0020 - 端緒
地下へと続く階段の先に、そのバーはあった。
オーク材の重厚なカウンターと、琥珀色のボトルを淡く照らす間接照明。外界の光を遮断した空間は、マーレボルジェの構成員達が束の間の休息と、冷徹な情報交換のために利用する隠れ蓑だった。
スティンはカウンターの端で、一人静かにグラスを傾けていた。
喉を焼く強い酒を、ただ作業のように胃へと呷り落とす。頭の奥では、数時間前に目黒の廃倉庫で聞いた、あの部下の悲痛な叫びと耳を劈くような銃声が不快な残響となって不規則に明滅していた。
『私を信じてください、アルフェさん……ッ!』
胃の腑が歪に捩れるような感覚。手袋をはめた指先が、無意識にグラスの縁を強く圧迫する。冷や汗が滲むのを、スティンはただ能面のような表情の裏に抑え込み、静かに氷を揺らした。
カラン、と静かな店内に音が響く。
直後、背後の階段から、衣擦れの音と共に見慣れた気配が近づいてきた。
「珍しいじゃない。あなたがそんな風に酒を呷るなんて」
流れるような金髪。深い青色の瞳。完璧な黒のスーツを退屈そうに着こなした美女――女衒のレノが、滑らかな足取りでスティンの隣の席へと腰掛けた。
彼女の纏う煙草の香りが、スティンの周囲の空気を僅かに変える。レノはバーテンダーに軽く指を立てて同じ酒を注文すると、頬杖をついてスティンの横顔をじっと見つめた。
「記憶は戻っていないって聞いていたけれど……最近のあなた、妙に前の面影があるわ。無理してるんじゃない?」
覗き込んでくるレノの瞳が、僅かに細められる。
だが、スティンは視線すら向けず、冷ややかにグラスを見つめたままだ。
「していない。俺は、俺の任務をこなしているだけだ」
「そう……。ねぇ、スティン? 今夜、空いてるかしら」
レノはグラスに口をつけながら、物憂げに、だが明確なニュアンスを孕んだ声で囁いた。だが、胸ポケットの奥にある銀時計の冷たさが、布地を透かして皮膚に触れている。スティンは肯定も否定もせず、ただ無言のまま、手元のグラスを再び傾けて杯を重ねた。
レノは小さく吐息を漏らすと、追うのを諦めたように肩を竦めた。
彼女は足元に置いていたビジネスバッグから、薄型のノートパソコンを取り出してカウンターの上に開いた。
静かなバーの空間に、乾いたキーボードの打鍵音が響き始める。
誘いには一切ピクリとも動かなかったスティンの視線が、その仕事の音につられて、スッとレノの画面へと向けられた。
「面白いものを見つけたのよ」
レノはキーを一つ叩き、画面をスティンの方へと向けた。
暗い液晶の中に表示されていたのは、組織のネットワークから外部へと不自然にデータが転送された、膨大なログの羅列だった。マーレボルジェの資金、およびいくつかの重要機密。
スティンは灰緑色の瞳を僅かに細め、片眉を上げた。
「……そのIPは誰のだ」
「もう、仕事のことになると本当に早いのね……」
レノは苦笑しながら、画面のコードを指先でなぞった。
「高度に偽装されているけど……今、マースに解析を投げて確認してもらっているわ。あの魔術師の手にかかれば、すぐに連絡が来ると思うわよ」
マース。その名を聞き、スティンは無言のまま画面を見つめ続けた。
張り詰めた静寂。カウンターの上で、じわじわと氷が溶けていく。数時間前、アルフェが躊躇なく引き金を引いたあの残像が、暗い液晶画面の裏に重なるようだった。
静寂を破り、ノートパソコンから無機質な電子音が鳴り響いた。
マースからの返信。レノが即座にメールを開く。しかし、画面に表示された文字列を見た彼女の眉が、怪訝そうに中央へと寄せられた。
「……位置情報だけね」
レノは画面をスクロールさせ、ぽつりと呟いた。
「それだけでは、何も得られないな」
「あら。この情報から真実を手繰り寄せるのが、あなたの仕事でしょ」
スティンは僅かに眉を寄せ、グラスを置いた。
液晶の隅、地図の上に落とされたピンが、臨海地区の埋立地――整然と並ぶ無機質な矩形の影を、静かに指し示していた。




