然な風景を重ねて空白を作る。その執拗なまでの隠蔽工作こそが、かえってそこに何かがあると確信させる。
視線を上げ、カメラの死角となるコンテナの隙間へと、深く身体を滑り込ませる。迷路のように入り組んだ鉄の壁を抜け、マースの指し示した座標の目の前に辿り着いた。煤けた錆の浮く、巨大なコンテナ。
手袋をはめた指先で電子錠に触れる。
すでにロックは解除されていた。内部の機構が、マーレボルジェの幹部のみが知る特殊な暗号配列で上書きされている。スティンは声を立てず、重い鉄扉を僅かだけ引き開けた。
隙間から滑り込んだ月光が、狭いコンテナの内部を淡く照らす。
中に置かれていたのは、輸出用の木箱が数箱。その一つに近づき、バールを使わずに噛み合わせを外す。現れたのは、厳重に緩衝材で包まれた薄型の通信端末の予備、そして幾枚かの書類だった。
端末を起動し、液晶の光を外套の影で遮りながらログを掠める。画面に並ぶのは、政財界の重鎮たちの名前、それらをマーレボルジェの資金を使って「抱き込む」ための、詳細なロジスティクスの計画書。その資金の還流先として記されたダミー口座の配列は、第二嚢――ローガンのみが排他的に管理しているはずの秘匿ルートだった。木箱の奥から微かに漂う、あのラウンジで嗅いだ甘ったるい香水の残り香が、スティンの鼻腔を不快に刺激する。
「……異能対策管理局、か」
スティンの口から、温度のない呟きが漏れた。
データの転送先。その最深部に刻まれていたのは、構造善を標榜するあの組織の隠蔽回線だった。何を引き換えに、何を売ろうとしているのか。その全貌が、冷たい物証となってスティンの灰緑色の瞳に焼き付いていく。
胸ポケットの奥の銀時計が、どろりとした重さを伴って皮膚を圧迫した。
胃の奥から迫り上がる不快な軋みを、スティンは押し殺す。
これ以上の調査は不要だった。これは、紛れもない“裏切り”だった。
踵を返し、コンテナの鉄扉を閉めようとした、その刹那――スティンの視線がコンテナの入り口、錆びた鉄板の隙間に落ちた。
月光に照らされ、ひっそりとそこに転がっていたもの。
短く、いびつに押し潰された、特有の煙草の吸い殻。まだ僅かに、刺すような煙の臭いが潮風に消されず、そこに燻っているかのような錯覚を覚えた。
スティンの指先が、微かに止まる。
この場所を知っていたのは、自分とレノ、そして解析を施したマースだけのはずだった。
海鳴りの音が、急に近く聞こえ始める。
スティンは吸い殻から視線を外し、能面のような表情のまま、静かにコンテナの闇から抜け出した。




